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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月05日
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カテゴリ:著名人紹介

北杜夫・出自と背景 北杜夫と父斎藤茂吉

 

  『国文学 解釈と観賞』「北杜夫の文学世界」

   1974・10 至文堂

   藤岡武雄氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

茂吉は、随筆「山房雑文抄」で、

   私の次男に宗吉といふのがゐる。昭和五年にとって四歳になった。

この子は出羽嶽の顔を見るといつも大声を揚げて泣いた。

 

昭和五年一月某目、出羽嶽は突然玄関からはいってきた。するとそれを一目見た男の子は大声に泣叫んで逃げた。畳を一直線に走って次の間の畳を直角に折れて左に曲って、洗面所と便所の隅に身を隠すやうにして泣いてゐる。ある限りの声を張あげるので他人が聞いたらば何事が起ったか知らんとおもふほどである。

 狭い部屋に出羽嶽は持てあますやうに体を置いて、相撲の話も別にせず蜜柑などを食ってゐると、からかみが一寸明いて、「無礼者!」と叫んで逃げて行く音がする。これは童が出羽織に対つて威嚇を蒙ったその復讐と突撃とに来たのである。突然のこの行為に皆が驚いてゐると、童が泣きじゃくりながら又やってきた。唐紙障子を一寸またあけて、「無礼もの! 無礼もの!」と云った。今度は二度いって駈けて行った。この「無礼者!」では皆が大に笑ったが、幼童は出羽織の威嚇にあって残念で溜らず、号泣してゐる間にこの復讐の方法を思いついたものらしい。

 

と、書き記している。ここに登場する次男宗吉は、すなわち北杜夫の本名である。また出羽織は、斎藤家で養育され、当時は相撲取となっていた。四歳の宗吉は巨大な出羽嶽の顔を見るといつも大声をあげて泣いたということである。この出来事を材料に茂吉は随筆に書き、水戸黄門漫遊のポンチ絵を老婢から聞かされ「ブレイモノワシハミトミツクニデアルゾ」という文句を、突如応用したところが面白いとのべる。

 ところで兄斎藤茂太氏は「弟・北杜夫における奇病愛好癖の研究」のなかで

「三っ子のタマシイなんとやら、ヨワイ四十になんなんとするこんにちですら、彼はブレイモノを連発する」

と、証言。北杜夫の口癖となって今日まで生きているということだ。ところがこの「ブレイモノ(無礼者)」とどなる北杜夫の少年時代は、きわめて多くの時間を「押入れ」の中においてすごした。茂吉は冬でも紙蚊帳を吊って、その中で勉強した。いわゆる両者は「とじこもる」ことによって気を鎮めたのである。

 北杜夫は「父の癖など」の中で

私は小学生のころ、自室はなくて、一つの押入れの上、下段を貰っていた。

その下のほうヘミカン箱につめた玩具やら子供本を入れ、

その中へごく小さな卓袱台を置き、押入れの戸を閉め、懐中電燈をつけて、

一人でゴソゴソやっていた。

父も潜むのが好きであった。そこで

『押入にひそむこの子よ父われのわるきところのみ伝はりけらし』

という父の歌は、私のことを言っているのである。

 

と、のべ、親子の同質性が証せられている。

茂吉の体臭は強烈であったと言われるが、その体臭に北杜夫心きわめて似ているそうだ。この親子は「とじこもるにことが性癖で、「孤独」の中に身を置き、反世俗的な方向を目ざしていた。北杜夫は「押入れ」にもぐるだけではない。縁の下にもぐりこんで広口のビンにきのこを栽培し、長トイレ・長ブロは家族にも被害を及ぼしていたという。

 また「幼い頃から、こわい父と思っていた。父は屡々憤怒した。舌打をして、全身を震わすようにして憤怒した。この憤怒に、いつまで経っても私は慣れなかった。誰か他人が怒られているのを、はたで聞いていても怖ろしかった」(「死」)と北杜夫は語っているが、茂吉の憤怒はあまりにも有名である。長男の茂太氏も「外面がよくて、内面がわるい、というのは、私共家族の一致した見解である。私共は不断に、父のかみなりの恐怖にさらされていたが、父は一度他人の前に出ると打って変って応対はいんぎん鄭重を極めた。私は子供心に不思議を覚えた。母には絶えず大きなかみなりが落ちたが、母は抵抗力が極めて旺盛であったからいいとして、一番みじめなのは私であったと思う。日夜ただ恐れおののいていたと云えば、大げさになるが、とにかく、楽な気持で父と付き合えた経験は、少くとも、子供の頃には一目もないといっていい。

弟の宗吉(北杜夫)も、よく、父の雷について書くが、被は私より十年余り後から生れているから、そのかみなりの威力も、大分衰えてきていた筈」(「茂吉の体臭」)であるとのべる。

 茂吉自身、憤怒の様子を「焰のやうに」とか「征伐する」とか記すが、これも一つの性格であって、東京にでて養子となった茂吉の長い忍従生活の結果も加わってのことであろう。

 

 

昭和二十年に北杜夫は、旧制松本高校に入学し、家を離れてはじめて茂吉の歌集『寒雲』をよんで大きい感動をおぼえたという。北杜夫は次のように「父茂吉の思い出」の中でのべている。

 私ははじめて家を離れ、松本へゆくことになった。たまたま父の『寒害』という歌集を親類からもらって、私ははじめて父の歌をよんだ。私は衝撃を受けた。あれほどおっかなく、ときには耐えがたかった父はこのような歌を作る男であったのか。『朝の螢』という自選歌集を手に入れ、むさぼるように詠んだ。

私の生れた土地、青山墓地や狂院のことがよまれていた。ふしぎな感動が私を捕え、遠く離れている父がまったく別種のあこがれを抱くべき存在に思えてきた。

(中略)

父が留守の間、私はひそかに『赤光』『あらたま』というような歌集をとりだし、気にいった歌を手帳に写した。この茂吉という男が私の父でなかったなら、弟子入りをするのになと思った。散歩から戻ってきた父は、またなんだかんだ言って、私を閉口させた。要するに茂吉という男は、遠く離れていて架空の存在の方が私にとっていいようであった。離れていると、父はおののくような尊敬すべき歌人  であった。

こうして、高等学校で短歌を作りけじめ、崇拝する歌人父茂吉に歌稿を送ってその教えを乞うたのである。茂吉は喜んで歌稿を添削し、いくつも赤丸ついてほめてきた。そうしたことが何回か重なるにつれて、こんどは大学受験が大事であるから歌を作ることはまかりならぬという禁止命令が下る。茂吉は自分の息子に短歌や文学の道を選ばせたくなかったのである。堅実な職業である医者になることを期待していたのであった。

彼は昆虫の採集と分類に熱中し、昆虫少年の夢を動物学に求めたことがある。

 こうした北杜夫に対して、茂吉は大石田の疎開先から、手紙を送っている。

  〈昭和二十二年三月十九目〉

〇 三年になったら委員等全部やめなさい。これは父の厳命であるから、そのつもりで他の委員、教授等にも云ひ伝へてくれ。若し父の命令きかなければ学費止める。それほど大切な問題だぞ。大学に入らなければ実生活に関係あるから、いやでも応でも、学費は送れないことになる。そのときぢたばたしてもおつつかないぞ。

 

〈昭和二十二年五月三十日〉

 

 ○ 歌うまい。ほんの暇の時に作るがいい。

○ 入学試験問 題集を買ひ常にその心がけ必要だ。

 

〈昭和二十二年九月二日〉

 

○ 高校の奴らは勉強しないで、出来るフリをしたがるが、あれは下等だよ。そんなことを自慢するよりも堂々と勉強して入学しろ

○ お前の歌おもしろいところある。大学に入ったら、作ってみよ。

 

〈昭和二十二年十月八日〉

 

○ 父は熟慮に熟慮を重ねひとにも訊ね問ひなどして、この手紙書くのであるが、結論をかけば、やはり宗吉は医学者になって貰ひたい。これ迄のやうに一路真実にこの方向に進んで下さい。これは老父のお前にいふお願だ。

 

親子の関係といふものは純粋無雑で決して子を傍観して、取りそまして居るやうなことは無いものだ、その愛も純粋無雑だ。この父の忠告は宗吉が医学者になり、齢四十を越すとき、いかにこの父に感謝するかは想像以上に相違ない。

これに反し若し動物学者にでもなって、教員生活に甘んじてゐたらどうであらうか。父の心配つまり、子に対する愛の心はその心配となって現在あるのである。

 

○ 今般、宮地教授から来書があってお前の成績を報じてくれたが、二十九人中十四番で、数学、物理が悪い。この程度では到底東大の医科には入れない。宗吉は優等の児で小学校も中学も優等生の部類であった。それが大切にも最も大切な高等学校に入って優等でないのはどういふ理由であるか、これはバカになったためである。なまじっか目がさめ、それも真の目ざめでなく、よい気の高校生気質となったためである。このことについては父はくれぐれも注意したが、それに従はなかった。

併しまだ手遅れではない。この手紙谷次第真に目ざめよ昆虫など棄てよ。メスアカムラサキぐらゐでいゝ気になるな。そして、一心不乱に勉強せよ。本来の優等兄の面目を発揮せよ。高校は真の目ざめの場処でもあるぞ、今ごろ昆虫の採集で時間と勢力を使ふといふのは何といみバカであらうか。

○ 宗吉は、よくよく父の言を味へよ。(中略)このことはただの笑談半分で、宗吉にいふのではありません。無限の愛を以ていふのですぞ、

○ つまり、これまでの医科志望を、高校になってから動揺せしめてぐっぐっして、怠けてゐるやうでは、父の悲歎は大きいのだ。

 

〈昭和二十二年十月十六日〉

 

  愛する宗吉よ 速達便貰った 

○ 父を買ひかぶってはならない。父の歌などはたいしたものではない。父の歌など読むな。それから、父が歌を勉強出来たのは、家が医者だったからである。そこで宗吉が名著(?)を生涯に出すつもりならばやはり医者になって、余裕を持ち、準備をととのへて大に述作をやって下さい。(中略)医学者は実に偉いものだ。宗吉は器用だから父は宗吉に外科をさせたいのだが、

○ 只今は、回心にただ勉強して下さい。

 

〈昭和二十三年二月九日〉

 

お前は小学から中学までは数学が得意であつたのだが、松本に行って、怠けて、大いにいけない。(中略)女は恐るべきものだから、女に近よってはいけない。

 

〈昭和二十四年五月十三日〉

 ○ 医学は立派な学問だから決して学科を変更などしてはいけない。医学のやうないはゆるエキサクトウイツセンシャフトやってをれば、ほかは何でも出来る文学やりたければ医学をやってゐて出来る(卒業後一とほり済んで)○女といふものは恐ろしいものだから、我慢して関係つけてはならない。

 

ここには教育パパとしての茂吉の姿かおる。小学校・中学校と成績のよかった次男宗吉を茂吉はもっとも愛していた。その愛はひたすらに医者としての道を進ませることに一生懸命であった。高校生のころから文学書の乱読がはじまり、短歌をつくり、詩を作っていたのである。この子の文学的才能は認めようとしない茂吉は、受験の妨害となるとして作歌を厳禁したりするのである。息子は歌人茂吉に感動し、茂吉の歌集をしきりによみ、作歌するが、歌人である父親は一向に文学に期待しない。どうしても医者となってほしいと懇願したり、嚇したりしながら、強引に医者の勉学に進ませる姿は、茂吉が医者であり、歌人として生きてきた体験からの声であり、茂吉の生き方をも示したものといえよう。文学にとりつかれた北杜夫は、なんとが父に抵抗しようとするが、執拗をきわめる説諭の前に屈してしまうのである。

こうして東北大学の医学部に入学したのであるが、なお父の説得は追っかけてくる。「医学部からの転部をしてはならない」といい、「文学は医学をやったあとで出来る」といい、さらに「女は恐しいものだから、関係づけてはならない」と女を禁ずるのである。「女は恐ろしいもの」ということばは、「婦女子に縁なし」と自分の生涯を嘆く茂吉の実感がこめられているものであろう。

北杜夫は「父茂吉を語る」のなかで「ぼくが詩なんかを書きだしたのをある程度知っていたらしいんです。『文学なんかやらせん』といってどなっていたんですが、最後のころにわたしが仙台へ行ってるとき手紙を受け取リましてね、

『宗吉は詩を書いているそうだけれども、一度父に見せてください』

ということを書いてきたんですね。非常にもう弱くなっていたんじやないかと思うんです。そのときもうおやじが怒らなくなったのは、これでぼくは終わりかなという気がしましたね。」と語っている。大学時代に北杜夫は、小説を書きはじめる。父がなんと言おうとも彼の文学によせる心は動揺していない。表面的には、父の意志通り医学部に入リ、卒業し、インターンをやり、国家試験に合格し、精神科を専攻するのであるが、結果として医学の世界を知ることができたことは、北文学に豊饒さを加えていったともいえるのである。






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最終更新日  2021年01月05日 22時29分49秒
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