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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月29日
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カテゴリ:著名人紹介
山梨県の著名人 私のバックボーン 日本貿易会会長 水上達三氏(韮崎市清哲)
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
私が三井物産に、東京商大を卒業して入社したのは、昭和三年のことであったから、昭和の時代のほとんどを商社マンとして過ごしてきたことになる。この激動の時代を生き抜いてきた私のバックボーンの一つは、まぎれもなく生まれ故郷、甲州の歴史と風土によって形づくられたものである。
私が生まれたのは、富士川の上流、釜無川が塩川と合流する韮崎に近い清哲村という小さな山村である。この村は、現在は韮崎市に編入されているが、甲斐駒ヶ岳の麓にあって南に富士、北に八ッ岳を望み、そしてまた東に新府の城跡が見える。
言うまでもなく、新府城は武田勝頼が信虎以来住み慣れた躑躅ヶ崎の館を棄て、信長・家康連合軍を迎撃せんと築いた城である。しかし、勝頼はこの城をも放棄して落ち延びていかねばならなかった。
さらに、村の宮地というところには武田家代々の氏神である武田八幡神社があった。小学校の先生や村の老人もまた折にふれ信玄を語ったから、自ずと子供心にも戦国の昔に思いを馳せることが多かった。
生家は古い農家で、私はその五男坊であった。高等小学校の一年を終えると甲府中学に進んだ。武田八幡の脇を通って新府城を仰ぎながら、その下にある韮崎の駅まで約一時間、それから甲府まで汽車で二十分。だから、毎日住復ではおよそ三時間半かかって通うのである。昔のことで、この汽車の駅に出るまでが一苦労であった。広い釜無川の河原を歩いて渡らなければならない。冬ともなれば、名にしおう八ツ岳颪がまともに吹きつける。
当時、靴は高価で確か二円もしたが朴歯の下駄は八銭であった。この石ころ道を靴で歩いてはたまらないので、みな下駄で通った。真冬でも素足である。油断すればすぐ足をとられて捻挫する。否応なしに足腰が強くなり、大学に進んでからも陸上競技の選手に引っ張り出された。
また、夏は酷暑、冬は八ヶ岳下しの吹きすさぶ盆地の激しい気象は、文字どおり私の気性にも影響を与えているようだ。
旧制の甲府中学は、意外に思う人があるかもしれないが、札幌農大のクラーク先生の伝統を引く学校であった。第一期生でクラーク先生の高弟、大島正健先生が、名校長の名をほしいままにされ、その遺風が脈々と伝わっていたのである。その影響もあって、私は外交官か商社マンとして広く世界を相手に活躍することを夢見た。かつて、郷里の先輩の多くは横浜、東京を舞台として個人で財を成し、「甲州財閥」と称された。
甲州財閥というものが実際にあるわけではなく、甲州出身の財界人をそう称するのである。彼らは、独立の気慨をもって「足と明かり」言い換えれば、鉄道と電力(交通とエネルギー)を一時支配し、東京を「制した」感さえあった。しかし、私の中学生時代には、第一次世界大戦が起こり、遠くヨーロッパの戦乱が日本にも無縁でないことを体で感じていたので、
なんとなく外国に関係の深い仕事を夢みたようだった。それはまた時代の要請でもあった。戦後になると事実、郷里の先輩小林中さんは日本開発銀行総裁として、世界の中の日本経済はいかに発展しなければならないかという立場で大きな仕事をされたし、浅尾新甫、小佐野賢治、小林宏治さんらもみな同じである。
こうして、三題噺めくが、甲州の風土と武田の歴史と甲州中学とは今日の私を形づくっているといって過言ではない。そして、 いささか他人とは異なった経験を積んだ目で見れば、武田信玄という人物は実に今日的で、その為政の理にかなっていることに驚かされる。一つだけ例をあげれば、あの「甲州金」である。甲州金については、いろいろと論じられているが、これは、私は信玄の為替政策であったと思う。信玄は金山開発に意を用い、甲州小判は、金の含有率が意図的に高くしてあった。このことによって、他国の通貨との交換レートが高くなるようにしたのである。つまり、今日で言えば円高政策である。これが輸入に有利であることは言をまたない。
山国で必要な物資を他国に頼らざるを得ないことは、今川の塩止めのエピソードに象徴的であるが、この政策によって輸入する側の甲州では大きな差益を得たわけである。
信玄といえば、ただ戦上手な戦国の武将と思っている人が多いが、その本質は優れた為政家であったと思う。戦争はしない方がよい。する場合には必ず勝つという考え方であったという。このことがまた信玄の強さの秘密であり、今なお人を魅了して止まないゆえんではなかろうか。





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最終更新日  2020年12月29日 19時44分04秒
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