カテゴリ:山梨の歴史資料室
新府城崩壊 『定本 武田勝頼』上野晴朗氏著
甲相同盟の決裂 高坂弾正昌信が信濃の海津城に病没したのは、天正六年(一五七八)の初夏五月七日のことであった。その前年ごろから病身となり、薬湯に身をまかせる毎日であったが、五十二歳で没した。埴科郡関屋村明徳寺の開基であり、牌子に「明徳院玄庵道忠居士」と見える。 高坂(香坂)の跡目は、嫡子の源五郎(次男)が継ぎ、そのまま海津の城将となった。二カ月足らず前に、突然卒中で亡くなった上杉謙信の波紋は、しだいに隣国の問に輪をひろげていった。前出のように、上杉景勝と景虎の対立は日を追ってはげしくなり、先手をとって越後に侵入した武田軍は、対後北条氏との外交関係はたいへん微妙な 立場に立たされることになった。 しかし勝頼としてはあくまで越後へ先手をかけることによって、対上杉、北条関係の外交関係をそのまま持続させ、自己の優位を保ちたいと考えていたのではないか。 おそらく軍鑑がいうように、北条民政からは、弟景虎への援護の要請が当然あったと思えるけれども、だからといって戦国大名問の力の均衡からいって、一方的に景虎にだけ武田軍が力を貸すという理由はない。あくまで時は戦国、弱肉強食の時代で、甘い義理人情が通用する時代ではなかった。 勝頼は民政の要請などより前に、独自に機敏に行動を起こし、対越後に対してまさに王手をかけた感があった。だが北条氏政は上野の沼田地方で足踏みしていたし、外交的にもきわめて消極的な態度しか示していない。 その間に越後の内証はしだいに淘汰されて、天正七年(一五七九)三月二十四日、上杉景虎はついに御館城の乱で滅ぼされてしまった。北条氏の外交の稚拙さと、軍の弱さを露呈した結果になった。 こうして上杉家の内証が、景勝側の勝利に帰すと、対隣国との外交関係はあらたな局面を迎える。 新府築城 真田昌幸普請奉行 『定本 武田勝頼』上野晴朗氏著 武田勝頼はこのような結果、それまでの攻撃体制から一転して、防衛体制をとらねばならなくなった。織田信長がいよいよ甲斐、信濃方面に総攻撃をかけるのを決意したというような噂は、すでに天正八年(一五八〇)の後半期からさまざまの臆測、伝聞となって流れていたのだが、勝頼はそのような情報と戦況を検討して、自国内に敵を迎え撃っても戦えるだけの新城を築くことを決意し、天正九年(一五八一)正月、甲府の北西の韮崎片山七里岩の上に要害の地を見立てて、真田昌幸を普請奉行に命じて築城の工を起こさせた。 『信濃史料一四巻』に真田安房守昌幸のつぎの文書がある。 (読み下し) 「上意示し預るに就いて啓せしめ候、よって新御館に御居を移され候の条、細分国中の人夫をもって、御一普請成し置かるべく候、これにより近習の方に候跡部十郎左衛門方、その表人夫御改めのため指し遣わされ候、衡条目の趣、御心得ありて、来月十五日に御領中の人々も着府候様に仰せ付けらるべく候、いずれも家十問より人足一人召し寄せられ候、軍役衆には人足の粮米を申し付け られ候、水役の人足、差し立てらるべく候の由、上意に候、御普請の日数は三十日に候、委曲は跡十申さるべく候。恐々謹言 (天正九年)正月廿二日 真田昌幸(安房守)(花押) 『信濃史料一四巻』所収 以上の史料は、松代真田家の「長国寺殿事績稿」のなかに収められているのであるが、あて人は不明である。おそらく信州先方衆の出浦氏にあてたものといわれる。目付から想像すれば、天正八年の暮れか、翌九年の正月に勝頼は軍議をひらき、普請奉行を決めると、正月明け早々諸将に令して、分国中の人夫を総動員して城普請をすることを決めたごとくである。しかも相当無理して人足を動員し、軍役衆にはその人足の粮米を負担させている。右の文書によると、真田昌幸は同年二月中旬には現場の工事にとりかかる予定であった。興味深いのは、新府城内は用水が不足しており、専従の水汲み人夫まで差し出させている。 材木は木曾の檜を中心に供出を命じているが、この負担も苛酷であったごとくで、一説には木曾義昌がこの負担を怒って、勝頼と仲違いしたともいわれているが、真相は明らかではない。 この城普請にあたって、勝頼から原隼人佑にあてた督励文書も一通見られる。 (読み下し) 「その地普請のため在陣、昼夜の労煩、察せしめ候、然りといえども分国堅固の備え、この一事に極まり候の条、苦労ながら夜をもって日に継ぎ、いよいよ念を入れられ、相かせがるべきの儀、頼み入り候、委曲は秋山惣九郎口上に附与せしめ候間、具さにする能わず候。恐々謹言 (天正九年) 三月十六日 勝頼(花押) 原隼人佑殿 (長野県松代町原昌美氏蔵)」 なお、この原隼人佑は三代で、名を貞胤といった。初代は長篠で戦死、二代も天正八年上州膳の城で深手をうけ間もなく死亡、三代目は海野能登守輝幸の女が二代に嫁ぎ、その子が三代隼人佑といわれる。 したがって真田昌幸とは又従兄弟となり、年齢的にも二十代そこそこと思われ、昌幸の築城の補佐をしていたのであろう。 新府の築城はこうしてあわただしく始まったのであるが、 軍鑑および国志など見ると、勝頼は新府築城を穴山梅雪の勧めによって、天正九年七月工事着工、十二月竣工したと書いている。これには穴山梅雪の旧領穴山の地を築城地として提供しているからであり、同時に梅雪の発言力が天正八、九年に入って急に強まったことを物語っているのである。 天正九年三月二十二日、高天神城が落ちると、勢いにのった徳川家康軍は、五月に入るとふたたび駿河の藤枝にまで侵入してきた。このとき静岡市内にある用宗(もちむね)城にいた勝頼先方衆の朝比奈駿河守の手の者が、はやって城を出て、徳川軍を迫ったところ、家康家老の石川伯耆守に巧妙に合戦をしかけられ、たちまち七、八十人が討ち取られてしまった。武田軍の指揮の乱れが早くも現われはじめていた。 なお小田原の北条氏政も、同年五月ふたたび甲州軍と相対したのであるが、しかし正面衝突はなくおたがいに兵を引いた。それでも一時は緊迫した空気が流れたようであり、その間の事情を示す勝頼文書が一通ある。 (読み下し) 「小田原衆例式一功なく、去る九日退散候の間、諸卒帰府せしめ候間、重て其の地より参陣衆、無用たるべく候、其のため早飛脚を通わす、なお東筋の模様聞き届けば、いよいよの儀注進尤に候。恐々謹言 (天正九年)六月十二日 勝頼(勝頼朱印) 内藤大和守殿(『新編甲州古文書』第二巻四一七) このように勝頼は、西上州箕輪城の内藤大和守に緊急の参陣を命じたのであるが、小田原衆がなにごともなく兵を引いたので、その戦況の模様を報じて参陣を断った書状である。文中、東筋のもようというのは、東上州の戦況のことである。いずれにしても四面楚歌の空気がいよいよ濃厚になってきたようすを感じさせるものがある。 こうした事態を憂慮した関山派の高僧たちが、武田氏と織田氏との講和を実現しょうと奔走しているようすが妙心寺史に見えている。とくに妙心寺住持の南化玄興は、快川国師とともに信玄に知遇を得ていたので、とくに心を痛め、天正九年(一五八一)八月二十三日、美濃大龍寺の淳岩和尚宛てに書を送ったが、その中に、 「甲濃和親ノ一件、悦公首座ヲ以テ観国ノ賓トナサバ、万幸、此ノ一件モシ成就セバ、則チ相、淳ノ二老卜手ヲ把リテ下国シ、尊顔ヲ拝謁スべキハ足ヲアゲテ俟(ま)ツノミ」 と、斡旋について、橋渡しさえしてもらえれば、いつでも飛び出していくとまで書いているのであるが、時すでに遅く、信長はもちろん、聞く耳をもたなかった。 信長、勝頼討伐準備 同年十一月に入ると、武田信豊、長坂釣閑斎、跡部大炊助、大龍寺の麟岳和尚(勝頼の儲弟)らは、勝頼へ進言して、信玄の時代から織田信長の人質として預かっていた御坊丸(織田勝島、源三郎といい、本能寺の変のとき二条城で死んだ)を、信長のもとへ送り返して急遽講和を求めるよう画策したが、これもいかにも見えすいた付け焼き刃にすぎなかった。 すでに武田氏討伐の決意を固め、その準備に入っていた信長は、このような思いつきの外交策は歯牙にもかけず、御坊丸が帰されてきたのは至極当然といった振舞いでこれを迎えた。そして十二月に入ると、家臣の西尾小左衛門に命じて、三河の東条城に大量の兵糧を蓄えさせ、武田氏追減作戦の準備体制をとりはじめた。 一方、このような経過のなかで、新府城の工事は十月に入って一応、主力構造部の工事を終わることができた。勝頼はその竣工を友好諸国にやっと披露するまでになった。米沢の上杉文書につぎのような史料がある。 (読み下し) 「新館の普請出来せしむるの旨、聞し召し及ばれ、祝詞として三種並びに柳五十贈り給わり候、誠に御入魂の至り、謝す所を知らず候、内々近日居を移すべき心底に候のところ、氏政家僕松田尾張守次男、笠原新六郎、豆州戸倉の在城、不慮に当方幕下に属し仮の条、かの国仕置のため出馬せしめ候の故、遅引候、如何様帰陣の節、使者をもって申し達すべく候。恐々謹言 (天正九年)十1月十日 勝頼(花押) 上杉殿 」 と見えている。越後の同盟者上杉景勝が、竣工祝いのために数々の贈り物をしてきたのに対して、祝詞の答礼をなしたのである。 友好諸国といっても、すでに勝頼にとって四囲の状況から、この上杉景勝だけが真の味方であった。 ただ文中にある、北条氏政の家臣の豆州戸倉の城主笠原新六郎(松田)が、勝頼に内通するというハプニングがもちあがっている。実際衰運の勝頼にとっては、ハプニングとしかいいようのないほど、それは思いがけないできごとの一つであった。 軍鑑はこれを、天正八年冬のごとく扱っているが、右の文書によっても窺えるように、新府移転の直前とするのが正しいだろう。これに関連する勝頼文書がもう一通ある。 (読み下し) 「廿七日の書状、披見を遂げ御意を得候、 一、先書に顕われ候ごとく、こんど松田新六郎の忠節、比類なく候、併せて其の肝煎故に候、 一、戸倉への加勢を以て出合い、相移らるるの由、尤に候、いよいよ人数不足なく指し籠り、堅固の仕置、専一に候、 一、松新家中の長敷者の人質、早速催促を加え、請け取られべく儀肝要に候、 一、近郷の地下人、大略召連れ、妻子戸倉へ相移り候の由、然るべく候、 一、鬼頭より足軽を出し候の処、安井次太夫を始めとなし、戸倉衆出合い城内へ追い入れ、近辺の郷村政火の由、心地好く候、 一、松新人数並に地下人等、戸倉に留めあり候輩、また敵地へ退き候者共、怯に聞き届けられ注進尤に候、 一、獅子浜の儀、自落候や否や聞き届け度く候、 一、梅雪斎を始めとなし、信・上の諸卒、今朝指立ち候き、著城に至らば毎事相談有るべく候、勝頼も不日に出馬すべく候、 なお敵説聞き届けられ、節々注進尤に侯。恐々謹言 (天正九年) 十月廿九 勝頼(勝頼朱印) 曾禰河内守殿(御坂町上黒駒堀内とみ子氏蔵)」 文中、松田新六郎というのは、民政の家臣の松田尾張守の次男の新六郎が笠原氏の養子となり、伊豆 戸倉城に拠っていたのである。 北条民政は、勝頼と伊豆方面で戦うようになって から、とくにこの方面の防衛を固め、長久保に志水、獅子浜に大石、鬼頭に大藤、多目、戸倉に笠原 の諸士を匿いて警護していた。ところが沼津城将の曾爾河内守と高坂源五郎が、天正八年八月の戦い以後、三島の心経寺の僧をもって、伊豆一国を笠原新 六郎に与え、そのうえ勝頼の婿にするという好餌営もって内応を勧誘したので、笠原新六郎はついに勝頼になびいたのである。 軍鑑には、天正八年の九月に民政三万七千の軍勢に、武田軍がビクともせずに立ち向かい、さらに転じて勝勅が富士川を押し渡って、家康を駿河から追った勢いを見て、勝頼強しと思い込み、その被官となったのだと見えている。その空気は十分ありうることだと思える。 勝頼はこのように、天正九年十月、近日新府城に引っ越しをしようとしていた矢先に、笠原の内応を知らされ、急遽、伊豆の仕置のために出馬したので あった。 こうして新府移転の遅れてしまった勝頼は、 天正九年十二月二十四日にいたって、ようやく新城に入居することができた。軍艦には十年正月これに移るとあるが、これは引っ越しの完了の年月であろう。 新城は、甲斐の甲府に対し、地を新府、城を新府韮崎城と呼んだ。この要害の地は、たしかに防護の面から見れば、両裾に釜無川、塩川の流路をひかえ、天険まことに妙を得た理想的な環境にあったといえる。しかしそれはあくまで防御の体制の面からだけで、新府中と呼ぶには、経済、交通、文化などのあらゆる面から検討すると、発展的な大規模の町づくりには不可能な、地勢環境が目立ってしまう。 しかし新城の規模は、古府中の館跡などからくらべると、はるかに広大で堅固である。 本丸跡は東西五十間(約九〇メートル)南北六十間(約一二〇メートル)ほどの広さがあり、西に一段低く、信勝公御座所と呼ばれる二の丸がある。この広さは三十間四方(約五四メートル四方)で、本丸と二の丸の間には本丸防御のための前の構えが見られる。 その下に馬出と大手が続いている。 坤門(端門)を通って南に回り込んでいくと、さらに一段低い地形を削平して、土塁で囲んだ西三の丸、東三の丸がある。この部内に主として信勝以外の勝頼の子息、婦人方が住むことになっていた。 その南下方に片山口の望楼四間四方(約七・二四メートル)と、長さ十八間(約三二・五入メートル)の三カ月堀がある。これは甲州流にいう虎口の前に半円形の堀を掠ったもので、一種の馬出である。 本丸の下、東から北側へかけては、腰郭、帯郭が一段ずつ低く巻いているが、さらに山裾の基部には、堀が揺られている。東から首洗池(後世の俗称)、東堀、中堀、西堀と続いており、東堀をはさんで乗出構、西出構の二十間(約三六・二〇メートル)の張り出しがある。 西堀に面しては乾の望楼六間四方(約一〇・八六メートル)があった。 全体に縄張りは粗放で、未完成なところが多く、石垣はいっさい使用せず、すべて土塁で囲まれている。いかにも突貫工事によってできあがったらしいようすが認められる。 山裾を信州街道が束から西へ走っているが、新府城からは台ケ原へ三里、穴山へ一里、穴山の能見城は新府城の支城として看楼が設けられていた。 信州街道を北西に進んでいくと、約十町(二〇九〇メートル)はどで砦を設け、さらに穴山の伊藤窪、次第窪方面にも砦を設けてある。 国志、古跡部にある、伊藤窪の堂ケ坂砦は、家康が若神子の北条軍に対応して砦を設けたとあるが、やはり新府城の備えとして、はじめからつくられた 砦の一つと解したほうがよい。この外郭の防御線を見ると、次第窪の長坂氏宅址に続く地にも、堂ケ坂と同性格の砦があり、信州口へはとくに砦を多く築いたごとくである。 新府城をめぐっては、また武田家臣の屋敷も数多く残されている。穴山氏(次第産)、山県氏(伊藤鍵)、長坂氏(次第窪)、甘利氏(次第窪)、青木氏(石水)、大学守(次第窪)、伊藤氏(伊藤窪)、その他不明の屋敷も山林中に点々と認められる。 このうち穴山氏の宅址は、次第窪と重久との間、桟敷場と呼ばれる山林中に堂々たる館跡を残している。これは長坂上条にある長坂釣閑斎の宅址に匹敵するものであり、穴山領の一部を勝頼に提供したという伝承もうなずかれるものがある。 穴山信君(梅雪)は、天正七年東海道の要衝江尻城に、壮麗な天守閣をつくり、五山派の名僧、天龍寺の策彦周艮に「観国楼」の題額を書いてもらうなど、江尻城を本拠として、国人領主化の確固たる道をすでに堂々と歩んでいた。外交的には信君は家康に通じる最大のパイプになっていたし、その発言力も天正七、八年に急に強まったと見てよい。 新府築城について、軍鑑品第五七にはつぎのような注目すべき記録が見られる。 すなわち新府城の構築はたいへん困難であったので、長坂釣閑斎、跡部大炊助、秋山摂津守、武田典厩などがグチて、信玄公は堀一重の虚数構えに住んで、武威を構え、日本はおろか唐国まで聞こえた名大将といわれてきたけれども、たった一つ欠点があった。それは甲州一国内に防徹のための城をつくってなかったことだ…。と、その誤りを口々に散りながら新府城を取り立てることを決めたと見えている。 それは古文書などにとうてい現われることのない、その当時の重臣たちのあわてふためいていた感情のほとばしりと見られ、多分に真実味がある。一つには連年の戦争で府庫の軍資金が底をつき、軍役と課役と強制的に割り付けての強行策しかなかったから、民衆の怨嗟を買っていたためであろう。 ともあれ勝顛は、新府城が一応完成すると、移転に先立って、新城の安泰と武運長久の祈念を、諏訪上社の神長官、守矢信実に託した。 (読み下し) 「新館に相移るに就いて、神前において丹精を凝らされ、守符、御玉会すなわち頂戴、目出たく珍に候、なお武運長久の懇祈任せ入り候。恐々謹言 (天正九年) 十二月廿四日 勝頼(花押) 神長宮殿 (信濃史料第一五巻)」 というものである。かくて同年の十二月二十四日、一族をあげて古府中から新府中へ引っ越していった。 とくに甲府の街々に居住する商工人、地下人たちの心は、古府の館をあわただしく去ってしまう勝頼一行の行列をながめて、心中おだやかではなかったにちがいない。 いや、新府に引っ越しを敢行する人々そのものが、すでに古府中を去るにあたって、後ろ髪を引かれる思いにかられていたのである。 それはなんといっても、甲斐源氏武田氏の統治六十余年に及ぶ歳月のなかで、政治、経済、文化、宗教などの機構を中心に、交通の機能も、市場、寺社、民衆の居住地にいたるまで、古府の館を中心にすっかり根をおろして、しつとりと落ち着いた山国の小都市の栄えがそこにはあったからである。 それを見捨て、身を守る防御策だけで新府移転をいそぐ勝頼の姿は、もはやまったく信頼のおけない国主に映ってしまったのは当然である。 それだけで潜在的な不安的要素が、おそらく甲府の街々に満ち満ちたことであろう。 いままで館を守って威厳をかまえてきた旗本近習衆も、奥に仕える女房衆も、館に対する心残りと迷いが、一挙に噴き出してきたにちがいない。それらをすべて払拭させるために、重臣たちは、古府の館の建物も家臣家敷も、引っ越しにあたって、見ている前で強制的に打ち壊させる手をうった。館中に生えていた、ひとかかえもふたかかえもある名ある松の木も、名木も伐り倒し、泉水の植木まで引き抜いて伐って捨てさせたと見えている。それもこれも、あとへ心残りがあってはならないという配慮であったという (甲陽軍艦品第五七)。 しかし、そうもしなければ家臣団の屋敷の引っ越しなど、統制がとれなかったのではないかと思う。封建領主下の城下町の規制の第一は、その被官の掌握のために館の周りへの強制居住にあったが、新府創設にあたって、これらの被官たちの住居をどこまで移動させることができたか、じつは危ぶまれるものがある。たとえば一条右衛門大夫など、勝頼の命令にそむき、平気で打ち壊しを拒んでしまったと見えている。 軍鑑には、天正九年七月甲府の諸寺を新府中へ引き移らせ、あの有名な里垣の善光寺なども、新府の最前に御屋敷を拝領して引っ越しの用意をととのえたと見えている。そのため天正九年七月四日、栗田永寿、その他善光寺衆あての定番が発行されたと見えているが、しかしこの文書を検討すると、内容はあくまで甲府里垣善光寺の定番であって、門前町の町屋敷の規定もふくまれて、すこしも新地移転のことなど書かれていない。 これらを総合すると、新府の築城は、とても寺社の移転とか町屋の移転まで考慮する余裕はなく、せいぜい譜代の重臣たちの武将屋敷をまわりに配置するだけが精いっぱいではなかったかと思われる。 それとても、天正九年の後半期に入ると、勝頼の統制は乱れる一方で、とくに穴山、小山田氏などは、自己の分国防衛とその経営に留まり、になり、自己の領土をいかに安泰に保全するかという問題で、汲々としてしまっていた。 武田逍遥軒、武田信豊なども勝頼から離反し、多くの支城主、城代たちも、すでに治者と被治者の区別がまったくつかなくなって、滅亡寸前の個々ばらばらの疑心暗鬼がその極に達していた。 それはなによりも、勝頼文書の発給が目ぼしいものがほとんどなくなってきているようすからもうかがえる。 新府城 落城 こうして武田勝頼は運命の天正十年(一五八二)の新春を、新府城において迎えた。すると一月に入って、まだ屠蘇気分も抜けない六日(甲乱記には正月二十七日とあるが、どうもそのほうが真実に近いようである)、勝頼の姉婿の信濃福島城主の木曾義昌が、織田信長に寝返ったという情報が、木曾の茅村から飛脚をもって、勝頼の重臣阿部加賀守のもとへもたらされた。茅村というのは、信玄が娘を義昌のもとに嫁がせるとき、御輿ぞえにつけてやった茅村備前守である。 その飛脚の話によれば、義昌は正月早々、美濃苗木城主、苗木久兵衛を頼って織田信長に通じ、弟の府上松蔵人を人質に出し勝頼に反逆したというのであ新る。 この木曾氏は、累代木曾を領有してきた名族であり、信玄が信濃を侵略していた弘治元年(一五五五)十一月に、長坂釣閑斎を問に立てて信玄に忠誠を誓ったと見えている(軍鑑品第五七)。以来、武田氏の外戚となり、美濃方面の前衛として重きをなしてきた。 しかし木曾義昌反逆のようすを聞いた、武田信豊、長坂釣閑斎、跡部大炊助らはまったくこの話を信用せず、虚言をいう奴だといって、その飛脚を召し捕え牢舎に入れてしまったと見えている。ところが、おいおい事の真相を伝える情報が集まってきて、やっぱりほんとうなのだということになり、急にあわて出したというが、そののんびりしたムードは、多分に軍鑑流の批判と皮肉に彩られた作り話が挿入しているのであろう。その点、甲乱記のほうがやや真相に迫っていると思われる。それによると、木骨義昌は勝頼に対して怨念をふくむところがあり、早くから信長へ密計の子細があったが、去年の秋のころから逆意を企てるようになり、去る一月二十日には信長から朱印をもらうまでになっていた。云々 (別記あり) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月07日 06時51分06秒
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