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2021年01月23日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

偽勅使(にせちょくし)事件

 

   『山梨の百年』

 

著者 飯田文弥 上野晴朗 佐藤森三

昭和431215

発行 NHKサービスセンター甲府支所

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

徳川三〇〇年の泰平の夢は、すでに見てきたように天保期ころに、幕府の心胆を寒からしめる百姓一揆などが相つぎ、その後天保の改革など、が行なわれたにもかかわらず、天下は物情騒然としてきた。

 ことに幕府崩壊の前夜は江戸と京都の間にいつ戦争がもち上りはしないかと、人心は不安の極にあった。このような中で徳川慶喜は、慶応三年(1867)十月十四日、大政奉還を奏請した。ところがこのときすでに討幕の密使は、薩長二藩にくだり、王政復古の計画がすすめられ、同年十二月九日、明治天皇は王政復古の大号令を発せられたのである。

 しかし幕府が滅亡しても、多数の藩領はそのままであったし、徳川氏の所領もそのままであった。この不安定な状態の中で、慶応四年(1868)正月二目、鳥羽、伏見の戦争がおこり、いわゆる戊辰の動乱がはじまったのである。

 官軍は有価川宮熾仁親王を東征の大総督とし、東海、東山、北隆三道にわたって、江戸城玖略を目途に進撃をはじめた。

 このような歴史的な維新の改変期にあたり、天領と私領(田安領)に分れていたわが甲斐の国は、江戸城の外塀に任じていた甲府滅を擁し、その去就は一体どうであったろうか。

 まず甲府動番士の動勢は、複雑きわまりなかった。恭順派、防戦派、日和見派、が入りみだれて、すでに数カ月も議論をたたかわせたのである、が、その中で組頭柴田監物ら数名は、徹底的抗戦派で、決死奮戦を覚悟してしきりに暗躍していた。しかし大勢は幕府の意向のままに、恭順に服そうとする者が多かった。

 一方民衆の方はどうかというと、甲府の町の気の早い者は、いつ起きるかわからない戦争に逃げ仕度をしていたし、流言飛語がとび、強窃盗、が頻発し、無頼の徒がしきりに横行していた。

 そうした中で意気天をつくように「さあ、いよいよ俺達の天下か来るんだ」と張切って、維新を待ちわびていた人々に、武田浪士の一団があった。この人々は古く武田家につかえて、天正十年武田家滅亡後は帰農し、郷士となり、各地に農業や神官などになって屏息していたのであるが、維新にあたって、天朝方へ忠勤をはげもうとかねてから相談していたのである。

 

 もっとも天保年間にはやはり結党して、幕府非常にそなえるため正式に被官を望んでいるが、これは果せなかった。それだけに長い間虐げられた気持が勤王という形を通して、維新に参画しようと情熱をもやしていたのであった。

 それと対照的なのは、前項幕末の農村で見てきたように、永い世襲を享受してきた村役人とか、大高持の百姓や御用商人達の去就である。産業統制が行なわれ、国益の思想のもとに彼等の多くは動いていた。また多額の御用金を収めて地位や名誉を買った者も多かった。それだけにせっかく得たものを失わなければならない不安感は覆うべくもなかったのである。

 そんなわけで、甲州の様々の階層や職業の人々の気持は、立場や環境によって様々に違ったのである。

 そして朝廷の動向が一路略討幕へ向いはじめると、皆一様に耳目をそばだてて、中央の軍事情勢に注目していった。

 甲府白乗取りの陰謀といわれ、あるいはペテン師、山師のレッテルをはられて世の笑いものになった「にせ勅使事件」は、ちょうどこのような人心不安が頂点に達した、慶応四年二月(一八六八)に勃発したのである。

 

 従来知られている物語とはこうである。

 慶応四年二月三日、去就さまざまに鼎のようにわいている甲府の町に、いよいよ官軍が東山道を進んでく

るぞという噂が流れ、やがて実際に官軍鎮撫隊と称し、勅使高松皇太后宮少遮蔽の後見役小沢雅楽助というの

が先触隊として到着した。その姿は誠に威風堂々としたもので、すでに東山道沿いに信州諸藩を従えて来たのだという。また口上によると、いずれ間もなく本隊が到着するが、目的は甲州の鎮撫と帰順にあり、甲府城を開け渡してもらうのが任務であるという。

 この口上に、すでに覚悟もできていた甲府城代佐藤駿河守らは、朝廷に対してもし恭順の意が薄いなどと云われては大変と、鄭重なもてなしをもって迎えた。また民衆もはじめてみる天朝の偉力に、すでに将軍の権力などまったく地におちてしまったことを知らされた。

 やがて本隊も、同月十一日になって到着した。これは先発隊が甲州鎮撫十箇条の書付をもって沿道筋の村々に徹底した鎮撫の触れを流していたから、途中逸見筋、武川筋(武川・韮崎など)などの浪人や、御岳の御師、神主らがここぞとばかりに馳せ参じて、行列はいやが上にも膨れあがり、その隊伍は誠に堂々たるもので、天子の威光を遺憾なく発揮したものであったという。

 高松少進の宿舎は、甲府尊躰寺ときまった。江戸表からはこの問題を議するために、大目附の家臣らが急遽入甲してきた。これは甲府城からの要請によるものであった。

 こうしてゴッタ返している間に、町中に妙な噂さが流れた。それは先発隊々長の小沢雅楽助か、かつて甲府の町に住んでいた彫刻師一仙ではないかという噂である。

 そのような疑義が挟まれて、大目附の家臣らは、高松少進の方も果して本物の公卿であるかどうか疑わしいと、その方の首実験までやったところ、これは紛れもない権三位元侍従高松保実の忠実村であるということが判明した。

 ところがこのような疑いは、実村が甲府入りしたちょうど同じときに、桑名まで出征してきた京都の柳原、橋本圃公卿の使者と称する、土州の黒岩治郎之介、肥州の林恵右衛門ら三人が、やはり甲州鎮撫の先発として入ってきて、両使者の対決となり、ついに高松少進の方は、勅命を受けない偽者として断ぜられ、追放を受ける事によって決着したのである。

 それでも偽勅使の一行は、一応体面をつくって江戸ヘー且出るとみせて、途中から竜王―韮崎と引返し、信州蔦木まで逃げていった。ところがここで、討幕軍の副総監督岩倉倶経から、高松少進は勅命を持たない偽官軍であると、厳重なお触れを出され立往生となった。

 それまでどうにか一行につき従ってきた諏訪因幡守の家臣らも、この体に驚き飽きれて国へ帰ってしまい、行列はたちまち右往左往して離散してしまう。こうして高松少進は一時諏訪藩へお預けとなり、後見役の小沢雅楽助は韮崎まで逃げたところを捕えられて、山崎刑場で打首獄門となった。

 当時の数え歌というのに、次のような歌がのこされている。

 

一ツとせ~、人をどこまで負ぶう気か

ニツとせ~、不用のお公家をつれ出して

        深いたくみの十箇条 コノ雅楽之助

三ツとせ~、御岳の御師めも供に来て

        騒ぎに逃げ出す コノ腰技けめ

 

この歌にも示されているように、一般民衆は自分達を土下座までさせた勅使が実は真赤な偽者で、しかも後見役の小沢雅楽助が、かつては自分らと同じ階層の彫りもの師一如斉だったことに、わけもなく腹を立て、その憤り歌に託したものである。また実力行動としては投石騒ぎまでやった。

 それだけに事件をあくまで天一坊擬きのいかさま師による大芝居と見る。またその一行にまんまと引っかかった逸見、武川筋の神主や浪人達にまで矛先を向け、嘲笑を浴びせて溜飲をさげた。その裏をみると、この歴史上の大転換にあたって、自分達は相変らず時代の波に乗れずに取り残されていくことを、大衆は痛いほど知っていたことが窺えるのである。

 こうしてこの物語は、維新史をかざる甲府城乗っ取りの大陰謀として、その後ずっと語りつがれてきた。

 ところが明治維新の推進勢力を究明する研究が一段と飛躍し、ことに服部之総氏などによって、いわゆる戊辰内乱期における草莽(そうもう)諸隊の研究が明らかにされるようになって、「にせ官軍」の問題は急激にクローズ・アップされるようになった。つまりにせ官軍、にせ勅使、にせ公卿など一連の事件が主として関東を中心に起こり甲府の偽勅使事件も、単なる思いつきの大賭博ばかりではなかったことが次第に明らかにされてきたのである。

 草莽というのは、幕末維新期の在郷商人をさす百薬とされ、階級的には低く、そこに集まる人々も百姓、町人、神職、修験者、郷士、浪人など、実は様々の性格の人々が集結した尊王義軍であった。

 韮崎で捕まった小沢一仙も、その陳状の中で「卑賤草莽の私」こという表現をつかっている。(『山梨県史』第一巻)

 

 草莽隊として早くから注目されていた相楽総三は、慶応四年三月三日、にせ官軍の名のもとに死刑に処せられたが、その末路は小沢一仙と非常によく似ていた。

 それというのも、これらの事件には一貫した流れがあったのである。その思想は尊攘派志士としての結合であり、幕末期の勤王挙兵として懐疑組の赤城山挙兵計画(文久三年 1863)、天朝組の横浜異人街襲撃計画(同年)、南下総の楠音次郎挙兵計画(元治元年 1864)、水戸筑波山挙兵計画(同年)など、主として関東に同志が立上ったが、その殆どは挙兵以前に幕府方に知られて潰されてしまった。相楽総三の動きを見ても、尊攘派志士として各地に同志を募って奔走し、右等の事件にも関与し、主として京の勤王衆と交わって、慶応三年(1867)には西郷隆盛らの命により、江戸薩摩藩邸を本拠地として約五百人の志士を糾合して隊を組織している。この中には甲州関係五名(甲府勤番士四名、在方一名)も含まれていた。

 この諸隊の作戦というのは、幕府直轄領である野州、相州、甲州の三地点に挙兵して、なんとか幕府を挑発しようと狙ったのであった。しかし三地区とも事前に事が幕府側に発覚して、すべての計画は潰されてしまった。

 なかでも野州出流(いずる)山では、九十人以上にも及ぶ戦死者を出して事件は不発に終わった。この尊王義軍の隊員は、隊長竹内啓以下農村の出身者が七十%の占め、作戦を指揮していたのは、薩摩を脱藩してきた浪士であった。従ってその動きは薩州の政治的動向と深い関連を持ち、討幕運動を進めるための江戸撹乱を画策したものである。

 この出流山の勤皇挙兵に北巨摩郡高根町西割出身の大柴宗十郎が、甲州関係では唯一人入っている。出身は農民のうちの村役人の家柄であるのでその関連的動きが判るであろう。

 そのようなわけで、甲府鎮撫をめざす高松実村隊の実体も、当時澎湃として起った草莽諸隊の運動や、思想や、その動きをとらえなければ深い意味は理解できないであろう。

 さらに討幕運動そのものにも、討滅を唱える過激派と、朝草連繋を首唱する穏健派があって、まんじともえになって戦っていたことを知らなければならない。その点塚原美村氏は、甲東征軍の銅旗 頭部(左)と全容(右)府のにせ勅使事件は、高松実村その後見役小沢雅楽助らによる、漸移政権奉還運動の臨時鎮撫官とみる。(甲斐における臨時鎮撫官-高松実村殿挙兵について(甲斐史学三〇号)

 実際に小沢一仙が捕えられていく過程をみると、維新期の変動の波が微妙に変っていった様子をみることができる。

たとえば信州路の藩領の者も先発隊に加わっていく当初は、忠誠心のもっていき場に苦慮しているが、いよいよ討幕軍の性格がはっきりし、岩倉副総督から高松少進は偽官軍ときめつけられると、たちまちこれを捕えて、東征軍に忠誠の明しを見せようと一変していった。

 

ただ小沢雅楽助が甲州鎮撫十箇条として示した条目を見ると

 

一、甲斐国武田信玄旧政復古一国別御免許之事

一、大小切と唱え侯金納免許之事

一、甲金二十四万面追々廃滅之所今度吹替通用免許之事

一、武田浪士之儀は此度勤王相励み、

就而は向後其住所に於て石高下され北面之武士同様お取立の事(云々)

 

とあるように、ひどく時代がかったものであった。これは全般に維新の眼目を「復古」という面でとらえていたからであり、誰も、のちに来る民権を基調とする進歩的な考えをもたなかったところに、一つの悲劇があった。

 いずれにしても明治維新政府の成立が成ろうとする陰に、一般庶民にその底辺を置く草莽の人々である尊王

義軍かあり、それらの人々の果した役割もかなり重要であったにもかかわらず、単ににせ勅使、にせ官軍の名

のもとに、新政府から弾圧排除されていったことは、この復古を主調とする悲劇の一つの象徴として、改めて見直すことが必要であろう。






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最終更新日  2021年01月23日 18時09分41秒
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