2299872 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年02月14日
XML
カテゴリ:著名人紹介

森鴎外「伊沢蘭軒」からー不審に思うことー

 

鈴木瑞枝氏著 『日本随筆大成』1別巻附録

   

 鴎外の「伊沢蘭軒」の五十八に、普茶山の(文化七年八月廿八日)、蘭軒にあてた手紙が載っている。その中に

   

中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。

然るに中 秋半夜の後松永尾道は清光無鴉と中程に候よし。松永はわずか四里許の所也。さほどの

違いはいかなる事にや。

 

これは宋の蘇子由が、「中秋萬里陰晴ヲ同ジウス」と詠んだのに疑問を感じ、わずか四里離れた所で、陰晴を異にしていたと言うのである。更に茶山は中秋の月を観察し、いろいろな土地から情報を集め、随筆集「筆のすさび」(文化十一年 1814)の中で、細かくそのことに言及している。(最近出版された富士川英郎氏の「鵂鴟庵閑話」にこのことが載っている。)

 ところで最近見ることの出来た、某氏蔵の茶山の手紙に(武元登々庵あて)、次のような文言があった。

   

中秋雨ふり九ツ過、笑中に彷彿円相を見申候のみ。

松永(神辺より四里西)辺ニ面ハ午後無繊弱と申来候。

御地いかゝ。

 

この手紙の日付は八月廿七日とだけあって、何れの年に書かれたのかは記されていない。しかし少し後の所に、

 

晋帥は無事、久太郎も同様対策などは出来不申候。

 

とある。言うまでもなく久太郎は頼山陽のことであり、茶山が山陽と共に過ごした中秋とは、文政七年以外にないことからして、この手紙は、鴎外が引用した手紙の一日前、つまり文化七年(1810)八月廿七日に書かれたものと断定出来る。

内容的にも似通っているから、他日書かれたものとは思われない。

 しかし茶山は、蘭軒に

「月の顔は見えず」

と書いたのに、登々庵には

「雪中に彷彿円相を見申候のみ」

と、少し表現を違えて書いているのは、どういう訳だろうか。見えたのだろうか、それとも見えなかったのだろうか。どちらにしろ茶山はかまわないのかもしれないが、どうも気になって仕方がない。

しかしこれは、どうにも確かめようがないようである。

 なお富士川氏の「菅茶山と頼山陽」(東洋文庫)巻末の、菅茶山年譜にはこの日の条に、

「夜、松永に至って月を見、翌日帰宅する。」

とあるが、この二本の手紙からは、そのようなことは窺われない。どんなものだろうか。

   その二

 

百八十六に次のような記事がある。

   

十月に蘭軒は小旅行をしたらしい。集に「初冬山居」の七絶二、「冬日田園雑興」の七絶一があっ

て、就中山居の一は題を設けて作ったものとは看倣し難い。

「近日山村奢作流。小春時節襲軽裂。約期争設開炉宴。莬道茶商末滞留。」

   当時茶の湯の盛に行はれた山村は何處であらうか。

 

鴎外が何處であろうかと問うた山村が、実は都下の八王子であることは、蘭軒の友人であり、お茶好きな館柳湾の「柳湾漁唱二集」が明らかにしている。則ち七律の前に付けられた次の文である。

   頃年近郡ノ邨里茶事流行シ、八王子郷中尤モ盛ンナリト云ウ。

蘭軒老人ノ山邨絶句ニ

期ヲ約シテ争イ設ク開炉ノ宴、菟道ノ茶商来リテ滞留ス

ノ句アリ。蓋シソノ奢侈ヲソシレルナリ。……

 

ところで蘭軒のこの詩が作られたのは、その歿する半年程前の、文政十一年(1828)のことである。鴎外によると

「蘭軒の(死に至る)病は急劇の証であった。」ようであるが、果して彼は、その半年前に八王子まで旅行したのだろうか。

 この疑問を解こうとして八王子に足をむけたが、手がかりはなかった。ただ千人同心組頭であった塩埜適斎の著す、浩瀚な「桑都日記」を見ることが出来、化致期の八王子について知ることが出来た。残念なことにこの日記は、文政七年まで書かれていて、蘭軒が訪れたかと思われる文政十一年の記事はない。ただ文政五年の記事に次のようなことが載っているのが目にとまった。

  水府鼎山公(八代斉修)、茶銘を善能寺に賜はる。

善能寺は親鸞上人の門徒なり。住持は敬仙と言う。

人と為り温雅質直、芸に遊び交を四方に結ぶ。

又茶を好み能くこれを製す。

其の製、之を宇治・信楽に比す。

是を以て土人之を茶寺と称す。

都下の人士之を聞き瘻至り請ふて之を索むる者あり。……

 

善能寺というお寺は今もある。しかし戦火に焼かれて昔の面影はない。しかし八王子で宇治・信楽にも匹敵するようなよいお茶が作られていたということと、蘭軒の詩に見えるよ

うに、お茶が盛んに飲まれていたということとは、何等かの関係があるのだろうと思われる。

                      (安田学園教諭)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年02月14日 08時07分00秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X