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2020年12月31日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

郷土(山梨)の山岳会とその人びと 

 野野垣邦富氏 小林高幸氏 百瀬舜太郎氏

 

百瀬舜太郎『現在登山全集』「北岳 甲斐駒 赤石」

昭和36年 創元新社刊

一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

  このあいだ、地元山梨の岳人は、明治末期より石塚末吉氏をはじめとした山梨師範学校(現山梨大学学芸部)関係者を中心として、しばしば白根縦走をこころみ、大正二年日本山岳会の指導下に山梨山岳会を設立し、また山梨山谷跋渉会をもっていたが、大正二一年朝香宮殿下を自根縦走にむかえ、同一三年全県下を統一した甲斐山岳会を結成して会長岩尾金造氏、副会長石塚末吉氏、幹事野野垣邦富、平賀文男、大沢伊三郎(当時照貞)氏たちの活動がみられた

 これは岩尾会長の財政上の支援と幹事諸氏の若若々しい情熱におうところが多大であった。

 しかし岩尾財閥の崩壊、岩尾会長の渡支、それに加えて同会の其の中心であった野野垣氏の病いと不運がつづき、また会員の多数はアルピニズムに対して無理解で、甲府中学(現甲府一高)OBの抱石会、甲府商業OBの甫嶺会、韮崎の白峰会と分派し、昭和一六年山梨県山岳連盟が結成されるまで形の上では存在した。

 当時石塚氏は日川中学(現日川高校)の校長で山梨県地質図の研究に専念されていたが、甲府中学は江口俊博氏、甲府商業は小沢義正氏と、はからずも県三名門校の校長が登山家であったことは多くの若い岳人を輩出した。

 

野野垣邦富氏

 私はここで追慕の念深い甲斐山岳会の野野垣邦富氏と甫嶺会の創始者の一人であり、終始かわらざるサーダーであった小林高幸氏の想い出をつづり、その県岳界に影響したところにもふれてみたい。

 野野垣氏の職業は写真師であった。しかし芸術とキリスト教とスポーツとを理解した写真作家であったにとどまらず、南アルブスの果敢なる登山家であり、かつ内面的に深い心情から発した奉仕の念をもって甲斐山岳会の事務所を引きうけて広汎な会務を処理してくださった。

 甲府中学山岳部出身の氏は南アや八ガ岳に山行を積んだのはもちろんで、大正一一年ころには妙高山麓でスキーを練習され、とくにショートスキーを研究して同十三年五月赤石岳に登り、一四年には在京の独噢山岳会員ハインツ・ルベルト氏と御岳昇仙峡の岩壁に岩登りをも試みている。

 かつて欧州に渡って大いに勉学せんと志し、その費用の一端にもと山の写真集の出版を計画されたことがあったが、その後援者四十数氏は現在いずれも山梨県の政治、経済、文化の第一線に活躍中の人びとで、氏の交友の広さと深さを知ることができる。元甲府スキークラブ会長の小宮山清三氏の言葉に「僕たちの仲間のうちで本当に山に恋をすることのできる男は、野野垣邦富君であろう。あの男には身も魂もうち込んで恋する程の純真さが体中にあふれている。彼はわりびきなしに山にあこがれ、山に身を亡ぼすかもしれぬ。彼の山に対する情熱は到底僕たちの想像以上だ」と。

一点のテラ気なき登山家、たえず芸風の向上を心がけた写真家、氏は当時のわかい文化を理解する人たちにかこまれていた。昭和二〇年六月二目、四八歳で逝去されたが古い日本山岳会員であった氏のオーソドックスな行為は甲斐山岳会誌「山」一、二、三号に記されており、山梨県人の伝統としてもちつづけたいものである。

 

小林高幸氏

 小林高幸氏もまた甲府中学在学中から登山に興趣をおぼえ、郷村櫛形町桃園に嗜山会を組織し、早稲田の学舎に入るや山岳部に入部して兄の熱愛した南アルプスにかがやく記録を残されている。

 かえりみれば、昭和四年私は甲府商業の同級生延幸君の令兄として、鈴木喜太郎君と鳳凰より白根、赤石へと二回にわたり週余の山行にリーダーをお願いしてから、私たちのよき指導者として穂高や剣でみがかれた技術で実践指導にあたられ、マンメリ-の登山態度を推奨して県岳界をこの方面に向上発展せしめんと抱石会に加わらず、先輩として仰げる岳人は大沢、平賀、野野垣氏のみと、小沢校長を会長とし、甲商出身で明大OBの大沢氏を中心とした南嶺会に入会した。しかも実に登山者たるべき登山者の集いを自負した南嶺会は教育家から登山者を開放して大沢氏が会長となり、慶大在学中カナダ・セルカーク山群に山行をこころみた三井松男氏、早大山岳部のリーダーとして積雪期の穂高滝谷に活躍した今井友之助氏などの甲中出身者もまた甫嶺イズムのもとに集まり、すでに入会しておった早川安治、亡き長田賢、今沢茂君なども活動期に入らんとするとき、小林兄は冬山合宿の無理がもとで昭和八年八月、齢二九歳で永眠されてしまった。しかし兄のその実践と思考とは「甫嶺」第三輯に追悼として記録せられ、南アルプス櫛形山麓、郷土の山やまを一望するところに「愛山高行居士」の墓標とともに残されている。

 いまその過程のなかで山の友人として親しんだ名案内人、駒城の水石春吉、菅原の佐藤倉吉、高木菫博、末木登久や芦安の名取治太郎と名取久平、戸台の竹沢長衛も亡くなってしまったが、まだまだ大沢氏は南嶺会顧問、平賀は白峰会顧問、三井氏は日本山岳会の山梨支部長、今井氏は甲府一高OBの鶴城山岳会の顧問として健在であり、甫嶺会も山梨県山岳連盟運営の一端を荷っている。

 

筆者はあまりにも個人的な感懐にふけりすぎたかもしれない。いまや原生林にロマンと旅愁をも夢みた南アルプスは国立公園の対象にまでなっている。後進もまた、これらの先駆者の努力にこたえるためにも、この山やまが真に国民全体の福祉に寄与するよう留意し続けなければならないであろう。

 

百瀬舜太郎(ももせ・しゆんたろう)

 南嶺会の創立メソ.ハーとして南アルブス、八ガ岳に多 くの足跡をのこし、現在山梨県山岳連盟会長、山梨大 学山岳会顧問、日本山岳会員であり、甲府前に百瀬貴石株式会社を経営している。本稿は「岳人51」に執筆したものの再記である。






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最終更新日  2020年12月31日 20時08分17秒
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