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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月17日
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フィクションとノンフィクション 市川康氏著

雲切仁左衛門なる男、甲州韮崎そだち

『中央線』1973 第9号

     市川康氏著

    一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 この春、身延山久遠寺に参詣した時、広庭に赤い木瓜(ボケ)の花が咲いていたが、その内の一枝だけが白い花を付けているのに驚いて、帰宅後隣家の、植物学界の権威、新津宏先生にお聞きした所、

「そのような突然変異は、植物には間々ある事で、特に身延山にかぎったことではありません」

との御返事であった。

 大地に根を降ろして動かない植物でさえもこのように急変するのだから、動物の世界、特に常に流動する人間界では尚更のことである。まして物語り言い伝え等の領域では、それらが伝わるうちに、どんなに変化して行くのかは計り知れない。

 それに付いて今回私は、我家にまつわる言い伝えやら又は、それをもとにして創作されたと思われる、二三の事柄と、それを裏付けるような又は、多少それらに関連する古文書について考えて見たい。

 歴史家は史料のみを重視し、これの無いものは史実とはしない、然し物語といい、伝説といっても、そこに何らかのもとになるものがなければ発生しないだろうと思うのだが。

 それ故それらは小説伝説、いい伝えと呼ばれるのである。

 

(一) 雲切仁左衛門之記 (大岡政談の内)

 

この小説は江戸時代の黄表紙(当時の小説本)をもとに、作者不詳として明治十八年(1885)七月二日届出、出坂入京橋錦屋町、野村銀次郎として発行されているが、又これとは別に、日本橋横山町二~十四、鈴木喜右衛門発行のもある。この方はさし絵入りで人目を引くように出来てはいるが、紙質が前者は和紙であるのに反し、後者はわら紙の粗末な洋紙であり、明治十八年五月十三日出版となっていて、定価二十銭と大衆向きであり、前者はその一〇倍の四十銭と高価である所から見て、おそらく後者は普及版として後から出版されたものと思われる。兎も角内容は両者共全々同一で、その目次を見れば次の通りである。

 

○ 原沢村百能文右衛門親子のこと

    並び常盤屋遊女お時身請けの事

 ○ 甲州万沢お関所破りの事

    並び雲切小猿向見ず悪心の事

 ○ 雲切偽殺人の事

    並び原沢村文蔵方にて大金を奪う事

 ○ 文蔵夫婦吟味の事

    ならび雲等三人成行の事

 ○ 三吉雲切の方へ無心に行事

    ならび仁左衛門小猿両人三吉を欺き殺す事

○ 仁左衛門小猿両名死刑の事

   ならび原沢村一件落着の事

 

❖ 本文にうつる  

 

「まさに秋霜となるも鑑羊となる勿れと、この言や男子たたる者の本意と思うは却て其方向を誤るの基(もとい)にして、性は善なる孤児も生立(おいたら)に随い其質を変じて大悪無道の賊となるあり。然は(しかれば)雲切仁亙衛門なども其一にして、今の出才や幼名を残したる、其物詣を茲に説出すに。

頃は享保年中、甲州原沢村に佐野文右衛門というて、右膳に暮す百姓あり。或る時文右衛門は出府表に出て所々見物なし、日も西に傾きける故、佐倉や五郎右衛門という穀物問屋に一泊を頼みたり…………」

 

と、まあザットこんな書き出しだが、昔の戯作(ゲサク)のこと、すべてに回りくどくて、如何にもわずらわしいので、ここでは荒筋だけを書くことにしょう。

 

文右衛門は其時の縁で佐倉やの娘おもよと結ばれ、一子文蔵を得て幸に過ごしたが、享保元年(1716)八月十八日文蔵十三才の折流行病のため急死、以来母「おもよ」は番頭忠右衛門の尽力によって家を譲り我が子の生長をたのしんでいたが、同人も二十四才と成ったので、享保十ー年(1726)文蔵は番頭忠右衛門と共に、かねて身よりの者にまかせてある、興津の米の販売先えと出張。その折一夜遊んだ遊女お時という者と懇ろとなり、その後老母の反對もあったが、若い者を失望させるのは良からずという忠右衛門の取りなしもあって、遊女の身元を調べさせた所、父親は故あって王家を浪人した士分の者とわかり、母もこれを許し、「おとき」を嫁として婚ることになった。

 文蔵大いに嬉こび、益々家業に励んでいたが、翌十二年、駿河の父親病気との知らせに、夫妻は身延山参詣を兼ねて、父親を見舞うべく、十月十日番頭清助という者を共に出発した所が、甲州万沢の關迄来て、通行手形を持参して居らないのに気付き、其処の茶屋にて主に相談した所、ちょっと廻り道すれば裏道もあるとのこと。家迄取りに戻るのは日もかかること故、心せくまま其言葉に従い、裏道を廻ることにした。

 所がたまたま茶屋に居合わせた、雲切仁左衛門、小猿及び、向う見ずの三吉の三名、これを聞いて悪心をおこし、偽役人となって文蔵一行をおどしたので、文蔵は大いに恐れ入り、有金三十六両を差出し、内分に願って其場はのがれたが、これが因で後日大厄に合う破目となった。

 

この雲切仁左衛門なる男、甲州韮崎そだち(原文にも河良部村とはなっていない)にて頭脳明晰、大兵にて膂力に優れ、釰をよく使った。或る夏落雷の折、舞降り来った一団の黒雲を切った所、鼬(イタチ)に似た怪獣が死んでいたという。雲を切ったので人呼んで雲切りの仁左衛門。

 

さて、文蔵夫妻、駿河に着き父親を見舞い、病気も及々快方に向う様子故、安心して数日の後に帰宅した。其内幕も押し迫った十二月二十七日、数名の待、江戸は南町奉行配下という触れ込みで、村のお問屋志形で正衛門方に到り、当村百妙文蔵なる者、過日万沢村の関所破りの件、訴えにより取調べる、とて文蔵始め家中一同を呼び出し、繩打って身柄は村役預けとし、番頭忠右衛門に案内させて十一戸前の倉全部を開けさせて調査の上、之を封印して二度目呼び出しあるまでそのままにする様、申渡して立去ったが、後で番頭が気付き、倉の中の長袴を調べた所、中に入れておいた千百八十両の金が持ち去られていたという。

 一家は大いに気落ちしたが、これも廻り合せ悪しき事とあきらめ、数年がすぎた。

 

一方雲切という男、根っからの極悪人ではなかった故か、これにて一切悪手をやめ、江戸表に出て、この金子を基金(で)に正業つき、世をおくるべく、小猿、三吉両者に申渡し、金を三分して今後は、何処で行合うも、一切口をきかぬと、堅く約束して別れ、仁左衛門は両替屋を、小猿は呉服屋をとそれぞれ店を持ち、追々繁昌していた。

 所が一人向う見ずの三吉だけは、根っからの怠け者で、ぐずぐずと有り金を使い果たし、博奕場なんぞに出入して数年の内に又もとの無一文となった。こまった三吉は、約束を破って小猿を脅し、小金を無心していたが、味をしめた三吉は、及々雲切方へも出入するようになった。

 『スネにキズ持ちや笹原よける』で、大声でも出されてはこまると、其都度何がしかの金を与えていたが、両名思案の末、同十七年三月十八日、吉原で大いに遊ぼうと三吉を連れ出し、欺むいてこれを殺害した。旧幕の頃とて、ならず者の三吉は、水死人として取り棄てられてしまった。

 やれやれと両名、胸をなで降ろしていたが、悪い事は出来ないもので、原沢村、村役より市川代官所に届出たことから、南町奉行に一件申送りとなり、同奉行所も関所破りとあれば捨居く事も出来ず、日を改めて文蔵夫婦をお呼び出しになり、逐一吟味する事となった。

 折も折、三吉に強請り取られて、手元不如意となった首切小猿の両名は資金欲しさから、もう金輪際これきりと、同年十月二十八日夜、折しもしと降る秋雨の中を、両替屋鳥屋治兵衛方に押入り、小判千両を持ち去ったが、これに極印が打ってあった所から足がつき、終に両名の悪事一切露見に及び、翌年正月、処刑された。

 所が此処で大岡が困ったのは、大金を失った原沢村文蔵夫妻の始末、何しろ彼等は被害者であるが然し、関所破りとなれば大罪人磔(はりつけ)はまぬがれぬ、何とかならぬものかと思案の末、前記の文蔵夫妻をお白州に呼び出して大岡が言うには、

 「これ其方等が通行せし関所は何と申す所であるか」

との問いに、

 「それは万沢と申す所でございます」

との答、越前の守ハタと膝を打って、

 「ウムそれにて相わかった、その万沢という所には古来万沢狐というて、悪い狐が住いし、常日頃通行入たぶらかすと聞いている、其方等もその万沢狐にばかされたであろう、のうどうじゃ」との情けあるはからいに両者涙ながらに

 「恐れ入り奉(たてまつ)ります」

と答えて、一件落着となるのがこの物語の終りである。

 

話はまことに幼稚で、今から見れば面白くも何ともないが、文字も娯楽も少ない当時としては、大岡政談の一つということもあって中々の評判となり、遂には芝居にも取り上げられて大人を取ったと

も伝えられている。

 扨てこの荒唐無稽とも思われる雲切話を、私の父鮭次郎に、その存命中聞いて見た咳「そんな話はするな」と大変不機嫌だったので、以来これは我家のタブーででもあろうかと思って今日迄過ぎてきた。                

 

ところが今度甲西町誌の編纂に際し、本家所蔵の古文書中から、これに多少関連があると思われる。奉行所からの呼出し状や、歌舞伎役者からの礼状やらが発見されたので、或はこれら小説の素になるような事件があったのではないか、とも想像され、目下当主文蔵氏の協力を待って、少しこれ等を堀り下げて見たいと思うが、事は慎重を要するので、それらの事は十分研究の上次号に書きたい。 末完

 

俚謡・韮崎節 植松逸聖氏著

 

『中央線』1973 第9号

     市川康氏著

    一部加筆 山梨県歴史文学館

 

「ヨイヨイ

     韮崎宿は 馬ぐそ(糞)宿 雨が降りゃ

        馬ぐその水で 飯炊く

 ○

 

例によって、唄から先に書きはじめるが、このえげつない唄が、韮崎を代表する唄である。この唄ばかりでなく韮崎節の唄は、総じて上品とは云いがたく、むしろ下卑た感じのする唄が多いが良く昧ってみるとなかなか面白く、その時々の出来事や人情風俗の機微にふれ、大胆に、また奔放な表現で、ズバリうたい切っているあたり、他所の民謡に類がなく、ュニークな存在で、そのメロデーも何の盛上りもなく、いたって平凡な唄のようであるが、歌っているうちに、何となく懐しさがこみあげてきたり、自然に微笑が浮んで来る。ユーモラスな唄である。

 然し、この韮崎節もどうしたわけか今は誰一人歌う人がなく、完全に消えてしまったともいえる民謡で、何時頃出来て、何時頃迄流行った唄であるのか、その発生年代を探ることは、大変難しいが歌詩が、七五五七四の二十八文字で甲州民謡独得のものであるところから考えると、余程古い時代に出来たものであることは確実である。

 

 韮崎以慶長年間(15961615)甲州街道の宿駅と定められた頃から繁栄の糸口が解かれて、元禄(16881704)、文化(18041818)、文政(18181830)と次第に熟し、天保六年(1835)富士川舟運が韮崎まで延び、舟山河岸が設けられてからは、所謂、「上げ塩」「下げ米」を中心に諸物資の流通が急激に増え、韮崎宿の繁栄は、極大に達したものと思われる。韮崎節が生れたのは、おそらくこんな時代ではなかったか想像される。

 特に韮崎は米の集散地であり、甲州の米相場を一年に動かしただけに米屋の数も多く、最盛時は五十数軒があったという。

 米と馬と人、その雑踏の中で韮崎節は盛んに歌われて、明治三十六年、中央線の開通で、激変した経済の流通機構に押流されて、衰微の一途を辿った米屋と運命を共にして消えて行ったのではあるまいかと考えられる。

 韮崎附近には、昔から

「韮崎の四つ前ではあるまいし馬すぎる」

という地口がある。四つ前というのは、午前十時前のことで其の時分が一番馬が出盛った。「馬が多すぎる」いうことと、眉唾ものの「うますぎる話」のかけ言葉であるが、ともかく、韮崎の四つ前は馬が多かった。

 昔は荷馬車などなく、米麦、塩、薪炭、其他の総てが馬の背で運ばれたので、大量の物資を運ぶには、どうしても数多くの馬を必要とした。

 まことに穢い話で申訳ないが、馬の数が多ければ多い程、その生理現象で、排泄物がまた多いわけで、悪臭フンプンとして「馬糞宿」の異名はここからでたものである。

 時折、俄雨など降ると、黄色い水が流れあるき鼻もちならない時もあるが、その申に韮崎の繁栄があったわけで、現在の自動車ラッシュによる排気ガス公害と何等かわりもない。

 さて、大量に生産された排泄物の処。理方法であるが、隣村に「馬ぐそ拾い」をする農家の人が何人かいて、藁で平たく編んだ入物を天秤棒で吊してきて、ジュレンをうまく使ってキレイに操って行ってしまうので、少しも心配することはなかった。

 この人達のことを世間では「馬糞拾い」と云っていたが、彼等は決して下民でなく、れっきとした農家の主人で、むしろ精農家である。一日一回「馬糞拾い」を日課と定め、これで堆肥をつくって田圃に敷込み、うまい米を沢山つくって高く売り、莫大な財産をこしらえた人もあるということでその人のことを「馬糞大尽」と尊称を奉ったこともある。

 元来民謡には、野山のものと、御座敷のものと二つある。即ち日本音楽の湯施法と陰施法のことである。湯池法が野山で歌う田舎節であれば、陰施法は、琴、三味線などをもらいて歌う御座敷唄のことである。それぞれ五声の配置によって施律が違い味も変ってくるのであるが、日本民謡のうらで、かなり多くの野良唄が、御座敷唄になっている。

 韮崎節もその例で、発生の当時は、馬方が、商人が、職人が馬を追いながら、或は仕事の手間ひまに歌っていたものが、いつしか茶や女の三味線に乗るようになって、御座敷唄になったものと思われる。

 韮崎節が乗った三味線の調子は「二上り調子」である。三味線の調子には「本調子」「二上り」「三下り」「六三下り」(三三下り又は三メリ調子)等、いくつもの調子があって、それぞれ唄の持味を生かすために、調子をかえて即曲するものである。

 「二上り調子」といえば、直ぐに「甚句」とか「都々逸」のことを思い出すが、都々逸や甚句の唄は、七七七五の二十六文字綴であるのに蔀時節は、先に述べたとおり、二十八文字であるのが違っている点で、こんな語呂を持った民謡は、全国に全然例がない。

 現在、日本民謡の大部分は、甚句の影響をうけて、歌詩も七七七五の二十六文字のものが圧到的に多いが、これは大体元禄以降のことで、それ以前は必ずしも一定していなかったようである。

 室町時代(13921573)に上方に、大歌、小歌というのが発生した。大歌に対する小歌であるが、これが後になって小唄っいうようになったが、江戸時代になって、江戸では小唄というでも上方では小歌というていたので、小歌必ずしも小唄ではないという人がある。

 

この小歌を唄って名人といわれる人に、高三隆達(りゅうだつ 15271611)という人がいた。泉州堺の薬種屋の息子であるが、一派を編み出して、自分の唄う小歌に「隆達節」と名付け一世を風靡したそうである。

 この隆遥か、唄った小歌を集めた本に「閑吟集」というのがある。その中にある歌の形態は種々雑多で、仮に例を取ると、七五七五、七七七七、七七五五、七七七五 とこんな具合である。

 歌に例を取ると何れを見ても、甲州民謡のような、七五五七四の二十八文字はないが、甲州民謡に見たような唄が、有ることはあった。こうしてみると、七五五七四の語呂をもつ民謡は、全国何処にもないことになるので、韮崎節は甲州盆唄、田の草節、綿打唄とならんで、甲州独得の民謡の一つになるわけである。

 一体、この特異な民謡に、誰が三味線の手を付けたであろうか、誰彼となく、勝手に三味線をひいて唄っているうちに自然にまとまって、こんな形の手になったものとも考えられるが、他に、三味線の余程上手の人がいて、野放しのまま歌ったりひいたりしていたものを、一つの形にまとめあげたものと思わざるを得ない。それというのも、あまりに三味線の手が確かりしているからである。

 

そこで思い出すのは、昔「三味線のおっしゃん(お師匠さん)」で知られ、町民からも親しまれた、杵屋熊吉師匠のことである。

 

熊吉というから、男かと思うと左にあらず、盲いてわいるもの、若い頃は大変な美人であったということで、本名が「くま」というところから「熊吉」と名乗ったといわれている。

 熊吉師匠は、弘化年間(184448)の生れであるので、幕末時代から、明治一代をとおして、大正十一年(1923)他界されるまで、三味線一筋に生きて、大勢の門弟を育て、三味線をとおして、かっての韮崎の芸能文化の向上に大きな功献をして来た人である。

 韮崎町やその近在で、三味線をひく人は、必ずといっていいほど師匠の手ほどきを受けていないものはなかったという。

 大正の初めの頃、その門をくぐった人の話では、大変稽古熱心で厳しかったというが、反面気のやさしさもあったという。

 現在、韮崎の駅前通りに小林定子という人がいる。年は六十四、五才で、すでに老境に入っている人だがこの人は熊吉師匠の姪の娘であって、この人の話によると師匠は、韮崎町二丁目の今の高柳履物店の処で生れたそうである。父親を中島治右衛門といい、母むめとの間に長女として生れ、幼名をくまというたが、二才の時重い麻疹を病んで失明してしまったそうである。

 昔は、麻疹は子供の「命定め」とか云うて、生きるか死ぬかの大厄病であった。

 麻疹で失明した彼女は三、四才のいたいけな年で、親の奨めで三味線修業を志し、知人に托されて江戸に送られ、当時、日本一の長唄の師匠、杵屋六左衛門のところに、内弟子として入門したという。

 杵屋六左衛門は代々空襲で、何代も続いている宗家であるから、弟子入りしたのは、はたして何代目であったろうか、探る必要もあるので、彼女の生年月日を、明治五年(1930)の壬申戸籍を調べたところ、

次の通りである。

    明治五壬申年四月改正 河原耶村

   巨摩郡河原部村百六十五番屋敷居住

   当村晨保坂武八郎所持家敷

   農

   父 治右衛門亡長男

              中島治右衛門

                 壬申年六十二

   当郡十八区小淵沢村(略)妻   むめ

                 年五十四

               長女 くま

                 年二十七

                 (以下略)

 

彼女は、明治五年の壬申戸籍では二十七才になっているから、おそらく、弘化二年(1845)頃の生れではないかと思う。三、四才の頃へ門したとなると、大体、嘉永年間になるわけで、数えてみると、十代目杵屋六左衛門の時代に相当する。十代目は杵屋一統の中でも、なかなかの名人で、立派な演奏家であるし作曲もまたよくされた人である。

 秋の色種(弘化二年 1845)、鶴亀(嘉永四年 1851)翁、千蔵三番叟(安政三年 1856)等は、今に伝わる不朽の名曲でありて、現在でも長唄を志すものの、必修科目であるし、舞台や御座敷で、演奏会やおさらい会等では必ずといっていい程、演奏される名曲である。

 

名人、十代目杵屋六左衛門に師事した彼女は、苦節研讃十余年、杵屋熊吉の芸名を許されて、故郷へ鎔を飾ったのは、花恥しい、十五、六才であったという。

 馬の送り迎えをうけて、出稽古の行き帰りする彼女の姿は、とても奇麗であったということである。

 盲目なるが故えに、生涯を独身でとがした彼女の生活は、江戸磨の卓越した技量を持ちながらも、三味線一筋だけで生きる事は難しく余り生活は恵まれなかったようである。

 居所も転々とした。長らく鍋屋横町(佐久商店)の裏に居ったが、最後は横丁の姪にあたる、小林定子さんの処で生涯を終えられた。

 当時の稽古料は、切符制度であって、一枚が金壱銭、一回の稽古が一枚で、お弟子さん達は一度に、十枚二十枚と買っておいて、稽古の度毎に一枚づつ差出すことになっていた。鏝頭が壱銭で二個買えた時である。大正六、七年頃の米の値段は

四等白米 壱升 金四拾参銭

搗き麦  壱升 金弐拾六銭

平麦   壱升 金参拾銭

と、割合高く、大正九年がピーク気昭和に入って安くなっている。

一回が壱銭、白米一升を買うのに四十二人分の稽古をしなければならなかった。生活は楽ではなかった。優れた伎倆をもちながら、芸一筋で生きて行くのは、困難であることは、今も昔も変りはないが、当時はなかなかの不況時代で、一般の人達の生活ですら困難な時であった。

 師匠が物故されたのは、大正十一年(1922)頃で、八十才を越えていられたという。遺言で、三味線や、筑太鼓のお噺子で、賑やかに野辺の送りがされて、三味線に生涯をかけた人にふさわしいお葬式であ

ったという。

 師匠のお墓は、昭和の初年、仏坂の改修工事の際、何処かへ移されて、今はその所在が分からないのが残念である。

 然し、故人の徳を慕う門人達が語り合って、雲岸寺の境内、大士洞の入口に、一周忌と思われる大正十二年四月三日報恩の碑を建てている。碑面には、

   報恩、杵屋態吉の碑、大正十二年四月三日、門人一同

としてあり、八十年の生涯を三味線一筋に、芸能文化の為つくした徳を讃えて黙然とたっている。

 偉大な足跡を残された、故杵腿熊吉師も、自分で作った韮崎節と同じく、今はほとんど忘れられてしまっているが、いつか日を選んで、追善供養を行い、生前の徳をしのび、長く功績を称えるも、後人に残された義務であると思う。

 

 「すぎたるものが 二つある

    韮崎の 米屋と 馬の宿屋と」

 

 韮崎宿は、米屋と、馬宿が多かった。他の業種に比較して、断然群を抜いていた。明治八年(1933)に行われた或る統計によると、

米穀商四十一軒、

塩屋三十三軒、

馬宿三十七軒、

水事業十四軒、

旅龍二十四軒、

飲食店二十七軒

あったという。米穀商と水車業は、本来の性質からいって同業とみるべきで、米穀商は、その大半が水車を持っており、単に、水車業というものはなく、大概は米の取引をしておったので、米穀商のうちに入るわけである。

 従って、この二つの業者を併せると、他の業種にくらべて、米穀商の数は圧倒的に多いことになる。即ち「多すぎる」ということになる。

 

 

 「河鹿ポロポロ 鳴く釜無に 鐘がなります 七里岩」

ラジオやテレビで放送されている。

 韮崎名物の一つであったこの時の鐘も、昭和十八年(1943)、大東亜戦争にかり出され、そのまま帰らざる鐘になってしまった。

 鐘搗き堂は、天明三年(1783)八月、始めて設けられ、雲岸寺の鐘を、毎年甲金一分の損料で十五年間受けるという約束で、搗き鳴らしはじめたが、明治六年(1873)四月、岩下村岩根絶の福昌院の鐘が上宿の粕屋に質入してあったのを、当主小林七左衛門が黄金八百で問題を解決して、町に寄附したので、鐘を釣り替え、それから金属回収の憂目にあう迄の七十年間鳴りつづけたのである。

 時報に必要な時刻を計る為に、鐘搗き堂の前庭に日時計があって今もなお、その岩石があるが、大切な日時計の円形の上に、無惨にも「魚族供養塔」という、小さな碑が昭和三十二年に建てられて、切角の文化遺産を毀してしまったのは、誠に残念なことである。

 多くの人々に、夢を鐘の音にのせて運んだ鐘つき堂と「じき下の源六さんはふりマラ」まことに珍妙な対照で幻滅である。

 「鐘つき堂から眺めれば」を「六観音から」と書きかえて見たらどうかと思う、「穴観音」といえば女性の何かが連想される。

 源六(権六だという人もある)さんは、穴観音さんの境内近くに 明治二十年(1887)頃の新聞によると、本県の米相場は、カネボシ穀店報として、毎日新聞に掲載されていて、これによって、山梨県中の米の相場が動いたそうである。

 カネボシ穀店は、韮崎町三丁目の国連パチンコの隣、三枝薬局のところにあった。主人は中山礼七というて郡会議員もしたことのある人で、人望もあり大金持でもあった。

 其他の米穀商も、みんな金持ち勢力もあり、韮崎の政治経済の重要ポイントを握っていたので、米屋の勢力がありすぎるのと、米屋が多すぎるとの掛言葉で、そば杖をくって唄はれたのが馬の宿屋、即ち馬宿であった。これも「馬すぎる」の地口に通じているのかもしれない。

 

 「鐘つき堂から 眺むれば しき下の 源六さんは ふりマラ」

 

 そのものズバリの唄で、まことに申訳ないが、この唄を抜かしては、韮崎節は語れないのでお許し願いたい。鐘搗き堂は、七里岩の突端にあって、昔は、韮峰町外十余ケ村に時を告げたり、水害火災の危急を知らせたりして、永く郷土の人々に愛され親しまれて来た鐘である。情緒豊かな鐘の音は、多くの人々の歌心を誘って、数多くの名句を生んでいる。

 

「心澄む御影の池や鐘すずし」 瑞池堂祖竜

 

この句は、韮崎八景観音晩鐘のものであるが、民謡として、県内はもとより全国的にも有名な縁故節の唄にもなって、

 「河鹿ホロホロ 鳴く釜無に 鐘がなります 七里岩」

ラジオやテレビで放送されている。

 韮崎名物の一つであったこの時の鐘も、昭和十八(1943)年、大東亜戦争にかり出され、そのまま帰らざる鐘になってしまった。

 鐘つき堂は、天明三年八月、始めて設けられ、雲岸寺の鐘を、毎年印全一分の損料で十五年間受けるという約束で、搗き鳴らしはじめたが、明治六年四月、岩下村岩根組の福昌院の鐘が上宿の布屋に質入してあったのを、当王小林七左衛門が黄金八百で問題を解決して、町に寄附したので、鐘をつりかえ、それから金属回収の憂目にあう迄の七十年間鳴りつづけたのである。

 時報に必要な時刻を計る為に、鐘つき堂の前庭に日時計があって今もなお、その岩石があるが、大切な日時計の円形の上に、無惨にも「魚族供養場」という、小さな碑が昭和三十二年に建てられて、切角の文化遺産を毀してしまったのは、誠に残念なことである。

 多くの人々に、夢を鐘の音にのせて運んだ鐘つき堂と「じき下の源六さんはふりマラ」まことに珍妙な対照で幻滅である。

 「鐘つき堂から眺ひれば」を「穴親音から」と書きかえて見たらどうかと思う、「穴観音」といえば女性の何かが連想される。

 源六(権六だという人もある)さんは、穴観音さんの境内近くに住んでいた人だと聞いている。多分好色的な存在で、多少左巻きではなかったろうか。穴観音の入口の穴が、なんとなく女性自身にみえてやるかたなく、悶々ともだえて、雄大な逸物をいつも野放にしながら、自慰をしていたのだろうと考えれば、この唄もセクシーになって面白くなる。

 

 「鐘つき堂の どうやかん ひとすべり すれば横丁の弁さん」

 

 この唄も、鐘搗き堂に因縁がある。どうやかんは、銅薬缶のことであるが、転じて禿頭のことを意味する。ひどいツルッル禿のことである。

 おそらく、鐘つき堂のお爺いさんは、どうやかんであったに違いない。その薬缶が鐘つき堂からすべり落らると、直ぐのその下にいる、横丁の弁さんの処にころがり込むが、その弁さんも、実は禿頭であるという意味の唄である。

 横丁というのは、韮楠の駅前通りのことで、昔は横丁と呼んでいた。弁さんというのは、福田屋の弁さんの事で、今の恵比寿屋さんの処でお紺屋をしていた。福田屋さんは布紺屋で、手拭や浴衣地から織りなどを染めていた。

 元来紺屋には、布紺屋というて布を染める紺屋と、糸ばかり専問に染める糸紺屋の二色あった。

 韮崎というところは、米屋も多かったが、紺屋も多かった。高島屋、向山伊右衛門、笠井丈助、福田屋、京屋、吉田屋、叶屋、◯や等記憶にあるものだけで八軒、韮崎宿の最盛時には、もっと有ったではなかろうか。

 埼玉県の秩父地方に

 

「今年の盆は、盆じゃない 韮崎の 紺屋が焼けて 白縞」

 

という民謡がある。「韮崎盆畷」(一九六二年、国際音楽株式会社出版、日本民謡全集 八〇頁所載)としてあるので、記載してある五線譜で歌って見ると、何と甲州盆唄である。

 何で埼玉の山奥に甲州盆唄と同じメロデーがあるのか、採譜者の望月克己氏は「哀感切々たるメロデーはいつまでも残って行くだろう」といっている。お盆さんが来ても、今年は韮崎の紺屋が続けて浴衣が着られないから、盆踊が出来ないという意味である。

 昔は韮崎にも、秩父の三岳神社の講中があって、多勢の人達が雁坂峠を越して参拝に行ったと聞いている。そんな事から韮崎と秩父とは、染色を玉体として、物資の交易があったのではないかと考えられる。

 埼玉県民謡「韮崎盆唄」が、はたして甲州韮崎と、どんな関係があったのか、実在する民謡であるのか、折あれば一度秩父の山奥の部落を訪ねて、その関係を調べたいと思っている。

 

 「下条 下条 下条と 三下条ある 南下条 北下条 中のドラ下条」

 

 現在は、韮崎市藤井町に編入されて、北下条、南下条と、それぞれ一つの部落になっているが、明治の初年頃までは、北下条村、南下条村と別々の村であった。

 佐久往還に添って、南北に細長く並んだ二つの部落であって、現在でも二つの部落は、真中に広い田圃があって、その中心を黒沢川が流れて境界線となっている。

 南と北の下条という地名は昔からあったけれど、唄の中にあるドラ下条は何処を探してもないので、南下条の北の部分に安昌代三光寺、乾徳寺と、お寺が三つ同じところに並んでいて、朝晩の勤行ににドラ鉦を鴨らすので、この部分の土地のことを、ドラ下条と呼んでいるかと思ったが、なんのこと実際はそうでなくて、南下条の一部に、よたもんが五、六人いて、通行人に悪ふざけをしたり、金銭を脅し取ったりしたので、ドラ下条と人がいったということである。

 

 土地の古老に、この事実の有無を聞いたところ「何々さん、何々さん」と、名前を教えてくれたので、実際にあったことである。

 

 「韮崎よいとこ どこの馬鹿 西も川 東も川の 瀬に立つ」

 

 昔、信州川上の人がいまわの際に「一辺韮崎を見てから死にたい」といったそうである。例えそれが、うそでお世辞であったとしてかっての韮崎は、余所目には江戸にもまさる大繁昌であると感じとられていたのかもしれない。ところが、実際の韮崎は、東に塩川、西に釜無川の二つの大川に挾まれて、年々、大な小なりの水害に見舞われて、被災と復興の繰返しで町民は苦しみの連続であった。そんな韮崎が良い筈がない。一番良く知っているのは町民自身である。然し、韮崎を取囲む村々の人達にも同情はあった。また反面厳しい批判もあったわけである。

 

「韮崎宿は、米の場所 御上米が 舟山河岸を 乗り出す」

 

慶長六年(こハ○一)、角倉了以という人によって富士川が改修され、岩淵から鰍沢迄舟が通うようになり、鰍沢から駄馬に積みかえられて、塩や海産物が韮崎に運ばれ、更に、諏訪郡や、佐久方面に転送されるようになったが、天保六年(一八三五)、舟山河岸が開設されてからは、所謂「上げ塩」「下げ米」で韮崎は急に忙しさを増した。其の時の様子を、故人になられたが、池田光一郎の尊父、池田一郎氏が唄にしたものである。

一布氏は、昔、稲月堂というお菓子屋さんを韮崎の二丁目で開いておって「柿の水飴」というのが看板商品で、皇室に献上したこともある。同氏は明治天皇崇拝者で、明治天皇御製奉賞金をつくって近郷の青年数十人を集め、御製を奉唱することによって、青年の精神修養につとめたことがある。

 一布氏は、号を稲月といって、なかなかの俳人で、俳句の宗匠でもあった。

 「お上米」とうのは「お城米」とも書いた。徳川幕府への年貢米のことで、舟山海岸から舟で積み出し、岩淵に送り、更に江戸へと廻送したということである。

 韮崎宿に大繁盛をもたらした舟山河岸乱明治三十一年(1898)の大水害で根こそぎ流されてしまい、それ以来富士川舟運は塞ざれてしまって二度と開かれなかった。

舟山河岸の跡は、現在は韮崎バイパスの道路敷になってしまったが昔あった処は池田光一郎氏宅のあたりである。

 

「軍鶏籠が 三丁たつ 韮崎の 吉野屋親子 三人」

 

 文政年間(18181829)のことである、韮崎宿に重大事件がおこった。上宿の吉野屋という旅館で、旅の六部が殺されて、真相が判明するにつれ、驚いたことには殺人犯がまだ十六才の小女で泊っていた旅龍の娘であり、而も、両親が共犯であったという。

逮捕された親子三人は、軍鶏龍に入れられて、甲府の番所に送られお裁きの上処刑されてしまった。それが此の唄の内容である。

 吉野屋という旅龍は、上宿の二丁目(今の一丁目)で、甲州街道が「カギ」形に折れ曲った東側にあった。当主は、豊吉といって、女房と娘の三人暮し、父親の七五郎から相続した財産も相当あり、宿泊人も多く商売繁盛で、大変裕福な生活をしていたようである。

 或る日、この吉野屋に、万人旅の六部(行脚僧)が泊った。種々もてなしているうらに、この六部は大変金持ちであることに気がついた豊吉は、女房と共謀して嫌がる娘をそそのかし、とうとう六部を殺して、大金を奪ってしまった。

 一人者の六部の事である。殺してもわかるまいと、何くわぬ顔をしておったが、遂に役人の知るところとなって捕えられ山崎の刑場の露と消えてしまった。

 吉野屋豊吉は、大変裕福な暮しをしていたらしく信仰も篤かったようで、文政元年(1818)五月には、韮崎の若宮八幡宮に、高遠の石工に膨らせた高さ三メートルもある立派な石燈龍を寄進して、今もなお、同神社の随神門わきにたっている。

  奉納願主吉野屋豊吉

      文政元年 戌寅五月吉日

        石工 高遠台村  向山市十郎

と刻まれてあり、実に立派なもので、豊吉が何を願ってのことか、何の為の寄進か分らないが、当時としても、余程大金がかかったとのと思われる。

 吉野屋豊吉の名前は、享和二年(1802)、韮崎の蔵前院の宗門人別帳には

        七五郎    四十三

        同人妻    三十四

        同人母    六十八

        同人子豊吉  十六

        同人娘 はな 十二

とあるが、其頃の天保七年(1836)の人別帳には記載されていない。おそらくこの事件によって抹消されてしまったに違いない。

 豊吉が、文政元年(1818)に、若宮八幡に石燈龍を寄進したのは享和二年(1802)から十六年後のことで、三十二才の世盛りであった。

 事件は、それから何年後のことであったろうか、安政年間であることに間違いない。

 この大事件は「鞠搗き唄」にもなって童女の口から口ヘと歌いつがれて、大正の終り頃迄続いたが、その後沓として消えてしまったのを、天神町に住む岩下梅子様が、祖母から教えられたものを覚えていて、唄ってくれた。

 

まりつき唄

    本町二丁目の宿屋の娘

    年は十六今咲く花よ

   嫁に行こうか婿とりましょか

    言うているとけ六部が泊り

    あのゃ六部は金持六部

    六部殺して金とりゃしゃんせ

    人を殺すと我が身がこわい

    親のいうこと聞かないものは

    うらじゃいらない出て行きゃしゃんせ

    娘こわごわ六部を殺し

    親子三人鋸びきよ

         

 鋸引きというのは極刑である。極悪犯人の処刑である。吉野屋は何故、極刑に処されるような殺人事件を起したのか、単なる金取りであったのか、怨恨であったのか、今更知るよしもないが、何かが狂っていて、この血腥(ナマグサイ)事件になったものと思われる。

 この「まりつき唄」は、韮崎節の

「軍鶏籠が三丁たつ 韮崎の吉野屋親子三人」

と唄われた事件が、実在のものであった事を立証するものとして貴いものである。

 韮崎節は、私が約十年探し求めていた、いわば幻の民謡であった。

昔、韮崎宿が栄えておった時代、盛んに唄われていたらしいこの民謡が、其後、プッツリと消えてしまって、誰に聞いても知らぬ存ぜぬであった。

 先年、八十八才で死んだ親父が、まだ元気であった頃、酒が深くなると、時折「これが韮崎節だ」と云うて、唄って聞かせてくれたことがあるので、唄や、メロデーは、確かに聞覚えはしていたものの、さて自分でうたうとなると、なかなかに唄にはならなかった。

 其后、親父が中気でたおれて二度と立ち上れなかったので再度、親父の口から韮崎節を聞き出すことはできなかった。

 韮崎節は、唄や節廻しは、そんなに立派ではなく今更これを堀り出して、世間一般に発表して流行らせ

ようという気持はない。過去に実在したものを復元して保存し、後世に残すことが、後人の義務であると信じ努力して来た。

 死後、韮崎節を知っているという二、三の老人に会って、うたって貰ったが、音程がひどく、狂っていたり、くずれたりして参考にはならなかった。

 ところが、本年五月、或る酒宴席で突然韮崎節が飛び出した。

 「韮崎宿は馬糞宿………」

うたっている人は誰かと思ったら、吉弥さんである。強かに、酒に酔っているらしいが、続けてうたう韮時節に音程の狂いもなく、終始同じ調子でうたっており、かねてから私が探していたメロデーであるので、

 「三味線がひけますか」と聞いて見たら 「ひいてうたいます」と、答えてくれたので、後日を約した。

 数日たって録音器をもって行き、三味線の調子を「六本」に合せて、ひきながらうたっているのを録音して帰り、尺八の譜に直し、更に五線譜に直したのが、ここに掲る楽譜である。

 「吉弥」さんは、現在、韮崎市の天神町で「きちや」という暖簾をかけて、酒場を経営している。

 彼女の本名高村はま、明治四十三年の生れであるから、本年六十二才、東京に生れて、幼い時父親につれられて甲府に来た。米騒動で、若尾邸が焼打らされるのを見て知っているという。それから幾何もなく韮崎に転入して現在におよんでいる。

 吉弥こと高村はま、彼女が韮崎節の伝承者であった。(以下略)

 






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最終更新日  2021年01月17日 15時06分34秒
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