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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月07日
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白州ふるさと物語
基本資料 続・土方物語 -白州点描-
上野辰雄氏 『中央線』第19号 1981 一部加筆
『白州町誌』
補資料と編集 白州ふるさと文庫 山口素堂資料室
その他収集資料(資料名は項目ごとに記載)

 上野辰雄氏 『中央線』第19号 1981 一部加筆
白州は正に白砂青松の地である。往昔吉野の皇子征東将軍宗良親王が、信濃に旅する途中
  かりそめの行かいじとはきゝしかど
         いざやしらすのまつ人もなし
と詠のあった白須の松原は、今次大戦中濫伐され、塁国道二十号線沿いにはドライブイン、モーテル等が立ち並び、昔の面影を失ってしまったが、神宮川を渡って西に歩を転じ、山裾迄約三粁に及ぶ松林は結構目を偲ばせて呉れる。
 「甲斐駒」前衛の山々から湧き出る清澄な水は、「流れ川」「神宮川」となって末は釜無川に注ぐ。此の良質な水を醸造家が見落す筈はなく清酒「七賢」洋酒「サントリー」と成り愛飲家の老を喜ばせ若きを楽しませて居る。
大武川 (参考資料 続・土方物語 -白州点描-)
 甲信国境国界橋の上流約三粁釜無川右岸に白州町の否山梨の飛び地大武川区がある。戸数約四十戸、かつては、石灰岩の産出や寒天の製造の盛んな所であったが、今は寒天製造も二三軒に留まって居る。
此の地行政面では白州町であるが学童はすべて対岸の諏訪郡富士見の落合小学校に委託され『信濃毎日』を読み『信毎年鑑』を調べ運動会には「信濃の国」を歌い卒業後も富士見高校其の他諏訪郡の高校に通い大人の大部分も「ほんとう我々は長野県に付いた方が何かと便利だ」と云うのが偽らぬ心境のようだ。 
然し是と同じ条件の地に八ヶ岳東麓南佐久郡南牧村平沢区がある。高根町樫山に続いたいわば信州の飛び地であるが、流石に教育県長野は学童を他県に委托する事なく、眼の前の清里小学校を通り過ぎ、清里駅から南牧小学校に通学させて居るのは対照的である。
天保騒動
天保騒動の際賊徒の一群は山口の関所を破り大武川区酒屋亀屋外五軒を潰した、と記せられて居る所を見ると当時此の村は相当富裕な村であったであろう。 
此の時かねて甲府勤番から救援を依頼されて居た諏訪の高鳥藩、高也藩の藩
兵の追撃に会い、辺見台地を大八田ケ原迄逃げた賊徒の大部分は此所で捕えられ騒動は鎮圧された。
白州の俳人たち
 国界橋の手前番所のあった山口に、
 目に青葉 山ほととぎす 初かつを
の山口素堂の句碑が建てられて居る。素堂は寛永十九年(一六四二)五月五日甲府魚町で産れて居るので山口は素堂生の地では無く、素堂の先祖の住んだ地であろう。 
初狩で産れた山本周五郎の戸籍が大草町若尾に有ったので大草の産と誤り伝えられたと同じである。
 此の句碑何時も気になる事であるが素堂の句は「目には青葉」である。俳句の様な短文学は一字に非常に意義があるので是非「は」の字を一字加えて下さいと佐藤八郎氏は幾度か建立者に申し出たが今もって其の儘です、と嘆いて居られた。素堂と鳳来との関係は極めて浅く、時代的にも其の流れとは云えないが江戸時代鳳来は幾人かの有名な俳人を出して居る。(写真の碑は現在撤去されている)

  
(素堂 実像に最も近い)      (素堂 歳朝書)
 塚原甫秋、幾秋、雲鳳(参考資料 続・土方物語 -白州点描-)
 下教来石に塚原甫秋、幾秋、雲鳳と三代続いた俳句一家がある。
甫秋の生年没年は解らないが「山梨県教育百年史」に依ると文化年間寺小屋を開き「教庵 をしえ」と称し実名を彦平と呼んだ。五十才の祝賀に寄せられた詩は駒井の柏斉源重礼、竜王の青柳南嶺、小笠原の俳人金丸朝平、塚川の輿石豊一、谷戸の森越義敦、義樹父子、甲府の天野蜀山等俳友、寺小屋関係の友人から贈られて居る。
 俳諧の雲水として諸国を行脚し代表作として
  日長中蝶狂い込む関屋かな
  小さいは女の業か雪まろげ
等の句がある。
 幾秋は甫秋の子で彦平教庵を継いだ。晩年は中風で右手がかなわず左手で字を書いたが結構達筆であった。明治十七年(一八八四)七十九才で逝去、明治十五年(一八八二)七十七才の時、山高の神代桜にあやかって句集『大桜集』を出し、実相寺境内に芭蕉の句碑を建てた。『大桜集』は扉に県令藤村紫郎の書、序文は青島貞賢、抜は駒峰中山正俊納める句詩、和歌は甲信一流の人達を網羅している。
雲鳳は幾秋の子、孝心深く明治十三年(一八八〇)明治天皇巡幸の際に召されて、金円を賜って居る。明治三十年(一八九七)七十才で物故、韮崎の凧塚奥野宇石の書いた碑が一時紛失した時、替わるべき物として韮崎の穂坂祖竜、祖光と共に之を建てて居る。
咲きにほう故の山高の大桜
   たちさりがたき花の木のもと   幾秋
親とともに幾世をかけて仰ぎみん
まれのさくらに雪の富士の嶺   雲鳳

参考 〔塚原幾秋〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)

甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代    (写真は平成一六年頃)
文化年間以降、下教来石の甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代によって、この地方の俳諾の道が高揚された。幾秋は文化二年(一八〇五)下教来石一五四番戸に生れた。幾秋の父は通称彦平といい、号を甫秋と称した。幼少のころから風雅の道を志し、俳諸雲水として諸国を行脚し、見聞も広く超然として衆にぬきんでていた人である。幾秋はこのような父の影響もあって、風流の道に詳しく、各地の俳人と交わり、明治六年(一八七三)初代鳳来小学校長として教育にもつくした。  
幾秋は通称の名であり、また俳号でもあって、父の教庵を継いで号ともした。
この時代は県内でも峡北地方は府に俳諸の浸透がおそかった。それでも山口素堂とその弟子の輩出、貞享三年(一六八六)四月、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途次、教来石宿に立ち寄ったことなどから、この地にも俳諧の道が盛んになっていった。(註 この記載は諸書に紹介されているが、確かな資料は持たない)
幾秋の宗匠としての活躍は各地にその事績が残されており、峡北の天地に燦燗たる光彩を放った。当時の宗匠仲間としては、石原嵩山、小野松濃、広島南里、有泉?斉、輿石守郷、山本閑潮、金井志雪、宮沢随斉などがいる。山高の幸燈宮に献吟の額が納められている。「時天保重光単□玄吉辰」とあるのがそれで、辛卯天保二年(一八三二)、幾秋二十六才のときに甫秋(雲鳳)、嵩山等峡北俳人五十六名が名を連ねている。
その後慶応三年(一八六七)七月発行の「甲斐俳家人名録」にも幾秋、雲鳳の名が見える。
幾秋は、「遊びよき家に遊びて夜の月」と詠じ、
雲鳳は俳画の名手で鶴二羽を一筆画きにして、「馬市の場も田とたり青みどり」と作句している。
〔塚原幾秋の事績〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
幾秋の最も顕著なる事績としては、晩年の明治十三年(一八八〇)、山高の実相寺境内神代桜の下に「しばらくは花のうえたる月夜かな」の芭蕉の句碑を建てたことである。(註 芭蕉はここを訪れていない)この記念事業として、翌々年、明治十五年(一八八二)に「大桜集」を発刊した。この句集には三枝雲岱の大桜の絵を、篁石が画いて版にしている。東京、京都、尾張、三河、駿河や近くは蔦木、立沢、乙事、金沢など信州諏訪郡の村々、県内各地から有名俳人が寄稿し、幾秋も「月に明け花に暮るるや草まくら」と詠じている。この句集の諸言に、私は病のため右手は全くかなわず、筆をもつことができないので、孫の甲子磨が代筆し版を録した。費用は子の雲鳳に任せ、此の編はすべて子と孫によって成ると記している。
巻末は駒峰中山正俊が撰文し、雪斎小池真清が書をしたためており、
咲きにほう故の山高の大桜
たちさりがたき花の木のもと   幾秋
親とともに幾世をかけて仰ぎみん
まれのさくらに雪の富士の嶺   雲鳳
と結んでいる。幾秋は、その二年後の明治十六(一八八三)年六月二十二日、七十九歳をもつて逝去している。
〔塚原雲鳳〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
雲鳳は天保元年(一八三一)七月七日に生れ、通称を甫秋といい、祖父の甫秋と混同しやすいところから号を松垣または雲鳳と称していた。
雲鳳は幾秋亡きあと、よく教庵を継承し、明治十三年明治天皇御巡幸の折、父母に孝順の故をもって賞賜された。明治二十八年(一八九五)刊行の「ももよぐさ」には次の句が掲載されている。
あら楽し千町八千町庭のまど
明治三十一年(一八九八)四月二十四日、六十八歳をもつて逝去した。
四秋〔甲子太郎〕
孫の甲子太郎は、元治元年(一八八四)十二月二十八日生れで、四秋と号している。四代の「秋」を継承したという意味であろう。俳諾と和歌をたしなみ、明治三十一年(一八九八)刊行の「百花園」に数歌が掲載されている。
甲斐が嶺の雪の中より立つ雲は
誰か炭がまの煙りたるらむ
〔塚原四秋〕松屋に勤務 白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
四秋は谷村郡役所に勤務していたが、定年退職後は上京し、家族とともに松屋に勤め、北多摩郡三鷹町牟礼に転住し、同所において昭和十六年(一九四一b)十二月七日、七十七歳で逝去した。
日最中蝶狂い込む関屋哉     甫秋
薮梅や寄りもつかれぬ枝配り   幾秋
美濃の羽子近江の屋根へ外れけり 雲鳳
甫秋……ほしゅう(生没年不詳)
子息、幾秋(明治十七年 一八八四歿。年79歳)。
その子息、雲鳳(明治三十年 一八九七歿。年70歳。
その子息、雲鳳(長坂上条穂見諏訪十五所神社の扁額『俳諧相撲発句戦』(嘉永七年/1854)の判者が塚原雲鳳である。















河西素柳(参考資料 続・土方物語 -白州点描-)
 河西素柳は同じく教来石の人、嘉永二年(一八四九)八月僅か三十四才で遠逝した。遠祖は武田浪士として、代々九郎須を称え江戸深川で材木商を営み、江戸の長者番付に載る迄の財をなした。素柳は幼少より和漢の学を修め又活花、茶道、謡曲、等の奥義を究め、殊に俳諧に秀で嵐外を私淑して居た。天保年間刊行の『言笛集』には嵐外傘下の俳人は素より、由誓、鳳朗、梅室、卓池、□(牜包)儀、等全国代表の一流人の句が寄せられ、又諏訪の俳人久保島若人とも親しく若人から十日市場の加藤兎えん□(王馬)送られた書状にも素柳の近況が細々としるされている。
 河西家は明治斯道盛んで『明治天皇巡幸記』は
「六月二十三日、台ケ原宿北原延世方を午前七時に発輦、七時四十五分、教来石河西九郎須にて御少休」
と記されている。
明治二十三年(一八九〇)山梨尋常中学校の第一回の卒業生は只一人、河西璞は白州町(旧鳳来村)の資産家の二男とある。恐らくこの一族であろう。
参考 河西九郎須(初の県会議員)
白州町下教来石出身、江戸で材木屋
文政十二年(一八二九)五月二十六日、鳳来村下教来石に生まれ、明治十六年十月一日没す。
河西家は維新前代々、江戸深川木場町で「天満屋」という材木問屋を経営、江戸城の御用材などを扱っていたが、後、甲州教来石宿に移り、酒造業を営む。
明治六年(一八七三)、巨摩郡第十九区長、九年(一八七六)十一区長となり、十年(一八七七)に最初の県会議員となる。たお、公共事業に力を注ぎ、釜無川流域の治山治水事業をはじめ、「切り通し」という山道を開発して地元住民の交通の便を図り、地方の発展に貢献した。
また、明治十三年(一八八〇)、明治天皇ご来県の際、当家はお小休み所にあてられた。
末孫、河西泰明氏住所東京都中央区晴美一丁目八-六-四〇三

白州歴史上の人物〔河西氏 下教来石〕
 資料 『角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県』
『続峡中家歴鑑』に、北巨摩郡鳳来村下教来石(白州町)の河西斐規がみえ、同家は新羅三郎義光の末盈河西蔵人義行を祖とし、治承四年の頼朝挙兵、義経追討に功をあげ、甲斐河西荘を領したといい、江戸期には宿駅本陣問屋・材木商を営んだとある。
《参考資料》ここにあげた河西素柳は上記の河西氏と同家と思われる。
河西素柳
生、文化十二年(1815)歿、嘉永 二年(1849)年34歳。
 代表句   曙の動き初めや梅の花
嵐外恩師の五十七日に
   夏来ても何をか露の忍ふ草
 本名、河西九郎須。北巨摩郡鳳来村旧教来石(現白州町下教来石)といふ処に、姓を河西と名乗る武田浪士がいた。代々の主人悉く皆実名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、深川に居を移して材木商を営み、江戸の長者番付に載録された。その後商売も傾き、故郷に帰り余生を送った。下教来石村は臺眠と共に活躍した塚原甫秋を生んだ集落である。 
◇『甲斐天保騒動』 天保七年(1836)八月
(略)教来石に押し行、当初に河西六郎兵衛といふもの、江戸深川木場に出店ありて、材木問屋にて数年相続、甲州より往古仕入銀を遣わし置けるゆえに、今もって江戸より小遣い銀おくりくれば、それにて家内はなはだ富家に暮しぶげんの数に入りたる富家なり、江戸にても天満屋六郎兵衛といひ、当国にては教来石村の九郎九郎と謂る。なにゆえ「くろう」ぞと謂る。云々(『甲飄談』)
◇『峡中俳家列傳』
北巨摩郡鳳来村舊教来石と云うに、姓を河西と名乗る武田浪士があった。代の主人悉く皆實名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、江戸の深川に居を移して材木商を営み、牙籌を把って巨万の富を致し、其の時代に於て長者番付に載録せられたが、峡中の人で江戸の長者番付に載せられたのは、抑も此人が矯矢である。されど有為転変の世の中、盛衰常無く、栄枯また測られず、晩境におよんでから、聊か商略を誤ったので、住み馴れし、江戸の住居も物憂くなり、遂に故郷に帰って静かに余生を送ったとの事であるが、此の人の嫡孫九郎須氏、財實余りありて家計豊かなりしがまゝに、幼少の頃より和漢の学を修め、また茶道・活花・謡曲等の風流の余技を学んで、何れも其の奥秘を究め、殊に俳諧に於いては、嵐外の洒落を慕って随遊し、四方の風土を交遊する事頗る盛なりしが、惜い哉、天此の人に歳を假さず、嘉永二年(1849)八月僅に三十四歳を一期として遠逝せられた。遺骸は信州諏訪郡蔦木駅の信福寺へ葬った。
暁の動き初めや梅の花
嵐外恩師の五十七日に
 夏来ても何をか露の忍ふ草
 居るほどの窪たみ持て冬の月
 鶯のうとまるゝ日はなかりけり
 葉の影をすみて日の照る清水哉
 露の玉こほるゝまてに仕遂けり
等の諸吟が世間には傳はる處の咏である。
◇白州町域内の俳人 河西素柳 
下教来石出身で、嵐外の酒落を慕い各地の文士と交遊したが、嘉永二年三十四歳で早世した。
  曙の動き初めや梅の花      素柳
◇河西儀七郎 
(高根町西割「熱那神社」の算額の項)
 ―甲州の和和算家―『文学と歴史』弦間耕一氏著 
昭和60年 文学と歴史の会発行
(抜粋 一部加筆)
算額を奉納するに当って、世話役をした人物はおそらく河西儀七郎だと思われる。
この儀七郎は、甲州道中教来石の本陣で問屋を兼帯した河西家一族の一人である。儀七郎の教来石村は、明治二十年の火災で一村が羅災し豪農の河西家も焼失している。
河西家は焼失前に明治天皇が立寄られた所として、「山梨県聖蹟」の指定を受けたが、羅災後は、長野県小県郡県村大字田中百十六番地に、一時転移した。それに河西家の蔦木(長野県富士見町)にある菩提寺も焼け、古い過去帳はない。そんな経過の中で、白州町役場の戸籍係の人に、除籍簿で儀七郎を調べてもらったが判然としない。
河西家は、大家という屋号で呼ばれ、全盛期は村中の面倒を見たと伝えられる。この河西家を北巨摩郡教育会の『北巨摩郡勢一班』で見ると。
◇『北巨摩郡勢一班』
鳳来村教来石に河西九郎須といふ武田浪士があった。代々の主人通称を九 郎須と唱へたが数代前の九郎須、江戸深川に居り材木商を営み巨万の富を致し、江戸の長者番付に載録せられた。
右にみるように、江戸の長老番付に名前が載る程の富を手にした。その財力を物語るものに、河西家の屋敷神や屋敷墓が旧跡に残っている。私と教来石へ調査に同行した郷土史家の中村良一氏「こんな豪壮な屋敷神は、見たことがない」と驚嘆のことばをもらした。その石宮には、寛政九年(1797)江戸店とか、安永九年(1780)河西氏再建之と記録されている。
屋敷墓地は、およそ広さは三十坪程ある。そこには、立派な墓石が二十数基並んでいる。なんと下男・下女の墓碑もある。河西家一族の俗名には、六郎・宮八・九郎須など、郎の付く名前が多い。儀七郎とある墓石を発見することはできなかったが、六郎の次に儀七郎・富八・九郎と続く感じがした。
儀七郎の学問的背景であるが、河西一族からは、俳人の素柳が出ている。
幼少より和漢の学を修め茶道、活花、謡曲等風流の余技を学んで何れも奥秘を究め、俳諧は外の酒落を慕ふて従遷し四方の文士と交遊した。嘉永二年(一八四九)八月、三十四歳を一期として遠逝した。
曙の動き初めや梅の花 鴬の疎まるゝ日はなかりけり
 葉の影をすみて日の照る清水哉
嵐外恩師の五七日に、
 夏来ても何をか露の忍ぶ草
 居るほどの窪たみ持ちて冬の鳥
等が世に伝わる吟詠である。
右は『北巨摩郡勢一班』に載る俳人、素柳である。
儀七郎は、河西家の家督を相続した素柳の弟に当たる人物であろう。
河西家は『県政総覧』によると「河西私塾 下教来石の人 河西文五郎とか、河西九郎須、文化年中より明治に至るまで、御家流の教授をなした」とある。
幕末から明治期にかけて、峡北きっての豪農でしかも私塾を経営した河西家から、儀七郎のような人物が輩出するのは、不思議ではない。それに街道で本陣を勤め、問屋であったから、算勘は、お手のものであった。お手のものと書いたが、算額は日常的、実用性を離れているので、儀七郎にも和算の師匠がいたであろうが、その点は明らかでない。
信濃は和算の盛んな所であったから、信濃関係を探ったが、儀七郎は出てこなかった。和算の研究に一生を捧げ『信濃の和算』を出版された赤羽千鶴先生にも照会したが、峡北地方、特に教来石村は、信濃と近接しているが、和算の交流はないとの御返事であった。
ただし、諏訪の和算家伊藤定太へ、明治十一年一月巨摩郡豊村斎藤重松が入門していることが判明した。
算額を奉納した人達がだれに、和算を学んだかについては、今後の課題である。
山田玉斉(参考資料 続・土方物語 -白州点描-)
前沢の公民館前旧国道と合する所西側に
   槍持ちの遅れて通る日長かな  玉斉
             書 村上帰雲
の句碑がある。江戸時代五街道の中でも東海道や中山道と異なって甲州街道を通る参勤交代の大名行列は高遠の殿様くらい、従って威儀を正してという事もなく、行列が通ってしばらくして槍持ちがのんびりと通る様を句にしたものであろう。競歩(学校行事)の高校生が先頭は学校に着く頃、一人二人足を引きずる様にして通る姿を見て、私は此の句を思い出し微笑ましくなる。  
玉斉は通称「吾七」と云う。明治十八年(一八八五)孫の悦造に依って編まれた『燻煙集』は村上帰雲、諏訪の俳人岩波其残の序文、駒峰中山正俊の跋、武川筋一帯から小淵沢南信地区の人達の句が寄せられて居る。
 北原台民(参考資料 続・土方物語 -白州点描-)
 北原台民は有名な酒造家「七賢」の北原家の遠祖である。文政十三年(一八三〇)四十一才にて逝去伊兵衛延辰と云う。俳名高き辻嵐外と親交あり嵐外は暇さえあれば北原家を訪ねた。
  目に及ぶだけを桜の曇りかな
 山里や包むものなき冬の月
の句を残して居る。
尚台民の娘と私の村の上野利兵衛と云う素封家と天保騒動の頃婚約関係にあり、暴徒に襲はれた利兵衛が焚出しをして振舞い、台ケ原の北原家は妻の内縁の間柄、酒でも米でも金子でも要求通りに出すから伊兵衛方は襲わないで欲しいと郡内衆に嘆願したと云う記録が残されて居る。

参考 『峡中俳家列傳』(『甲斐史料集成』第十一巻所収 明治三十八年刊)
北巨摩郡菅原村の臺ケ原と云ふ處に北原仁と云ふ酒造家がある。其の七代前の遠祖に通稱伊兵衛、諱は延辰と云ふ人があった。
嵐外(辻氏)に就て俳諧を學び號を臺眠と稱へた。師弟の情が最も濃やかであったから嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊びに行って居た。
夫れで嵐外が常に携へて居た如意を記念の為に此家へ留めて置いたが、其れが臺眠手より他の手へ、他の手よりまた他の手へ幾變轉した末に、當時峡中詩壇の飛将軍たる狩穂の舎主人小澤眼石翁に傳はったのである。
文政十三年(1830・天保元年十二月十日改元)不惑を超ふる事僅に一歳(41才)にして逝かれた。龍福寺畔荘嚴なる碑石が此の人の永眠の地に建てられてあるが、此の碑石は実に永遠に此の人の俳名と其の富豪とを語るべき不文の歴史であらふ。それで此の人の作として傳はれるものは実に左の數句に過ないのである。
 目の及ぶだけを櫻の曇り哉
 時鳥引返そふか筑波山
 暮るゝほど心こもるぞ菫草
 山里や包むもの無き冬の月

〔北原家の文人(白州の文人)〕
北原家には臺眠と鳳翁の二人の文人が確認でき、鳳翁に真蹟は貴重でその格調の高い筆跡と和歌は当時から著名な文人として認められていたことが推察できる。臺眠の直筆は不明であり、今後の調査に待つしかない。
台ケ原宿から諏訪に向かって次の宿場の下教来石に臺眠と同時期に活躍した俳人塚原甫秋が居た。甫秋も臺眠と親しく様々な撰集に掲載されている。甫秋の子幾秋は、現在の武川村山高の実相寺境内の国の天然記念物《神代桜》のそばに、芭蕉の句碑を建立した折の『大櫻集』を編んでいる。
台ケ原宿やその周辺には臺眠の他にも文人墨客もいて、台ケ原の俳号竹山・黒沢、教来石の甫秋らの名が見える。
参考資料 諏訪図書館 『長野俳人大辞典』「出典資料一覧」
○にひなふ鳥 北原臺眠編。寛政十一年刊。半紙本。可都里序。跋なし。
京 勝田喜右衛門板。臺眠は山梨県北巨摩郡白州町台ケ原の俳人。本名北原市之亟光久。『甲州文庫史料』八巻に翻刻。
〇寛政十一年(1799) 臺眠 五十二歳
《『にふなひ鳥』瀧亭臺珉撰 寛政十一年(1799)刊行》
  (この句集は、『可都里連句集』に載る)

参考資料 県立図書館所蔵 
白州関係文人懐紙 「郷土資料文学部門」
横手保民(彦左衛門)跋文『詠不二山百首歌』 嘉永七年(1854)刊。
横手保民      『懐紙』年不詳。
桜井義令      『林外印譜並短歌十首』
年不詳。義令は号を鴎州又は林外と称す。
桜井義台      『安永日記』 桜井義令の父。
北原八兵衛光明   『懐紙』年不詳。
短歌各二首、光明は台ケ原の人。通称八兵衛、桐屋鳳とも称す 
このころは定かにみえぬ磯の松天の橋立霞わたりて
心して色にも出さず忍びつゝかたみにしらぬさまにすごさん
見渡せば立つる烟も見えぬまで霞めたり遠の村里
   年不詳。
北巨摩台ケ原の人
伏見房澄      『懐紙』年不詳。房澄は台ケ原問屋、伏見太郎平(兵衛) 
白州町人物史 桜井義令氏 
白州町横手出身 文人・歌人 省費救民の建白八条 学制改革の建白
 嘉永二年(一八四九)六月二十一日、旧駒城村横手九三番戸に桜井義台(名主)・伊志子の二男として生まれる。幼少のころから学を志して精進、特に国学に通じ和歌をよくし、歌の数三万三千、長歌七百首以上。武水と号した。
明治、大正、昭和にかけての大歌人の中に数えられ、また書家としても界隈に名をなした。
慶応三年(一八六七)十一月、江戸の国学者平出篤胤の門に入り勉学に励む。
明治三年(一八七〇)、国政活用の建白二十六条、
明治四年(一八七一)、省費救民の建白八条を県庁に陳情、また甲府徽典館に於いて郷校取立に尽力したので賞せられた。
明治五年(一八七二)逸武両筋(逸見、武川筋)学校世話役拝命、
明治六年(一八七三)小学校訓導に任ぜられる。学制改革の建白を県庁に提出。また郡下の主な神社の神官に任命された。郡下の学校の訓導のみでなく、河口、野田、そして廉学校の教頭を歴任、
明治十九年(一八八六)徽典館の教員に擢でられ、
明治二十二年(一八八八)と四十四年駒城村長に選ばれ、
明治三十五年(一九〇二)に菅原村長(官選)に就任した。
氏は謂謹に富み暇があれば近所の人々を集めて、諸謹を交えて杜会学的な話をするのが得意であった。また物を大切にし、墨など竹にはさんで使えるまで使い、紙など裏表に歌や習字を書き、決して無駄にはしなかった。
偉大な国学者であり、教師であり、神官でもあったし、行政者でもあった。庭先には菅原道真朝臣の祠を建てて、敬まっていたのもむべなるかなである。
晩年は風流を友とし詠歌、書道で閑日月を送る。
昭和四年(一九二九)一月二十九日、八十一歳の生涯を閉じた。辞世の歌あり、
なきがらと世をばおはるかことのはを いくよろづたびくりかへしつつ

中山正俊氏 山梨の高等教育に献身 号は駒峰(または環山楼ともいう。)
安政二年(一八五五)九月二十五日、旧駒城村字横手 (現白州町横手)の旧家中山福俊・いせの長男として生まれる。
少年時代より学を志し岡千仭の塾生として学び、その後塾長になり帰省して居を甲府市横近習町(中央二丁目) 、郷里の徽典館(梨大の前身)で子弟に漢文・倫理の教育をする傍ら、藤原多魔樹や竹田忠に教えを受けた。
その後上京して岡鹿門(千仭)について漢学を学び、孔子の論語を懐から離さなかったほど常に精進努力の人であった。
明治十六年、二十八歳のとき山梨県尋常師範学校の助教諭、
明治三十一年には尋常中学校(現二高の前身)教諭に任ぜられ、三十年間の永きにわたって山梨の高等教育に献身した功績は大きく帝国教育会より表彰を受け、偉大な足跡を残して大正三年九月教員生活を終えた。
氏は温厚で、ことば少なく君子の風格を具えていた。特に漢詩文に長じ、各所の碑文を撰している。
現在甲府市立富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文を始め県内に数多く遺っている。
また「正俊会」は氏の徳をたたえるために多くの門弟が集って設立した会である。
大正六年八月二十六日病のため六十二歳で死去、甲府市の信立寺に葬られているが、横手馬場原の共葬墓地にも分骨されている。
著書『山県大式』(明治三十一年柳正堂発行)がある。
なお、正俊の妻、中山貞(てい)は梨本宮家の女官長をつとめ、朝鮮李王殿下の妃となられた方子殿下のご結婚の取り運びに尽くされ、後には東京九段にある東京家政学院の経営にあたられた。
〔註〕岡 鹿門(おか ろくもん、天保4年11月2日(1833年12月12日) - 大正3年(1914年)2月18日)は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者。名は千仭、字は振衣、初名は敬助、鹿門は号。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。
〔註〕梨本宮(なしもとのみや)は、伏見宮貞敬親王の第 9王子守脩親王が創設した宮家。多くの宮家が創立された伏見宮系の新設宮家のうち、唯一邦家親王の兄弟によって創設されている宮家である。


山縣大貳傳 中山正俊編 明30 
明15.06 『大桜集』 教庵老人塚原幾秋編 春湖題句 (甲州駒峰 中山正俊)

下祖母石 神明神社
報恩碑 茂村菊峰翁碑 大正3 添田敬一郎篆額 中山正俊撰 秀嶋醇三書 □場正重刻 山梨県 韮崎市 下祖母石 370

小学 巻之5,6 (1130−1200) ; ,選 中山正俊

中山正俊編『山県大弐伝』(明治30年)に掲載された甲府城を臨む山県大弐

遊武田氏城址記 中山正俊 著
舞鶴公園記 中山正俊 著

甲府市立富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文












大坊 坂本一桜(参考資料 続・土方物語 -白州点描-)
横手の駒ヶ岳神社の境内に
  涼しさや岩に泌み入る蝉の声
の芭蕉の句碑があるが、建立者坂本一□(?)で一字が不明だと峡北高校の
白倉巌雄先生が国語部会研究紀要の「韮崎市及び北巨摩の歌碑句碑を訪ねて」に書かれた事がある。其の頃坂本一桜の句軸を入手した私は、おせっかいにも大坊の人坂本一桜だと思いますが、と手紙を上げた事がある。
一桜は明治の人韮崎警察署長を勤め子孫の方は韮崎に住んで居り「巴屋」のお婆さんは身内だと云う事を坂本さんから教えられた。岩波其残に似た書体、素人離れした俳画は何時迄も私を楽しませて呉れるであろう。 未完





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最終更新日  2021年01月07日 04時36分39秒
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