2305398 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年01月10日
XML
カテゴリ:山梨の歴史資料室
「甲陽軍艦」の著者 「卯花園漫録」石上宣続著(文政六年)一部加筆

○甲陽軍鑑を「高坂弾正」書たると、世に伝わる事久し。武田勝頼に仕へし反町大膳武功の人にて、甲州(武田家)滅びて後、引籠り隠れ居て書たる物には、「香坂」としるせり。姓も違い、偽妄多き書なりといえども、軍国の事情よく書たるゆえ、その虚妄を人は疑わず。控弦の家事読むべき物と、古人云いしなり。然れどもその事実を按じ、その真偽を考えなければ、大いに惑われん事必然なり。
〔川中島合戦〕
川中島九月十日の合戦の事、記せしによりてこれを論ずる内、信玄の敗北たること疑うべからず。卯の刻に始まりたるは、越後(上杉謙信)の方の勝ち、巳の刻に始まりたるは甲州の勝ちなどと記してある。軍は芝居を踏みえたる方をもって勝ちとすることを、甲陽軍艦に論ず明白なり。
〔川中島合戦は信玄の負け〕
然ればその日の戦、信玄芝居を踏へられしとは云うべからす。既に山本勘助がその軍を豫め云いたりしにも・二萬の兵一萬二千、謙信の陣西条山へさし向け、合戦を始めるならば、越後の軍勝つとも負けるとも、川を越え退かん所を、旗本組二陣を以て、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思ふ勝利を得たりとも、越後へ引返すは極りたる事なり。是主駿の敵に勝たればとて、宜しくその地在るべきに非るを以てなり。これを以っていえば、信玄芝居を踏みたればとて、勝ちとは云うべからず。これ一つ。
また謙信芝居をを踏みへたりとは云いがたきは、甘糟近江守犀川を捗りてゴ三日止まりたるを、甲斐より押して軍する事能はざりき、これ越後の軍芝居を踏へたるに非ずや。これ二つ。
〔信玄嫡子義信殺害〕
むかし老人の物語に云伝へし事あり。信玄嫡子義信を殺れしは、継母の讒言ありしといえども、その実は川中島にて、信玄義信を将に換らして、信玄広瀬の方へ引退く、敗軍とは云いながら、義信捨て殺すべき勢いなりし故、義信深く恨めるを以って、終わりに不和に及て殺されしに至れるとなり。信玄その場を踏むこと能わずして、迯げるを以って、芝居を踏みへたると云うべきや。これ三つ。
〔川中島合戦の勝敗〕
譲信もとより甘糟を以って、川を渉るの後殿と定められしが、三日止りたるを以って見れば、甲陽軍鑑に、廿糟が兵散乱せしと記せるも、虚妄なる事論を待たず。廿糟三日芝居を踏へたるに、譲信何事に狼狽して、主從二人高梨山に還りて走るべきや、謙信既に共前夜軍許定ありしに、謀しごとくなる旨、甲陽軍鑑に記せし所明らかなり。 
初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待ち敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦は、父の弔合戦なり。信濃に師を出すは.村上義清に頼れて、その求めに応じて是を救ふなり。相模の軍は上杉憲政の来るを容て、已む事を得ざるなり。
故にその詞にも、強て勝敗を見るに非らず。当る所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大將の慎むべき事にせり。爰を以て深く頼みたるには終始約をたがへず、またその兵を用るに信玄の及ぶべきに非らず。
山の根の城を攻落せしに。信玄、北条氏康両旗にて後援する事能はず。遥々と敵の中を族行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならすや。信玄は謙信小田原へ攻入たる跡に、討てなした名はなし易きに非らずや。甲陽軍鑑に、長沼に城を築れし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を與へ、信州戸隠にて密供を修す。爰に北越の輝虎世に讒臣を企つと、
〔割註〕「此攻切れて見えずと記せり。」
〔譲信を信玄呪咀する直筆の書〕
永禄十一年謙信戸隠山にて、譲信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑ひ、弓箭とる身の恥なり。末代の寶物にせよと、榊職に云れし的語り偉ふ。今共書紀州高野山にありと云。事詳に書記せる物あり、実は譲信を恐るる事、虎のごとしとも云べきにや。村上義溝信州に再帰り入し事、甲陽軍鑑に載せずといへども、.永禄中信州の中四郡譲信に属し、義清を信州へ入られし事を記する物あり。甲陽軍鑑に長坂朝閑、跡部大炊助二人を姦曲の臣として、勝頼寵せられし事を深く憤れり。實にさる事なれども、二人権を取ること勝頼に始れるに非らず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威権ありき。信玄の時北條の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎しみ由を、甲陽軍鑑に載たるをもって知るべきなり。
〔甲陽軍鑑を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿樂彦十郎と云もの〕
また云伝へし説に、甲陽軍鑑を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿樂彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅びて後、大久保忠隣の所にありて、東照宮(家康)の御事を書加へて、一書となしたるとなり。
〔甲陽軍艦諸説〕
また或人の云しは、川中島合戦の事を前夜に論じて、謙信強敵たる対々の人数にてさへ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存はなかりなりと云ふ事を、甲陽軍鑑に載たれば、勝は値謙信にある事一分明なりと論せし人もありき。亦同じ書に載たる持氏生害、両園爾上杉ほこり恣にて、武州川越にて北條に負けたるは、天の罰なりと云へり。持氏と爾上杉と時かはれり。持氏の滅せしは永享十一年(1440)にて、氏康とは百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北僚早雲は延徳二年(1490)に相模に打入たり。その頃上杉顯定は越後にあり。顯定は越後信濃の境長森原には、高梨に討れる。早雲さへ両上杉と如斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、甲陽軍鑑に記せし事誤りなり。
天正六年丁酉(1578)七月十五旧、管領朝定と北僚氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此の合戦を両上杉と家康、夜軍となして記せるにや。天正十五年丙午四月廿日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて家康と合戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍鑑に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管領を、両上杉となすなり。持氏四男成氏、成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長男晴氏なりといへり。甲陽軍鑑に載名功名の事、その虚妄多し。中に就いて釆配を手にかけてありし敵を討ちとりて首を得し事、いく
ばくと云事を知らず。すべて甲州の敵せし士八人がた、釆配を手にかけしと見ゆ。塞に笑うべきの書の記しざまなり。その余り虚妄勝て計るべからす。然かれ共その時に居て、戦國の勢を能知り、且士の事情に達せし者の書たる書なるゆえ、弓箭とる肯の翫ぶべき書にて、虚妄をもつて棄べきにはあらず。
〔上杉義春入道、甲陽軍艦評〕
また上杉義春入道入庵、京都に閑居してありしが、徒然のあまり甲陽軍鑑を読ませて聞かれしが、事實謬れる事のみなり。高坂が死後の書を多く書載せ、川越の軍も年月大いに違い、人の姓名も以の外誤れる事多く、またなき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、このように誤れるなれば、此書更に信ずるに足らずとて、復讀する事なかりしと云へり。
〔甲陽軍艦は贋作〕
今をもって是を見るに、甲陽軍鑑は贋作なり。また按ずるに、今世に専ら行はるゝ書に、「川中島五戦記」と云へるあり。此書は川中島の戦い五度なりと記せり。然れどもその中に凝うべき事なきにあらす。これまた正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ケ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、関東の諸將人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅かに謙信遁得て越後へ帰りしと、甲陽軍鑑に記したるも心得られず。関東の諸将なびき從わずば、いかでかその年京に上る事あるべき。この年の情時勢の輝然たる事にして、甲陽軍鑑の虚妄論を待たず。御上の説「常山紀談」に見えたり。
〔荻生徂徠の「南留別志」〕
徂徠の南留別志に、高坂弾正と云者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば甲陽軍鑑、他人の偽作なる事、いよいよ明らかなり。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年01月10日 19時46分58秒
コメント(0) | コメントを書く
[山梨の歴史資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X