2302091 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年01月15日
XML
カテゴリ:著名人紹介

旅の老マンス

 

『中央線』1973 第9号

  池田光一郎氏著

    一部加筆 山梨歴史文学館

 

高遠

 信州の高遠は人ぞ知るか桜の名所である。春らんまんの頃見物に行くのが一般の常識と云うものだが、ヘソ曲がりの私は晩秋の頃、はじめて高遠へ行ったその時の老マンス? 旅の思い出話である。

 

あのいまわしい昭和三十四年、韮崎を再度襲った台風七号と伊勢湾台風で親ゆずりの菓子店も献穀田の田も、そしておまけに愛用のカメラさえも釜無川の洪水で流してしまい、呆然自失?していた時のことでした。せめてもの思いで子供用のフジペットカメラを新調し、それを肩にしてぶらりと伊那北駅に下車したのでした。そして高遠行のバスに乗り込んだ、天竜川の橋を渡ると行く手に仙丈、甲斐駒などのなつかしい南アルプスの山々が、うっすらと初雪に輝いている。バスの座席に一緒に偶然に並んだ中年の奥様風の婦人がバスガ-ルから高連行の切符を求めたので私もこれにならった。

 はじめて行く高遠の様子を聞いて見ると、この婦人なかなか詳しいのです。先ず第一にさくらの名所、そして小説や、映画で有名になった絵島の悲恋物語りや、峰山寺のドイツの植物のことなど、手みじかに話して呉れたので思わず聞きほれてしまった。

 

美しき花を持ちたるあで人に

       絵島の恋の物がたり聞く

 

 千古の夢をただよわす、南アルプスから源を発する、三昧川を遡ってバスはほどなく高遠の城下町についた。先ず、花をもちお墓参りに行くというこの婦人の好意で、高遠城主、内藤家歴代の廟所である満光寺に案内された。満光寺の山門は延享元年、珍しい「シナノ木」ばかりで建築された国宝級のもので、境内には名木極楽の松があり、本堂には伊那に流された曽我兄弟の仇、工藤佑経の子犬房丸の守本尊、阿弥陀如来が安置されている。そして墓地には武田信玄の遺臣本郷八郎左衛門、同太郎左衛門らの五輪の塔がありその巨大なのに驚く。この五輪の塔のすぐ隣に「黒河内」と記した墓に先はどの婦人が静かにひざまずき、花を捧げて香を焚いている。亡き夫への墓参か?そんな風に見るのはひが目か?その美しい自然のポーズに、素早くカメラのシヤッターを切る。

 

偉大なる五輪の塔のならび立つ

満ちて光りぬ覇業のあと

 

夢に見る阿弥陀如来のご利やくか

浮世のしゃばに極楽の松

 

これから行く高遠城址と江島の墓のある蓮花寺の道順を教わり、なんとなくその淑やかさに心をひかれながら、厚く礼をのべてこの婦人と別れる。無理もないずら、こちらはホヤホヤの男の未亡人?である。

 桜の名所高遠城は、見晴らしのよい山付の高台になっていて城の入り口には進徳館という昔の学問所があり、その一角には新しい県立高等学校もある。さくらの古木「彼岸桜」はその数、干余本、山峡特有の霧や、霜によって生じるおびただしいコケむした樹梢に、春爛漫の頃がしのばれる。眼下に見ゆる城下町、三峰の清流がせき止められてダムに変ったのも、時代の流れか・・・。

 戦国の昔、この要害によって攻め寄せる織田信忠の軍勢を手玉にとった仁科五郎盛信は、武田勝頼の弟で孤軍奪戦、よく闘ったが落城近しと見るや、腹一文字にかき切って、自ら臓腑をつかみ出し押し寄せる敵兵にたたきつけ、壮烈悲梢なる討死をとげて、武田軍防衛の人柱となったというのである。(この間起った自衛隊乱入事件三島由紀夫の割腹自決よりも更に壮烈であったという)。

この高遠落城がきっかけとなって、つづいて韮崎の新府城が落ち、武田家没落の哀史をとどめた天王十年の昔話だが、峻峰仙丈ケ岳の白雪のもと、五郎山は風におののく尾花にもその華々しい武者ぶりが偲ばれて、山麓を彩る紅葉の赤が目にしみるのである。

 高遠の見晴らし台、奥の離れともいうべき所に、自然石の巨大なるデッカイ石碑がある。これは俳人寄壁の句碑で、「蝋色江声」と中村、右折(高遠出身)の題字に、仙丈を望み見る四面には、

 

   斑雪(はたり)高嶺 朝光うぐいす啼いて居

 

 また裏面西駒ヶ岳(木曽駒のこと)を共に見る東側に河東碧梧桐の書で、

 

   西端は斑雪てし尾を 肌脱ぐ 雲を

 

 と豪快奔馬のような筆致でその既望をほしいままにしている、そして、その向い側には、

 

   仙丈の高根をいでて冬の 目は

       天つみ空に 輝きにけり (芒人)

 

 と、つつましやかな歌碑が立っていた。

 城趾と公園を結ぶのに白兎橋がある。それにはこんな由来がある。

 

「文政の頃、高遠町に酒遺業宿屋こと、広瀬治郎左衛門という人があった。その雅号を白兎と称し、和歌、狂歌を得意とした、文政の百姓一揆の際には自家の米蔵を開放して、奉行所に押し寄せた百姓たちに米を与えて、ことなきを得た。この他、相生町に通ずる弁財大橋を、自費で遺るなど公共のために尽くした。その孫、省二郎氏(俳号奇壁)は法憧院郭(くるわ)を買上げ、公園として寄付、祖父の遺志をついで白兎橋と名付けた」

 

という。特に酒遺業富屋の屋号は、どちらが本家かは知らないが、私の町韮崎にも富屋酒造店があるのでなつかしかった。

 

広大な天守閣を思わせる高遠閣のほとりに「無宇の碑」という何も書いてない世にも珍しい沈黙の石碑が突立っている。これにはこんなエピソードがある。

 

「高遠出身、伊沢多喜男翁は国家枢機に参じ、公私常に至誠一貫特に教育を重んじ終生変わらず、郷人翁の高風を慕い、永く範を後人に伝えんと、碑をもってなさんとすること翁の知る処となり、これを固く容さず、有志まこ素志をひすがえさず、熱願は凝って遂に無字の碑となる。駒ケ岳の素雪、三峰の清流、古城の桜まさに翁の風格を顕すものと言うべきか!」

 

 折から古城を渡る一陣の突風が本の葉を捲いて吹きまくった仙丈おろしの初物か?あがね色の走り雲に陽はかげって、急にあたりは塞むざむとなる、古城裏手のいわゆる搦手(からめて)の方に廻って山のこせ道を一直線に、藤沢川原に下り絵島の墓のある有名な蓮華寺に詣ずる。

 この蓮華寺は聖一の小詞によって一躍右名になったのだ。正徳四年の徳川時代のこと、江戸城大奥の秘めたる情事が、風紀粛清の嵐のために、その犠牲となった絵島、生島の悲恋物語にはじま6、歌

舞伎役者の生島新五郎は烏も通わぬ三宅島へ、そして御殿女中重役の美しき松島は、この霧深き高遠に流されて二十八年間、深く仏法に帰依し、生ける屍(しかばね)となって、花畑のお囲い屋敷で六十一才の生涯を淋しく果てたという。

 いまは七面堂の隣に、歴代住職の墓と並立している笞むした墓石がその名残りをとどめている。境内には、これを弔う聖観音菩薩が建立されて、そのかたわらには今井邦子女史の歌碑がある。

 

 

   向う谷に日かげるはやしこの山に

       絵島は 生の心 堪えしに

 

また田山花袋は、

 

えにしなれやもも年のあと古寺の

        中に見いでし小さきこの墓

 

近代の歌聖、斎藤茂吉もここを訪れている

 

あわれなる流され人の手弱き女(ひと)は

          姐となりて ここに果にし

 

さて私も負けじと臆面もなく

 

     生木さく古きおきては恨めらく

          今が世なれば 松島 生島

 

     蓮華寺の白き尾花は 静もりて

           鈴巫の墓に ちちろ虫なく

 

 門前で駄句っていると、杖突峠行きのバスが砂煙をあげて走って来た。片手を上げてバスを止めて乗り込む。それから十三夜の月を眺めながら、夜の茅野市に下り、駅前で信州そばで空腹をみたし中央線の上り列車で韮崎に帰った。

 そして翌日、別宅で待ちかまえていた父親一毎に武田史蹟の高遠物語を報告した。

(実は申遅れたが前々から高遠史蹟の調査を父親から頼まれていた)。

これでやっと、親奥付をしたと思ったのも束の間、それから五目目、旅行好きな父上は親戚に当たる塩山温泉、広友館池田一正方に宿泊中、中風が再発し、遂にあえなくも八十三才の高齢をもって遠いあの世に旅立ってしまった。

 

   脈博もとだえ勝なる老し父の

        枕辺に咲くリンドウの花

 

   初雪の山に避難つづく時

        わが父上は 塩山に死す

 

   吾死なば焼いて粉にして灰にして

        やせたる国の耕土肥やせよ

 

 こうした、一宿大陸居士の遺言により火葬にして、遺骨の灰を、韮崎市街が一望のうちに見える七里岩穴観音山で、二十一発の花火を合図に灰撒式を行ない、明治天皇廊製奉唱のレコードから亡父の唄声をテープで再現し、螢の光や、葬送行進曲を奏でながら白衣姿の野田菊蔵、佐藤忠雄、岩下詩作、小池竜幸の各氏、五十余名の門人たち。に護られて、一宿変った葬式を行なったのでした。

 

   音楽や花火で父をおくれども

        やっぱり別れはつらきものかな

 

   妻も逝きまた父も逝きて災害に

        店もやぶれて 如何にすごさん

 

 この葬式の珍ニュースは写真入りで山梨日日新聞に大きく報道された。これを聞き伝えた伊那の里のあで人、黒河内さんから丁寧な悔状が届いた。

 「お父上の突然のご訃報に接し驚き入りました、あなた様のお力落としお悲しみは如何ばかりかとご推察申し上げます。武田史ご研究に熱心な御父上様も、今少しご寿面が永かったらとさぞかしお心残りのこととお忍び致します。年はとりましても親は世界にただ一人、永別の淋しさは胸に痛みます。はるか遠くよりご冥福をお祈り由し上げます。ご盛大なる御葬式のご様子、新聞のニュースや写真により驚異の目をみはりつつ拝見致しました。ほんとに夢のようなことばかり…おとぎ話のような中に目をつぶって何十分、やがて現実に戻った私は、これがあの南アルプスの彼方で行なわれた、実にすばらしい葬式と、自分に言い聞かせました。生前のお父上様をお偲び申し上ぐる時、一布変ったお方かなと驚きつつ、そのご気骨故に生涯を自らのご信念に、立派に生き抜かれた御こと、ほんとにご敬服申上げます。それにご遺志をご遺言通り行なったあなた様のご勇気と、御孝養を深く思あわせて感じ入りました。悔のない生涯とは、勇気をもまた必要の場合もあることを知らされます。次々と色々の御悩みの中におかれまして、どんなにかご傷心の御ことご推察甲し上げます。生きるということのむずかしさを、つくづくと思わずには居られません。南アルプスをこちらからはるかに望み見てペンを置きます。            

かしこ  幸江」

 実に涙なくしては読みおわせぬ。名句銘文であってその実感をこめた、なぐさめの言葉に、また一しおホロリとさせられました。

 

 それから毎日、夢かうつつか?:・…。目に見えない糸のようなものに悩まされて、老らくの高なる胸を押し静めながら、とうとう高遠の夢を追ってプロポーズしてみたんですが、こちらの熱意が通じないのか?それとも突っ込みが足りないのか?誠に残念ながらショッパイ話になってしまいました。

 それもその筈です、相手は醤油屋の未亡人でありました。

 

甲斐駒に山の彼方のこと問えば

        いな(伊那)と答えり夢の高遠

 

   寒ざむと頂き白くなりにけり.

        わが頭髪と 南アルプス

 

 田山花袋は「高遠は 山すその町 古き町 行きあう子らの 美しき町」と 高遠を詩情豊かに歌い上げていますが、私に云わしめれば「………行きあう女(ひと)の美しき町」と、こう申上げたい。では「旅の老マンス」この辺で失礼……。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年01月15日 23時10分36秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X