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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月30日
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白州町の地名起源 台ケ原(だいがはら)「白州町誌」
甲斐国志に「駅場ナリ韮崎ヨリ四里八町三吹ノ北、其地高平ニシテ台其ノ如シ、台ケ原中台卜言処アリ村名ノ因ル処ナルベシ、古道ハ釜無河フ渉ル橋アリ逸見筋片嵐、日野ノ間花水坂二出ゾ。戸数七九、人口三二二(男一五九、女一六三)とある。
台ケ原は古代より釜無川、尾白川の氾濫により砂礫堆積して大河原になった。それを裏付けるかのように大小の花崗岩が散見する。
しかし時代を経るにつれ、耕地は開発され大河原は転じて台ケ原となり集落を形成した。台の字につき、広辞苑は「たかどの・うてな・山や岡など平たくて台のようになつた土地」とある。これにつき、地形は武川村三吹が標高五三一メートルに対し、台ケ原中程で五七四メートル、四十三メートルの比高差があり、積雪なども差異がみられ、国志の「中台卜言処アリ、村名ノ因ル処ナリ」に適中する。  
中台は河川の洗礼を受けずローム層である。
尾自川の氾濫は近代まで続き、中山の麓根古屋の荒尾神社も、その激流に脅かされ大正三年二月、台ケ原田中神社境内に遷座された。 
台ケ原は、甲州道中の宿駅として、重要な役割りを果した。
白州町の地名起源 花水(はなみず)・花水坂 「白州町誌」
花水坂は、白州町字花水にある。大正十年六月の建設(再建昭和六年五月)山梨県の石標に
「此処ハ往昔信濃路ニ当り、釜無、尾白。深沢三川合流ノ地ニシテ、白砂ヶ崎ヲ背負ヒ、附近ニ山桜アリ、花時爛漫トシテ水ニ映ス、其ノ名ノ因テ起ル所ナリ仰望俯政最モ山水ノ景色二富ミ、殊二富岳ノ眺望二佳ナルフ以テ、富士見三景ノ一トス」
また、同碑側面に
「立ちおほう 霞にあまる富士の嶺に 思いをかはす 山桜かな」
の刻銘がある。(鳥丸光廣卿)
花水坂・御坂峠。西行坂を甲斐の富士見三景といわれた。文中「花時爛漫トシテ水ニ映ズ」は少々美化しているが、実のところ落花紛々の時は、直下の深沢の水面を覆い釜無川まで花水になるであろう。
いずれにせよ、花と水とのコントラストから花水の名が生まれたと思われる。富士の眺望はまことに絶佳で後年日野区建碑の場所とは、雲泥の差がある。
このように、花水坂を往来する人々は、しばし足をとどめて絶景に見入った。昭和三十年七月、片颪は旧名を返上して「花水」と改称した。しかし片颪は、古代。中世のころは片荒(一年または数年おきに作る日)の田が多い所でこの名をなし、甲斐国志の寒風が吹きおろす村名説とは事実が一致しない。その後荒らしは嵐に、さらには颪の文字が使用されたもので全国的にも数少い地名が消えてしまったのは惜しい。
白州町の地起源 白須(しらす)「白州町誌」
江戸時代の自須村は、門前・殿町・竹宇などの枝郷を含めての呼称で、戸数245。人口953の大集落である。白須は「自州・白洲。自砂」と同義で、オシラスとなれば裁きをする所に自砂を敷いたからだと言い、転じて、奉行所。法庭などを指すようになった。従って「自須」の名前はそのものズバリである。
この地域は、高所を除いては一帯に砂質壌土で、保水力に乏しく地下は累々たる花聞石が各所で見られる。往古から松の成育に適し、白砂青松はあたかも海岸を彿沸させるような美事な松原は、道行く人のオアシスであり、史的伝承も抱いていたが、年月の推移に伴ない跡形もなく伐採され一部はチビッコ広場と化した。
その一角に時の文部大臣橋田邦彦の書になる「白須松林址」の建碑がなされ、往時の名残りをとどめている。松原は松茸の名所でもあった。
近世は隣接台ケ原宿の助郷であって、農業をもって生業し現在は白州町の中心地域である。
白州町の地名起源 竹宇(ちくう)「白州町誌」
白須村の枝郷で、駒ケ岳寄りのやや高台に位置している。南を受けて冬季も比較的温和である。そのため古来竹の生育に適し、村落には多くの竹簸があった。
竹は温暖の地を好む。本県では南部地方、さらには隣接の静岡県、なかんずく伊豆半島のように至る所に孟宗竹が分布している。
近世竹の用途は広く、大は蛇篭・背負篭から土壁のこまい竹など、その他竹材への依存度は高かった。この地は真竹の竹数が多く、高さ十五メートル・根径十センチメートルくらいの物は至る所にあったといい、竹宇の地名も、ここに発祥したと思われる。竹宇山法全寺の山号もその裏付けの条件であろう。
ところで、竹宇は元来「竹生」であったが、呼称の都合(「ちくしょう」と読まれた)から「生」を「宇」の音便に替えたと解する。このように竹の名所も、時代ともに竹の用途も圧縮され、開発に拍車をかけて姿を消してしまった。竹簸も小物成の年貢を納めたことが文書にみえる。
白州の地名起源 前沢(まえざわ)「白州町誌」
白須村の枝村で門前といった。門前と呼ぶ所は各所にある。このことについて文献は乏しく、古老の語るところでは昔堂平に長光寺(現在の長光寺とは別)という立派な寺があって、その前手の方に集落がなされたので門前といったという。 
 ところが田沢の氾濫に悩まされ、集落は東部に移動してしまった。そこで明治五年以降前沢とした。前沢の経緯についても明らか
ではないが、門前の「前」と田沢の「沢」をミックスして構成したものと思われる。
【註】
 現在の前沢地域の上部に「半日部落」と称され、文字通り半日しか日が当たらない地域あり、その一角の移籍から「釈寺」の字がある茶碗の欠けらが出土している。
白州の地名起源 鳥原(とりはら)「白州町誌」
旧鳳来村。国道から西方へ500メートルに位置する。サントリー工場の西に隣接する。南は神宮川、北は流川に挟まれ、山懐の静かなたたずまいの集落である。往古は沼池もあり、渡り鳥の好適地であったかも知れぬ。類衆国史に「桓武天皇ノ延暦十三年(七九四)甲斐国ノ瑞兆トシテ白鳥ヲ献ズ、甲斐国トハコノ地デ、以来鳥原卜呼バル」とある。   
白鳥(スワン)は全身純自で、姿態優美にしてシベリア東部に繁殖し、冬季南に渡るが東北地方以外は極めて希だとされる。ハクチョウ。オオハクチョウなどがある。現在青森。新潟などいずれも天然記念物に指定されている。
この白鳥が鳥原に飛来したというから、里人は驚異のまなこで都に報告したものと察せられる。鳥原もよい折目に遭遇したものだ。
珍鳥だけに江戸時代になっても大切な取り扱いを受けた。五人組前置帳に「一、猟師の外鳥獣一切取べからず、猟師たりと雖、鶴・白鳥取の儀停止に候。もし、村中にて鶴。自鳥商売致し候者有之候は、訴え出づべく候」と、よき村名かなである。
白州の地名起源 横手(よこて) 
 『甲斐国志』村里の部に、「白須の西南、二十町許、南は大武河柳沢村(柳沢吉保の祖地)あり、本村山腰に倚り居る、因て横手を名とす」とある。正に国志のいう通り、本村は中山の横に位置しているのでうなづける。方位によって、村名としたものには、本郡上手村(明野村上手)がある。国志はまた、小笠原の上方にあるを以て上手といったとある。横手は古道の通路でもあった。中世横手氏が地名をもって氏名としたかも知れない。
白州の地名起源 大坊新田  
甲斐国志に「横手村ノ南ニアリ、墾闘ノ分村諸役免許ナリ、入り大坊卜呼ブ処ハ、北ニ数戸アリ或ルハ上下トモ云」とある。大坊新田は文禄年中ころから、新田開発がなされ民家も七・八軒移住して営農した。そのため身延山久遠寺へ願い出で、大坊山法輪寺を建立し、円誠院日這聖人を、京都から招いて住持とした。
これにより、江戸町奉行の許可を得て、大坊新田の呼称がなされた。引続き慶長年中より元和九年まで、新田開発を行ない石高九石三斗三升三合の年貢を三年間免除され基盤造りをした。このようなわけで大坊の地名は、寺の山号から引用していることがわかる。
白州の地名起源 教来石(きょうらいし)
  伝承によれば、日本武尊御東征のみぎり酒折官から武川筋に入り、この地に来られ巨石(高さ七尺・幅二間)の上にお休みになり、 一首をお詠みになった。「大川を経て来し石むらに、家庭((やには)も見ゆあはれ」と。
また、国志には「本村ハ下教来石村ナリ、鳥原ノ北拾四町ニ在リ駅場ナリ、台ケ原ヨリ壱里拾四町、蔦木宿へ壱里六町、北ニ加久保
河アリ、村ノ西ニ教来石トテ、高サ七尺許り竪テ三間・横二間程ノ大 石アリ、村名ノ起ル所碑説云々ノ事アレドモ今之フ略ス、蓋シ清ラ石ノ転訛ナランカ」とある。
以上を総合すると、日本武尊が幾山河を「経て来られし石」つまり経を教に改め、また尊の徳を追慕して「清ラ石」などの説も付会
された。県外にも「教良石」といって、神聖な地石から命名された所もある。よって経て来石あたりの説に従いたい。
この地には馬場美濃守が、教来石民部といった時代の宅趾(鳥原集落内)があったといわれ、陣場。追手・裏門・御城坂等の地名も残存している。民部の姓も地名から来ているようである。(階位)
白州の地名起源 大武川(おおむかわ)
本町最北端の集落で、信州富士見と隣接している。
大武川(川名と集落名がある)の水源は釜無山中やその他幾筋かの支流を集めて本流となる。
ところで大武川の正流は別に存するので、国志にもみられるよう
に「奥 武川」の音便で、奥が大になったと解される。ちなみに人口動態は江戸時代と大同小異である。
白州の地名起源 松原(まつばら) 
古来白須以北を代表する地名で、自砂青松の大樹林は、甲斐の名所になったことはすでに述べた。松原は鳥原村の枝郷で、松原新田といったが、これに伴ない集落は発展し松原と呼称するようになった。実のところ今、松原の面影はないが地名はその物ズバリである。
白州の地名起源 山口(やまぐち) 
上教来石の一集落で、徳川氏は甲斐国に、山改め役を置き、山林を区画して村々に分配し、薪などを取りやすくしたがその代償として、山麓に改め役を配置して「山の口銭」を徴収した。ここにその役所のあった証左で、山口の地名となった。国道の西方二〇〇メートルの山の入口に山の神がある。このようなわけで、山口の地名も生れ、姓にも取り入れられた。
白州の地名起源 荒田(あらた)
旧国道二〇号線沿いに発達した街村形態の集落である。近世新田開発が行われ、集落が形成され「新田」と呼ぶようになったとか、また年々流川や松山沢の氾濫によって荒されることから「荒田」と呼ぶようになったともいう。なお「荒」とは休耕田のことで、 一年ないし二年おきに休耕して地力の快復を待って耕作を行った出作地であったとも考えられる。
白州町の地名起源 菅原村(すがはらむら)
藤村権令は、明治七年九月各村々に布達して合村を呼びかけた。そこで白須・台ケ原の旧村も、これに呼応した。自須の須と台ケ原の原を採り須ケ原とし、菅原に改作したという。
白州町の地名起源 鳳来村(ほうらいむら)
合併の理由は前記と同じで、明治五年大武川・教来石。鳥原の三村を合併するとき、大武川の大と、鳥原の鳥と一字ずつを取って大鳥とし、これを鳳の一字に直して、教来石の来字を取り鳳来村とした。なお武田氏ゆかりの地、愛知県長篠に鳳来町がある。
白州町の地名起源 駒城村
明治七年十月横手・柳沢(武川町の集落)・大坊の三村合併して駒城村となる。北巨摩郡誌に「往古此地一帯は牧場なりしより駒置の国音に因み駒岳の駒と、中山城の峯の城の字を取れるなりといふ。」と示されている。
白州町集落の様相 旧鳳来村地区 昭和61年現在
旧鳳来村は旧幕時代の四ヵ村から成り立っていて、その旧村がそれぞれ大字名となっている。大武川、上教来石、下教来石、鳥原がそれである。
北巨摩郡の最北端に位置して、東は釜無川や七里岩を隔て、小渕沢町と相対し、北は長野県富士見町に接している。なかでも大武川集落は長野県内に深くくい入り、長野県内の集落を通過しなければ集落への出入は不可能という集落である。故に長野県内の一部の如く見誤られるくらいである。南は旧菅原村地区に隣接、西は南アルプスの前衛が追っている。なお集落によっては小字がある、上教来石には山口。鳥原には荒田。松原があって、現在では行政の単位区としてその機能をそれぞれ発揮している。
標高は西に高く、東に低い。松原地区の約六五〇メートルから大武川地区の約八〇〇メートル、狭院な地形でありながら標高差の大
きいことから、甚だ急傾斜地帯に生活の基盤があることがうかがわれる。
耕地は、釜無川とその支流である流川、神官川の複合扇状地や、それに付随する丘陵地





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最終更新日  2020年12月30日 02時10分31秒
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