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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月30日
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白州町の誕生
日本列島の中央部、本州の屋根ともいわれる南アルプスのなかに雄姿を見せている駒ケ岳連峰と、そこを源流として流れ出て、北方に答える八ケ岳の火砕流を削りながら七里岩の断崖を形成して流れる釜無川と、南は大武川に包まれた地域が自州町である。
白州町は昭和三十年七月一日に、旧鳳来村、菅原村の全部と駒城村の横手、大坊および一旦長坂町となった旧清春村の花水が分町合併して誕生した町である。
花崗岩で形成された駒ケ岳山地より、大武川、尾白川、神宮川(旧濁川)等が流れでて堆積した真白い砂が一扇状地を造り、大きな洲をなしていることから白州町の名が生まれた。
白州町の位置・面積・人口 
白州町は山梨県の北西部、長野県との県境に位置する総面積一三七・五六平方キロメートルの町である。北は釜無川を境として小渕沢町に、東は長坂町に、南は大武川と中山山頂を境として武川村に、北から西にかけて長野県富士見町と長谷村に接している。
本町の人口は、合併時は六、六六九人であったが、其の後、昭和三十四年の台風災害復旧工事関係の従事者の居住した昭和三十五年の六、六七七人をピークに激減の一途をたどり、昭和六十年四月一日現在四、三八八人となった。全国的な農村人口の過疎化の傾向を如実に示している。
総面積一三七・五六平方キロメートルの中で山林が最も広く、その八八・九%を占めて一二二・三一平方キロメートル、
水田は三・七二平方キロメートル(二・七%)、 
畑は二・七二平方キロメートル(二・○%)、
宅地は一・一八平方キロメートル(○・九%)、
原野その他七・六三平方キロメートル(五・五%)
となっていて、耕地の合計四・七%は県平均の一〇%の半分にも達していない。
白州町の緯度経度
緯度・経度は次のとおりである。
東端 東経 一三八度二一分五二秒 (釜無川・尾白川合流点)
西端 東経 一三八度一一分一七秒 (編釜山の西・釜無川本谷)
南端 北緯 三五度四四分       (大坊南端・ヒョングリ滝)
北端 北緯 三五度五三分       (大武川部落 釜無川河床)
白州町はまた、県都甲府市より北西約三〇キロメートルはなれた県境の町である。本町集落のほぼ中央に当る白州町農業協同組合近くの水準点は六一四・五メートルで、集落や農耕地のあるところの標高は、おおむね五六〇―七五〇メートルの間に存在しているといってもよい。その上内陸的な気象条件であるために農業振興の面では、大きな障害がともなっている。
白州町の地形
白州町の地形を大別すると、山地、台地、扇状地、平地となっている。
町の西部は、自根、赤石などのいわゆる南アルプス連峰が南北に走り、これと平行してその前衛をなす巨摩山地が連なっている。赤石山地では、標高二九六六メートルの駒ケ岳を最高峰として、
黒戸山(二二五四メートル)、
鋸 山 (二六〇七メートル)、
編笠山 (二五一四メートル)、
雨乞岳 (二〇三七メートル)、
鞍掛山 (二〇二九メートル)、
日向山(一六六〇メートル)
等が連なっている。さらにその南方には赤石山脈と分岐して
巨摩山地のアサョ峰 (二七九九メートル)、
鳳凰三山の地蔵岳 (二七八〇メートル)、
観音岳 (二八四〇メートル)。
薬師岳(二七六二メートル)
などの山々がずっと南につづいている。
白州町の断層
一般に南アルプスと呼称されている赤石山地が、山梨・長野の県境を画して南北に連なっているが、赤石山地と巨摩山地とは、多くの学者が指摘しているように、 一大断層線に相当するところであって、本州中央地溝帯と呼んでいる地溝帯の西縁を画すものである。この断層線に沿って、北部では花闇岩が貫入して駒ケ岳・鳳凰山等より成る山体を構成するが、南部では西方の古生層が東方の御坂層の上へ逆断層で乗りあげている。
日本列島は中生代の終りから第三紀にかけて、本州を中央で潰断する大地溝帯を生じ、太平洋側と日本海側の海を通じて大海峡となった。この地溝帯をフォッサマグナと名づけられているが、その西縁をなす断層線に対し、矢部長克博士は糸魚川―静岡構造線と命名した。また縦横に走っている多くの断層線上には、断層の裂目に沿って、塩沢鉱泉、旧駒ケ岳鉱泉、シブクン沢の湯、旧亀の湯、藪の湯等の鉱泉の湧出が並んで断層線の存在を示している。
今からおよそ二千万年前の頃、この地溝帯が海底にあって、盛んに火山活動が行われ、玄武岩、安山岩などの溶岩や角礫凝灰岩などが推積した。櫛形山や中山・甘利山などは、これらの堆積岩の下部に貫入した花崗岩や石英閃緑岩とともに地盤の隆起に伴って高山となってきたものである。
白州町の地質【中山山地・巨摩山地】
この中山(八八七メートル)を起点として南にのびる荒倉山(一一三二メートル)、 櫛形山(二〇五二メートル)などの山地は、 櫛形山層および桃の木層からなる巨摩山地と呼ばれる山地である。巨摩山地は長期間にわたって河川の浸蝕を受け、山は削剥されて低い平坦地となるいわゆる準平原化し、再び隆起して浸蝕され、今の急峻な山容を呈しているのである。中山の周縁にこれが見られる。山もまだ生きていて一定の順序で変化しているのである。幼年期、壮年期、老年期と進み、準平原となって一生を終るのである。これが隆起すると新しい輪廻に入り、また幼年期の浸食がはじまる。そして再び山容は急峻で深い峡谷と急流な河川をつくるのである。
白州町の地質【八ケ岳火山裾野との間に北西―東南の断層線】
大武川と尾白川にはさまれた中山山地の東北方は、八ケ岳火山裾野との間に北西―東南の断層線に沿って釜無川が流下する。南方および西南方は大武川の浸食により急崖を造り、北西方は尾白川が東流して、その平面形は菱形をなしている。
この山地の東および北西山麓には丘陵地があって、東側では丘陵地との間に断層崖が認められている。この丘陵地は八ケ岳火山噴出物よりなるが、更に同火山噴出物は釜無川に沿って下流上円井附近まで連なっている。地形学的にも地質学的にも八ケ岳火山の延長であることがわかる。
この丘陵地の東方、釜無川河床との間には三段の河岸段丘が発達し、信州住還はその第二段を走っている。尾白川は更にこの段丘を浸食して更に新しい河岸段丘をその両岸に残している。
このように中山附近の多くの段丘地形を見ることは、巨摩山地全般の隆起と釜無川河床の低下、およびそれに続く尾白川、大武川等の河床の低下を考えなければならない。
白州町の地質【釜無川】
釜無川は釜無山の東部から源を発し、大武川集落附近で逆の方向をとり、神宮川、尾白川、大武川など、駒ケ岳山地より流れ出す水を集め水量が多く、上流の信州落合部落標高七五五メートル辺から韮崎市の塩川合流点標高三二五メートルまで水平距離七キロメートル余、高低差四三〇メートル、千分の一五のゆるい勾配で東南に向って流下し、発電や灌漑には重要な役割を果している。
山地の川として比較的緩やかなこの川も、 一度豪雨があると急激に増水し、支流である尾白川、大武川、神官川等の上流の風化して崩壊しやすい岩石を流して多量の土石流となって押し出し、七里岩の根を洗うようになり、七里岩の断崖を造型し、また時に不慮の大水害を起すこともしばしばである。
白州町【昭和五十七年の台風「ミニ・グランドキヤニオン」】
昭和五十七年八月一~二日の台風一〇号とそのあとの低気圧による大雨、同年九月十二日の台風一八号によって増水した釜無川の、きわめて急激な浸食作用によって、 一夜のうちに釜無川にすばらしい峡谷が出現した。アメリカのコロラド河が刻んだグランドキャニオンにまねて「ミニ・グランドキヤニオン」と呼ばれ一時観光ブームにわいた。
およその規模は、峡谷になった部分で幅一〇数メートル~六〇数メートル、産の高さ数メートル~一二メートル、延長一七〇〇メートルである。この峡谷の中に滝あり、駈穴あり、また糸魚川・静岡構造線の見事な断層面の露出、水平に幾重にも積み重ねられた地層と泥炭層の断面、一万年以上前と思われる樹根の化石群と、それらの樹々からと予想されるトウヒ・モミなどの球果や種子の化石など学術的にも貴重なものが露出した。
白州町【尾白川(日本名水百選)】釜無川・大武川・神宮川・田沢川
駒ケ岳頂上より北、鳥帽子岳付近を源として流れる尾白川は、噴水滝、 ハシゴ滝、ヒョウタン渕、不動滝、神蛇滝などの名瀑をつくりながら、深い峡谷を流下し竹宇区に出て、平地を削りながら台ケ原の下で釜無川と合流する。
大武川もまた駒ケ岳の南、仙水峠付近を源として武川町との境界を流下し、ヒョングリ滝・赤薙の滝などの名瀑をかけながら、大坊区を経て釜無川に合流する。最近その美しさで注目された篠沢大滝もその支流篠沢川にかかっている。またやはり支流である滝道川もきれいな渓谷美をつくり、平地に出てから大きな扇状地をつくって横手、大坊区はその上にある集落である。田沢川は平素水量の少ない川であるが、尾白川、神宮川と大きな複全扇状地を形成し、前沢、白須、竹宇の集落はその上に存在している。
神宮川は以前濁川と称されていたが、平素ほとんど水のない川も一度豪雨となると、その流域がけわしいために忽ち濁流となって流れることから濁川と称されたものであろう(これは細かい花崗岩が転がりそれが遠くで見ていると濁って見えるから)。サントリー白州工場の出現により改名され神官川となった。毎年明治神官に神官川の真白い玉砂利を奉納することからその名称が生まれたのである。
流川、加久保川等もそれぞれ山麓に扇状地をつくり、かんがい用水に利用されながら釜無川にそそいでいる。
白州町を走る中央構造線(塩尻―韮崎線)
赤石山地の西縁は中央構造線と呼ばれ、本州を南北に両断する一大断層線が、赤石山地と伊那山地の間を南北に走っていて、諏訪湖の南岸を北西―南東に走る塩尻―韮崎線という一大地溝線にぶつかっている。上述のように赤石山地の周縁の大部分は断層によって画せられている。その平面形は不等辺三角形を呈し複雑に入り組んだ断層線によって、いくつかの地塊をなしていわゆる赤石楔状地塊と呼ばれるものである。これらの大小の断層が発達し、地形を急峻かつ複雑なものにしている。谷は急傾斜で河床に達し山地全体の谷の密度は大きく、山稜は鋸歯状を呈すところが多い。
甲府盆地の西方に連なる赤石山地およびその前山となっている巨摩山地と、丘陵地を含む地域を西部山地と称している。
白州町 甲斐駒ケ岳【赤石山地】
赤石山地と巨摩山地どの境は上述のように糸静線となっていて、地形学的にも地質学的にも注視せられている地域である。白州町内におけるこれらの状況は、赤石山地の秩父古生層と巨摩山地の御坂層の間に貫入した花崗岩および石英閃緑岩がとなり、その山麓に広がる丘陵地や沖積地、河岸段丘が構成されている。
赤石山地は南東部より北西に向って、その地質は秩父古生層に属していて、それに鳳凰山、駒ケ岳など花商岩の貫入があり、再び大武川集落の付近に現われて、ここでは石灰岩の岩層が観察される。したがって古生層に属する海成層であると考えられる。
白州町【南アルプス国立公園】
南アルプス一帯は、昭和三十九年六月一日国立公園に指定された。三千メートル以上の山なみが連なって、本州の屋根ともなって太古の自然の姿を今日に残している。その北部の高峰駒ケ岳については、北巨摩郡誌の文を借用することにする。
白州町【駒ヶ岳(日本のマッターホルン)】
【北巨摩郡誌】
「駒ケ岳は駒城・菅原二村に属し、長野県伊那郡と界す。海抜九九〇五尺ありて山上に大国主命を祈る。山勢すこぶる奇峨にして奇岩幽谷に富む。往時は容易に山頂に達するを得ざれども文政年間信濃人(長野県茅野)弘幡(開山威力不動として神にまつる)なる人頂上に至る道路を開く。現今は鉄鎖楷梯を以って子女といえども登山することを得云々」
と記されている。
駒ケ岳はまた古くから信仰の山として賑わい、南アルプスの代表的な山であって、その豪快で男性的な山容は多くの人々をひきつけ白雪のような花闇岩の輝きも魅力のひとつとなっている。
白州町【鋸岳】
駒ケ岳の北側に、ギザギザな特異な岩稜を連ねるのが鋸岳で、南アルプスの中ではユニークな岩場の山として知られている。岩ももろく、台風などの自然の力でいためつけられているので岩場の経験者でも油断できないといわれている。
明治三十六年七月、ウエストン師が駒ケ岳を経て鋸岳に登り、この時駒ケ岳を「日本のマッターホルン」と名づけたといわれる。
白州町【鳳来石灰岩】
赤石山地の北端に近く、釜無川が大きく曲流する大武川地域に鳳来石灰岩がある。この付近を構成する岩層は主に秩父古生層と八ケ岳噴出物である。石灰岩は秩父古生層に挟在する。石灰岩は第一~第四層まであって賦存量は付近のものまで合算すると、およそ二億トンに達し、品質も良質のものとされている。





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最終更新日  2020年12月30日 02時23分05秒
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