2295760 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年12月30日
XML
柳沢吉保一代記 文昭日記(一部加筆)
宝永六年六月三日の項
甲府の城主松平美濃守吉保隠居す、子古里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分つ)。
【吉保は柳沢兵部丞信俊の孫】
柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。
【吉保の父。信俊が二男を、刑部左衛門安忠】
信俊が二男を、刑部左衛門安忠と云ふ。元和元年より駿河大納言殿につかへ、
寛永十六年にめし返されて、上総国市葉村にて朱地を賜ひ広敷番となり、
又館林殿につけられて、延宝三年に致仕し、貞享四年に死す。
【柳沢吉保】
吉保初名は弥太郎房忠といふ、後保明に改む。
寛文四年に初めて常憲公に見え奉り、父の後を継て百五十石を領し、三百七十俵を加ふ。
寛文八年に本丸の小納戸となり、
貞享二年の冬叙爵して出羽守に任ず。
是より先に、頻りに加恩ありて、
元禄元年十一月地加へられ、始めて万石の列となる(和泉上総にて万石加へられ、合せて一万二千三十石)。
この比、公盛んに文学を好みて、吉保を以て弟子とし、学問怠らざるを賞して、曾子の像を画きて之を賜ふ。
天和二年の正月元旦、読書始の式を行はれしに、吉保をして、大学三綱領の章を講ぜしめ、永例として年々之を仕ること怠らず。此の時松平忠周、喜多見重政の列に同じく、内外の事承るべしと命ぜらる、御用御取次と云。
天和三年三月二十六日、二万石を増し、
天和三年十二月十五日、年比の勤労を賞して、四品にのぼり、二本道具もたすべき旨を命じ、
四年三月はじめて其の邸に臨む。これよりさき、邸内新たに殿舎を経営す、結構宏一麗、臨駕の日、母妻子及び一族等に至るまで、皆拝謁して物賜ふこと、あげて数へがたし。
吉保も亦数々の宝貨をささげ、山河の珍味をつくして之を饗す。
これより後、しばしば臨邸ありて、凡そ五十余度に及ぶ。
先親から経を講じ又は武芸を試み、家臣等をして経を講じ、義を論ぜしめ、又猿楽を催し、宴楽を開くこと、いつもかはらず。
元禄五年十一月、三万石まして六万三千余石になり、
元禄七年正月には、又一万石を加へて、川越の城主になさる。
元禄七年十一月二十五日、老中に同じく評定所に着座し、侍従に昇る。
元禄十年七月、東叡山に根本中堂営まれしに、惣奉行となり、二万石をくはへ、
元禄十一年七月、其の落成の功によりて、左近衛少将に昇り、中堂長時不断の燈をかかぐ。
これ延暦中比叡山の常燈を、忠仁公勅使として掲げられし例に倣はれし所也。
元禄十一年九月八日、紅葉山拝礼の先立を勤む。これより三山の拝礼に、父子代る代る先立を勤む。
元禄十四年十一月二十六日、臨邸の時、父安忠より以来、忠貞をつくすこと、
凡そ臣たる者の模範たるべしとの旨を以て、松平の称号をゆるされ、諱の字賜はりて、松平美濃守吉保と改む。
子三人も同じく称号をゆるし、長子安暉は諱の字賜はりて、吉里と改む。
元禄十四年十二月二十一日、吉保を少将の輩に列し、官位年順たるべしと命ぜられ、
元禄十五年三月九日、桂昌院尼を一位にすすめられしこと、吉保が申し行ふ所なればとて、又二万石をまし、合せて十一万三千三十石になる。
元禄十六年正月三日謡初の式に、吉保父子に大広間にて盃賜はるべしとぁりしが、吉保切に辞して、子吉里にのみ賜はれり。
元禄十六年十二月二十一日、将軍の儲嗣に定まりしこと、偏に吉保が執り行ふ所にして、何事も整備一事の欠漏なきを賞し、殊に甲斐の国府の城を賜ふ。其の税額は二十万石に余りぬれど、猶十五万千二百八十八石余と称す。
これより後は、甲斐国主と称すべしと命ぜられ、
宝永三年七月二十九日、甲府に於て私に金貨を造ることをゆるされ、九月四日に打物もたすることをゆるし、此の日隠居して保山入道と号し、此の後も時々の恩遇、在職の時に異ならず。歳毎の正月七日には、羽織着して登営し、大奥までもまかりて、御台所を拝すること年々かはらず。
正徳四年十一月二日卒、年五十七。
此の人の一代、殊に恩寵を蒙りて、身の栄燿を極めしことは、徳川氏勲旧、前後諸臣のなき所にして、威福を弄し奢多に耽りしこと、亦世の類ひなき所なり。但し性質伝才ありて、能く迎令に巧みに、陽に忠実を以て君の信を得、希代の寵遇を蒙りしは、偏に便嬖の致す所なり。されど性亦謹慎にして、敢て愚悪を肆ままにするの心あるに非ず、是其の始終君寵を
失はざりし所以なるべし(保山行実に、日々御登城被遊候へ共、暁六半時比、御城詰御小姓衆迄、御手紙にて毎夜の御機嫌御伺被遊候、又常に常憲公の為に、男子誕生あらんことを祈られし由見へ、又蔵人は、権現様の御名故、後々迄も、遠慮可仕旨被遊御意候とあり、是等の事、以て其の小心なることを推知すべし、又鳩巣の手簡に、瑞春院御前へ、保山事被罷在、御仕置之改り候事共、色々被申上候て、近年御徒之内何某、深川にて魚を釣、生類御憐みの御法を侵候に付、流刑に仰付置候、然る所、其2者を被召返、御赦免被成候迄にても無之、此の間上野へ御供も無構相勤候様被仰出候、是は余りなる事に御座候旨、被申上候所、瑞春院様屹度御詞を被改、扱は常憲院様近年の御政道、御尤なる事と被存候や、すきと箇様の事共、其の方など被致候事に候、此の度段々御改め被成候を、却て左様に被存候儀は、相聞不申儀と被仰候所、保山一言も不申、退出に候、云々とあるが如きも亦保山が心のほどを推測るべきものなり)。
其の身文学に志し、又倭歌を好み、己が味草に、かしこくも東山院の勅点を乞ひ奉り、芳ら禅学を嗜みて、みづから著す所の書を、護法常応録抄と題して、院の御製序を賜はり、名山におさめ、又其の比堂上の中に識者と聞えし、正親町一位公通公の妹を迎へて妾となし、「松蔭日記」とて、わが身の栄華を筆記せしめ、駒込の別邸に十二景を設け、これをも院より名を賜はらんことを請ひ奉り、公卿の味歌を集めて清観となす。其の邸中の異樹珍石は、皆諸大名の贈る所にして、仮山泉水、悉く風致を極め、奢一麗を尽したりと云。
世には此の人の栄華を憎む心の甚しきより、くさぐさの訛謗を伝へて、涯褻僣乱のことありなど伝れども、其は皆信ずるに足らざる也。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年12月30日 02時30分48秒
コメント(0) | コメントを書く
[白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X