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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月31日
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カテゴリ:甲斐駒ケ岳資料室

大武川鳥瞰(蘇り来る河)古屋五郎氏著(元白州町長)

 

『中央線』第8号(1972)

一部加筆 山梨 山口素堂資料室

 

私が南方の長い戦陣から復員したのは、昭和二十一年であった。その年は極度の栄養失調と、敗戦の虚脱状態の中に空しく暮れた。年が明けて体調も少し整ったので、先ず外地に在って日本を憤った人々と語って会をつくった。会は誰とはなしに外地会と謂うことに一致した。続いて山を復活したいと考えて、細やかな会員ながら菅原山岳会をつくった。それには折柄疎開中の、日本山岳会副会長であった春日俊吉氏の力が大きく作用した。山によって敗戦で打ちのめされた青年達に、勇気を持って貰おうと言うのが狙いであった。

 青年達の他に、戦前ガイド等によって山に生活した人々が挙って参加してくれたのは大きい力であった。

 事業は荒れ果てたルートの復活と潰滅した避難小屋の建設から始められた。黒戸尾根、尾白渓谷、鞍掛沢、鋸、駒鳳凰縦走コース、仙丈の馬鹿尾根から左俣へと、年を追って順次手が伸び、遂には白根三山に迄及んだ。あの食糧事情の中に在って、皆よくついて来てくれたものと思う。

 前置きが長くなったが、昭和二十五年の夏、赤薙沢から尾無尾根を経て北岳への最短コースを拓いた時の事であった。荒れ果てた赤薙沢の右岸を巻き左岸を辿ってビバークを重ね乍ら焦燥の中に前進を続けた。山は戦中の長い休止の中に在って、末木登久、高木薫博等かって南の名ガイド達が揃って居乍ら、しばしば踏み迷って一進一退を続けた。漸くメドの大滝を過ぎる頃から、河原は夥しい砂礫の押し流された跡を辿る様になり、その厚さは三米余にも及んで何処迄も上流に続いていた。押出しの主役は高嶺から落ち込んだミヨシ沢や白凰峠北面の沢、尾無尾根左手の沢等であった。

 爾后年々甲斐駒に登る度に、三宝頭から眺める大武川の流れが異常に変化しつゝあるのに気がついた。

 私はその事を武川村の人達にも話し、又しばしば当時武川村長であった一木清兵衛君に、「君、大武川は昔の古里に帰りたがって居る様だ。牧之原の新開地に商店が一軒多くふえる事を繁栄と思ったら間違いの様な気がする。あそこをまともに狙っている。最近山が大変動いている感じだし、是非一度一緒に山に行って見よう」と誘ったが、山に興味を持たない一木君としては無理もない事ながら全然取合われなかった。

 昭和三十四年の梅雨はダラダラと八月に続き十三日の朝は台風の予報の通りに、一頻りの激しい降雨の為地面は煙って、上の家の方から樽やバケツ等が庭先に流れて来る始末であった。暫くして何処からともなくゴーッと謂うB29が百機も一時に襲来したかと思う様な響が伝って来た。所謂七号台風による山津波である。此の時は名も無い沢々迄が夥しい土砂を押出して国道は寸断され、耕地の埋没、家屋の流失、死傷者など激甚の災害を蒙ったが大武川は特にひどかった。

下流の部落は全滅し、牧之原の新開地は私が山で眺めた規定の通りに直撃を受けて、一瞬にして流木や大石の累々たる河原と化した。

 激流は鉄橋やコンクリートの所謂永久橋を「そこに在ったか」とも言はぬげに悉く持ち去って私の町も五地域に分断され各々孤立した。その時、尾白川が耕地を削って断崖をつくった場所があった。そこには厚さ二米程宛の間隔を為して昔の耕地が三層埋まっていた。

 山が百年前の状態になれば川は必然的に百年前の処へ里帰りするに違いない。南アルプスの様な風化の激しい花崗岩の山は何年か一定の周期を持ってこの繰返しを行っているのではないだろうか。七号台風は偶々その引金になったものゝどうもその年期が来ていた様に思えた。その時の流木の年輪が大体百二、三十年であった処から推して、その周期は百五十年位との自説を立て、折柄視察に来られた東大の那須皎一先生に堤防無用論と共にブッたら、大筋でそうだと御褒めを頂いた。金を、かけて割石を一つ宛並べた堤防を築くよりも人間に躾がある様に、常に河自身整理をしてやればその方が安上りだとの珍説も、随行の河川専門家がそれは学説としてもあるとの事であった。

 大武川の大堰堤は憧か昭和三十六年に完成した筈だがよく留何十万立方とかで少なくとも二、三十年は有効だと言われた富所(ふところ)も昭和四十年には一杯になってしまった。当時大武川林道の入り口に腰を降ろした大石を割ったら堤防の見地石が三万五千個とれた。これを並べた堤防の蔭にかくれて安心していて良いものだろうか。勿論砂防も治山も順次奥地に伸びてはいる。然し山に立って自然の輪廻を憶う時、人間と謂うものゝ何と心細いものである事か。山は人間の生意気な営みをいじらしく眺めている事であろう。川は言って居るかも知れない

 

「俺はお前達に年期で小作に貸して置くのだ」と。






「南十字星の下に」故 古屋五郎氏著

まえがき

◇本書は、昭和二十七年七月未から、翌二十八年一月まで、約半歳にわたり、当時私の経営発行していた山梨毎日新聞に連載、異常の反響を呼んだ“南九陸軍病院事件の真相"である。驚くべきこの事件は、著者が発表を強く拒んできたため、その真相は、極く少数の人だけしか知らなかったのであるが、その頃、炎暑の中を県境菅原村(現白州町)に日参して〃大義をつらぬけ〃と説く私の執念と、経営難渋の山毎に対する著者の、深い友情から、事件発生後十年にして、やっと新聞発表となったものである。

 

著者の〃序に代えて〃にあるように、この〃悲涙の手記〃は、すでに銃殺刑を覚悟していた著者が、臨時軍法会議に臨むに先立ち、事件の顛未を克明に書き綴り、これをカポツク綿の枕に縫いこみ、内地後送の看護婦野沢久子に托し、当時東京都中野区江古田に住む姉、下茂よね子宛密送したものだが、下茂夫妻は間もなく甲府市百石町に疎開したため、二十年七月六日の空襲で、一切の荷物と共に灰燐に帰したと信じこまれていた。

著者は、脳裡にやきつけられた記憶と、二通の判決書を頼りに筆を執りはじめたところ、奇しくも空襲をまぬがれた江古田の下茂邸から、この運命の手記と、血で綴られた看護婦野沢久子の手記とが発見されたのである。(註・手記発見の詳細は本書末尾〃悲涙の手記"参照)従って、その記述は極めて正鵠を期し得たが、著者の希望に従い、氏名は一部匿者を用い、住所に伏字を使った。また記録の生々しさを保つため、新聞連載の形のまま採録し、且つ文意を害わないため、手記そのままに制限外漢字も用いた。ともに諒とされたい。

 

新聞発表時から、ざらに十年の歳月が流れた。著者の、上梓辞退の心境は今も変らぬようであるが、混濁の世情〃正気歌〃を求むる今より急なきを説き、ここに上梓の運びに至った。されば一切の責任は私にある。

 

軍という無情にして巨大な組織、統帥権という絶対の権力をほしいままにして、いわゆるやから軍幹部なるものが、いかに理不尽の限りをつくしたか、そうした輩の得手勝手な感情のままに幾多有為の日本人が死んでいったかそれは又、銃後国民の純真素朴な祈りを車靴で躁彌したものであったがそれらは本書の、いま問うところではない。そのような一指だに触れ得ない〃絶対の権力〃に立ち同って、道義一本を貫いた男の〃誠魂〃を写し、日本の地下水が漠々としてつきない実相を伝え、そしてこれによって、虚偽と卑法の充ち満ちた〃畜生道の地球〃に警世の一打が与えられれば、幸いである。

 

◇…昭和十六年六月三十日、身延山久遠寺で開かれた郡協力会議の席上に翼賛会部員として私も居た。欝蒼たる老杉の下を、独り、黙々と歩いてゆく著者の後姿をいまも覚えている。著者出征の後、刻々悪化する戦況の中で、壮年団活動もまた凄壮昧を加へ、観念右翼の一派と対決する場面も織りまぜて、悲壮な毎日を送った。その記録は、正しく本書の半面をなすものと思い〃銃後の祈り〃として一篇にまとめ、ざらに〃姉への手紙〃および〃戦犯釈放運動"の二篇とともに補遺を企てたが、最後に至ってそれは削除した。凡人の修飾が原文の美しさと昧を傷つけることを慎まれたからである。

 

〃南十字星の下に〃を連載した山毎は昭和三十一年労資不調の故に休刊となった。私は其の責任者として、顧みて、繊悦に誰えないのであるが、著者がこれに寄せられたあつき友情を今も忘れることはできない。あれほど悩み、発表を拒み続けた著者が、新聞連載に踏み切ったのは、白分の立場を殺して友人を援けようとした配慮のあったことを、私はよく知っている。本書編集にあたり、私は県立図書館に通い、十年前の山毎綴り込みをひろげ、原稿紙に写し乍らいく度か号泣した。それは容易ならぬ南九事件から受けた感動によるものだけ、同時にまたこの色あせた新聞綴り込みに、にじんでいる事のにおいに泣けたのである。不幸山毎は発行の歩みを止めたけれど、ざきに刊行した名取忠彦氏「」敗戦以後」と、中沢春雨氏著「人生横丁」とともに、三つの名著をのこし、復刊十年の足跡を飾った。謹んで師友の恩誼を謝するとともに、多数山毎関係者に報告する。

 

本書上梓にあたり御力添を頂いた安岡正篤、後藤文夫、名取忠彦、天野久、石井集貞諸先生に謹んで感謝の意を捧ぐるとともに、献身協力を賜った心友大村栄一、佐藤森三両兄に深甚の敬意を表する次第である。昭和三十九年七月山田扇三(氏)

 

本書に寄せて  名取忠彦

 

昭和十五年の秋・大政翼賛会の県支部が発足した時、支部長代行機関として常務委員会(十人一が置かれ・古屋五郎君はその一員であった。私も委員の一人であったので初めて同君と相識ることとなったが、当時無名の一青年が一躍新衛運動の先頭に立ったというので古屋君は全県下の注目浴びた。しかし御当人は晴れがましい場面を好まぬらしく、いつも慎み深く会議に列していた。ただそのがっちりした身体からは、いざとなればテコで動かぬ強靭さが感じ取れた。若いのに物静かな人で余計な口をきかない。相対していると何か大きな木の根っこと取組んでいるようで、その頃流行の新体制理論など此の人の前では歯が立たないといった感じであった。黙々郷土の魂となり桓国の人柱となることが古屋君の所属した壮年団の精神であり、同君はそのままの心で翼賛会の人となったのである。

やがて私と古屋君は翼賛会の部長として相たずさえて県下の運動をすすめることとなったが私はひそかにこの古屋君などを骨組みとした県下の青壮年の組織のことを構想しつつあった。

その頃の或る日、この手記にもあるように身延山での協力会議の席から古屋君は出征したのである。「召されました。行って参ります」と書いた紙片を古屋君は私の前にそっと置く。私も何か書いて渡す。うなずいた古屋君はなにげなく立ってそのまま議場から去って行った。静かなその姿がまざまざと思い出ざれる。極秘裡に大動員をかけていた軍部は沈黙の応召を求めていた。私たちは激情を押えてなにごとも無かったように別れねばならなかったのだ。

県下に翼賛壮年団を組織すべきときが来た。私は県下の同志三十人ほどに組織世話人となることを委嘱したが、その中に古屋五郎君の名前もあった。出征中とはいえ古屋君をのぞいた壮年団は物足りないと考えたからである。

翼壮はかくして組織され戦時中活発に行動したが、私は古屋君が常に口にした郷土の魂、橡の下の力持ちの精神を翼壮の運営の中に取入れることを忘れなかった。黙っていたが古屋君は立派な教えを残して戦地へ行ったのだ。

戦争もいよいよ最終段階に入った頃、古屋君について妙な噂が流れた。何かまずい事があって重営倉にいるというのである。激戦の最中で真相を探るすべもないままに、何となく割切れない、困り切った感じでこの噂を受取るより外はなかった。

まもなく惨たる敗戦、てんやわんやの二、三年が過ぎた。或る日、旭村に住む高田という青年が私の宅へ来て、「軍法会議判決」と書かれた文書を示し、「日本の軍部がこうした文献を残して呉れたのは不思議です。ゆっくりお読み下さい」と一言って去った。

この手記にも出て来る古屋兵長への判決文である。読んで、私はすべてに納得がいった。戦時中、古屋君についてチラと抱いた不安感は一瞬にして消えた。雲があると思ったのは嘘で、空は初めからカラリと晴れていたのだ。大きな感動と共に私はこの驚異の判決文を繰り返し、繰り返し読んだ。そして丁寧に机の引出しに納めたが、その後も時々それを取り出してじっと読みふける。あれから十五年、いく度繰り返して読んでも、その都度新しい感激が湧くのである。

事件の真相は今度の手記発表によって極めて明白となった。正義と真実を貫ぬこうとして生死を超越し、度胸を掘え切った男がどんなことをやるか、どんなに凄まじい事態がおこるか、が淡々として記述されている。この手記で古屋君は、俺はこんな入問だと語っているのではない。かくすれはかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂のようなものがまだ存在していることを身を以って示しただけである。軍は亡びたけれど、日本人はまだ生きていたのである。

或る時、私の息子が、古屋五郎さんに初めてお目にかかるのだけれど、どういう人ですかと問うた。私は、

手が白く且つ大なりき非凡なる 人といはるる男に会ひしに

という啄木の歌を示して、古屋さんとは斯ういう人だよ、と答えたことがある。

この書の序を乞われたとき、私は古屋君という人をどういう表現で紹介すればよいのか思いあぐねて、初対面以来の同君と私との関係を述べて昆た。しかし、この人と、この人のやったことは到底筆舌につくし得るようななまやさしいものではない。私はこの書が魂の底からの慟哭とともに読まれるであろうことを信じて疑わない。








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最終更新日  2020年12月31日 20時38分24秒
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