カテゴリ:山梨の歴史資料室
永懐渠之碑 (韮崎市穂坂小学校在) 原碑文 永懐渠之碑(穂坂渠) 従四位侍従前甲斐國主乾徳公永懐渠之碑 従三位伯爵柳澤保申撰並篆 吾五世祖乾徳公嘗襲封治甲州甲州民世々蓋飲其徳 云而州有四郡其一曰巨摩巨摩之邨其三為三之蔵為 宮窪為三澤其地故險而僻故無井民二百家以故晨取 汲於一理外時或幸雨潦其業則陸種樵採昏作勞耳以 故民時々虞立橋矣於是三邨父老相謀損私帑引他水 以 腹而瘠邑貧氓憂其不足也因數請公公遣人履 之信公怜之乃賜其資以厭其意而後役始擧矣實享保 戊戌春三月也蓋水工山口政俊等啣命往董焉是月起 功迄秋九月凡一百八十餘日而告竣於是公又令太夫 里恭巡渠所則源流相接不窮也旄倪農□環集渠下欽 戴公之徳不已或有垂泣者云凡渠自小□口疏導委蛇 至于三澤其長四里而近時々山迎當衝輙貫其腹也凡 穿十所風越最 民気力不屈焉進三百六十餘歩始達 凡長短鑿山四百歩而奇渠遂成大□不舎晝夜其民奮 皆服役焉自是厥後勿論不虞遠汲即獲灌漑利而三邨 果然凡収穫二千三百三十餘石而奮額不與焉凡所賜 五百八十七金所貸八十収期三十年不息凡父老二百 四十四金通而計之近乎千金矣公又以四段五畝宅分 父老十五人以賞其勞也既三邨民建石風越記大略 而不著名姓意者政俊輩所為也初公田成不立額祇視 登耗取寡焉蓋十年所公移封後可想也柳子曰吁勤矣 哉三邨民戮力同心如臨戦死而後已是以能遂其功也 當是時非若借火力設機関及諸器用如今日精且巧也 余恐世間此事便以今輕視之故詳焉即父老介恵林主 笛川師而請曰小人飲先公徳垂二百年是寧能忘於鄙 懐或且夫坎徳長而深也注萬世無窮獨恐子孫孫莫知 易世即忽之則曰振古如茲天之所恵我我何原其始焉 今而不紀 其 罪在小人伏願吾公幸恵一言也碑以示 永々余曰厚哉按家乗適與父老言符但渠故因荘名今 付度民情更曰永懐渠銘曰 甲陽之郡 巨摩之邨 三蔵宮窪 三澤無涓 旱 病渇 父子兄弟 晨夕擔将 汲於十里 梨栗雑蔬 僅易栗米 先公眷顧 世々飽徳 飽徳伊何 千頃此得 混々源泉 厭々秀穎 豈 潤物 陳因維永 後生滔々 唯水是視 父老永懐 鴻業斯揣 余躰先徳 深嘉茲擧 乃裁蕪詞 遑恤陳腐 父老稽首 吾公萬年 堅 維鐫 用建阡陌 天壌弔幣 永載深仁 明治廿三年五月建 正五位子爵柳澤徳忠書 訓読 永懐渠の碑(穂坂渠) 従四位侍従前甲斐国主乾徳公永懐渠の碑 従三位伯爵柳澤保申撰し並びに篆す 吾が五世の祖乾徳公、嘗て封を襲ぎて甲州を治む。甲州の民、世々蓋し其徳を飲むと云う。而して州に四郡あり、其一を巨摩と曰う。巨摩の村其三、三之蔵なり、宮窪なり、三沢なり。其地もと険にして僻なり。故に井戸無し。民二百家、故を以て早朝に汲を十里の外に取る。時に或は幸いに雨潦すれば、其業は則ち陸種し樵採し、昏に作労するのみ。故を以て民、時々槁の立つを虞る。是に於て三村の父老相謀り、私帑を揖てて他水を引き、以て 腹を う。而かも瘠邑貧氓其足らざるを憂うるなり。因りてしばしば敷公に請う、公、人を遣し、之を履ましむるに、信なり。公、之を怜れみ、乃ち其資を賜うて、以て其意を厭かしめ、而かる後、役、始めて挙ぐ。實に享保戊戌の春三月なり。蓋し水工山口政俊等、命を啣みて、往きてこれを董す。是月功を起こし、秋九月に迄る凡百八十余日にして竣を告ぐ。是に於て公また大夫里恭をして渠所を巡らしむ。則ち源流相接ぎて窮らざるなり。旄倪農 、渠下に環集し、公の徳を欽戴して已まず、或は泣を垂るる者有りと云う。凡そ渠は小 口より疏導し、委蛇として三沢に至る 其の長さ四里に近く、時々山に迎い衝に當たれば輙ち其腹を貫くなり。凡て十所を穿つに風越最もむも、民の気力これに屈せず 、進こと三百六十余歩にして始めて達く。凡そ長短山を鑿つこと四百歩に奇り、渠遂に成る 大□晝夜を舎 かず、其民奮って皆これが役に服す。是より厥後)遠く汲むの虞あらざるは、論勿く、即ち灌漑の利を獲たること、三村果たして然り。凡べて収穫二千三百三十余石、而かも旧額はこれに與ずからず。凡べて賜う所五百八十七金、貸す所八十、収期三十年、息せず。父老二百四十余金、通じて之を計れば千金に近し。公又四段五畝を以て父老十五人に分ち賜う。以て其労を賞するなり。既に三村の民石を風越に建てて大略を記す、而かも不名姓を著わさず、意うに政俊の輩の為所ならん。初公、田成に額を立てず、祇だ登耗を視てこれが寡きを取る。蓋し十年所なり。公移封の後、想う可きなり。柳子曰く、ああ勤むるかな、三村の民や、力を戮せ心を同じくすること、戦いに臨み。死して後已むが如し、是を以て能く其功を遂ぐるなり、と。是時に当たり火力を借り、機関を設け、及び諸々の器用、今日の如く精しく且つ巧なるが若きに非ざるなり。余は恐る、世の此事を聞くや、便ち今を以て之を軽視せん事を、故にこれを詳かにす。即ち父老恵林主笛川師に介して請て曰く、小人先公の徳を飲むこと二百年に垂んとす、是寧んぞ能く於鄙に忘れんや。且つ夫れ、坎徳の長くして深きや、万世に注いで窮ること無し。獨り恐るるは子孫の知るもの莫く、世を易えば即ち曰わん、振古茲の如し、天の我を恵む所、我何ぞ其始めを原ねん、と。今にして紀さざれば、其罪は小人に在り。伏して願わくば吾公、幸いに一言を恵まれんことを、碑にして永々に示さん、と。余曰く、厚い哉と。家乗を按ずるに、適父老の言と符す。但だ、渠、故荘名に因る、今、民情を忖度し、更めて永懐渠と曰う。銘に曰く、 甲陽の郡巨摩の村三の蔵宮の窪三澤涓無し旱には渇を病う父子兄弟晨夕に擔い将り十里に汲む 梨栗雑蔬僅に栗米に易う先公眷顧し世々徳に飽徳に飽くは伊れ何ぞ、千頃此に得たり混々たる源泉 厭々たる秀穎豈にに物を潤おすのみならんや陳因維れ永し後生滔々唯だ水を是れ視る父老永く懐い鴻業斯に揣る余先徳を躰し深く茲の擧を嘉みす乃ち蕪詞を裁る 陳腐を恤うるに遑あらんや父老稽首 吾が公の萬年ならんことを堅維れ鐫り用て阡陌に建つ 天壌とともに幣れず永く深仁を載せん 明治廿三年五月建つ 正五位子爵柳澤徳忠書す 《筆註》 永懐渠=穂坂渠(現、明野村) 侍従=中務省に属し、天皇に近侍する官人。 乾徳公=第二代甲府藩主柳沢吉里。 柳沢保申=弘化三年(1846)~明治二十六年(1893)大和郡山藩主。柳沢吉保の七世の裔。年四十八歳。 晨取汲於一理外=自村に飲用水がないので早朝に起きて遠方の塩川へ水汲みに行かねばならない。 槁立つ=作物が枯れること。 私帑を揖=私財をなげ出す。 腹を=苦しむ人々を救う。大夫里恭=柳沢里恭( さととも)。柳里恭( りきょう) 旄倪農=老人と子供、農業を営む婦人。 委蛇=道路や水路がくねくねと曲がっている。 田成=田にかける租税。坎徳=水の恩恵。旱= 日照り。梨栗雑蔬=種々の野菜。 陳因=穀物などが古くなって積み重なるさま。 陳腐を恤うるに遑あらず =自作の文が古くさく、ありふれていることなどを心配する余裕などはない。 柳沢徳忠=越後国三日市藩主。藩祖時睦)は柳沢吉保の五男、徳忠は三日市藩第八代藩主。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年12月30日 10時26分46秒
コメント(0) | コメントを書く
[山梨の歴史資料室] カテゴリの最新記事
|
|