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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月30日
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白州町 天然記念物

山梨県天然記念物 白州殿町のサクラ
白須殿町 浅川公雄宅 昭和三四・二・九指定
樹種はエドヒガンに属し、根回り六、六メートル、目通り幹囲五、Oメートル、幹の下部に空洞がある。昭和三十四年の七号台風の影響で地上約八、五メートルで折れ樹形を損ねたが、現在はそこから四方に枝を張り形を整えつつある。国指定の天然記念物山高の神代ザクラには及ばないが、県下有数の巨樹で、平年は四月十日ごろ満開となる。花はわずかに小さいが、花色は紅がこい。(現在は古木から枝が成長している。しかし過度の保存と観賞用装飾(鉄筋・モルタルなど)が見苦しい環境になっている)
白州町横手 本良院のツゲ
横手 大久保幸福宅 昭和三四・二・九指定
モチノキ科のイヌツゲで、一般には単にツゲというがツゲ科のツゲとは別種である。同家の庭に栽植された雌木で、根回り二、七メートル、それから○、六メートル上での幹囲二、二五メートル。さらに〇、二メートル上ったところで二幹となり、分かれ目の周囲は東幹一、一メートル、西幹一、六五メートル。 
西幹はさらに三本に分かれて四方に枝を広げている。枝張東西七、五メートル、南北八、○メートル。樹高は七、五メートルで樹勢は旺盛であり、イヌツゲの巨樹として比類まれなものである。
白州町横手 駒のマツ(枯れ死)
横手下原 宮川健宅 昭和三四・二・九指定
樹種はアカマツで、横手集落の入口に立っている。規模はこの木で最も細い根幹の境界部の周囲で五、三メートル、それから約一、○メートル上ったところで東西に二支幹が分かれる。東の支幹は三、四五メートル、西支幹二、八五メートルである。全体の枝張りは東西一九、ニメートル、南北二〇、六メートルで、独立樹として成長したため石尊杜参道の松並木などと異って、枝を四方に広げたが、樹高は一四、〇メートルと低いが樹形は美しい。県下屈指のものである。(枯れた駒の松の保存が白州地域委員会で持ち上がり、現在は道の駅はくしゅうの「ふれあい広場」に展示されている)
白州町花水 清泰寺のカヤ
花水 昭和四三・二・九指定
清泰寺の石段をのぼりつめた総門の南東側にカヤの巨樹がある。根本は西が低く東はそれより○、三メートル高い。露出根回りが一〇、五メートルあり、高地面で測った根元の周囲七、七メートル。そこから一、五メートル上った目通り幹囲は五、四メートル、地上約五メートルで多くの枝を分けその翼長は東西一七、九メートル、南北一九、五メートルの規模をもち、樹高は約二八、○メートルにも達する。
この寺は大治元年(一二一六)天台宗の名僧円光大師によって開創されたが、開基は新羅三郎義光の子義清だという。応永年問(一三九四~一四二八)に雲鷹玄俊大和尚が曹洞宗に改め、その際記念としてこのカヤを植えたと伝えられている。
白州町上教来石(かみきょうらいし)山口諏訪神社の本殿並びに拝殿(町指定文化財 建造物)
上教来石 昭和四八・一二・一指定
当社の祭神は諏訪明神と通称される建御名方命である。本殿はかっての杷趾の直前に建てられた一間社流造であるが、様式手法上、江戸初期の再建と推定される遺構で、当町にとって特に貴重な建築である。
拝殿は本殿に接して造られた明治初年の建築である。桁行九、三メートル、梁問六、五メートルの規模の茅葺であるが、最も注目される点は、そのまま村芝居の舞台に活用されたことで、回り舞台の備えがある。江戸中期から明治初頭にかけて盛行をみた、農・山村の健全な娯楽の名残を留めるものである。
白州町花水 石尊神社本殿並びに拝殿(町指定文化財 建造物)
鳥原 昭和四八・一二・一指定
大山抵命と日本武尊の二神を祀る当社の創建は、応永五年(一三九八)と伝えられ、約二百年後の文禄三年(一五九四)に再興されたのが荒廃したので、江戸末期にいたって、信州の宮大工立川流の工匠によって復興されたごとくである。
一間社流造、二軒繁桂で屋根は柿葺である。身舎の正側三面に勾欄付の切目縁を回らし、正面に一間の向拝を付け、昇勾欄付の木階五級を設け、その前方を浜床とする。向拝柱上の頭貫、軒唐破風の兎毛通、身舎との繋虹梁、身舎の側壁、左右の脇障子、その他いたるところにすぐれた彫刻を施すなど、時代精神のにじみでた建築である。
拝殿は桁行八、六メートル、梁間七、九メートル。入母屋造、向拝の付いた妻入の建築である。内部は荘厳のため、花鳥を以って飾られた格天井で、すべて遠近の信者によって寄進されたものである。当社に対する信心の深さを示す資料であり、なかには峡北の大家三枝雲岱と関係のある雲渓らが腕をふるって画いたものも含まれている。
白州町花水 清泰寺六地蔵幢(町指定文化財 建造物)
花水 昭和四八・一二・一町指定
石幢は供養のための石造建築物で、大陸では古くから行われ、すでに応徳元年(一〇八四)の遺物があるという。わが国では長寛元年(一一六三)ごろからのものが拝される。その分類は形式と内容の両面から考慮すべきではあるが、名称その他、従来にならって複制と単制に大別する。
当町に現存するものの多くは、一見石灯籠状の複制幢で、在銘の古いものに横手・安福寺六地蔵幢(元禄四年・一六九一)及び大武川・福泉寺六地蔵幢(元禄一四年・一七〇一)が完存する。無銘では、室町時代中期にあたる清泰寺幢がほぼ当初の姿を留め、残欠ながらこれにつぐものに同期の白須・自元寺幢(幢身以下残存)がある。
この清泰寺六地蔵幢は「甲州型」で、安山岩製現高二、一メートル。基壇(一般には地中にかくれる)上に礎盤状の基礎を置き、上下の端に請花・反花をもつ平面円の幢身を立て、勾欄のついた中台をのせて諸尊を安置し、その中央六角柱の六面にそれぞれ厚肉の六地蔵を配刻、これに天蓋にあたる隅木入りで二重桂をもつ六注屋根を載せ、最上部を宝珠(今欠)とする。
これは鎌倉時代、禅宗とともに輸入された大陸の建築文化の宋様手法が石造物にまで採用されたものである。
残念ながらこの石幢では失われているが、寵部の花頭曲線など、逢か西方サラセン文化の爵響と考えられる。また、普通は中台の軒裏は種のないいわゆる板軒であるが、この石幢ではとくに入念に種が造設されている点にも特色がみられ、無銘とはいえ、まことに貴重な遺構である。
白州町諏訪神社上教来石(かみきょうらいし) 鰐口(町指定文化財 工芸)
上教来石(かみきょうらいし) 昭和四八・一二・一指定
山口諏訪杜で珍蔵する社宝の鰐口は、かって、同社拝殿の軒に懸けて参詣の際打ち鳴らしたものである。形態は扁平で、面径は一八、八センチ。胎厚や縁厚とほどよい調和をたもつ。側面の両肩に環状の鈎手をつけ、その下に突き出した耳を設け、さらに両耳の問に口があけてある。両面の中央に菊花をかたどった陽鋳の撞座がある。表裏とも座を囲む圏線によって面が分割されている。
形状からきた名称と思われる鰐口は、かって「金鼓」とも呼ばれた。本杜の所蔵する鰐口は無銘とはいえ、すぐれた鋳技を示す桃山期と推定される貴重な工芸品である。
白州町上教来石(かみきょうらいし) 山口関所跡(町指定文化財)
上教来石(かみきょうらいし) 山口 昭和四八・一二・一指定
甲斐二十四関の一つで小荒間・大井ケ森・笹尾の口留番所とともに信州口に対する関門として重視され、常に番卒を駐在させ、村役下番を使って取り締りを厳重にした所である。
山口番所の番人は名取久吉、二宮勘右衛門。名取の役宅は街道西、二宮の役宅は街道東にあり、番小屋は東側にあった。下番人二人は村役である。関所跡には「鳳来山口関趾」の碑が建てられてあり、荒田の伏見家には番所の小道具である「さすまた」「そでがらみ」「六尺棒」などが保存されている。
白州町下教来石(しもきょうらいし) 獅子舞と道祖神祭り(無形民俗文化財)
下教来石(しもきょうらいし) 昭和五三・一・一四指定
下教来石区に、小正月の行事として三百年以前から伝承されてきた、無形文化財の獅子舞と道祖神お練りの祭典がある。
獅子舞は、昔から御神楽獅子と呼ばれている。京都から伝えられたと思われ、六郷町落居の山田神楽獅子、甲府市能泉の厄払い獅子との共通面もあり、戦国の武将馬場美濃守の子孫が、当地に居住していたころから始められたとも伝えられている。
舞いは毎年一月十四日道祖神祭りに限られ悪魔払い、初産児の無病息災、新婚夫婦の和合、新築家屋の安泰などのために、部落全戸を舞い、悪魔退散、五穀豊穣、天下泰平、交通安全、万民借楽、一切無障害などを祈願するものである。
本舞としての幕の内と、悪魔払いとしての剣の舞の二種類である。幕の内では獅子役は和服に黒足袋を身につけ、水玉模様に亀を染めぬいた幕のついた獅子頭をいただき、幕を広げて所作をする。獅子の尾にあたる部分には、これも和服に黒足袋でおかめの面をつけ、頭巾をした後舞がつく。笛、太鼓、お購子役もすべて和服に統一されている。
この獅子舞は狂い獅子やあばれ獅子とちがい、女獅子であるため、舞い方も女らしくもの静かで優雅なものである。
幕の内が終ると後舞は幕を舞手の背中にくくりつけ、剣の舞の準備をする。右手に三尺の剣をもち、笛、太鼓、お嚥子に合せて、身ぶり足ぶりとも格調高く舞う。この舞には購子調や悪態や唱えごとなどが伴う。下教来石ではこのことを「剣の舞の御詠歌」と称して皆で唱える。
午前三時には起太鼓が部落をふれ歩く。三時半には会員が保存会事務所に集合する。四時から神社と道祖神で舞い初めをする。つぎに来福寺で舞い、下橋で舞ってから各戸の神前で舞うことになっている。下村から始め板橋、坂下へと舞い上っていくのであるが、各戸の入口を正確に通り、順番をまちがえることは許されない。部落のしめは上橋で舞い、午後五時半には神杜と道祖神で舞い納めをする。保存会員は交代で食事をとり、公共施設や事業所の悪魔払いも含めて百十数回の舞いを連続で行うのである。一方獅子舞係は、長持の上に立派なお官を飾りたて、獅子と一緒に引き歩く。昔は長持の中に米や野菜を供えたが、このごろでは御祝儀を入れる例となっている。
白州町横手 甲斐駒ケ嶽神社代太神楽
横手 昭和五五・四・一指定
当杜の奥宮は横手の字駒嶽、前宮は宮沢にあって、祭神の大已貴命、天照大神、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、少彦名命、スサノウ命、保食之神の八柱雅号はされている。
古くから広く信仰をあつめ、特に医薬の神として霊験あらたかで、信者は講社をつくり、三百年も前から、神楽を奉納の上家内安全、五穀の豊穣を祈願する様になった。奉納神楽は大和神楽と定められており、絶えることなく明治の時代まで継続され、明治初年に例大祭を四月二十日とし、講杜を集めて神楽を奉納して、盛大に祭典が行なわれてきた。
明治十五年全国的に疾病が流行したため、とくに信老の要望によって、八月二十九日、三十目の両目大祭以外に神楽を奉納し悪病の平癒を祈願し、明治中葉まで続いた。
明治二十三年の神楽殿の改築、大正末期から昭和初頭にかけて多数信者の浄財で社殿が再興された。その機会に地元の方々が、諏訪神楽(大和神楽)の流れをくむ韮崎市円野町持久神杜の神楽を、先覚者から伝授を受け現在に至っている。しかし時代の推移とともに青年層が減少し老齢化しつつある現状だが神楽の継承に意欲を燃やしている。舞人は十八人でこの中には太鼓や笛でお難子を奏したり、また、舞を舞ったりする一人二役の人もおり数回の練習を重ねて当日に備える。(略)
当日は午前十時頃より本殿において神主さんの神楽祝詞の奏上のあと次の代太神楽演目次第に従って神楽殿で奉納される。
祭場淡美、神之舞、四方之舞、剣之舞、袴幡千々姫之舞、二人剣、大山砥之命、天孫降臨之舞、国固め之舞、大国主之命、陰陽之舞、四方之舞、金山彦之舞、玉取之舞、千引岩、大蛇退治、速須佐男之命、受持白孤、猿田彦之命、天釦女之命、乙之舞、天之岩戸、四方之舞の順でいずれも大太鼓小太鼓や横笛のお囃子に合わせて舞うのである。(略)
この祭りの雰囲気は往古も現今も変りはない。このようにして現在に至るまでの長い歴史の流れの中にあって伝承されて来た神楽がなおかつ鋲守の森において奉奏されている姿は極めて貴重なことである。これからも永却に絶やしてはならない無形の文化財として保存せねばならないものと思う。
白州町大坊 馬八(うまはち)節のいわれ
大坊保存会 昭和五六・八・三指定
平安時代末期-戦国時代、大武川筋一帯は、甲斐源氏の名馬の産地「甲斐駒」の牧の里であったといわれ、武田家の家臣、黒田八右衛門を父とし、大坊村(現白州町大坊)に生をうけた八兵衛は、大の馬好きで、成人して馬子となった。
彼は聡明で美声の持主、毎日河原部村(現韮崎市韮崎町)まで産物を馬で運びながら「田の草節」を唄って通った。街道筋の人々は美声の馬子の唄を聞くのを楽しみにしているうちに馬八は名物馬子となった。
いつしか蹄にあわせて唄う「田の草節」は「七、五、五、七、四」の調の詩型と独得のテンポとリズムに変っていった。誰いうとなく「馬八節」と呼び、道中唄となった。
それ以来白州町、武川村、韮崎市などで歌い継がれてきた。昭和五十六年一月に大坊区民を中心として「馬八節保存会」を結成し、同年八月には白州町文化財保護条例により民俗芸能に指定された。それを機会に「馬八節レコード発表会」も行なわれた。
白州町大武川(おおむかわ) 諏訪神社のトチの木
大武川 昭和四八・一二・一指定
トチノキは温帯の山地の川沿いに多い落葉高木で、北海道の南西部から九州の北東部にわたって分布する。この地方にも南アルプス国立公園や近くの県立公園に多く成育し、相当の巨樹もあるが、人里近くでこのように成長したのは珍らしい。当社の境内にはこの木以外にも数本のトチが生えている。
目通り幹囲四、二、
根回り五、一、
枝張東西一六、五、
南北一九、○
樹高約二一、○(単位メートル)
白州町鳥原 石尊(せきそん)神社参道の松並木
鳥原昭和四八・一二・一指定
樹種は当地に多産するアカマツであるが、境内の入口から拝殿に至る約二〇〇メートルにわたる参道の両側に、二五〇~三〇〇年生の大木五十余本が高くそびえている姿は、全県的にも希である。とくにその伸びの良い点に特色がある。
松並木全体からみて、以前は附近一帯がアカマツの大密林であったのを、参道の両がわだけ伐り残した結果と思われる。   
昭和四十八年十一月の風で二本が折れた。その一本は石の鳥居にかかり壊してしまった。折れ口にはキツツキによって深い穴があけてあった。
白州町前沢 正八幡神社のケヤキ
白須(前沢区) 昭和四八・一二・一指定
当杜の創建は不明であるが、祭神は誉田別命(応神天皇)である。樹種はニレ科のケヤキでわが国の代表的な広葉樹の一つである。また、ツキ(槻)の木ともいい、本州・四国・九州・南北朝鮮・中国の温帯から暖帯にかけて広く分布している。とくに本県には各地に巨樹が知られている。
このケヤキは、根もとの張りぐあいに特徴があり、この地方の大木の一つで、次の規模(単位メートル)がある。目通り幹囲四、四、根回り一七、二、枝張り東西二五、○ 南北二五、○ 樹高約三〇、○と計測される。
白州町花水 カヤの群落とフジ
花水 昭和四八・三・一指定
カヤはイチイ科の常緑高木で、岩手・山形両県以南の本州・四国.九州の主として温帯林の中に分布し、ふつう散生するが、この地のようにまとまって大木が自生しているのは珍しく、カヤの群落として県内では他に例をみたい注目されるもので、その価値はすこぶる高い。フジはマメ科の木本性の落葉蔓性の植物で、各地にみられるが、その巨樹であることと、かつての二本が大きく成長して現在八本に分かれ、よくこの木の特性をあらわしているので植物形態学の上からも大切な資料である。
カヤの群落目通り一、○~四、○メートルのもの十六本 大フジ八本に分れているうち最大な目通り一、八五メートル。
白州町横手 本村の関のサクラ
横手中山茂則昭和四八・一二・一指定
樹種はエドヒガンで、幹囲は国指定の山高の神代ザクラを含めて県下で二・三位をあらそうほどの巨木である。この木の名称について、昔は信州路の一つで、西山の麓を通ったものに甘利山麓から清哲、宇波円井、新奥、黒沢、山高、柳沢を経て、この地に到り、さらに竹宇から鳥原を通って信州口に達したものがあるが、この路筋の大切な場所として昔、関所が設けられ取締りを行ったと考えられていた。
根元から約二、〇メートル上ったところで五本の主幹に分かれている。根回り六、六五、地上一、三メートル上りの幹囲五、三、同地面で二、○、分岐部でそれぞれ一、六五、二、六〇、二、一五、一、一〇。枝張は束西一〇、八、南北一七、五、樹高約一五〇○(単位メートル)下幹部に小空洞があるが、樹勢は旺盛である。ツルマサキやツタウルシがからみつき、また、ホザキヤドリギが寄生し、晩秋に淡黄色の実をつける。
白州町横手 巨麻神社のサワラ
横手 昭和四八・一二・一指定
本杜の祭神は建御名方命と大山抵命の二柱である。サワラはヒノキ科の植物でヒノキに似た常緑の高木である。北限は岩手県以南の本州、九州に分布するが関東や中部の両地方に最も多い。境内のこの木は当地方では稀にみる巨木で、直幹よく天をつく姿はまことにみごとで、天然記念物の名にふさわしい。この木の特性から浴室用材として古くから賞用され、われわれと馴染の深い樹木である。
白州町白須 白須若官八幡神社(馬場美濃守・白須家ゆかり)のモミの木
白須 昭和五〇・一・一〇指定
この神社は光厳院の御代に建てられたと伝えられる旧郷杜で、神功皇后、応仁天皇、仁徳天皇」王の三柱が祀られている。
モミはマツ科の常緑高木で、分布は岩手県の中部および秋田県能代地方以南の本州、四国、九州の暖帯から温帯の地域に多産し、北陸地方には少ない。高さ四〇、○メートル、直径二、○メートルにも達する。樹齢は比較的短かく一〇〇~一五〇年ほどあるが、成長の速度はすこぶるはやい。この地方にもよく成育するが、本樹のごとき巨樹は少ないので天然記念物に指定されている。目通り幹囲五、八四メートル、根回り六、五メートルの規模をもっている。
地上六、六メートルで幹が折れ、そこから南に枝を伸すが、幹の内部は空洞化し、内側には焼け跡がある。幹の南側は下から上まで欠けているが樹勢は旺盛である。
白州町花水 清泰寺のイイギリ
イイギリ(イイギリ科)は落葉高木で、暖地の山林に散発的に生え、ときに人家にも植えられる。幹は直立し、枝を放射状に張り出す。五月枝先に円すい花序をつげてたれ下り、多くの帯緑黄色の花を開く直雌雄異株で、実は赤熟し落葉後も永く樹上にのこる。昔、飯を葉に包んだので呼ばれるようになったといわれている。
清泰寺境内のイイギリは、根回り二、三メートル、目通り幹囲一、八メートル、枝張り東西一〇、五メートル、南北七、六メートル、樹高は約十五メートルほどである。
元来が暖地性の植物で、峡南地方、富士川の谷合いには散見されるが、県内としては寒冷な白州町に成育することは、栽植とはいえ珍らしいことである。この木は雄木のため、異国的な赤熟の美観に接することはできない。鐘楼再建に当って伐枝、樹形を損ねたとはいえ、この樹本来の特徴は失たっていない。ただ下幹部のいたみが気にかかる。
白州町花水 シラカシ
清泰寺の前、植松家宅地にシラカシ(ブナ科)の巨樹がある。根回り四、四メートル、目通り幹囲二、五メートル、枝張りは東西一六、二メートル南北七、七メートルで枝下は直幹で四、五メートル、樹高は約二〇、五メートルにも達し、樹勢はすこぶる旺盛であり、こんもりと半球形に茂った樹冠は美しい。温帯の北部に位する甲府盆地には、所次にカシの木がみられるが、比較的耐寒性の強いシラカシを主とする、韮崎市武田八幡神社表叢(市指定天然記念物)は自然分布の北限に近い群落として知られている。
栽植も含めたものは、点々と釜無川の谷に沿って北上するが、横手駒ヶ岳神社境内には、栽植も含めてシラカシの目通り幹囲二、○メートルほか二、三の幼樹(目通り幹囲○、七五~○、五五メートル)の成育がみられるが、これらは植物分布の上から注目すべきである。なお隣町長坂・竜眼寺にも、花水シラカシと伯仲するカシの成育がみられる。
白州町花水 ツルマサキ
樹種はニシキギ科のツルマサキで、植松家の裏を流れる小深沢川左岸の小崖に生えた大小二本のケヤキ(目通り幹囲三、三五及び二、八メートル)に、茎の所々から細かい根を出して付着し、高く昇っている。うち最大は目通りで○、五五メートル、つづいて○、五〇〇、二九メートルと大きなものは三本ほどである。
県下では郡内地方に巨樹があり、とくに忍野村渡辺慶治・渡辺一臣両家宅地内には、目通り一、〇メートル前後のものがある。国中地方には少なく、著名だった大和村初鹿野・諏訪杜境内の目通り○、七メートルの巨樹が枯死した現在、県北地方では、小渕沢町大滝神杜境内のものとともに注目される古木である。巨木でありとくに根張りが発達している点に特徴がある。
白州町上教来石 教慶寺のカヤ(花水)
上教来石教慶寺法堂の前、石段を登りおわった左側に、カヤの巨樹がある。この樹は雌木で、根廻り二一、○メートル、根幹の境五、六メートル、それから一、五メートル上った幹囲四、○メートル、枝張りは東西一二、○メートル、南北は一九、五メートルに及ぶ。
白州町花水 清泰寺宝篋印塔 高遠石工平右衛門周平の作(推定)
清泰寺の宝篋印塔は、安山岩製で総高五、一五メートル、同寺の総門近くにあって堂々とした塔姿をみせている。構成は安福寺塔の上敷茄子にあたる部位の四隅に円柱を立て、頭貫を通し、それらに囲まれた東・南・西・北の四面に、光背付厚肉彫の尊像を安置する。さらにその上層には、斗棋に支えられた勾欄付の縁をめぐらした塔身の寵部に、両開き石扉を釣りこんで、内部に蓮座付の月輸を設け、そのたかに朱彩された金剛界四仏の種子を配刻している。
基礎の側面や敷茄子には、全面的に多彩な彫刻を施し、蓮弁にもすぐれた彫りをみせ、また、反りの強い軒、二重桂、飛鶴の兎毛通をもつ軒唐破風を設けるなど、細部にいたるまで至極入念に造られ、さらに相輪や宝珠も豪放大胆に表現されているが、全体的によく調和の保たれた遺構である。この宝篋慶印塔で特に注目される点は、四方仏の配列や対置された尊容についてである。密教においては金胎両界の別はあっても、大日如米の理・智の二徳を両部に分けただけで、所詮は同一のものである。四仏は安福寺塔や来福寺塔のごとく、いずれも東方から逐次南・西・北の順に配置するのが通例であるが、この堵に示された種子は金剛四仏ではあるが、一見原則を破って逆に配刻されている。種子と像容を併刻するのは、木造塔の内部に仏像を安置すると同煮に解されるが、平安時代に始まった密教の場合は、金胎を問わず四仏に菩薩像は含まれない。全国的には時に四仏の一を地蔵あるいは観音に替えた例もあるが、この塔では南方に菩薩形(聖観音か)、さらには北方に僧形(弘法大師像)までも刻出しているのはまことに異例というべきである。昔は宗派の別が確守されず、また、顕密二様を行ずる僧侶も多かったが、清泰寺塔は江戸末期文政六年(一八二三)の落慶である。
基礎の側面に造年次と、浄財を喜捨された信者多数の芳名が刻まれているが、現在石工が判然としないのが惜しまれる。
ちなみに小渕沢町矢ノ堂宝篋慶印塔は、文化十年(一八一三)の竣工で、尊像安置の個所に丸彫に近い十六羅漠像がみられるが、技法の上から共通点が多、清泰寺搭もあるいは同様、高遠領の石工「平右衛門周平」の手になるものと推定されなくもない。この周平は、来福寺地蔵尊の作者でもある。
白州町台ケ原 荒尾神社石灯籠(台ケ原)
石灯籠は、仏前に献灯する器具として、仏教とともに朝鮮から輸入されたと思われるが、後世は神前にも建てられた。古くは正面に一基を原則としていたが、室町末期から左右に一対を供えるようになった。
当町所在の遺構には四角型及びその変形などからなる江戸期のものが多い。
当社では杜の入口に宝暦、嘉永の二対が注目され、いずれも安山岩製の優作である。宝暦十三年(一七六三)のものは高さ一、九七メートルで、古屋八右衛門、石原作左工門両氏の寄進で、すこぶる垢抜けした遺構である。中台の側面には花菱を中心として左右に優雅な唐草の文様を薄肉で現わし装飾とする。屋根の反りや降り棟の曲線などに軽快感をみせ、載せられた宝珠とよく調和が保たれている。
白州町台ケ原 荒尾神社 石灯籠 施主北原伊兵衛延重
嘉永五年(一八五二)のものはこれに接して建てられ、総高二、〇五メートル。竿と基壇の問に猫脚付の基礎を入れ、宝珠に目立つ請花をつけたところに新味があり、竿を低く形の曲率を増して全体感に配慮のあとがうかがえる。この灯籠に前後して、県下には各部の平面を円形とした遺構が散見されるようにたる。竿に次の銘がある。
嘉永五年歳次
献奉
壬子九月祭日
石灯一基
施主北原伊兵衛延重(七賢の祖)
白州町花水 清泰寺石灯籠
法堂に近く岩座状の基礎に立てられた安山岩製、高さ二、○メートルの遺構である。基本は四角型であるが、屋根と中台にすぐれた建築の手法と彫刻が施された点に最大の特色が認められる。
「文化七年午歳三月十七日十九世大燈代」(一八一〇)の銘をのこすが、この地方における、化政期文化の一端がしのばれる。 
やがてこの風土の中に下教来石・諏訪神杜本殿、鳥原・石尊神杜本殿及び上教来石・教慶寺所蔵一間厨子などの、立川流の建造物へ志向する気運をもたらした。
白州町鳥原 福昌寺石廟(石室)
石廟は石堂、石殿は石祠と同義とし、それぞれ主として仏寺、神霊の関係とみられるが、屋根の形態からは三種となる。
入母屋型(花水・清泰寺石廟寛永六年・一六二九)
切妻型(下教来石・皇太神祠寛文八年・一六六八)
宝形型(横手・安福寺石室宝永七年・一七一〇)
石廟の造立は江戸初期に多見されるが、在銘の遺構が少ないなかで、鳥原.福昌寺惣墓に寛永二十年、寛文十一年の二棟が並立する。入母屋型で、軸部正面に大小の方私、猪目形の窓を開き、その両面にそれぞれ銘を刻む。基礎の前面に階段を造り、入念なものにはその両側に献華のための花瓶を造設することがある。この種の石廟の軸部には四面とも上部に多くの五輪塔を刻出、その下部仏・菩薩名、法名、経典名などが墨書きされる(御岳羅漢寺石廟)ことがあり、白須・自元寺石廟をはじめ、清泰寺石願などほとんどにあったであろうが、経年の風化で消減したと思われる。廟内奉祀の祖霊に対する供養のためである。
台ケ原 松尾大明神石殿 高遠石工の傑作 施主北原伊兵衛延重
石殿のほとんどは切妻型である。下教来石・諏訪神杜境内の一群は、寛文八年以降元禄・明和・安永・天明・天保と百七十年にわたり、また鳥原・松原諏訪神杜のものは、建立年次も享保十四年(一七二九)以後宝暦・文化・文政・嘉永・文久と、これまた百三十年の幅をもっている。
松尾大明神石殿は豪華な一間社流造で、棟高二、〇三メートル。屋根の前面に千鳥破風があり、向拝には軒唐破風がついている。身舎の柱は・円柱、四面に縁長押、内法長押をまわし、柱問に頭貫を通し、先端を木鼻とする。架構は二手先斗供で、正面を蛇腹支輸、側・背面は波形彫刻付の支輪とし、中備には四面とも慕股を入れる。また、正・側面に勾欄つきの縁をめぐらし、両側の後端には脇障子があったが現在は失われている。なお、回縁は二手先の詰組で支えられ、斗栱には募股が挿入されている。正面に擬宝珠つきの登勾欄がある階段を設け、階段下には浜床がある。軒は二軒繁垂、妻飾は虹梁大瓶束式、束の下端は結綿、上部は斗棋を組んで化粧棟木を受ける。破風には鰭付のカブラ懸魚をつける。向拝柱は几帳面取の方柱で、桁行に虹梁を架し先端に彫刻をつける。軒唐破風には飛鶴の兎毛通がつけてある。
軸部の銘では建立年次は明らかでないが、たまたま、荒尾神杜入口の石灯籠の施主「北原伊兵衛延重」の刻銘から、この石殿の願主とその男「伊兵衛」、「延重」と想定され、したがって嘉永五年(一八五二)か、その前後に近いころの竣工と推定される。この石殿は、繊細の中に豪荘さを保ち、煩雑に陥らず大道をふまえたもので、信州高遠大工の技をうかがわせる石造建築の傑作として推賞できる。
白州町下教来石 来福寺六観音像
寺の境内放生池のほとりに一群の石仏が拝されるが、この六観音諸仏もその一つである。多くの仏・菩薩のなかで、広く世に知られ、深い信仰の対象とされてきたのである。
これらの菩薩は、六道をまわって衆世を摂化することから六趣をたてて六観音(千手・聖・馬頭・十一面・准胝・如意輪)といわれ、六つの巷において、一切衆生がその善悪の業因によって苦しみもだえ、生死輪回して多くの罪を受けるのを救うことが、これら諾尊の誓願である。
そのうち千手観音は、地獄道の苦を救い、諸願の成就をつかさどるわけで、「千眼千手観音」「千眼千臀観音」などの別称もある。相好は胸前に合掌手、腹前の持鉢手以外、左右二十の側手を現わし、掌のうちに一眼をもつ。これらの側手は慈悲をもって一手ごとに二十五有(有とは大衆が生まれかわり死にかわりする迷いの世界を二十五に分けたもの)を救済するというから、四十に二十五を乗じて千手、千眼とたる。その意趣は、多くの人びとの救済上必要なことを暗示している。舟形光背の上部に、この尊の種子(キリーク)が彫られている。
また、十一面観音は修羅道能化をつかさどる。形相は名のごとく頭の前面に忿慈悲面、左方に忿怒面、右方に牙上出面をそれぞれ三、さらに後頭部の大笑面、頭頂の仏面とで計十一面となる。その何れも華冠をつけ、冠上に弥陀像を安ずる。これらの面は、善悪不二とか、善を見ては喜び、悪に接しては潮けり笑うなど、深遠な意味が含まれている。
『十一面観音経』の所説によれば、十種の利益があるとされているが、要は現世の利溢を主とするもので、古くからその信仰は絶えなかった。それは今、県内の古寺に残された藤原時代初期の木彫像が、とくに多いことでも察せられる。
のこる四菩薩を含めたいわゆる六観音は、天台の三大部の一つで、宗祖智顎(五九七年寂 歳六一歳)の高著『摩詞止観』の説くところであるが、さらに「不空羂索観音』を加えたものを「七観音」という。これは
奈良仏教の一つ、華厳宗のたてるところである。この不空羂索観音は、梵名「阿母伽蹴舎(フモハ.ヘイシヤ)」の訳で「不空」とは心願の空しくない意味、「羂索」は絹の索。これをもって彼此折縛、所願を成就させる意味と考えられる。
生死のはても知らず、この世にさまよう凡夫を憫み、心念不空の絹索を垂れて、その理想を、可視の姿、観音像として表現したものである。
白州町下教来石 諏訪神社石殿
当町で最古とみられる博文の下教来石・諏訪神社石殿には、軸部に「奉立 宝殿 天照皇・太神宮・寛文八年三月吉日」の銘がある。この寛文の石殿から松原・諏訪神杜境内の一祠文化七年(一八一〇)、さらに次に掲げる松尾大明神石殿へと、建築手法が展開して簡素から逐次複雑化する傾向にあり、すぐれた石造美術が生まれた。
白州町上教来石 地蔵菩薩坐像
古来一仏三菩薩といわれて、阿弥陀・観世音・地蔵の三尊は、庶民信仰の中心として、現世はもとより死後までもと、二世にわたるご利益を求めて信仰されてきた。上教来石の国道二十号線沿いの一角に、近郷希れにみる巨像がその地蔵菩薩である。この地はすでに江戸初期から信仰上の聖域とされ、多くの石造物が奉祀されていた場所である。
地蔵菩薩坐像は、すべて安山岩製で総高二、〇五メートル。
上教来石地蔵菩薩坐像は、左手宝珠右手錫杖の一尊通途の丸彫像で、坐高は〇、八七メートルにも達する巨躯である。衣を通肩に着けた両肩を強く張る怒り肩で、膝張が大きく、その上肩先は頭頂と膝の両端を結んだ線に接し、しかも、その二線は膝張と等長で、輪郭はまさに正三角形となり、きわめて安定度の高いお姿である。さらに側面感も適度に奥が深く悠然と構えた姿態をみせる。ご面相も直線的な鼻梁、半月形の層、眺の気持上った切れ長い眼、笑を含んだ口もと、豊頬で巨耳、膨大な耳梁、すべては円頂慈相の一語に尽き、限りたい魅力にとりつかれる。
白州町上教来石(かみきょうらいし) 六地蔵
地蔵菩薩の誓願は、六観音と同様に六道能化を主眼とするもので、そのため姿を六種にかえて現われる。もともとこの韓は、釈迦入減後、弥勒菩薩がこの世に出現する時まで、五十六億七千万年もの、長い無仏の濁世の問に身を処して、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人問・天道)の大衆を能化するようにと、かの仰利天において釈尊から直接依頼を受けたことが六道能化の地蔵と呼ばれるわけである。
ここの六地蔵は、釈迦を中心として左右に三躰ずつ計六躯の尊像を配したもので、一具として釈迦を含むこの形式は、きわめて稀な構成といえる。
釈迦如来は安山岩製で坐高〇、五五メートル、反花つきの基礎、敷茄子、蓮華部と重ね入念に造られた台座の上に鎮座する。宝永年問の造顕であるが、螺髪は小粒で地髪部と肉警部との境も判然としたい。法衣の彫りは浅く、また、形式化してはいるが、至極柔和な目な指しなど、その表現は困難を伴なう素材の低抗をのり超え至極繊細で、骨太な国道沿いの正徳像と、よいコントラスとをみせている。
如来を囲む地蔵尊のうち、第四の修羅道を救済するのが「金剛幡地蔵」で、左手に金剛幡を持ち、右手は屈して五指を伸べ、掌を外に向けて前に挙げ、施無畏の印を結ぶ。
第五の「放光王地蔵」は、人問界の済度に当るわけで、五指を伸し外に向けて垂れ下げ、衆生のいだく願いのすべてに満足を与える相の与願印を示す。
この六躰六様、それぞれが変化の中に統一ある姿にも彫技のほどがしのばれ、石工の力量が評価される。釈迦の座に次の銘をのこす。「奉納四国宿供養宝永四亥歳十一月吉日敬白細入次良兵衛」(一七〇七年)。
白州町下教来石 来福寺地蔵菩薩坐像 
石工高遠守屋平右衛門(?)
寺に近い路傍の巨岩の上に坐高〇、七一メートル、左手宝珠右手錫杖、法衣に袈裟をかけた地蔵菩薩が祀られている。国道西坐像からほぼ一世紀おくれた文化四年、(一八〇七)の開眼であるが、甲乙のないズングリ型の優作で、蓮華座を支える六角柱に次の銘がある。
「石細工信州高遠領守屋平「  」。「平」以下は台石に埋って読めないが、この像は文化十年(一八二二)小淵沢町矢ノ堂宝慶印塔を建てた石工「高遠領持山村平右エ門周平」か。遠く室町時代から、信州石工の甲州進出がめざましかったが、在銘遺品の少たいたかにあって石造美術のもつ文化圏を追究する上から、優作という以外にも重視される石仏である。
白州町花水 清泰寺如意輪観音像
この像は寺の総門近く、県指定の天然記念物カヤの樹の下に安坐する。
「如意」は梵語の「真陀摩尼」で如意宝珠の意、「輸」はもちろん「法輪」であるから、この菩薩は凡夫の心の乱れを防いで雑念を去り、一切衆生の願いを遂げさせるという。
形相は『如意輸念謂法』に詳しいが、各手に二臀、六臀の別があり、各手に深い意味を含むが、石造では本格的な六臀の表現は困難のためか、来福寺六観音中の諸尊以外多臀の遺例はいたって少なく、また、しばしば「竜華三会の暁」にめぐりあうよう、江戸期の庶民の心を動かした弥勒の像と混同し、所刻の種子による判別以外望めない二臀像もある。
さて、この寺の如意輪観音は、坐高〇、四八メートル、日輸形の光背をもつ安山岩製の二管の坐像である。右膝を立てて左足裏をふまえ、右臀を曲げ、掌を頬にあてた思惟の姿で、一切衆生をあわれみ思う相をあらわす。左手は六臀像の場合、一手を補陀落山の頂上とみたてた蓮座上におき、無傾動の理想を示すが、この像は左の膝上におく。もちろん同一旨趣にほかならない表現である。頭上に宝警を高く束ね、法衣を膝頭の両側にまで広くのべ、おおらかで安定した姿態である。その尊顔に接する人びとに、無上無辺、法輪を転じて絶えまなく大愛の眼をそそぐ。推定江戸中期の佳作である。
白州町花水 清泰寺馬頭観音像
総門をはいって右手に立つこの像は、髪際(額の髪の生えぎわ)下〇、六五メートル、光背頂まで含めてもわずかに○、七九メートルの安山岩製の立像であるが、県内各地に拝見されるものと異なり、完全な丸彫像で、彫技は非凡、希にみる傑作といえよう。
像容は三面六管、双方の第一手を胸前で組むが、欠損もあって印は定かでない。左手第二手は屈管、手先を挙げて輸宝を捧げ、第三手は垂下して数珠を持つ。右第二手は亡失、第三手は掌を前面して下げ、甲を右腰脇に接する。一切衆生の願望を満足させる与願の印か。
三面とも燃える烙髪をたくわえ、主面はそのたかに標識の馬頭を按じ、他の二面は半ば外斜の方向を凝視する。しかし、三面とも青面金剛的な葱怒面ではなく、共通の輪光を頭光とする比較的穏やかな表情である。
頭上の馬容は、大威力の持主転輪王か、宝馬に跨って縦横無尽、須弥山の四方を駈けめぐり、好む水草を目ざして猪突猛進するごとく、観世音菩薩の誓願達成の表徴であって、必ずしも馬の味方というのではないが、この地域一帯は   古来産馬地として著名なところでもあり、また、それだけに住民の馬匹に対する細やかな愛情と、深甚な信仰心のあらわれとみるべきであろう。
時は江戸の中期、県内ではこの像に酷似するものとしては他にただ一躯、六郷町狭問馬頭観音像があるだけである。しかし、河内特有の風化され易い凝灰岩製のためすでに頭部は風化され尊容を損ねているが、幸い背面に次記の銘を残こし、清泰寺像造顕の時代推定の好資料となっている。
「(略)享保丙午天極月五日」(一七二六)
白州町花水 清泰寺青面金剛像
室町時代から江戸中期にかけて、とくに庶民の問に盛行をみた土俗信仰の一つが「庚申待」で、古くは藤原時代、王朝文学にも散見される思想である。その歴史は神道・仏教・修験道あるいは富士講その他、多くの雑信仰を包摂、大衆生活に浸透したが、要は招福延命への願いであった。
祀る本尊は不定で、時代的に変化し、弥陀であり、釈迦であり、地蔵であり、また、帝釈天でもあったわけである。遺物によれば江戸初期寛永以降、主として「青面金剛像」が表面にあらわれ、三猿形神も目に触れるようになった。
白州町では、上教来石・諏訪神杜境内の石祠の正面に左右一対「申」の陽刻があり、「延宝六年午十月吉日」(一八七八)の銘がある。午歳ではあるが、初期の庚申祠として注目される。
白須・法全寺碑は〇、八五メートル。無銘であるが四臀、二猿、二鶏、二童児を示す。
松原・諏訪神杜近傍には、正徳四年(一七一四)の地蔵と並んで、無銘ながら一面六臀、上部に日月、下部の座に三猿を刻出、二鶏は欠くがほぼ完好に近い青面金剛碑が拝され、第一手は胸前で合掌、左右の第二、三手はそれぞれ輪宝、弓箭など持物も完備している。
このような流れのなかに造顕された清泰寺青面金剛塔は、宝暦十二年(一七六二)の供養で、総高一、三メートル、安山岩製である。構造は反花付の基礎に蓮華の座を重ね、四角柱の塔身を立て、正面に飛鶴を兎毛通とする軒唐破風付宝形造の屋根を設け、塔所刻の主尊を雨露から保護している。なお屋上には露盤・宝珠が載せてある。碑面をわずかに窪めて彫出した六特の像容もすぐれたもので、この期における庚申塔を代表する優作といえよう。敷茄子の欠失が惜しまれる。
白州町大武川 福泉寺馬頭観世音像群
六観音の一つで、畜生道を受けもつという馬頭観音は、町内いたる所で拝されるが、とくに大武川・福泉寺境内のごとき、享保十五年(一七三〇)を最古に、弘化四年(一八四四)にいたる寛保・寛延・宝暦・寛政・文化と一世紀にわたって数躯の供養がなされ、その石仏多数が並立するのも一偉観であり、古人の篤い信仰心がまざまざと胸にせまる。
この尊は梵名を「詞耶掲理縛(はやぐりぶ)」といい、密教の説では、馬頭明王は無量寿の変化身だとみている。
『大日経疏』はこの明王の相好について「暁の日の輝やく色で、身を白蓮に飾り、烙髪を立て、忿怒の牙をむき出し、磨ぎすました爪を生じることは獣王のごとくだ」と述べている。
無銘の白須・法全寺像は三面二膏、宝暦八年(一七五八)の福泉寺銀は特別型の三面二膏像で、いずれも頭上に白馬頭をいただく点は共通す
るが、注目されるは清泰寺像である。
白州町鳥原 福昌寺大乗妙典供養碑
町内どこの集落にも神仏に祈りを捧げて、無病息災、招福延寿、子孫繁栄、後世菩提と和平安穏の暮しを求めたことは、昔も今も変りはないが、とくに古人の切なる願いが、多くの石造遺品からうかがわれ、何の記録もない時期の文化相を明らかにすることができる。
鳥原・福昌寺の大乗妙典供養碑(正徳五年・一七一五)、 
大武川・福泉寺仁王般若供養塔(享保五年・一七二〇)、
台ヶ原・荒尾神社百観音供養塔(無銘)、
上教来石巡礼供養塔(宝永四年・一七〇七)、
花水・清泰寺六字名号碑(明和五年・一七六八)、
自須・自元寺念仏講碑(元禄一一年・一六九八)などの遺例がある。
福昌寺のいう「大乗妙典」とは『妙法蓮華経』のことで、多くの大乗経の中で最上微妙のこの経を信じ、その功徳を得ようとするものである。碑の下部に蓮座を陰刻、碑面を一様に窪め、最上部に梵字で弥陀三尊(キリク・サ・サク)を現わし、中央に「奉読誦大乗妙典三千部」を挟んで、左右に「正徳五乙未歳霜月吉日願主恕林」、 なお、蓮座を中心にして「鳥原村 □人」と彫り出された優作である。
白州町大武川 福泉寺仁王般若供養塔
この塔は七難減除のための造顕とされる。『仁王経』には二本あるが、これは旧訳の『仁王般若波羅密多経』(二巻)であろう。挑泰の鳩摩羅什(三四四―四一三)の訳で、仏が十六大国王のために、それぞれの国を護り、安穏にさせるため、この経典を受持することをすすめたものである。それを受持講説すれば、七難(日月・星宿の里(変・災火悪風・早天・悪賦など)をなくして万民が豊楽を得ると伝えられ、『法華経』『金光明経』とともに護国二部経として、わが国では古くから読誦されてきたものである。
この塔は基礎の上に四角柱の塔身を立て、上部に宝珠をいただく屋根をのせたものであるが、降り棟の曲線といい、垂直に近い内斜に切られた軒や、わずかにみせる軒反りなど、江戸中期の代表的な供養塔の名にはじない。正面に刻銘がある。
「奉読謂仁王般若経二千部 享保五庚子年三月吉日」子孫繁昌善男善女のため、名取仁左ヱ門が建てたものである。
白州町台ケ原 荒尾神社百観昔供養塔
安山岩製で高さ一、六四メートルの四角柱で、四方の上部に金剛界の四仏を梵字で示し、その下部に雛健な刻りがみられる。
ウーン (阿閤)   坂東三十三所
タラーク(宝生)   当国三十三所(甲州)
キリク (弥陀)   西国三十三所
アク (不空成就) 一懸一秩父三十四所
いわゆる百観音に加えて、甲斐国札所三十三観音の供養のための造顕である。無銘たがら簡単で要を得た遺品である。





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最終更新日  2020年12月30日 02時27分13秒
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