カテゴリ:著名人紹介
山梨の著名人 美しの故郷・山梨 サントリー副社長甲府市和田町出身 吉田冨士雄氏著 (『ザ山梨 武田信玄と甲斐路』読売新聞社編 昭和62年 一部加筆) 山柴水明の甲州、いたるところに観光資源がいっぱいの山梨は、どこに行っても本当に美しい、実に嬉しいとこのごろつくづく思うようになりました。甲府中学の頃、もう四十五年以上も前の元気がよかった時代には、八ヶ岳や大菩薩峠、山中湖や富士山と友人をさそい、思い切り山梨を歩きまわりました。山がそこにあるから登るんだという元気なときと違い、最近はいろいろとみてきた他の国々の山河もよかったが、やはり故郷の山々、祖霊まします甲斐の山々は美しいし、心安まる し、本当にいいという気持ちになってきました。最近、両親や親しい人たちをこの地でなくしたせいでしょうか、六十過ぎた年齢のせいでしょうか、とにかくこのところ月に少なくとも、二、三回は東京から出かける山梨。その山並みは美しく、なつかしく感じます。 そのなかでも、私は甲府市和田町の生家からみる南アルプスの連峰が一番好きです。厳冬、 一高受験直前の頃、烈風のなか、冬の夕陽に映えて毅然とそそり立つ南ア連峰は白瞳々たる姿で厳しさを教えてくれました。母を亡くした翌朝、 一人淋しく朝露の庭に立ったとき、青一色の夏姿の南ア連峰は、優しくいたわりの言葉をかけてくれました。 この八月、県の幹部や早川町長の御案内で「かえで会」のみなさんと南アのふところ、北岳や間岳の麓にあたる奈良田の全くひなびた里(孝謙天皇が千三百年前に八年間滞在され、信玄公がその故に永代年貢免除をした秘境で、関西なまりの言葉と七不思議があるところ)にお邪魔して、そのたたずまいにいたく感動いたしました。鯉のあらいや地粉のそばもおいしく感激しましたが、なんといっても「きびのご飯」が素晴しく一番好評でした。南アの味をゆっくりかみしめました。 その夜、望月知事はじめ県の幹部を囲んで山梨の将来について恒例の意見交換をいたしました。当面の課題は、 ①ォッサ。マグナ地区を縦断する中部横断道路の早期実施と ②東京、甲府、名古屋、大阪を結ぶリニアモーターカー(磁気浮上鉄道)方式による中央新幹線の促進、特に東京、甲府間のモデル線の早期実施の二点でした。 このリニア線については、北海道、埼玉その他全国各地で競願となっておりますので読者のみなさまには、是非とも山梨 線へのご理解とご後援とをお願いいたしたいと思います。 来年はNHKで「信玄公」をとりあげていただけるということで、山梨は大張り切りですが、「独眼竜政宗公」の仙台に比べるとまだまだ熱気と準備が足りません。この春、青葉城や広瀬川のあたりをまわってみましたが、その熱意、整備状況、すべて完壁でした。詳しく山梨の人たちに説明し、昨年国体で示した心こもる思いやりを来年にもう一度是非、と言っています。私もいつの間にか、在京甲中、甲府一高同窓会会長、税務山梨県人会名誉会長、在京政経懇談会副会長等々、いろい ろなものを仰せつかって、他県にいっても、すぐ山梨のことを思うようになってしまいました。口にまで出すのは御節介かもしれませんが……。 それに、サントリーも今や山梨は第二の故郷となっています。北の白州では世界一のウイスキー原酒製造工場、甲府市の近くの双葉町では日本一のワイン用ぶどう園をもつワインエ場、その横では昇仙峡ゴルフ場を経営、甲府駅ビルにはワインレストランも開いており、みなさまにサントリー製品をたくさん愛飲していただいております。 最後に、武田家中興の祖といわれている同家七代目の信武公のことについて少しふれたいと思います。 ご案内のように武田家の初代信義公は、甲斐源氏の祖。新羅三郎義光の曾孫に当たり、武河荘武田を拠として頼朝から駿河と遠江の守護に任ぜられました。しかし、その後失脚、七代目の信武公は足利尊氏の姪をもらい副将軍と呼ばれ、兵庫助、甲斐守、伊豆守、陸奥守などに任じられ、九州探題や安芸の守護も兼ね、武田氏の繁栄をもたらしました。信武公は、月舟和尚と相談して、現在の甲府市和田町に金剛福衆山法泉寺を夢窓国師の開山として創建されました。信武公を慕う九代あと の信玄公は、同寺を甲府五山の一つとして厚く遇しました。快岳禅師は京都から勝頼公の首級を持ち帰り、同寺の信武公の墓の横に葬り、家康がここを勝頼公の菩提寺と定めました。是非一度お訪ねください。
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最終更新日
2020年12月29日 19時53分52秒
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