カテゴリ:山梨の歴史資料室
武田の最期 仁科五郎 武田勝頼 穴山梅雪 ◇ 太田南畝『一話一言』 ◇ 一部加筆 山梨県歴史文学館 『一話一言』及び『日本随筆』には主題が無い場合が多い。 内容を見て仮の題をつけました。 天正十年(1582)三月廿八日、武田勝頼の御弟 仁科五郎信盛 被籠候信州高遠城を(織田)城介信忠卿旗本にて一時攻にせめ取り拾ふ。(中略) 高遠城一番乗せし信忠卿御小姓山口小弁 佐々清蔵はともに十六歳なり、 済蔵は越中の国主佐々内蔵助成政と云う大剛の大将の甥也。 小弁は山城伏見の人賤き者の子なり。されども容顔美しき故禿に被召出、扨御小姓に成、佐々済蔵は観世がゝりの能をよく致し、小弁は小歌名人にてともに御寵愛なり。 此度も戸田半右衛門大剛の兵を越え一番乗り、ことにもき付の高名する両人共に手柄を奮いたり。 その役御父信長公被聞召、高遠にて手に合たる輩戸田半右衛門、梶原次郎右衛門、桑原吉蔵、各務兵庫、ならび両人の児小姓なり、被召出御褒美御感状被下。 先、山口小弁を召、此度高遠にての働希代の至り也、城介めがねを違へず一入満足被成候とて御誉、御手づから国久の御腰物に御感状添被下。 次に佐々済蔵を召、高遠の働骨折之由、ただし汝は手柄致す筈也、大剛の内蔵助が甥なればなりと被仰、長光の御腰物を御感状添被下。 信長公大度絶類之人傑也、その智世の及ぶ所にあらず、小弁は賤きものなれば手柄高名誠に希代也、清蔵は伯父内蔵幼名まで上たる御褒美の御意とて大将に成、人才は一言一行大事の事也とぞ、 惜しい哉かゝる手柄の小弁清蔵、 その日数六十日余りにて京二条の館にて信恵卿を明智光秀が奉弑時に、両人ともに十六歳を一期として討死せし也。 ただし清蔵は小弁に向て云うは、 「我々素肌になり屍の上耻し、いざ武具して討死せん」 とて両人ともに突て出る、一人づつ敵を片付け、その死骸を構えのうちへ引込、其具足甲を取て両人ともに著し、又切て出大勢に渡り合討死せしに、さも美しき顔血に濃髪も乱れ染しを、見る人涙を流し両人の首の前には群集せしとかや。 穴山梅雪の逆心 天正十年二月穴山梅雪逆心に付、勝頼も諏訪を引取、織田城介信忠卿は、仁科五郎信盛の籠り候高遠の城へ御取詰、奥沼原に御馬を取立、使僧を以て仁科五郎降参仕候へ、其子細は、武田家人大半逆心仕侯間、勝頼滅亡近日に候、各誰が為に城を持候はん哉、早々降参尤と被仰候。 仁科五郎・小山田備中即御使僧の耳鼻をそぎ追返し、一戦可仕旨返事也。 城介殿御せき候て高遠城を一時攻に攻取玉ふ。 小山田備中切て出て城介殿を目がけ討取んと数度仕候へども、叶わず引て入り、仁科五郎と備中守・渡辺金太夫・春日河内守・原隼人・金福又左衛門・諏訪庄右衛門以下十八人、大広間に取龍り死に物狂いに相戦い中にも、 年頃三十五六なる女房、緋威の具足に長刀を抜て水車に廻し、諏訪庄右衛門が妻と名乗て七八人薙ぎ倒し、其後自害する。 大広間は七間に十二間の家なり、是に取籠り候故寄手も攻あぐむ。 城介信忠は浅黄金欄の母衣かけ玉ひ、広間の前の屏に御上り候、屏に添て桐の木あるに取付、ざいをふり身をもんで御下知被成、遂に仁科五郎・小山田備中勢尽て自害する、高遠落城の四日目に高遠見物せし人は被語候は、彼大広間天井も柱も鑓跡・太刀跡さては血に染り明所なし、庭に残雪ありしが血がかゝり紫雪になりたり。地下人ども掃除に来りて居る其者ども申候は、是なる塀の上に城介殿御上り、左の御手にて此木をとらへざいを御歌被成候、小山田備中も仁科五郎殿も城介殿を見しり、七八度も切てかゝり候、其時太刀跡鑓跡にて候といふ、城介殿御取付候桐の木にひしと疵あり、扨広間に二間の大床あり、張付のから紙あり。血腸なげつけ、指の跡四筋血にて一尺計も引て見ゆる、地下人に尋候へば、大将仁科五郎殿此床に上り自害、腸を掴んで唐紙へ打付てを御被候、其指の跡と申候。 仁科殿は年十九にていまだ前髪あり、勝たる御若衆にて候と語る。 さて天井をみれば鉄砲の玉の跡幾らといふ事もなし、是を尋れば答て曰はく、仁科五郎殿さすが信玄公の御子なれば強く御働、小山田備中をはじめ十八人狂廻り討かね候故、森勝蔵殿の衆屋根へ上り、板を撒くりて上より鉄砲ずくめに仕候と語りたり。 後、勝蔵一手の衆を高遠の屋根葺き士と異名に付て笑ひしと也。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月10日 05時13分32秒
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