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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月14日
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カテゴリ:著名人紹介

特別寄稿 鴎外と私の父 鴎外博士の臨終

 

 

   額田 煜氏著

   『中央線』1973 第9号

    一部加筆 山梨歴史文学館

 

大正十ー年(1922)七月九日に森鴎外が数え年六十一で死去してから丁度五十一年になるわけですが、主治医だった父は当時満三十五才で、順天堂で内科を担当しながら、付属研究所の所長をつとめていた頃のことです。

 私達は本郷区駒込西片町に住んでおり、私は瀕之小学校の一年生で、「森さんの病気が悪いそうだ」ということで父が忙がしそうにしていた記憶がありますが、勿論その森さんが如何なる人物か知る由もありませんでした。

 後から考えれば、多分その前年の夏でありましょう。

上総長者町にあった賀古別荘に滞在中、海岸伝いの隣村日在村にあった筈の鴎外別荘(「妄想」の舞台になっている)と覚しき所へ連れて行かれたことがあり、その時浴衣がけで団扇を片手に出て来た小柄な爺さんに向って同行の賀古鶴所(私の母の伯父)が持ち前の大声で「おうい モリー″」と呼びかけたそれが森さんだったようです。

 賀古鶴所(かこつるど)は鴎外より七才年長の同級生で、「ヰタセクスアリス」の古賀鵠介、「舞姫」の相沢謙吉のモデルとして知られているが、その事蹟を要約すれば、第一回の陸軍軍医委託生で陸軍軍医監(軍医少将)わが国の耳鼻咽喉科の本当の開祖、山県有明公の腹心の一人、佐々来信綱門下の歌人、ということになりましょうか。(編者註 賀吉夫妻には子なく、姪を愛育したがその姪が鴎外主治医、煜氏の父晉氏の妻)

 上記の古賀、相沢として活字にされているその容貌性格、一挙一動は、昭和六年に数え年七十七才で死去した晩年に至るまで全くそのままで、文豪の手にかかると、一個の人間像が斯くも半永久的に生きるものかと感嘆措(お)くことが出来ません。

 さて、臨終間際の鴎外が私の父の往診うけたのは、この賀吉の勧めによるものとは以前から聞いていましたが、私が昭和二十四年春に奈良の秋篠寺を訪れた時に、そこの名物和尚であった堀内瑞善師に、父の「鴎外博士の臨終」を示されて初めて知って、珍しそうに借りて帰り、父に見せようとしましたら、一瞥をくれて、「ふん」と言っただけでした。

 それ程父は過去の追懐が嫌いだったわけで、ここに発表したりしたならさぞかし、いらぬことをする奴だと、苦い顔をしておることでありましょう。

 なお鴎外日記には

  明治四十五年七月二十一日(日)

   夜、牛込なる賀古の新宅にて常盤会あり。賀古の婿額田に初対面す。

  大正二年四月二十日(日)

   賀古挑次の女桂額田氏に嫁す。芝三級亭にて午餐会あり。

  大正八年十二日二十八目(日)

   雨、額田晋第三子生。乞予命名。乃命日楙(?)

  大正十一年六月二十九日(木)

   第十五日、額田晉診予。

 というような記事があり、この診予が自筆の最後で、この後、七月二・三・五日に額田晋来診、とあるのは、代筆によるものだそうです。 (昭和四十七年二月 記 )

 

森鴎外の主治医額田晋博士の手記

 

鴎外博士の臨終

 

森先生の御病気について家族の人々が注意されるようになったのは、昨年の秋(大正十年)の頃であった。先生は四十年来健康でいられたから、医師の治療など受けられたことはなかった。

それが昨年の秋ごろ、下肢に浮腫があり、幾分栄養の衰退に気づいた周囲の人達は、腎臓病ではないかとの疑を抱いて尿の検査をすすめられたが、先生はいつも「なあに病気ではない」といわれて、相変らず毎日図書寮や博物館に出勤していられた。

ところが六月に入ってからついに家に引こもって、加療されるようになったのだが、その時賀吉氏などの勧告に止む無く、「診てもらうなら額田にしてくれ、他の者ではいけない」といわれた。

 私が診察に上ったのは六月廿日で、その時の先生はもう、見るから痛々しいご様子であった。

 「君いよいよ病気らしいよ。何しろ四十何年も診察を受けたことはなかった。今度君に診てもらうのが初めてだ。これから君だけで誰にもみせないから、そのつもりで診察してくれ給え」と先生はいわれた。

診察を終っても「これで僕の身体のことは君にすっかり判った筈だ」といわれただけで、別に病勢については何も聞かれなかった。

 尿を検査してみたが、蛋白円柱もあり、比重などすべて萎縮腎の病状に一致するので、愈々萎縮腎ということに診断した。私が診察したときはその病状も余程顕著で、稍々重態であることを認めた。即ち身体の衰弱は依然として著しく、顔面及び四肢に軽度の浮腫を認め、心臓衰弱の徴候があった。

 この時先生は、もう自分で死を予覚していられたものらしかった。看護には奥様がつき切りで、看護婦なども必要ないといって、初めの間は許されなかった。御病中も実に悠然たるもので、随分苦しそうに見えても、それを言葉にも出されたことはなく、余程重態になられて、脈拍など結滞するような時でも、看護婦が先生を扇いでいるとき団扇をその手から取って、ご自分で悠々と扇がれたご様子などは、生死を超越したとでもいおうか、実に大悟した人でなければ見られないものがあった。

 私が診察に上ると、先生はいつでも、ニコニコしながら「どうも暑いのにご苦労でした。」とか「どうもいろいろ有難う」とか、「伺あに、別段病気は悪くないが、宅の者が騒ぐから仕方がない」とかいわれていた。

 その御病勢は日一日と険悪に向うばかりであった。その時、先生は私に向って「そろそろ険悪になって来たね」といわれたことがある。ご自分ではもう生き延びようなどというお考えは少しもなかったようであった。

 私が診察してからは、養生については、何事に拘らず私のいう事を聴き入れて下さった。私が薬など差上げると、非常に甘味いといって召上った。

 臨終の前夜、即ち七月八日に診察したときは、容態刻々険悪で、流動物の摂取も困難となり、意識は明瞭であるが脈傅が時々結滞するなど、愈々明朝は絶望であろうと思って帰った。

 九日は早朝電話がかかって来たので、急速駈けつけた時には、危篤に陥り脈拍呼吸も刻々静止して、最早や施す術もない有様であったが、最後の注射を試みたがそれも今は何の効果もなく、単に午前七時、溢焉(いついずく)として逝かれたのである。(じゅん)に御臨終は静かなもので、少しのお苦しみもなく眠るが如く瞑目せられたのである。

 誰かが「衰えたる哲人の像を見るようだ」といったが、実にこの位適切な形容はなかったと思う。

 先生は「医師に病気だということを診断されると、それに気をとられて、思うように十分頭脳を使うことができないから、それで診て貰わないのだ」といっていられたと聞いた。それであるかどうか知らないが、先生が図書寮を休まれるようになったのは、もう一歩も歩くことが出来ない位、重病になられてからである。その頃友人の方が訪ねてみえた所、先生は「なあに、私は病気で休んでいるのじゃないよ」といっていたそうである。

 こんなところを見ても、いかに先生が死に至るまで職責に忠実で又確固不抜の人生観をもっていられたかが判るであろう。

 先生の親戚や知己の方々の巾には多数の名医がいられるにも拘らず、特に私一人を最後まで信頼されたというのは、奈何いう理由であったか知らないが、兎に角、臨床家としての私の生涯に、牢記して忘れること出来ない深い印象を与えられたものである。

    (大正十一年八月、春陽堂「文豪鴎外森林太郎」より)

 

主治医として

 私が鵬外先生の御病気による御最期のお世話をするに至りました経緯は、妻の伯父、賀古鶴所(つるど)が遺言を託されるほどの先生の無二の親友でありまして、その賀吉が先生を説得した結果でしょうかと思います。

 当時私は大学を出てまだ十年ばかりの時でした。森家へ伺いますと(先生の日記の大正十一年六月二十九日の条に「額国晋診予」とあるそうですが)勿論臥っておられましたが、先生ご白身は病気が何んであるか、状態がどう進行しているかなど、よくご存知でありまして「家族の手前、医者に診せないではネ」とか、「最後まで君一人でやってくれ、助手は使わないように」とか、或いは「誰にも病気の本当のことは言ってくれるな。子供の結婚などのこともあるし………」とか、実に用意周到なのに驚きました。

 当時発表された 萎縮腎は、勿論その病状があったからではありますが、主因は肺結核で亡くなられたのでありまして、痰は結核菌の純粋培養のようでした。痰の標本は小金井良精先生(お妹喜美子さんのご主人)だけにご覧に入れました。今日でしたらいろいろ良い薬もありますし、世間の結核に対する考えも変って来ておりますから、何でもないのですが、当時としては子孫のために極力知られまいとなさった訳ですね。それまで痰が出てもご白分で庭の隅で焼いておられたそうですし、日記の節々にもそういった心遣いが残っていると伺っております。

 その当時真相を知っていたのは、ご本人と私のほかには、賀古鶴所と小包井良精先生だけで、或は奥様が気付いておられたかも知れません。実は令息の於蒐君にさえ、ご草去の時は恰度留学中でしたし、私も先生の口止めを固く守っておりまして、漸く数年前にその真相を話したほどです。於菟君も「なるほど、それで思い当たるフシがある」ということでした。

 それにつけても思い出しますことは、或る日入沢達吉先生が見舞に来られ、「どんな具合だ」と訊かれた時に、萎縮腎のように申し上げますと、「そうか」と言われる程度でホットしたのですが、あの聡明な入沢先生のことですから百もご承知の上だったのかもしれません。

 そういう訳で、私は先生の唯一人の医者となったのですが、当時としては何も積極的なことの出来ない御容体でして、それに古いことで記録もありませんので、詳しい医学的な報告が出来ないのが残念です。

 ただ今日でもハッキリ記憶に残っておりますのは、先生のご最期がどんなにご立派であったかということで、実に大悟徹底眠るが如き偉大な死であったということでして、私は非常な感励をうけました。                         (遺 稿)






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最終更新日  2021年01月14日 23時06分05秒
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