カテゴリ:山梨の歴史資料室
○ 松平西福寺
長慶院殿は秋山氏女にても穴山氏女にても、いづれにも甲州武田家へ御縁ある也、 ◇ 太田南畝『一話一言』 ◇ 一部加筆 山梨県歴史文学館 多賀常政〔割註〕三太夫と称す、清水小十人頭也。」 いはく、今年安永九庚子(1780)四月朔日より浅草西福寺にて本尊弥陀如来ならび様々の霊宝什物開帳の品あり、此寺の本願良雲院殿を此所に葬し奉りぬ。 その因縁にて公儀御由緒あつきよし色々申立、剰(あまつさえ)、太神君及台徳尊公良雲院尼の御影を拝させたり。 予も四月廿三日かの寺へ参詣して拝せり。 此良雲院殿は武田万千代信君の御母堂にて、武田信玄の女たる様にかの寺憎ども本尊開帳の節霊宝の席にて申立る也。 予於心申共不審をこるによりて、大久保忠寄にかたらひ、かの実否を分明せん事を欲す、『忠寄語録』を引考、左の一帖を授与あり、因て其所以分明を得たり。 良雲院殿天誉寿清大姉 寛永十四丁丑年(1637)三月十二日卒 去葬浅草西福寺云々 〔割註〕 附札写、葬所入口の門の上に浅野家の紋有りと覚へ候、今に浅野家より崇敬もある鰍。」 右良雲院殿と申すは大神君の御妾にて、市川十郎右衛門女也、此良雲院一女を産し給ふ、此姫 君蒲生秀行の室とならせ給ひ、後に浅野但馬守長晟に稼し給ひたりと云々、 左あれば竹田万千代君は良雲院殿の産し給ひたるにはあらず。 長慶院殿(或)妙真院日上 天正十九辛卯年十月六日卒去 水戸光圀卿賜造建碑下総国葛飾郡小金邑今にあり。 かの碑の文に、下総国葛飾郡小金邑の采地にて病卒也、葬于郡之本土教寺云々、日蓮宗身延山檀越也、法名号妙高院目上とあり、且かの根上に一松あり、 土人呼目口上松とみへたり。 右長慶院と申すは大神君(家康)の御妾にて、 甲州氏族 秋山伯壽守虎康女也云々、 又一説には、 武田信玄の養女にて、穴山梅雪斎が女なりしが、大神君に奉仕して信吉君を産し奉りたりといへり。又実 信玄の女なれども梅雪養女として神君へ御奉公に彼出たりともいふ、 但 小金邑碑文には秋山氏女と出たり。此碑は水戸光圀卿立させられたる物なれば、是を実とせん事当然の理ならんか。 右について、常政がいはく、右之説を考れば、西福寺の良雲院は蒲生秀行へ嫁し、後浅野長晟へ嫁し給ひたる 姫君の御母にて、武田家へは何も由緒なき夫人也、長慶院殿は秋山氏女にても穴山氏女にても、いづれにも甲州武田家へ御縁ある也、依りこの長慶院の御事は西福寺へはあづからぬ事なり。下略 安永九庚子年五月十目多賀常政誌之。 瀬名貞雄より得て写し置なり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月09日 18時14分32秒
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