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2020年12月30日
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白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』) 

◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)源頼信

長元二年(一〇二九)源頼信が甲斐守に任ぜられ、翌三年平忠常の討伐を命ぜられた。忠常は下総。上総、安房など房総を占領し南関東で武威を誇っていた。年貢を怠り賦役を供さず叛乱を起こしたので、朝廷は検非違使平直方に討伐を命じたが容易に鎮定できなかったので頼信に追討使を命じた。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)源頼義
長元四年四月、頼信は子頼義とともに征討に向ったが、かねてから頼信の武名を恐れていた忠常は戦わずして頼信の軍門に降った。頼信はその功により美濃守に任ぜられて甲斐を去るが、その子頼義も甲斐守に任ぜられた。頼義もまた名将でよく民をなつけたから二代にして清和源時の甲斐における勢力の基礎が固まっていったのである。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)新羅三郎義光
頼義の三男が義光である。義光は天喜五年(一〇五七)生れで、近江国園城寺の新羅明神の社前で元服したので新羅三郎と名のった。やがて左兵衛尉に任ぜられたが、後三年の役が起るや官を辞して奥州に下り、兄八幡太郎義家を援けて乱を平定した。その功により刑部丞に任ぜられ、ついで常陸介となり、やがて甲斐守に任ぜられた。
義光は、広大な火山裾野をもち古代から三御牧があり未開拓地の多い峡北に注目していた。そのころすでに逸見郷は庄園化して逸見。熱那・多摩の諸庄となっていた。義光はこれらの庄に私牧を獲得し、広大な原野を庄園とするとともに、逸見郷に大八幡庄を起した。
この地域は八ケ岳南西山麓で、現在の長坂・小淵沢。高根。大泉にわたる地域で山麓に豊富な湧水があるため、早くから田畑も発達し馬と食糧の豊富な地域であった。
甲斐国志古跡部に「相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ、村西ノ山上ニ旧塁三所アリ云々」とあり、多摩庄の若神子に居館を構え、要害城として若神子城(大城)を築いたものと思われる。この付近にある八幡官は、この甲斐源氏によって勧請されたものと思われ、大入田の八幡山にある八幡官、上黒沢の八幡官、村山西割の八幡官などは義光とその子義清によって遷宮された由緒を伝えている。
義光は甲斐守の任期を終えて近江に帰ったが、再び常陸に移っていった。常陸は甲斐よりも逢かに豊かな土地であったから義光はその子たちル常陸に上着させようと考え、長男義業の妻に常陸の豪族吉田清幹の女を迎えて懇親を結び、義業の子昌義を久慈郡佐竹郷に、ややおくれて三男義清を那賀郡武田郷に拠らしめた。前者が清和源氏佐竹氏の起りである。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)義清(武田冠者)・黒源太清光
義清は武田郷に拠って武田冠者と称した。その後義光は近江に帰り、大治二年(一一二七)十月二十日、八二歳の生涯を終えた。時に義清五三歳、孫清光も一八歳であった。義光の死を知った吉田清幹らは一斉に反武田の旗をひるがえした。もともと武田郷周辺は常陸国三の官吉田神社の神領で、常陸大像の一族である吉田清幹・盛幹父子の支配地であった。そこへ義清が割り込み、その子清光までが若さにまかせて横車を押すというわけで、吉田清幹父子と対立していた。しかし義光存命中は隠忍していたが、義光の死とともに反逆にでたのである。
大治五年、常陸の国司が清光を濫行のかどで告発した。この告発は朝廷で受理され、審理の結果、翌天承元年に甲斐国市河庄に配流ときまった。時義清五七歳、清光二一歳で、清光には大治三年生れの光長、信義の二子があった。義清・清光父子は市河庄に土着し、平塩岡に居館を構えたが、やがて祖先甲斐守頼信以来庄園が経営されてきた峡北地方に拠点を移し、義清は逸見冠者刑部三郎、清光は逸見黒源太と名のった。義清は清光のよき助言者として活躍し、父子は在地の豪族たちと友好を結び或は懐柔し、時には威圧して着々と所領を拡げ、入国して十年を経たころには峡北一帯を従えた。保延六年(一一四〇)清光は光長・信義二子の元服式を挙げた。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)清光・信義
清光は逸見神社(大八幡の八幡官)で、信義は武田八幡官で源為義を烏帽子親と迎いで、光長は逸見太郎、信義は武田太郎と名のり、ともに為義の祝福を受けた。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)義清
義清は晩年巨摩郡稲積庄西条(昭和町)の地に隠居して、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没した。西条には義清の墓といわれる古墳があり、義清神社がまつられている。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の勃興 (『白州町誌』)谷戸城
谷戸城は清光の居城で、遠くから見ると茶日に似ているところから茶臼山とも呼ばれ、孤立した丘陵で眺望がよく逸見一
帯を望むことができる。東鑑には逸見山とあって清光以下数代逸見氏がここを居城としたとある。清光は仁安三年(一一六八)この谷戸城において五九歳の生涯を閉じた。その墓はいま大八田の清光寺にある。
白州町の歴史 武田氏の興隆(『白州町誌』)
◇白州町の歴史 武田氏の興隆 武田信義
清光が世を去ったあと甲斐源氏総領職は、嫡男逸見光長がつぐべきであったが、光長は温厚な長者ではあったが英雄の素質にはやや欠けるものがあった。弟の信義は天性気宇宏大、智謀に富み、民政にくわしく、統率の才にたけていたので、清光が没すると甲斐源氏総領職を光長から信義に譲り渡した。
武田庄に拠った信義はここに居館と要害城(自山城)を築いて活動を開始した。この地域の北、武川庄は官牧真衣野牧の故地である。優秀な軍馬を確保した信義は武田。甘利の両庄を固め、国中地方に進出して行くのである。
清光
―光長(逸見太郎 上総介)
―信義(武田太郎 駿河守護、光長と同日生)
―遠光(加賀美二郎 信濃守)
―義定(安田三郎 ヽ土込江守)
―清隆(平井四郎)
 ―長義(河内五郎 対島守護)
―厳尊(曾弥禅師)
―義行(奈古十郎 八条院蔵人)
―義成(浅利与一)
―信清(八代冠者)
―義氏(利見与一)
―道光(修理亮)
―光賢(修理亮)
清光の子は系譜の通りで、鏡次郎円光、安田次郎義貞(二人はなお子という)をはじめ十二、三人に及び峡西、峡東地方に進出し勢力をはっていた。
信義の嫡男忠頼は武略と統帥に長じ、穂坂、志麻、 一条、稲積の諸庄を経略して一条庄の一条小山(今の舞鶴城)に居館を構え一条次郎と称した。三男板垣兼信(板垣三郎)、四男逸見有義、五男石禾信光とも傑出した武将であったから信義の勢威は強大なものであった。
治承四年(一一八〇)四月九日、高倉宮以仁王の発した平家追討の令旨は東海。東山・北陸三道諸国の源氏諸将に伝達された。伊豆蛭が小島の源頼朝のもとへは源行家によって伝えられ、そのあと家行は甲斐に入り武田。安田の諸将に令旨を伝えた。この時信義は五三歳、義定は四七歳であった。
◇石橋山の戦い
頼朝は令旨を受け、八月十七日伊豆国の日代関兼隆を血祭りに挙げたが、二十三日相模石橋山の戦で大庭景親らの軍に敗れ、幸い敵将梶原景時に助けられて安一房に逃れた。令旨を受けて着々準備を調えていた信義は、九月十日、嫡男忠頼とともに信州伊那郡大田切城を攻めて平家方の菅冠者を滅した。
◇白州町の歴史 武田氏の興隆 甲斐源氏の中央進出(『白州町誌』)
九月十四日信義らは甲斐に帰り逸見山(谷戸城)に宿営した。このとき翌十五日北条時政が訪れ、頼朝への協力を要請した。信義は即答を避け、逸見山を出て信義の五男信光の拠る石禾(和)御厨に到り宿営した。その夜頼朝の使者土屋宗遠が来着、情勢が好転して安房、上総、下総三国の武士がことごとく頼朝に属し、いま上野、下野、武蔵の精兵を従えて駿河に向け出馬の準備中である。甲斐源氏も急ぎ駿河の黄瀬川まで来会されたいと申し入れ、甲斐源氏の決断を促した。
熟議のうえ甲斐源氏も頼朝に協力し駿河に参陣することに決した。武田信義は四人の子息(忠頼、兼信、有義、信光)、 安田義定、逸見光長、河内長義らを率い、十月十三日に甲斐を出発して駿河に向った。路を若彦路にとり南進した甲斐源氏一党は、鉢田の辺(朝霧高原)で駿河国目代橘遠茂の率いる大軍と遭遇したが力戦の末これを破り、遠茂を捕虜とした。
十月十八日、頼朝の黄瀬川の陣に着く、越えて二十日頼朝は陣を富士川の東岸に近い賀島に進めた。その南は富士沼である。平家の総帥平維盛は副将平忠度、同平忠清らと富士川の西岸に陣していたのである。
武田信義は夜が更けると兵をひそかに平氏の陣の後方に回らせて襲おうとした。このとき富士沼に眠れる水鳥が驚いていっせいに群り立ったので、敵の夜襲と信じた平氏の陣営は騒動して収拾がつかなくなった。
平軍の将平忠清は機を誤ると退路を絶たれる恐れがあるとして退却すべしと主張し、維盛以下これに従い、夜中に陣を撤して京都に向って引き上げた。
二十一日、頼朝は甲斐源氏の功を賞し、武田信義を駿河の守護、安田義定を遠江の守護に任命した。駿遠両国は源氏勢力の最前線で、平氏に対抗するには強力な勢力を必要としていたのである。
二十三日、頼朝は緒戦以来の功労者二五人を行賞したが、勲功第一は北条時政で、第二が武田信義、第三が安田義定であった。その後信義、義定ら甲斐源氏の将兵は京に上り源平合戦に参戦する。
一の谷の戦においては武田有義、板垣兼信らは大手大将軍範頼に属し、安田義定は揚手大将軍源九郎義経に属して大功を挙げ、甲斐源氏の軍団は天下無双と思われた。
◇白州町の歴史 武田氏の盛衰(鎌倉から室町へ) (『白州町誌』)
平家を滅ぼし、鎌倉幕府の創建に甲斐源氏が果した業績は大きかった。だが甲斐源氏が強大な兵力を擁し、駿遠一帯にも勢力を拡大したことについて頼朝は恐怖を感じ、これを警戒し圧迫してくるのである。頼朝は武田一門に謀叛の動きありとして信義に圧迫を加えてきた。その疑惑に対し信義は誓書を提出して誤解を解いてもらつたが、その子一条忠頼は頼朝に招かれ鎌倉で謀殺された。やがて信義も駿河守護を解かれ、文治二年(一一八六)二月九日、悲運のうちに五九歳で世を去った。
安田義定も遠江守護を解かれ、建久五年八月嫡男義資の些細な問題で、安田氏に反逆の事ありとして梶原景時を将とする幕府軍が甲斐へ攻め込み安田軍と戦ったが、義定は藤木の菩提寺放光寺で自刃して果てた。時に年六一歳であった。さらに一条忠頼の弟板垣兼信も梶原の手の者に謀殺された。その弟有義は頼朝の死後梶原と組み、後任の将軍をめぐって画策したが発覚して梶原一族が滅亡した正治二年(一二〇〇)正月行方知れずとなった。
◇白州町の歴史 甲斐源氏の総領石和五郎信光・小笠原長清(『白州町誌』)
信義の同族で生き残ったのは、信義の末子石和五郎信光であった。武田の惣領職についた信光は鎌倉幕府に忠誠を尽し信頼が厚かつた。源実朝暗殺を機に 将軍政子と執権北条義時が幕府の実権を握った。朝延は源氏幕府が断絶を機に朝権の回復をはかろうとして承久の乱が起った。
承久三年(一二二一)六月、この乱は北条軍の圧勝で終り、幕府は仲恭天皇を廃しい後鳥羽上皇ら三上皇を遠流に処し、討幕に加わった公卿・武士団を処断した。このとき東山道大将軍として五万余騎を率えて出兵したのが石和信光と小笠原長清であった。信光はその軍功によって安芸の守護に任ぜられ、長清は阿波の守護に任ぜられた。その後信光の子孫が代々石和(川田)の館に住み甲斐の守護となっている。
◇白州町の歴史 後醍醐天皇の建武の中興 武田惣領職と甲斐守護(『白州町誌』)
鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇の建武の中興となったが、それもつかの間で建武二年(一三二五年)八月、足利尊氏が鎌倉に入り朝廷に反旗をひるがえした。安芸の武田信武は尊氏に応じ、大いにその功績をあげたので尊氏の信望が厚く甲斐。安芸。若狭の守護も兼帯して武田中興の祖といわれている。信武のあと信成。信春の三代は武田惣領職と甲斐守護を全うし、足利氏と行動をともにして動乱期を克服した。
◇白州町の歴史 後醍醐天皇の第三皇子宗良親王(『白州町誌』)
南北朝時代甲斐国内も南朝方、北朝方に分れてその権益を争つたが、その多くは足利氏に従属する北朝方の勢力下にあった。後醍醐天皇の第三皇子宗良親王は、南朝の勢力挽回のため奮闘していた。興国六年(一三四五)(北朝貞和元年)秋、駿河より甲斐に入り武川路を経て信濃に向う途中白須の松原で旅のつかれをいやされた。その時の歌に、
かりそめの行きかひ路とは聞きしかど いざや自須のまつ人もなし(李花集)
南朝方に呼応する者もなく、待つ人もなき親王の心境が偲われる。
◇白州町の歴史 武田惣領職と甲斐守護の変遷(『白州町誌』)
信春のあと甲斐の守護となった武田信満は応永二十三年(一四一六)十月、娘婿の上杉禅秀の乱に加担したが、足利持氏の軍に追われ、翌年二月六日甲斐の木賊山で自刃した。信満の敗死で武田一族の逸見有直が実権を握り、信満の子武田信重と叔父の信元は甲斐をのがれて高野山に入山した。幕府はそのことを知って信元を甲斐守護に任ずるが、信元は間もなく死亡し、養子の伊豆千代丸が跡目を継ぐが逸見一族の勢力が強く、まったく守護は無にひとしかった。
そこで幕府は武田信重を守護に任ずるが信重は甲斐の国情を知って固辞して身を隠し再起の時期を待った。信重の弟で伊豆千代丸の実父である武田信長は甲斐有直・足利持氏の軍と戦い、猿橋にて防戦したが敗れ鎌倉足利の軍門に降った。
信長の乱が収まると甲斐に再び騒乱が起きた。守護代跡部父子が実権をにぎり、幼主伊豆千代丸派と抗争をくりかえした。跡部は峡北逸見筋の反武田武士団「輪宝一揆」を味方として、伊豆千代丸に加担する「日一揆」と各地で戦った。この情勢を知った信長は鎌倉を逐電して甲斐に帰り、日一揆と力を合わせて跡部および輪宝一揆と戦ったが利あらず、手勢を率いて房総に去った(房総武田氏の祖となる)。
◇白州町の歴史 武田惣領職と甲斐守護の変遷 永享の乱(『白州町誌』)
永享十年(一四三八)京都の幕府(将軍義教)と鎌倉府(持氏)の関係が悪化して永享の乱が起きた。武田信重はこの争乱を縫って甲斐入国を実現した。実に二十一年ぶりのことである。信重は帰国すると甲斐武田氏の大同団結をはかり、跡部氏もこれに従った。そして鎌倉の足利持氏を攻め、永享十一年二月、持氏は自殺し、逸見有直をはじめ逸見一族の多くは持氏と運命をともにした、信重のあと、信守、信縄、信虎と武田氏正統の守護職がつづくのである。
◇白州町の歴史 武田惣領職と甲斐守護の変遷 一条忠頼(『白州町誌』)
武田信義の長男一条忠頼は、その子行忠(二男)を甘利の庄に封じた。行忠は甘利を苗字とし、庄の要地に居館を構えた(旭町大輪寺)。行忠は剛勇の武将で治承四年平家追討のときにはよく父を輔けて活躍したが、父忠頼が源頼朝の猜忌を受けて謀殺されたとき、父に連座して罪を得て常陸に流され、配所で誅殺された。しかし行忠の二子行義・頼安は幸いに助命され、兄は甘利氏を興し、弟は上条氏を称した。そして甘利氏は三代五郎頼高、四代小五郎高行とつづき、戦国期に入って甘利備前守虎泰という豪傑が出現するのである。





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最終更新日  2020年12月30日 02時14分46秒
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