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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月30日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

江戸時代の甲斐の伝説と民話『日本随筆』より抜粋 

 

 

遊女八千代が噂 羇旅漫録(瀧沢馬琴)

 

 八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。

日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。

その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。

もちひたわず。板倉止むことを得ず。

若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。

しかし後八の宮を配流せらる。

則ち、八千代もともに配所に至らしむ。

こゝをもて八千代が名。吉野より高し。    

 

 

註…直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、

 ふるゆきもこの山里はこゝろせよ  

竹の園生のすゑたわむ世に

  万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。

(橋本肥後守経亮話)  

 

追考…

甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。

八宮甲州にましましけるとき。

 なけばきくばきけは都のなつかしき 

此里すぎよ山ほとゝぎす

これより杜鵑なかずといふ。(実兄羅文の話)程へて八の宮帰洛したまひぬ。

  

秉燭翁像 桂林漫録(桂川中良)

 

 近来、甲州酒折宮の(日本武尊を祭る)本社の傍らに祭る所の秉燭翁の社の扉に刻する像なりとて。流布する図あり。 

秉 深衣の如き服を左巻まきに著。 

(或人、続日本記養老三年の詔を引。上古は左まきなりし證とす。笑う可し。左まきの詔。愚考あり。)幅広の如き物を頭に頂き。渡唐の天神と称する物の形に似たり。甲斐名勝志(甲州、萩原元克著)見に。彼像の説を載せさる故。彼邦より薬石を鬻に来る。阿蔵なる者に質(たた)せしに。果して跡形も無き譌物なり。此像を見んとて。好古の人間尋来る事侍りと語りき。全く奇に誇らんと欲る。好事者の所為と見ゆ。憎む可く冤(うら)む可し彼社。尊の燧袋(ひうちぶくろ)を神体とする由。是は虚説にあらず。阿像帰国の後。其図を送り越す可しと約しぬ。  

 

向火

 

 酒折宮の因みに記す。

日本武尊。駿河国に至り給へる時、

夷等尊を欺きて野中に出し奉り。

枯草に火を着て。焼き失ひ奉らんとす。

時に尊、御姨。倭比売命賜ひたる火打袋より。

(是酒折宮の神体なり)燧を取出し。

御剣を抜て草を薙拂ひ。

火打ちにて火を打。

向火を着て焼退け。還出て夷どもを切滅し給ふ事。云々   

 

六郷の橋 柳亭筆記(柳亭種彦) 

 

(前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々  一、誰やらのはなし  八水随筆 著者未詳 予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。  

 

大磯小磯 金曾木(大田南畝) 

 

相模国の大磯小磯は人みな知る所なり。

甲斐八代郡川内領に大磯小磯村と云うあり。

山田茂右衛門御代官處なり。  

 

秋元但馬守 半日閑話(大田覃)

   

若君様御着袴御規次第 

若君様御名代秋元但馬守(他二名)右紅葉山御宮え参詣

右御太刀目録秋元但馬守二月三日御能組

時服六つ秋元但馬守     

 

甲州古鐘銘 半日閑話(大田覃)  

 

甲斐国牧庄法光寺 奉鑄施鐘一口 建久二年辛亥八月廿七日   

従五位下遠江守源朝臣義定 又云建治元年乙亥十二月八日   

願主比丘尼新阿 當修理大勧進沙彌性光 建武三年丙子三月廿七日  

重修理大勧進僧都清尊 定治五年丙午十二月廿七日   大工道全  

 

天野氏証文 半日閑話(大田覃) 

 

頼朝御自筆御判は、甲州一乱の砌、

同国南部の建中寺和尚に預置候處、

其刻御判計紛失申候。日付際よりたちは抜被レ申候。  

 

身延山七面堂焼失 半日閑話(大田覃)

 

十月十一日の夜、

甲州身延山七面堂炎上、

参籠の者六十人程死すといふ。  

 

惣領御番入書付 半日閑話(大田覃)

 

安永五年十二月十九日町奉行曲淵勝次郎 甲斐守惣領  

 

甲州米 半日閑話(大田覃) 

 

甲州米三斗俵は陣々え渡す兵糧三十人え壹俵宛にて、

其後算用仕能積也。 

古来諸国の米壹俵五斗入、

甲州辺同断之所、

信玄三斗俵に計り入取廻しよしとて改めらる。 

 

角力上覧 半日閑話(大田覃)  

 

寛政六年甲寅四月九日   

甲ケ嶽 甲斐嶽 八ツ峰 雷電 谷風 駒ヶ嶽 

 

 

宝永二年二月常憲院将軍六十賀和歌 

 

松平美濃守吉保 遠碧軒記(黒川道祐)

 

この御賀に松平美濃守吉保御杖をまいらするとて、

 

君にいまさゝぐる杖のふしておもひ

あふぎていのる萬世の春 

此美濃守甲斐国を給り、甲府の城へ初めてまかりまふでけるとき、

 

としを経て君につかふるかひがねや  

雪のふる道ふみ分てみん 

ふる道ふみ分るとよめるも、

 

甲斐の武田餘流なるよしのあればなるべし。 

 

高芙蓉 蒹葭堂雑録(木村孔恭) 

 

煎茶に用ゆる「キビシヤウ」といへる器を、

高芙蓉の検出して大雅堂に語られしが、

殊に歓びて是を同士の徒に知らしめんとて、

其事を上木し弘められしとぞ。

風流の親切といふべし。

右次て丙子冬十月、大雅堂印施と有。

この丙子は宝暦六年にして、大雅山人三十四歳、

高芙蓉は三十五歳の時なり。 

芙蓉は名は孟彪、字は孺皮、芙蓉はその号なり。

甲州高梨の人にして、高氏なり。

父を尤軒といひて、かって徳本氏に従ひて醫を業とす。

芙蓉醫を好まず。弱冠の頃より京師に遊び書画を愛す。

好事の一奇人なり。篆刻の妙絶にいたり、

海内に其名を知らざるものなし。

俗称後に大島逸記といふ。

天明四年四月二十四日東武に没す、

行年六十三歳。 

芙蓉の生年は逆算すると、

没年…天明四年(1784)、

生年…享保六年(1721)の生まれとなる。

 

名醫徳本の奇事 閑憲瑣談後編(佐々木高貞) 

 

名高き甲斐の徳本は、和漢古今に珍らしき恬澹の人なり。

本性は長田氏、知足斎と号し、三河州大浜村の人、

其先祖を知る者なく、不詳所出。

勢利を欽ずして、四方に周遊し、

去就任意いさゝかも諛なし。大

永享禄の頃(1521~1532)は甲斐の州に遊び、

醫道を以て武田信虎の家に為客。

抑々徳本翁の醫術は、即効を専らとし、

其療治いさゝか烈しきに似たり。

然ば病に依って峻剤毒薬機宣不誤、

撃瞑眩不避世諠、

(これは病気の様體によっては、峻しき薬を用ひ、毒を服せ、病を強く攻撃、瞑眩てもかまわず、世の人々が諠しくいっても不避、存分に療治する事なり)

富貴なる輩は、俗諺の如く古方家と忌恐れて信ぜず。

却って山野僕質の民に尊信せられ、殊に貧しきを憐みて、

療養を信切にし、居所の悪敷きを厭わず。

天文年中(1532~1555)には甲州を去りて、

信濃国諏訪郡東掘村に住し、

天正の乱に武田氏亡て後、再び甲州に還り、

自ら草廬を構、號て茅庵といふ。

他に出る時、頸に薬袋を掲て、牛の背に跨り、

彼薬入の表に一服十八銭と書付たり。

富貴を顧みず、貧賤を嫌わず、

偶々権家の招きに応じて、病を治し効ありても、

薬の價を取事十八銭に過ぎず。

盖世の中の醫の勢利に赴き、慾に務むる者を折く。

於此翁の清情なる事、

十方に聽へ、漸々に諸州の領主に召るゝ事すくなからず。

其頃或諸侯何某の君病痾ましましけるが、

其臣下兼て徳本の良醫なる事を知らるれば、

則徳本翁の診治を伝達し奉らる。因って命じて翁を召さる。

徳本翁此時に百十有餘才、

例の如く頸に袋を掛、牛に踞、ゆふゆふと東都に到る。

厳々廣々として尊むべき錦殿に、麁服を不レ耻登り、

一診を許されて後、便峻き劑欲上衆醫其麁忽を論じて不背、

時に徳本翁は少しも憚らず、衆醫に対して其可否も辨ず。 

其君又戦国を経玉ひし勇壮の仁君、

聴明にして疑念ましますれば、

決断速かに翁の良醫なる事を信じ玉ひ、

薬を調進なさしめられ、御服薬数日ならずして、

功を奏し、御全快ましましければ、賞を賜ふ事尤も厚し。

されども徳本翁は、固く辞し奉り之を不受、

帰るに及んで薬の價一服十八銭の定めを以て

政府に乞請瓢然として立去ぬ。

於是翁の聲名天下に高く、

是を慕ふて門人となる者数十人、

其中にしも馬場徳寛、今井徳山の二人、

殊更に醫業を励み、翁の禁方を受たりとぞ。

猶翁の醫療に付て、古今希代の妙説あり。

ことごとく次編に記す。 

徳本傳の再記には、

於竹大日如来の因縁等、希代の話ありて面白し。 

 

つみの御牧 甲斐の古代牧?? 燕居雑誌(日尾荊山) 

 

かげろふの日記、御堂道長の長歌に、  

かひなきことは甲斐の国、

つみの御牧あるゝ駒の

いかでか人は影とめむ、

 

と思ふ者からたらちねの云々、 

坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して、

さて其説に、みつの御牧原本「つみ」とあり、

契本に「つ」を「へ」と直して、和名抄甲斐国巨摩郡逸見郷を引り。

今は則原本の「つみ」を倒せしと見て、

昔より歌に詠馴し、小笠原美豆の御牧の義にとれり。

且は原のまゝを倒して「みつ」とよまるまれば也。

そのうへ六帖の歌、  

小笠原美豆のみ牧に荒る駒

もとればぞ馴るゝ子等が袖はも 

とあり。今は其意をとりて可ならむか。

され共藻鹽草を関するに、

顕昭が説にも、忠岑が十體にも、小笠原は甲斐の国なり。

「みつ御牧は山城国淀の渡り也」。

しかれども證歌には、「小笠原へみのみまき」と侍り。

能因歌枕に「へみの御牧」とは、蛇に似たる色の麻の生ずる故にと。

然るを堀河院百首に、顕仲が春雨の歌に、

「小笠原みつのみまき」と詠みたり。

是僻事歟云々。 

古よりこれらの説あるにより、

契沖は且き本義を正さむ為に、「へみ」に直されたらむなり。

又契本の内一本に、六帖の歌を引けるも「へみ」とあり。

流布の六帖誤多きものなれば、

今の印本をも直して引かれしにや、

されど原本に依て再案ずるに、

沖にしたがへば何れの僻字の、

へに取ても點畫の形最遠し、

「つみ」を打かへせば「みつ」なり。

且本義にあらず共、詠習ひたるままに、

詠むことも、昔より其例なきにしも非るべければ、

此長歌を公の詠れしをり。

何れに付かれたるも、今には計りがたけむ。

今原本を直すの少きにとり、

又は本義には背くとも、

詩の和順なるによりて、

姑く余が思のまゝに直せし、

 

今此二説を挙置きれば、

読人の好む方にしたがひ給ひなむと云れたり。

瑜案ずるに、仲文此「つみ」の僻字の「へ」に取ても、

點畫の形いと遠しとて、

契沖師の定めしをさへに疑ひて、

顕昭が僻心得をし、歌を徴にして打ちかへしたるぞ可咲き。

こは原来「へみのみまき」なる事、

和名抄にいへる如く、疑ふべきことに非ず。

又「つ」と「へ」まがふべきも、

いちじるしき僻字あるをば知らでや有けむ。

こはまさしく倍の草體により誤て□と成りたる者也。

萬葉にしきたへを敷多倍、

とこしへを常之倍などの類あぐるに暇なし。

此僻字だに知らずして、契沖を疑ひしは、いと鳴呼ならずや。 

 

赤染衛門の古墳 甲州韮崎 宮川舎漫筆(宮川政運) 

 

爰に奥田某といえる者、

天明年中(1781~1789)甲州に勤ごとありし折、

甲州韮崎、さて寺の名も忘れたり。

右脇堂の所に苔むしたる古墳あり。

其頃中門建立の節、

右の古墳を取拂わんとせし前夜、

住僧の夢に、夫人来り、

此塚を取こぼつ事を歎き、

一ひらの短冊を置と夢見しが、

目覚めて見れば、

古きたんざき枕のもとに残れり。

取り上げて見れば、  

なき跡のしるしとなれば其儘に  

とはれずとても有てしもかな 

 

右ゆへ古墳は其儘にて中門をば塚の脇の方に寄せて建しといふ。

右の短冊奥田方へ持参りしかば、

奥田より古筆に出さし處、赤染衛門の筆よし。

珍しき事共なり。

この一條は奥田の一家のもの、予がむつみし長崎氏の物語なり。 

 

甲斐国都留郡の縫之丞のこと 閑田次集(伴 蒿蹊) 

 

享和二年(1802)十二月の末つかた、

甲斐国都留郡小明見村の民縫之丞なるもの、

其隣人の黄疸に悩みけるを、両親ふかく悲しみ、

又代るべき兄弟もなければ、

いかにもして病を癒しめんとおもふに、

蜆は此病の良薬ときけば、

もとめて給はれとたのまれて、

三十里を経て、駿河の原よし原まで来るしに、

年の終りなれば、さしもの街道も往来まれなるに、

さるべき武士共二三人計具したるが、遙先に見えたれば、

追付んと急ぎ、尿しながら行けるを、

彼士見咎て、いかなる者ぞととふ、

農民なりしとこたへしに、

いか農民ならば大路に尿すべからず、

畑ならば麦を養ふべし。

道の傍ならば草肥えて秣によからん、

大路にて穢を人に及ぼすべしやといはれて恥入、

唯大人に追付まゐらんといしぎての仕業なりと侘ぬ。

さて背に負けたる薦包は何ぞととふに、

しかじかのよしを答へて、此比海荒て、

やうやう此ほとりまで一升を得て負たるなりといへば、

さる病に一升ばかりにては足じ、

江戸に行て求むべし。

いざつれ行んといへれば、故郷よりここ迄遙なり。

また是より江戸まで、四十里をへてはいかゞはせん、

年せまりて帰ることを急よしいふ。

さらばわれ江戸に帰らば、速におうるべしと、

其郷里荘官の名まで委しくとひきく、

こはいかなる御方ぞととへば、

それはいふに及ばずとて、沼津駅にて別ぬ。 

其年は暮てあくる正月、

病者は病おもりて十日に終りぬれば、

野辺に送り、翌日僧に請じ齋行ひける折から、

所の長のもとへ薦に包たるもの、江戸芝よりと計記して、

甲斐国都留郡小明見村庄屋仁兵衛といふ札をさし、

谷村といふ所の官所より送り、

其便は谷村より小明見までの賃をとりて帰りぬ。 

開きて見れば蜆なり一首の歌有り、   

 

見もしらぬ山のおくへも心だに   

とどかば病癒ぬべらなり 

 

仁兵衛其故をしらず、親に付て縫之丞を呼て、そのよしを聞きゝ感に堪ず。

彼齋の所へ持行、士の志を牌前へ供しぬ。

夫より皆志をたうとがりて、江戸芝といふたよりに、

尋けれどもそれぬば、せんかたなきに、

あるもの此士歌を添られしかば、

何にても歌を勧進して、芝明神の社に捧げ、

せめて其志しに報ぜんとはかりけるとぞ。

同国の一老僧、此ごろ語りき。 

 






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最終更新日  2020年12月30日 09時52分56秒
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