山梨県歴史文学館　山口素堂とともに

○ 中村勘三郎家
◇　太田南畝『一話一言』
◇　一部加筆　山梨県歴史文学館

瀬名貞雄曰く、事跡合考に芝居座元中村勘三郎が系図を書るその中にいはく、
　
干兵衛といふ此者 猿若を苗字として猿若勘三郎と云、
然るに 豊臣太閤取立られし
中村式部少輔一氏二十万石余の大名たりしが、
其の子一学早世子孫なくして永く断絶せし故、
其一族中村治右衛門といふもの江戸に流浪したり。
此治右衛門が娘 二代目勘三郎に嫁して男女の子を産む、
後年猿若の苗字を改て 彼の治右衛門が苗字を用ひて、
中村勤三郎と名乗る、
是よりして子孫ことごと中村を以苗字とすと云々。
予、案ずるに、恐らくは是附会の説ならん。
ある人のいはく、
元祖 猿若勘三郎は
蜂須賀阿波守源至鎮（よしつぐ）の家士中村右近が妾腹の子也。
父右近は大坂冬の御陣に主君阿州侯に従ひ難波の役に至る、
阿波守本陣は 本町橋の虎口より遠くして西本願寺にあり、
故に魁将中村右近 橋の南の方一町程堀際より退き、から堀をほりて柵をつけ、
夜は篝（かがり）を焚せ傑然と屯しけるを、
淡路橋桑山が櫓より数日その虚実を察し、
同年十二月十六日夜討せしとき、張番の軽卒どもいたくねぶりて周章す、
士大将の右近も鎧着ながら挟箱によりかゝり眠居けるが、
左の手に冑右に十文字の槍を捉て陣小屋の外に出る所を、
大野生馬が組二宮山川塙団右衛門等魁して突て掛る、
右近、冑を被る暇なく槍を合せ働くといへども、
あやまりて小屋際なるたまり水にふみ込、
猶予する所を敵多勢にて突ふせ、
終に右近討死せし也。
兼て妾腹の男子勘三郎に右近がゆづる所の短刀、作は覚へざれども、
正しく角の内に壱枚銀杏の葉彫付たる持の短刀なりと語り伝へ候、
当勤三郎今に持傳へ侍る也。度々の火災政党束なく候、
去るに依りて二代目勘三郎も中村といふ苗字はかくし、
異名猿若と名乗しも、武門を止め使者となる故、
世に家号を忍べるに使て也。
漸三代に及むで中村と云名字もあらはせし也、
此故に今以猿若とも中村とも名乗也。
太鼓櫓の幕 又は櫓下竪看板等にて今以て猿若と書記し、
寄附などには中村と記して、
今に両号ともに是を用ゆる事現前たり、
猿若は此号を以て芝居を興し、
中村は本名なれば、両号すてがたき号なる故也。
されば此事跡合考に、
猿若の名字を改て 中村を名乗ると書しも大なる誤脱、
改たる苗字ならば 櫓幕看板にも 今何ぞ猿若と書べきや、
猿若は芝居濫觴の異名、中村は本名なれば、
共に氏族として今に用ひ来れる也。
紋所も角の内を隅切角に直しける事とみへたり、
是以て世を忍びての事ならん。
かの右近が嫡統は今以阿波の大守の用人職を努め、中村主馬前と云、
紋も則角の内に銀杏の葉なり、
彼主馬介が江都の菩提所は三田舎町の正覚院也と、
語りし人のあるにまかせてかの寺に行て尋見しに、
其言葉にたがわず、実も主馬介父の墓ともおぼしくて、
阿州 中村次郎左衛門富道墓 と切付たる碑あり、
紋所もかの話に符合すれば爰に写し置ぬ。
○　墓碑　清源院殿梵河宗漲居士
左ノ方　阿州中村次郎左衛門富道墓
右ノ方　宝暦二年壬申九月十九日

『事跡合考』に中村式部少輔一氏の中村なりと書る故、
右一氏の紋所を考えるに瓢箪九曜と菌記飯にあり、
また『国訓旧章録』には平娃、家の紋梅鉢とありさらに拠なし、
さては此中村と書しは相違なるべきにや。