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2020年12月29日
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カテゴリ:著名人紹介
山梨県の著名人 小佐野氏との交流 山梨県、中巨摩郡落合村出身全国興業組合連合会会長 武蔵野銀行(株)社長 河野勝雄氏著
(『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆)
私は山梨県、中巨摩郡落合村で生まれた。落合村は、今では甲西町と呼ばれているが、ここは甲府盆地の一番西の端にある。その先は最早平坦地ではなく、地元では西山と呼んでいる櫛形山がそびえている。私の家はその櫛形山のスロープの一部をなす台地の上にあったので、甲府盆地を一望に見晴らすことができた。また、この辺りは桃やすももの一大産地であるので、春になると、台地から平野にかけて桃の花が一斉に開花し、まるで桃色の霞がたなびいたようになる。それは美しい
眺めで正に桃源郷に住む心地がしたものである。甲西町を北に上ぼると櫛形町、白根町を経て韮崎市に至る。いずれも釜無川を右手に見ながら上ぼる道である。韮崎市の西側の台地。鳳凰山の麓。ここが、のちに甲州、武州、信州に覇をとなえた武田家発祥の地である。また、わが村の中、鮎沢というところには古長禅寺という寺がある。この寺は、信玄公武田晴信の実母、大井夫人の葬られたところである。私たちは普段「大井夫人の寺」と呼んで親しんでいた。
毎年五月になると、村には端午の節句の職が立ち並ぶ。いずれも武田信玄公の川中島の戦いぶりが染め抜かれていて、それが青空にはためいている景色は、今でも私のまぶたに焼きついている。武田信玄は、従って私たちにとっては他人ではなくわが故郷の山河と共にわが心の中に生き、わが血肉の一部をなしているのである。
人は石垣 人は城
情は味方 仇は敵
有名な武田節の一節である。私は独りで仕事をしている時など、ふと気がつくとこの歌を回ずさんでいることがある。別に意識して覚えたわけではないのだが、有名な歌でもあるし、私の場合、山梨へ出掛ける機会が多いので、この歌を耳にすることも多いのかもしれない。その上、節回しも、われわれ年配のものにぴったりくるので、知らぬ間に口ずさんでしまうのだろう。しかし、口ずさみながら思う。これはすばらしい人世訓であると。
武田信玄の人物像については、偉大な英雄だけに、普通の人の物指しでは計り切れぬ面もあるためか、その評価は肯定、否定、さまざまに分かれるが、私はこの土地で生まれ、この土地で育ったものとして、やはりこの武田節の一節が最も武田信玄の本質を表わしているように思われる。
私は昭和二十七年に笈を背負って東京に出てきた。雨来二十有余年の歳月が過ぎた。この間に、多くの先輩諸氏のお世話になったり、また引き上げていただいたりして、今日に到っている。その中で自分の師として最も多くのことを教わった人は、同郷の大先輩、今はなき国際興業社長小佐野賢治氏である。氏との出合いは、昭和三十九年東京オリンピック直後、諏訪でのある仕事を通してであったから、昨年の秋なくなられるまで二十三年間ものおつき合いになる。
小佐野氏から学んだことは一言で言えば「人に尽くす」ということである。あれだけの人であるから多くの人からさまざまな相談や頼みごとが持ち込まれたと思うが、小佐野氏を知る人は異口同音に、「小佐野さんという人は一度頼まれたことは、どんな些細なことでもいい加減にせず、真剣に考え、必ず白黒のはっきりした形で返事をされた人であった」と言う。
小佐野氏は、昭和六十一年十月手術の甲斐なく不帰の客となられた。その前九月に一旦退院されたが、――これはあとになって伺ったことだが、その時には既に自分の病状について的確に知っておられた由である。しかし、端にその素振りも見せず普段と変わらず頼まれごとなども誠実に処理されていたとのことである。実はこの間私も一つ頼みごとをしたが、直ちに木目細やかに処理をされ、感謝していた。後日、当時の病状を聞き愕然とすると共に、氏より最後の教訓を受けた想いがし
た。小佐野氏は、そのあまりに多彩な活躍の故に、現在でも世間の評価は毀誉褒貶半ばする感があるが、私にとっては最大の師であることに変わりはない。また、小佐野氏はあれほどの仕事をした人であるから人材の確保育成には殊のほか努力をされ、特に新しい事業を手に入れると、これらの企業の社員をそのまま引き継いで活用され、社員もまたこれに呼応したと聞く。小佐野さんもまた、「人は石垣、人は城 情は味方、仇は敵」を身をもって実行された方ではないだろうか。
最後に一言。甲州人は働きものである。だがその優れた勤労精神の故に時とすると他人から批判の対象となることなしとしない。これからは武田節のあの一節を合言葉にして「甲州人は斯くありたい」と。そうしてこぞって前進したいものである。





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最終更新日  2020年12月29日 19時52分17秒
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