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2021年02月14日
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カテゴリ:著名人紹介

私鉄経営のパイオニア・小林一三

 

 中央公論『歴史と人物』昭和58年発行

10 特集 転換期をのりきった企業家の決断11

   前田和利氏著 (執筆時 駒澤大学教授)

 

 

大衆消費文明の波を戦前の段階で敏感にキャッチし、

既存の観念を打破った事業の創設者

   

時代を先取りした経営者

 

「阪急グループ」の創始者・小林一三が企業経営者としてスタートしたのは明治四十年(一九〇七)、三十四歳の時であった。

以来、昭和三十年代初頭まで、明治・大正・昭和の三代にわたって活動した。ただ、第二次大戦後も経済・政治の表舞台で活躍したが、企業経営者としての高い評価はすでに昭和戦前期に確立していた。

 小林が昭和戦前期に属する企業経営者でありながら、現代に。おいて評価されるのは、時代を先取りしたパイオニアとしての役割を担ったことにある。

それは日本経済が高度成長期に入った昭和三十年代に花開いた大衆消費文明の波を戦前の段階で敏感にキャッチし、既存の観念を打破って新しい産業・企業をつぎつぎと創設したことである。

そしてユニークな電鉄経営を核とし、そこから派生した演劇・映画・ターミナル・デパートなど、第三次産業に属する企業を集団化して多角的事業体を形成したのである。

 小林の革新的企業者活動は統制経済という時代の制約のなかで満開するには至らなかった。

 しかし、企業経営者として小林は、時代の制約をうけながらも、自由競争を建前として行動し、戦中・戦後の統制経済の下で行政機構および官僚制の改革を論じ、国有事業(電話・鉄道・専売など)の民営化を主張し「統制経済の殼を破ろうとした。

鉄道および電力事業といった公益事業に携わり、政界にも関与した小林の考えは、時代環境が異なるどはいえ、現在の日本が抱えている行政改革、国鉄再建などの問題を考える時、企業人の立場からの代表的見解として先駆的意味をもっている。

 小林は

「電話事業、鉄道事業、専売事業」これらの官営事業を挙げて民営に移し、政府筋の持株を売り放つことによって、新たに五十億からの財源を得、一方では民営による各種事業の振興を見ることになれば、まことに一挙両得と言へませう。ことに官営事業の民営化といふことは金融の緩慢時代でないと出来ないことです」

 

と、昭和十一年の時点で述べている(『次に来るもの』)。

   

不遇なサラリーマン時代

 

 小林は、明治六年(一八七三)一月三日、山梨県韮崎の酒造業と絹問屋を営む豪家に生まれた。

二十一年、慶応義塾に入学し、福沢諭吉の「独立自尊」の精神を学んだが、ご在学中は『山梨日日新聞』ほかに小説を執筆し、芝居に熱中し、小説家を志した。

 そこで卒業後は『都新聞』え入る希望をもっていたがかなえられず、二十六年に三井銀行に入行した。

 当時の三井銀行は中上川彦次郎による近代化改革によって慶応義塾出身者を多数採用していた。朝吹英二、藤山雷太、武藤山治、和田豊治、日比翁助、池田成彬、藤原銀次郎など、人材が多士済済いたが、小林もその一人であった。

小林は、東京本店秘書課-大阪支店-名古屋支店-大阪支店を経て、明治三十三年(一九

〇〇)に東京箱崎倉庫の主任に就任することになっていた。

ところが、着任してみたら副主任で、つぎに本店調査課に回された。この時期の梲(うだつ)が上がらない銀行員生活は小林にとって「耐へ難き憂鬱の時代」であった。

 (『逸翁自叙伝』)。

 

閑職にあった小林に三井物産と三越呉服店の二社から勧誘があり、小林は三越に心を動かされて株まで買ったが、その話は実現しなかった。

 しかし、三越株の処分で利益を得た小林は、独立の意志を固めた。そして三井物産の飯田義一がもたらした、岩下請周が公社債の引受募集と有価証券を売買する株式会社を設立するので支配人となら ないか、という話にのった。

岩下は、最初の大阪支店勤務時の支店長であり、小林の生涯に大きな影響を与えた人であった。明治四十年(1907)、小林は十五年間の三井銀行生活に終わりを告げた。ところが、岩下の計画が挫折したため一時失業浪人となったが、同年四月に飯田の推薦で三井物産が大株主であった阪鶴鉄道の監査役に就任した。これがきっかけとなって小林は電鉄経営に関わるようになったのである。 

 

   電鉄創業期の苦闘

 

大阪・舞鶴間を巡行する私有鉄道会社の阪鶴鉄道は、明治三十九年(一九〇六)公布の鉄道国有法にもとづいて国に買収されることになった。

 そこで阪鶴鉄道経営陣は、梅田・池田・宝塚・有馬間、池田・箕面間、宝塚・西宮間に路線を敷設して箕面有馬電気鉄道株式会社(資本金 五五〇万円)を設立する計画をたてた。

しかし、明治四十年恐慌の煽りで株式払込みが思うようにならず、設立が危惧された。阪鶴鉄道の清算人となっていた小林は、新会社の実現に向かって思案を重ね、沿線に住宅地をつくって乗客をふやせば鉄道経営が成りたつと考え、この計画を推進した。

 小林は、明治四十年(1907)六月、改称した箕面有馬電気軌道株式会社創立の追加発起人となり、創立事務一切を取りしきった。まず、資金調達に乗りだし、五万四、〇〇〇余株のうち、約一万株を小野金六、根津嘉一郎などの甲州系経済人に引受けてもらい、残り四万株余は岩下の北浜銀行に援助を乞うて第一回払込合一三七万五〇〇〇円を集めた。

つぎに三井物産に頼んで材料・機械を延払い、開業二年以内の支払い条件で確保できるように手配した。そして同年十月十九日、箕面有馬電気軌道株式会社の創立総会を開き、小林は専務取締役に就任した。当初は社長を空席としたが、それは近い将来に岩下の就任を予定したからであった。

 創立はしたものの、不況のなかでの資金調達は困難を極めた。しかし、建設所要資金二八五万円と住宅地買収予定資金二〇万円の調達が差し追っていた。そこで新たに三井物産から一三〇余万円を借り入れて建設費にあて、不足分は北浜銀行の援助を仰いだ。だが、工事の進捗につれて追加資金が必要となり、そのため明治四十二年(1909)十月には第二回払込金八二万五〇〇〇円を、翌年四月には第三回払込金五五万円を集めた。また、同年七月には第一回社債二〇〇万円を発行した。

 苦労はなお続き、明治四十二年八月、小林は大阪市との間で結ばれた野江線(梅田・野江間)敷設に関する疑獄事件関係者として拘引された。これは不起訴となったが、線路用地買収に関する登記所登記官への贈賄事件のため、罰金三〇円を科せられた。

 この責任を負って小林は専務から平取締役に降格した。実質的なリ-ダーであったことにかわりはなく、大正五年(1916)に専務に復帰した。

 

   顧客創造の独創的電鉄経営

 

田舎電車の箕面有馬電軌が「純粋なる交通機関」となるには時日を要し、電鉄事業だけでは当面経営が成りたたないと考えた小林は、創意・工夫を重ね、電鉄業に住宅地開発、温泉・娯楽施設などを補完的に組合わせるという新しい着想を導入した。

 また乗客の増加を目的とした住宅地開発のために開業前に九九万平方メートル余の土地を確保した小林は、この開発にあたって土地・住宅の賃貸のほか、十年月賦による土地付分譲住宅の販売という斬新的方法をとった。

開発は池田、豊中、桜井、岡本、千里山と広がっていった。

 明治四十三年(1910)三、宝塚線と箕面線が開業した。住宅地開発を進める一方で小林は、遊覧電車として乗客を誘引するアイデアをとり入れ、同年十一月箕面公園に動物園を、翌年には宝塚新温泉を開設し、大正二年(1913)には豊中運動場を建設した。宝塚斬温泉には明治四十五年、パラダイスという洋館を建てでプールその他の娯楽施設をつくった。プールはのちに閉鎖し、各種博覧会場とした。

 そして大正二年には大阪・三越呉服店の少年音楽隊からヒントを得、少女唱歌隊を組織して温泉場の余興とした。これがのちに宝塚少女歌劇団となる。そのほか劇場、動物園、植物園、食堂、売店などの施設を設置し、宝塚新温泉をレジャ-センターにした。

 豊中運動場は大正四年(1915)から全国中等学校優勝野球大会場として使用された。のちに大会が阪神電気鉄道沿線の甲子園野球場に移ったので、跡地を住宅地にした。‐

この野球への関わりが、のちに宝塚球場を建設して宝塚運動協会というプロ野球球団を結成することになり、西宮球楊、阪急球団、後楽園スタジアムヘとつながっていったのである。

 沿線開発の新機軸を打ち出していく過程で小林は、積極的な広告・宣伝活動を展関した。事業内容を紹介したパンフレット「最も有望なる電車」を配ったり、「住宅地御案内=如何なる土地を選ぶべきか」というパンフレットを刷って沿線住宅地を推奨する広告をだした。また「箕面電車唱歌」や「箕面動物園唱歌」をつくって箕面有馬電軌のイメージを高めた。さらに大阪毎日新聞を通じて宝塚少女歌劇のPRに努め、大阪朝日新聞主催の全国中等学校優勝野球大会によって箕面有馬電軌の名を広めたのである。

 

   路線拡充と高速電鉄の完成

 

明治四十五年(1912)、西宮線の工事に着工したが、翌年には資金面から宝塚・有馬間の敷設権を放棄しなければならなくなった。また大正三年(1914)、北浜銀行事件による岩下の失脚によって小林は、同行特有株を引取らざるをえなくなり、借金をして株を買いとるとともに、日本生命、大同生命ほかにも持ってもらった。その結果、小林はオーナー経営者としての地位をえることになった。

 岩下失脚の影響は続き、梅田・野江線の建設費の目途がたたず、大正六年(1917)に廃止を決定した。またこの間、二年に箕面有馬電鉄は西宮・神戸間の線路敷設特許権をもつ灘循環定款と連絡する計画をたて、十三・伊丹・神戸間の線路敷設特許を得ていたが、同社が北浜銀行の援助をうけていたため経営困難となり、阪神に買収されることになった。

 そこで箕面有馬電軌は、阪神側と折衝して灘循環電軌を合併することにした。五年に買収したが、ここでも資金に悩まねばならなかった。さいわい岸本汽船・岸本兼太郎の援助で三〇〇万円の融資を得ることができ、六年二月軌道敷設特許権譲受の認可を得、八月工事施行の許可を受けた。しかし、なお線路の浸水被害や神戸線建設予定地住民の反対運動など、解決しなければならない問題があったが、小林はこれらの障害を克服して神戸線開通に全力をあげた。そして七年二月、社名を阪神急行電鉄株式会社(阪急)と変更した。阪急は同年に資本金を一一〇〇万円、九年に二二〇〇万円に増資した。

 大正九年(1920)七月、神戸線本線と伊丹支線が開通した。この時小林は、

「新しく開通(でき)た神戸(または大阪)行き急行電車、市電上筒井にて連絡、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素的によい涼しい電車」

という広告を掲げた。以後の阪急は路線の拡充・改善を推進した。

十年には百宝線(百宮北口・宝塚間)を開通し、翌年には複線化した。十五年には大阪市内高架複々線が完成して大阪・宝塚間を四二分、大阪・神戸闇を三五分に短縮した。また西宮・今津間を開通し、西宝線を今単線と改称した。

そして昭和五年(1930)には神戸・大阪間に特急を走らせ、所要時間を三〇分とし、翌年

に二八分に縮めた。九年には「大阪~神戸、一またぎ、二五分」をキャッチフレーズにした。十一年に神戸市内高架線が竣工し、三宮が終点となった。

 阪急は神戸線の開通を機に都市連絡鉄道として成長し、競争者の基盤に喰い込んでいった。そこには国鉄や阪神の経営を絶えず研究し、サービス改善に全力をあげた小林の努力があった。

小林は昭和二年に社長、九年に会長となった。そして十一年十月、会長を辞任した。

 

   宝塚少女歌劇から東宝へ

 

小林は、多角経営を否定して「一人一業」を主義としたが、田舎電車を育てるために相互補完的諸事業を経営した。それらはしだいに独立した事業として発展し、さらに新たな事業を生みだしながら、電鉄業を核とする多角的事業体を形成していった。

昭和十一年(1936)の時点で、電鉄会社の統轄の下に宝塚新温泉、土地経営、食堂、百貨店などの「部」があり、独立した関係会社として宝塚ホテル、東京宝塚劇場などがあった。

 宝塚唱歌隊は大正二年(1913)十二月に宝塚少女歌劇養成会となった。翌年四月の処女公演は成功し、また同年末の大阪毎日新聞社主催による大毎慈善歌劇にも出演して好評をうけた。七年には東京帝国劇場(牽制)へ出演し、東京進出を実現した。養成会は八年に私立学校令による宝塚音楽歌劇学校となり、小林が校長に就任した。その発表機関として組織された宝塚少女敵劇団は、新劇場で公演し、公演数がふえるにつれて採算がとれるようになった。

 小林が少女歌劇に関心を寄せたのは、帝劇でオペラをみて、これからは洋楽の時代だと考えたからであった。小林は、自ら歌劇脚本を書くなどしてその育成になみなみならぬ努力を傾けた。

 大正十三年(1924)、観覧席三階建、収容人員四〇〇〇人の大劇場が完成し、新しい舞台装置で新しい演出が試みられた。昭和二年(1927)には日本で初めて上演されたレビュー『モン・パリ』が大ヒットし、レビュー時代が幕開けした。五年には「すみれの花さく頃」の歌で有名な『パリゼット』が上演された。

 宝塚少女歌劇団は昭和八年(1933)に独立組織となり、翌年には東京宝塚劇場(東宝劇揚)ができて東京で常打ちできる場を得、さらに海外へも進出した。十五年、宝塚歌劇と改称した。「事業としての演劇」の確立を目指した小林は、「娯楽本位に基くところの国民劇」の創

成き意図した(『私の行き方』)。小林は、宝塚少女歌劇が「国民劇」への可能性をもっていると考えていた。東宝劇場はそれを実現する場であった。

 昭和七年(1932)、株式会社東京宝塚劇場が創立し、九年に東宝劇揚が完成した。そこで小林は、伝統的な興行時間、観覧料、食堂・売店の料金などを改め、「事業としての劇場経営」を確立しようとした。

 またサラリーマン層が集まる有楽町の地域にアミューズメント・センターをつくることを考え、九年から十二年にかけ、東宝劇場のほか日比谷劇場→有楽座、日本映画劇場(日劇)、帝劇などの映画・演劇の劇場を建設あるいは合併した。

 小林は、昭和十一年(1936)に邦画の自由配給に乗りだして東宝映画配給株式会社を、翌年には製作部門へ進出して東宝映画株式会社を設立した。東宝映画は十八年に東宝劇場と合併して東宝株式会社となる。かくて小林は、演劇と映画を一貫経営する企業をつくり、東宝をして老舗松竹に対抗する新興勢力としたのである。

  

ターミナル・デパートの創設

 

百貨店が有望な事業であると確信していた小林は、伝統的百貨店が送迎自動車、催物、無料配達、広告などに多額の費用をかけて客を吸収するのをみて、阪急のターミナルを利用すれば経費がかからず、一割安く売れるという考えをもち、ターミナル・デパート創設の構想を

抱いた。

 そこで大正九年(1920)、五階建の阪急ビルディングが完成するや、実験的に一階を白木屋(のち東急百貨店に買収)に賃貨した。同社は梅田売店として雑誌、雑貨、食料品などを販売し、良好な成績をあげた。

これをみて小林は、十四年に白木屋との賃貸契約を解消し、同ビルの二、三階に阪急直営で食料品と日用雑貨類を販売する「マーケット」を開業した。これが予期以上の成績をあげたので、ターミナル・デパートの実現に踏みきった。

 昭和四年(1929)、「どこよりも良い品を、どこよりも安く売りたい」を方針として阪急百貨店(組織上は電鉄の阪急百貨店部、昭和二十二年株式会社阪急百貨店として独立)を開業した。当初は食堂に重点をおく方針をとり、阪急沿線のサラリーマン層を対象として食料品や日用雑貨を販売した。その後、高級呉服部門へも進出し、食堂を拡張して七年には延面積三万九六〇〇平方メートルを擁する百貨店となった。さらに十一年には総面積五万六二〇〇平方メートルに拡張し、「東洋最大の御買物立体街(ショッピング・ブロック)阪急百貨店」と銘打った。

 素人である電鉄会社の百貨店経営に先鞭をつけた小林は、小売業における立地の重要性を認識していたのであり、人口の流れと消費者のニーズの変化を機敏に察知する能力をもっていた。またターミナル・デパートは、沿線と共存共栄をはからねばならないという方針をうちだし、独創的商品の開発と沿線での製造による産業の振興を主張した。

「薄利多売の語の響きは良いが、やはりこれより外に商売の秘訣はない」というのが小林の考えであった(『私の行き方』)。

   

東電入りと政界進出

 

昭和二年(1927)、小林は東京電燈株式会社(東電)の取締役に就任した。

当時の東電は資本金三億四五七二万四〇〇〇円、従業員一万人を越すわが国有数の大会社であったが、経営が悪化していた。そこで三井銀行筆頭常務取締役の池田成彬がその整理・再建のために担当者として小林に白羽の矢をたてたのである。池田の二度にわたる説得の末、

小林は東電入りした。そして翌三年に副社長兼営業部長となり、八年に社長に就任した。その後十一年には社長と会長を兼務し、十五年に会長専任となり、同年東電を辞めて第二次近衛文盲内閣の商工大臣に就任した。

 小林は、電鉄案に携わった関係で沿線地域に電力を供給する事業を営み、電力事業の経営には経験があった。しかし、スケールの違う東電の経営立直しは容易ではなかった。

東電の業績は悪化の一途をたどり、昭和八年(1933)上期には無配となった。小林は再建策として官僚的体質の一掃と営業第一主義をうちだした。そのため本店集中主義を排し、営業組織を改革して現場業務機関の独立責任制度を確立した。また人事の風通しをよくしてサービス向上のための人材養成に努めた。

 つぎに過剰電力を消化するために小売りを重視した需要喚起策をとった。そのため電気展覧会を開催したり、売店や陳列所を設置して電球、ラジオなどの電気器具を販売した。

 さらに過剰電力の大口消化にも努め、昭和三年(1928)、昭和肥料株式会社(のち昭和電工)の設立に関与し、また十四年には古河電気工業との共同出資で日本軽金属株式会社を創立して社長となった。両社に関係したのは化学肥料工業とアルミニウム工業が大量の電力を消費する工業だからであった。

 昭和三年に東京電力を合併した後も東京電燈は、東邦電力、日本電力、大同電力と激しい競争を展開し、これが業績悪化の因ともなったが、小林は電力合戦の解決にも努力した。その結果、東電の業績は八年を底として景気回復による電力需要の増加につれて上向き、経営内容を改善した。

 東電再建に成功した小林は中央経済界で高い評価をうけるようになった。昭和十四年(1939)には電力の国家管理が始まったが、戦時経済統制が進展するなかで小林は、電鉄、電力といった事業はパブリックサービスで、社債利息が払えて改良工事かできればよいと考えるようになった。

 

 小林は昭和十五年(1940)に商工大臣に就任して政界入りしたが、経済新体制の企両院原案「機密漏洩問題」に関わって翌年辞任した。また戦後の二十年十月には幣原喜重郎内閣め国務大臣、翌月には戦災復興院総裁に就任してふたたび政界に足を踏み入れた。しかし、これも公職追放令によって翌年には辞職した。

追放中、小林の育てた東宝が労働争議に揺れて経営危機にひんしていた。二十六年に追放解除になった小林は、相談役、さらに社長に就任し、陣頭指揮して東宝の立直しにあたり、再建ができるや三十年には社長を辞めた。

そして永年の夢であった光と舞台転換と立体音響を駆使できる円型潮湯の建設にとりかかった。三十一年十一、十二月に開揚した梅田と新宿のコマ・スタジアムであり、これが小

林の企業経営考としての最後の仕事となった。

翌三十二年一、月二十五目に没す。

 

   自他共に利益する

 小林は、現金商売で日銭が入り、貸倒れもなく、利は薄いが危険のない安全な事業で、社会がいかに変化しようと必要なものであるという考えに立って「大衆本位の事業」に携わり、「自他共に利益することによって繁昌する」という考えを企業経営上の根本理念とした(『私の行き方』)。自他共に利益するためには、無駄を排し、合理性を追求することになる。そして合理的思考を重ねていく過程で独創的アイデアを生みだし、電鉄経営から住宅地経営、レジャー・センター経営、劇場経営、百貨店経営。などを有機的に創設していったのである。その際、独創的アイデアを生みだす才能に恵まれ、理想主義者であった小林は、企業経営者

として堅実主義・漸進主義の基本姿勢を固く守った。素人でありながら未経験の事業分野において小林が成功を収めた要因はここにあった。それは「平凡主義」に徹するという小林の人生観のうえに築かれたものであった。。

 

(主要参考文献)

 

◆ 小林一三全集編集委員会編『小林一三全集』全七巻、

ダイヤモンド社、昭和三十六~七年。

 

 ◆ 小林一三追想録編纂委員会編『小林一三翁の追想』昭和三十二年。

 ◆ 清水雅『小林一三翁に教えられるもの』梅田書房、昭和三十二年。

◆ 三宅晴輝『小林一三伝』東洋吉雄、昭和二十九年。

 ◆ 岩場安三『偉才小林一三の商法』評言社、昭和四十七年。






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最終更新日  2021年02月14日 08時02分03秒
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