カテゴリ:山梨の歴史資料室
紙幣と甲州金と貨幣の呼び名
泉昌彦氏著『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』「甲駿の巻」 一部加筆 白州ふるさと文庫
永正十八(一五二一)年六月十九目、信虎の父信縄は伊勢神宮の御師、幸福大夫に
「……初刀一腰金鞘、金納之候」(甲斐国志)とある。
前記の「慶長見聞集」にある道具からはずし金を何両としている点で、黄金造りの分量には両目が使用されたものと考えられる。 献金が、甲州の黄金を練金したものかどうかは、武田氏の一級資料とされている「王代記」(山梨市窪八幡宮の別当が代々書きついだ)には、
「戊午明応七(一四九八)壬十月、元年八月廿日、日夜大雨大風、草本折。 同二十四日辰刻、天地震動シテ国所々損、金山クツレ、加賀美クツレ、中山損」
とあり、これは金山が既にこの頃に存在した事を示すもので、さらに中山とは中富町(山梨県南巨摩郡)旧中山郷の金田(こんだ)千軒と、考えられてくる。
これは前稿で記した「たたら遺蹟」から出土した溶金や、江戸時代から現在まで甲州の各地から出土する板金や溶金などからみても、信繩(信虎の父)よりはるか上代にさかのぼって金山もあり、溶金の技術もあったとみて非難は受けまい。 天文十三(一五四五)年、甲州から京の臨川寺へ黄金を運上したのは前記のとおりで、切り使いの板金である。 天文十四(一五四五)年、武田晴信(信玄)は近江の多賀神社の祈願状に 「……黄金二両奉献……」 とあるが、この黄金、が溶金か板金かは、練金とみても、大過はあるまいと思う。
貨幣研究家が詳しい「古事類苑」では 「古へ黄金畿内トイフハ、ミナ砂金ノ掛目ニシテ、銀ハ東艦(あずまかがみ)ニ南延幾ツナド見エタリ、然ルニスデニ冶金ノ事アレバ其形制ナキコトヲ得ズ。ヒルモ金ノ如キ、マサシク鎌倉ノ時ノモノト見エ」とある。 「昆陽漫録」には 「南方伝ニイワク応永八(一四○一)年二月、義満公、天明ノ帝へ黄金ヲ贈ると、・・・中略…・サテ右京ノ頃ハ我国ヨリ明ヘ贈ラレルホド黄金多クシテ、銅ハスクナキニヤ、義政公(一四三六~九〇)永楽銭ヲ明へ請ハル。善隣国宝記ニ其書ヲ載ス」 とある。 義政の書は分かりにくい漢書である。かいつまむと、
「銅銭は地を掃いたように尽きてしまい、官の倉は空っぽで民を利することができない。使者をもって入朝を求むるのみ、聖恩広大にして願うところは、壱拾万貫を求む」 といった内容で、明の景泰帝(けいたい)に「聖恩広大、謹録奏上」と最大の讃辞を呈しているのは、よほどゼニに困っていたものとみえる。 この義政の頃には、「銅楮並用、交易莫滞」と、楮すなわち紙幣を使ったとある。
甲州においても、天文十五(一五四六)年の「高白斉記」(信玄の側近として重用せられた人物の手による勝山記と並ぶ一級資料)にも、戸石合戦後の
「十一月に遊鱗が上意をうけて使者となり」のあとに、「石森カレコレ四十貫文納カヘ、大鼓、礼鼓ナド其の他、御措置候ヨシ仰出ベクナリ 云々」 とある。 前記の多胡浦浜の砂金は、富士川の上流の下部、早川の両黄金山や阿倍川上流から、砂金が浜にまで流れ出たもので、いまの田子の浦をさすのだろう。海に流れこんだ砂金は、シケには打ちよせる大波によって砂浜に打ち上げられて、金山の発見にもつながっている。
隣国駿河をしのぐ庶金地であった甲州において、砂金を吹きまるめる錬金の技術が、天平十九(七四七)年の駿河で縁金二分を賞金した頃より、八百年(天文十年まで)も伝わらなかったということは、常識でも考えられないことで、今川対武田戦も金山の取合いにあったと思う。
「甲陽軍艦」の品四十八には、永禄五(一五六二)年の項で 「……その八日目に信玄公、伊豆韮山へとりつめ、あたり在郷放火(群盗行為)の時、韮山白のおさへに山県三郎兵衛あり、城より備えを出してせり合い 云々」と、ここで六百合まで槍を合わせて敵を追い散らした河村伝兵衛に対して信玄は、
「彼伝兵衛が振舞は信玄家にてもあまり多くはあるまじくとて、信玄公のたまふ、 賞功不踰時(しょうこうときをこえず)とありとて、即ち伝兵衛を被召出御盃給わり。御腰物被下て後に当座の褒美として葺石金を信玄公自身両手に御すくひなされ、三拝すくひ、かれ伝兵衛に下さる」 とある。 これによると、碁石会の存在は褒賞用であって、民百姓などのもてる売買通貨でなかったことを示している。 したがって前稿の塩山市村田家の金見(甲金)地蔵の下から十六粒出たり、その哀の家来宅の土塀の壁土の中から出た碁石金などは、当時の高級武士が家宝のように隠していたものであろう。 甲州金については、すでに近世の旧記に載っている坂田家文書ほかを、文献を振り返ってみていきたい。
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最終更新日
2021年01月05日 14時11分23秒
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