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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月17日
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郷土研究 韮崎 平賀貞山と窟(穴)観音堂 内藤新三氏著

 

『中央線』1973 第9号

  内藤新三氏著

    一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

 笠井文劫(本名文吉)の住所は河内で、わたしの祖母の実家河原村落韮崎町韮崎(韮崎市韮崎町)丸屋源次郎(中山氏)宅で、家業の紺屋に働いていた。性質は極めて温和で、かつ実直、みじんも浮ついたところがなく、祖母の家が到産してからは紺屋道具を貰い受け,「笠丸屋」(主家の屋号「丸屋」の上に自分の姓の頭文字を冠したもの)と称し、自分の家を新築(現在「金の玉パチンコ」のところ)し、真面目に働いていたが如何いうわけか子種がなく、使っていた女中の姉さんにちょっかいを出し、この情事をおかみさんに感づかれてからはとかく夫婦の間の和合を欠くようになり、本妻さんも夫のことを「丈助やん」と呼び、変てこな夫婦に移行してしまった。

 

笠丸屋の道路をはさんだ南側にそば屋があり、そば屋のかみさんが死んで笠丸屋のおえいさんが、後釜に納まるようになって笠丸屋を出てからも、いったんもつれた夫婦のなかはよりが戻らず、三度の食事も夫婦別々で一言も言葉をかわさなかった。

 

明冶三十六年十二月十五日山梨時報社代表者桜井栄太郎縦輯兼発行の「現在之韮崎」という小形本に「笠丸屋」を左のように照会している。

 

「公園の傍にあり祖先よりの紺屋業にして一般の染物ゆのし、洗張りを為す、殊に印半天、馬道具、五月幟については其名最も高く、遠近より注文し来るもの多きを加へ、益々拡張するのみなり、技所長は即ち主人笠井丈吉氏にして傭職人、徒弟等数人あり。」

 

それはさておき、この家が隆々と紺屋をしているところ、「小一ちゃん」と「貞市ちゃん」という二人の職人がおり、ある日わたしが遊びに行くと、貞市ちゃんが

「お前明日なはや(鮠)を取りにえべし(行こう)、学校から帰ったらじき(直)にここへこう(来なさい)」といったので、その翌日行ってみると、彼は早々帰る支度をしてわたしを連れ出し東裏へ行き、鉄道線路のスイッチバックに添ってその突端に出、これを左に捲いて約十歩もすれば鉄道線路の踏切がある。これを越えると道は左に折れる。今度は逆にいま登ったほどダラダラと下ると、道は右に折れ一直線に隣村の更科村へ通じている。この道を約五、六分行けば黒沢川の清流がささやかな響を立てている。そこで黒沢の丸太橋を渡り、川について少し南へ下って砂地を捜し、黒沢の本流に添ってじょうれんジョウレンで細い小堤を造り、その南端にブッテ(竹製の魚獲り)をすえつけた。そこで貞一ちゃんが黒沢の本流と、人工の小堰との間に残してある石を取り除けると、黒沢の水が人工堰へトウトウと流れ込んで来た。するとその水と一緒に白鮠(はや)、油鮠、それへ鰌(どじょう)などもまじって造ったばかりの小堰へどんどん魚が流れ込んで来た。そこで頃良しと見たか真一ちゃんが、小堰へ入って魚を下流へ追い下げた。どん尻にはブッテイが備えつけてある。こんなことで小笟へ半分くらい獲れた。私も分け前を貰って家へ帰ると、私が居なくなったので家では親類や、友達の家を探し歩いたが見つからず、「遠くへ行くときには誰と何処へ行く」と断って出なければいけないと言って怒られた。

 

この貞市ちゃんの元の屋敷は今の「三幸百貨店」のところで、祖父は平賀仁左衛門といい農業兼馬宿で、真市ちゃんの母親が仁左衛門の息子の金之助に嫁いで来たときには、お駕籠へ乗って来たということが言い伝えられているくらいだが、父親の金之助という人は日雇稼業といっても下肥の汲取りくらいで、手に職がなく、また積極的に職を求めようとする意慾もなく、人並以上大柄な図体をしていながら、始終ゴロゴロと寝っころがってばかりいて、まったく類廃的な人物だった。

 真市ちゃんの一家は金之助夫婦と、長女のもとよと四人暮だったが、長女のもとよが豆腐屋の売子の子を孕み、父親にこっぴどく怒られたことや、自分目身も気に病んだ爲かついに発狂してしまい、いまのように社会施設が完備している時代ではなく、健康の家族と一緒に暮していたので、ときには父親や腹を立てて殺めてしまうと、詑を振り揚げて追いかけたりしたこともあり、戸外に出れば子どもたらも何とか、彼とか悪口ついてからかうというようなことも重なり、ますます病状は悪化するばかりで、親、兄弟もどんなに辛い思いをしたか知れなかったと思う。彼女はよく薪を拾いに七里岩へ登り、薪を抱えて下りて来る姿をしばしば見かけたが、幸か?不幸か?この薪ひろいが彼女の命取りとなった。彼女は薪を堅く小脇に抱えたまま、七里岩から落ちて亡くなったのである。

 その後丈助やん夫婦が死んで、相続人がないまま紺屋も廃業し、貞市ちゃんは失職したが、もうその頃は子どもが成人していたので、子どもの仕送りもあり、また彼は青年のころから浪曲や手品がすきで、「人参腸」へ行くたびに浴漕のなかで唸る。彼の浪花節を聞いたものだ。その後肢は「平賀貞山」と号し、寄附を募って金糸の刺繍をしたテーブル掛を造った。このとき家主の河野屋が力を入れ、一夜この家でテーブル掛披露の初舞台を開いた。補佐役としては小中沢春吉さんの講談があったが、これは幽霊の出る話でわたしは母の膝へ顔をすりつけて聞いた。

そうこうしているうちに彼の名がだんだん世間へ広まり出し、近郷近在の祭や人寄の余興などに頼まれて行くようになり、浪曲を語り手品を演じて何がしかの謝礼を貰い、細々ながら生計を立てていた。町のなかに金持の親類はあるが、親類などというものは、万々と生活していればチヤホヤと近づいてくるが、落目になればそっぽを向いて振り向きもしない。そ

れどころか世間体を飾って、そんな親類はござらぬなどと嘯(うそぶ)く位が関の山だ。

 

わたしはある冬の日、彼が窟観音境内の地蔵尊菩薩(高さ六・七尺)の石像が祀ってある岩窟のなかで、西陽を浴びながら正月用に売る、しめ縄づくりをしている姿を見かけ近よって行ったが、彼はキョトンとしたような顔をして、わたしを眺めただけだった。彼はもうわたしを覚えてはいなかった。そしてその翌年の冬には彼の姿をここに見ることができなかった。近所の人の話を聞くと成人した子どもが連れて行ったであろうということだった。いま健在であれば八十歳をはるかに越えているかと思う。

 この観音像で思い出すのは非人や乞食の類いである。幾ら追い払っても、追い立ててもここを暫時の宿とし、窟観音堂北側の随道の中で、食物を煮炊きしたり、冬は暖をとるため焚火をしたり、大小便は所構わずひり流し、非衛生と同時に火災の危険があった。そのなかの一人は精薄者「タケサク」である。彼はここへ寝泊りしていて「名取」という荒物屋に拾われ、この家の小用足しをしていたが、生家から連れ戻しに来たという噂を聞いた。まあ、窟観音出身者ではこの男が氏、素性の通った最高の人物だったかも知れない。それと同時にこの観音堂はわれわれ子どもの遊び場で、かなり危険なこともやった。観音堂正面土台中央に大石が一つ岩からはみ出ている。子どもたちは堂宇の手摺からこの石の尖端に降り、ここから縁の下をはい廻ったりした。時にはこの縁の下から五銭の白銅や、十銭の銀貨や、一銭、二銭の銅貨などを拾って来たものもいた。恐らく祭典のときに落したものか、普段参詣に来た善男善女の無くなしたものででもあろうか。わたしは小度胸だから、石の上へ下りるなどということはとてもできなかったが、「金丸」という鋳掛け屋の倅が、この石の突端に降り手をあげて万歳をした。その瞬間足を滑らして地上へ落ち気絶してしまった。すぐ誰かが家へ知らせ、母親が飛んで来て家へ担ぎ込み、医者を呼んで手術をし意識は快復したが、恐らくこれが後遺症となっていたものか、三十才そこそこで死んだ。窟観音堂から落ちたのはこの者一人だったが、七里岩昔上から落ちたものは五、六人あってわたしの知るかぎりでは、そのうち一人が助かったばかりで、あとはみんな死んでいる。この命拾いをした果報ものは落ちた場所が竹藪だったので、竹の弾力性にうまく乗ったためではなかろうか。最近七里岩台上で養老院が建ち、工場ができ、アパートや一戸建の住宅が増えつつあって、自動車の往来も頻繁になっている矢先、平和観音像西側が金網の柵だけでは心細い。

 窟観音堂勧請当時の河原耶村(韮崎市韮崎町の前身)は、七里岩以西は釜無川が氾濫しており、一面の河原だったため七里岩の東側から隧道(長さ約七・八間)を穿って参道とし、ここへ堂宇を築造したものではなかろうか? 岩下貞寛という人が町長時代、観音像が発堀されたという事実もあり、この辺まで釜無川の水が来ていたことが立証できる。

 窟観音堂へ入ってすぐ左手格子戸の中の雛壇に、身長約二十センチぐらいの仏像が千体祀られていて、これを干体仏といっている。彩色が施されておりなかなか立派なものだが、ところどころ空座が見える。それはこの像を秘かに盗んで持ら帰り、家庭に勧請すれば子種が授けられ、またお産が軽く済むという伝承があるからだ。そしてこの伝承に忠実だった不心得者があったためでまことに遺憾千万である。

寺ではこれを封じるため、こうし戸に鍵をかけて開かないようにしてあるが、これでもまだ防ぎ切れないらしく、こんどはこの堂宇の入口まで鍵をかけて、堂宇内には一歩も入れないようにしてしまった。

 韮崎が揺り篭の地である私たちには善い様なものの、遠来の観光客または信仰者もあることだろうし、この人達が締め出しを食ってしまって、どんな気持で立ち去るかと思うと、暗然とするのはわたしばかりだろうか。不心得者もさることながら、何とか有益な対策はないものだろうか?

 大正十二年四月三日、窟観音堂境内に「報恩杵家熊吉姫の碑」という記念碑が、熊吉門下一同の弟子たちによって建てられている。この人は幼少のころ天然痘を煩いそのため失明し、全盲の身でありながら刻苦励精、長唄の師匠となり、八十余歳で世を去るまで芸道一途に生き、今韮崎町の七十歳を越えた年配の女性で、この人の門をくぐらなかったものはないと言っても過言ではないくらいで、寿座という劇場で同師匠の一生一代を催したときには、甲府市芸能会界の応援もあり盛況を博したものだった。そのほか一年に一回くらい、各弟子遠の家庭を順番のように回って会場とし、総さらいの会が行われて、門外者の視聴も自由だった。この場合も時によれば、甲府市の舞踊師匠などの特別出演もあって、錦上さらに花を添えたこともあったが、この師匠が死んでからは芸能界も凋落の一途をたどり、同師匠の名前すら知るものも少なくなった。世知辛い世の中とは言えまことに淋しい限りである。しかし最近伝統芸能が活発となり、各所に邦楽や舞踊のグループが出き、いったん消えかけた芸能の灯が再びともり初め、復興の機運に向いつつあるようではある。

 ちなみにこの師匠が明治四十一年四月、次のような短歌を発表している。

 

翌日よりは猶惜しむまじ 

三味線の糸の音色も 曇らざる間は

 

杵屋久摩吉謹白 明治三十九年十月七日

 

「山梨日日新聞附録韮崎」に次のような記事が掲載されている。

   窟観音の大開張

 韮崎町岩屋観世音は古来有名なるものにて、三十年毎に大開帳をなし、当日は韮崎往還より数丈の岩窟堂に、木材を以って堅牢なる長橋を造り人馬往来自由なれば、本尊なる馬頭観世音に因みある馬の持主は、皆共衿馬へ色々に飾りを施こして参詣せしむる等、近郷近在は勿論十数里外より参詣するもの非常に多き由にて、今回の開帳は去る三十一年に執行の筈なりしを、同年は大水害の為延期したるより、共進会の開催を好機とし執行する事となれり。 

尚同窟上観音山は眺望極めて佳なるのみならず、雄大なる風景にして遊覧所としては、実に適当なる場所なれば、町役場に於いて今回道路を改修し、山上にビール、酒、鮨店、茶店等の設備を為すは勿論、凡て頗る大仕掛の開帳なす筈、其日取りは十月二十日より七日間なりと云ふ。

  

奇観七里岩 菜花園

 

韮崎町の中央より少し北によって、名からして面白い雲岸寺といふ寺がある。寺の後(うしろ)は山で、その山は屏風の如く立ち直立十数丈の絶壁である。絶壁の中央に洞窟があって、窟の裏に間口は九間の堂宇がある。左右の壁と後の壁とは無論巌石そのままである。これが所謂窟観音で名高いものである。堂の左に抜け穴がある。大人も立って行くを得る。歩むこと七、八間で忽ち山の裏手にぬける。そこを更に左に迂回して山の頂上に登れば、眼界頗る広く眺望の絶佳地である。此処は昔寺院の在った跡で、亭々たる老松の間に殖樹様を為し奇石態をつくって庭園の面影がのこっている。

そこに堂があって堂守が時刻に鐘を撞く、俗にこれを鐘撞堂というが本名は新府という字(あざ)である。そしてこれが七里岩の南端なのである。崖下東には築提あり、停車場あり、長蛇が常に黒煙吐いて昇降する。少し向うを見ると田圃をへだてて塩川の激流があり、川崖亦奇色に富んで風趣頗る愛すべきである。

金剛寺のトンネルを出て此川に架けた弓形の鉄橋の上を汽車が通るのは長寛の上を黒竜がうねる様である。

崖下西の方は隙なく過って足を失えば顛落して屋根の上にも行かれそうである。尚眸を放てば釜無川が白砂十数町の間を真白に流れて、それがやがて塩川と相会して海の様になる。甘利山の下に連なる清哲、神山、旭、大草の諸村は宛然皆これ画中の景である。また此処の眺望に忘れてならないのは南の方甲州平原を双眸の中に治めて、遥に御坂山脈を隔て、その上に屹然蒼寫を摩して立てるところの富士山の眺めである。ここで富岳を望むのは又格別である。富士三景の一つにかぞえなかったのは、古人の何かの手落ちであったにちがいない。今度韮崎町の有志がここへ公会堂を建てようと計画していると聞いたが実に然るべきことである。慾をいえばその計画がむしろ遅かったではあるまいか。奇なる哉七里岩、奇なるかな七里巌、世の中に名高い岩も幾らもあるが、それは皆形が小さい場所が狭い或は七八間或は三四間或は二一町の間に参差として羅列するに過ぎぬ。然るにこの岩は七八間のもの数十百あつまりて二・三町の景となり、その景が数千・数百・相凭り相重なりて、長く遠く連続するのである。長さが七里あるのである。通常人の一日の行程である。これは岩というよりはむしろ山である。山かと思えば上は大凡平の値になっている。山というよりはむしろ懸崖である。

絶壁であるこの懸崖絶壁は全部の地勢を東西に両分して居る。その北の端は甲信の界である。釜無の清流は親しみて巌の真下に来り、或は恥じらい二三町の西に避くるも、しかもこの七里の長程絶壁と終始相離れることはない。川は窈(よう)として婦の如く、山は厳として夫の如くおのおの相倚りて纏綿の情あるものの如しとでも言いたい様である。この崖に対してこの流れがあるのは更に景象に奇を添えるものである。七里の長壁すべてこれ精緻なる彫刻物である。その形状或は浅く或は深く、或は曲り或は直に、或は縦に或は横に、或は巨人の座せるが如く、或は老翁の躊まるが如く、少女の走るが如く、嬰児の這うが如く、牛の如きであり、鹿の如きあり…………。

 

 

 






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最終更新日  2021年01月17日 06時38分09秒
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