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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月14日
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カテゴリ:著名人紹介

ゆく雲 上 樋口一葉著

 

【註】山梨県地名が多く使われている。

 

酒折の宮、山梨の岡、疲山、裂石、さし手(差出)の名も都人の耳に聞きなれぬは、小佛払子の難處を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし、甲府は流石に大厦高楼、躑躅(つつじ)が崎の城跡など見る處のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車(うでくるま)に一査夜をゆられて、いざ恵林寺の楼見にといふ人はあるまじ、故郷なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の甲斐に峯のしら雲あとを駒すこと左りとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覚えなき愁(つ)らさなり。

 養父清左衛門、()()より何處其處からだに申分ありて寝つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと医者の指圖などを申しやりて、此身は雲井の烏の羽がひ自由なる書生の境界に今しばしは遊ばるゝ心なりしを、先きの日故郷よりの便りに曰く、大旦那さまこと我慢の容体さしたる事は御座なく候へ共、次第に短気のまさりて我意つよく、これ一つは年の(せい)には御座候はんなれど、随分あたりの者御機げんの取りにく々、大心配を致すよし、私など古狸の身なれば兎角つくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから鳥の立つやうにおゝきたてなさるには大閉口に候、此中より頓に貴君様を御手もとへお呼び寄せなさり(たく)、一日も早く家督相続あそばさせ、楽隠居なされ度おのぞみのよし、これ然るべき事と御親類一同の御決義、私は初手から貴君様を東京へお出し申すは気に喰はぬほどにて、申しては失礼なれどいさゝかの學問など何うでも宜い事、赤尾の彦が息子のやうに気ちがひに成って陥ったも見て居り侯へば、もともと利発の貴君様に其気づかひはあるまじきなれど、放蕩ものにでもお成りなされては取返しがつき申さず、今の分にて嬢さまと御祝言、御家督引つぎ最はや早きお歳にはあるまじくと大賛成に候、さだめしさだめし其地には遊しかけの御用事も御座候はん夫れ等を然るべく御取まとめ、飛鳥もあとを濁すなに候へば、大藤の大尽が息子と聞きしに野原の桂次は了簡の清くない奴、何處やらの割前を人に背負せて逃げをったなどと斯ふいふ噂があとあとに残らぬやう、郵便為替にて証書面のとほりお逸り申侯へども、足りずば上杉さまにて御寫かへを願ひ、諸事清潔(きれい)にして御帰りなさるべく、金故に恥ぢをお掻きなされては金庫の番をいたす我等が申わけなく候、前申せし通り短気の大旦那さま(しきり)に持ちこがれて大ぢれに御座候へば、其地の御片つけすみ次第、一日もはやくと申納候、穴蔵といふ通ひ番頭の筆にて此楳の迎ひ(ぶみ)いやとは言ひがたし。

 家に生え抜きの我れ實子にてもあらば、かゝる迎へのよしや十度十五たび来たらんとも、おもひ立ちての修業なれば(ひと)(かど)の學問を研かぬほどは不孝の罪ゆるし給へとでもいひやりて、其我ままの(とぼ)らぬ事もあるまじきなれど、愁礼rらきは辰子の身分と桂次はつくづく他人の自由を羨みて、これからの行く末をも鎖りにっながれたるやうに考へね。

 七つのとしより實家の貧を救はれて、生れしまゝなれば素裸足の尻きり半纏に田圃へ辨當の持はこびなど、松のひでを燈火にかへて草鞋(わらんじ)うちながら馬士歌(まごうた)でもうたふべかりし身を、目鼻だちの何處やらがが水子にて亡せたる惣領によく似たりとて、今はなき人なる地主の内儀(つま)に可愛がられ、はじめはお大盡(だいじん)の旦那と尊びし人を、父上と呼ぶやうに成りしは其身の幸福なれども、幸福ならぬ事おのづから其中にもあり、お作といふ娘の桂次よりは六つの年少にて十七ばかりになる無地の田舎(もの)をば()うでも妻にもたねば納まらず、國を出るまでは左まで不運の縁とも思はざりしが、今日この頃は送りこしたる寫眞をさへ見るに物うく、これを妻に持ちて山梨の東郡(ひがしごおり)(ちつ)(ぶく)する身かと思へば、人のうらやむ造酒家の大身上は物のかずならず、よしや家督をうけつぎてからが親類縁者の干渉きびしければ、我が思ふ事に一銭の融通も叶ふまじく、いはば賓の蔵の番人にて終わるべき身の、気に入らぬ妻までとは彌々(いよいよ)の重荷なり、うき世に義理といふ(しがらみ)がのなくば、蔵を地主に返し長途の主にを人にゆづりて、我れは此東京を十年も二十年も今すこしも離れがたき思ひ、そは何故と問ふ人のあらば切りぬけ立派に言ひわけの口上もあらんなれど、つくろひなき正の處こゝもとに唯一人すてゝかへる事のをしくをしく、別れては顔も見がたき後を思へば、今より胸の中もやくやとして、自ら気もふさぐべき種なり。

 桂次が今をる養家は農家の緑に引かれて伯父伯母といふ間がら也、はじめて此家へ来たりしは十八の春、

田舎縞の着物に肩縫あげをかしと笑はれ、八つ口をふさぎて大人の姿にこしらへられしより二十二の今日までに、下宿屋住居を牛分と見っもりても出入り三年はたしかに世話をうけ、伯父の勝義が性質の気むづかしい處から、無敵にわけのわからぬ強情の加減、唯々女房にばかり手やはらかなる可笑しさも呑込めば、伯母なる人が口先ばかりの利口にて誰れにつきても根からさっぱり親切似のなき、我欲の目当てが明らかに見えねば笑ひかけた口もとまで結んで見せる現金の梯子まで、度々の経験に大方は會得のつきて、此家にあらんとには金づかひ奇麗に損をかけず、表むきは何處までも田舎書生の厄介者が舞ひこみて御世話に相成るといふこしらへでなくては第一に伯母御前が御機嫌むづかし、上杉といふ苗字をば宜いことにして大名の分家と利かせる見得ぼうの上なし、下女には奥様といはせ、着物は袖のながいを引いて、用をすれば肩がはるといふ、二十圓どりの會社員の妻が此形相にて繰廻しゆく家の中おもへぱ此女が小利口の才見ひとつにて、良人が箔の光って見ゆるやら知らねども、失敬なのは野澤桂次といふ見事立派の名前ある男を、かげに廻りては家の書生がと安々こなされて、御玄闘番同様にいはれる事馬鹿らしさの頂上なれば、これのみにても寄りつかれぬ値打はたしかなるに、しかも此家の立はなれにくく、心わるきまゝ下宿屋あるきと思案をさだめても二週間と訪問を絶ちがたきはあやし。

 十年ばかり前にうせたる先妻の腹にぬひと呼ばれて、今の奥様には(まま)なる娘あり、桂次がはじめて見し時は十四か三か、唐人髭に赤き切れかけて、姿はおさなびたれども母のちがふ子は何處やらをとなしく見ゆるちのと気の毒に思ひしは、我れも他人の手にて育ちし同情を持てばなり、何事も母親に似をかね、父にまで遠慮虞がちなれば自づから詞かずも多からず、一目に見わたした處では柔和(おんわ)しい温順(すなほ)の娘といふばかり、格別利発ともはげしいとも人は思ふまじ、父母そろひて家の内に籠り居にても済むべき娘が、人目に立つほど才女など呼ばるゝは大方お(きゃん)か飛びあがりの、甘やかされの我儘の、つゝしみなき高慢より立つ名なるべく、物にはゞかる心ありて(よろず)ひかへ目にと気をつくれば、十が七に見えて三分の損はあるものと桂次は故郷のお作が上まで思ひくらべて、いよいよおぬひが身のいたましく、伯母が高慢顔はつくづくと嫌やなれども、あの高慢にあの温順(すなほ)なる身にて事なく仕へんとする気苦労を思ひやれば、せめては傍近くに心ぞへをも以し、慰めにもなりてやり度と、人知らば可笑かるべき自惚れも手伝ひて、おぬひの事といへば我が事のように喜びもし怒りもして過ぎ来つるを、見すてゝ我れ今故郷にかへらば残れる身の心ぼそさいかばかりなるべき、あはれなるは継子の身分にして不甲斐ないものは養子のの我れと、今更のやうに世の中のあぢきなきを思ひぬ。

 

ゆく雲 中 樋口一葉著

 

 まゝ母育ちとて誰れもいふ事なれど、あるが中にも

女の子の大方すなほに句たつは稀なり、少し世間並胆

け物の嶮い子は、底意地はつて馬鹿強情など人に嫌は

るx事この上なし、小利口なるは校るき性根をやしな

うて面かぶりの大9ものに成もあり、しやんとせし気

性ありて人間の質の正直なるは、すね者の部類にまぎ

れて其身に取れば生涯の損おもふべし、上杉のおぬひ

と言ふ娘、桂次がのぼせるだけ容貌も十人なみ少しあ

がりて、よみ書きゼr蝦それは小學校にて學びし刻の

ことは出来て、我が名にちなめる針仕事は袴の仕立ま

でわけなきよし、ヤrばかりの頃までは相惑に悪戯も

つよく、女にしてはと亡き母親に眉根を寄せさして、

ほころびの小言も十分に聞きし物なり、今の母は父親

が上役なりし人の隠し妻とやらお妾とやら、種々日く

のつきし難物のよしなれども、持ねぱならぬ義理あり

で引うけしにや、それとも父が好みて申受しか、その

疸たしかならねど勢力おさく女房天下と申やうな景

色なれば、まk子たる身のおぬひが此瀬に立ちて泣く

は道理なり、もの言へば睨まれ、笑へば怒られ、気を

ゆく雲

利かせれば小ざかしと云ひ、ひかえ目にあれば鈍な子

と叱かられる、二葉の新芽に雪霜のふりかxりて、こ

れでも延びるかと押へるやうな仕方に、堪へて院直ぐ

に延びたっ事人間わざには叶ふまじ、泣いて泣いて泣

きa一くして、訴へたいにも父の心は幟のやうに冷えて、

ぬる酷二杯たまはらん情もなきに、まして他人の誰れ

にか慨っべき、月の十日に母さまが御墓まゐりを谷中

の寺に祭しみて、しきみ線香夫々の供へ物もまだ絡ら

ぬに、母さま母さま私を引取って下されと石塔に抱き

っきて遠慮なき熱涙、苔のしたにて間かば石もゆるぐ

べし、井戸がはに手を掛て水をのぞきし事三四度に及

びしが、っくぐ思へば無情とても父様は院宣のなる

にヽ我れはかなく成りて宜からぬ名を人の耳に侍へれ

ば、残れる駈は誰が上ならず、勿肺なき身の受悟と心

の中に佗言して、どうでも死なれぬ世に生中日を明き

て過ぎんとすれば、人並のうい事っらい事、さりとは

此身犯堪へがたし、一生五十年めくらに成りて終らぱ

事なからんとがれよりは一筋に母様の御機嫌、父が気

に入るやう一切この身を無いものにして勤むれば家の

内なみ風おこらずして、軒ばの松に鶴が来て巣をくひ

はせぬか、これを世間の目に何と見るらん、母御は世

賠上手にて人を外らさぬ甘さあれば、身を無いものに

して闇をたどる娘よりも、一枚あがりて、許判わるか

らぬやら。

 お縫とてもまだ年わかなる身の桂次が親切はうれし

からぬに非ず、親にすら捨てられたらんやうな我が如

きものを、心にかけて可愛がりで下さるは辱けなき事

と凪へども、桂次が凪ひやりに比べては浅かに落っき

て冷やかなる物なり、おぬひさむ我れがいよく婦國

したと成っ’たならば、あなたは何と凪ふて下さろう、

朝夕の手がはぶけて、厄介が減って、察になったとお

喜びなさなうか、夫れとも折ふしは彼の話し好きの銚

刮のさわがしい人が居なくなったで、少しは淋しい位

に凪ひ出して下さろうか、まあ何と凪ふてお出なさる

とが尉な事を問ひかけるに、仰しやるまでもなく、ど

んなに家中が淋しく成りましよう、卦がにお鴎あそぱ

してさへ、一ト月も下宿に出て入らっしやる頃は日曜

が待どほで、朝の戸を明けるとやがて御足おとが聞え

はせぬかと存じまする物を、お國へお錨りになっては

容易に御出京もあそぱすまじけれぱ、又どれほどのお

jj2

ゆく雲

別れに成りまするやら、夫れでも倣道が通ふやうに成

りましたら度々御出あそぱして下さりませうか、そう

ならば嬉しけれど三日ふ、我れとても行きたくてゆく

故郷でなければ、此處に居られる物なら錨るではなく、

出て来られる都合ならば又今までのやうにお世話に成

りに来まする、或るべくは耐酎たち錨りに直ぐも出京

したものと軽くいへぱ、それでもあなたは】家の御主

人さまに成りて采配をおとりなさらずは叶ふまじ、今

までのやうなお泰の御身分ではいらつしやらぬ筈と押

へられて、されば誠に大難に逢ひたる身と思しめせ。

 我が貸家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは派

出貳、大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそび

ゆる白妙の富士のrは、をしみて面かげを示めさねど

も冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひて

は甲府まで五里の避を取りにやりて、やうく鯨の刺

身が口に入る位、あなたは御存じなけれどお貧丿入さん

に聞て見給へ、それは随分不便利にて不潔にて、東京

より励りたる諺況などは我まんのなりがたき事もあり、

そんな處に我れは括られて、面白くもない仕事に迫は

れて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難

く、冗々として月日を逍らねばならぬかと思に、気の

ふさぐも道理とせめては貴娘でもあはれんでくれ給へ、

可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたは左様仰

しやれど母などはお浦山しき御身分と申て曇りまする。

 何が此様な身分うら山しい事か、こxで我れが幸扇

といふを考へれぱ、陥國するに先だちてお作が頓死す

るといふ様なことにならば、一人娘のことゆゑ父親お

どろいて怖時は家督沙汰やめになるべく、然るうちに

少々なりともやかましき財産などの有れば、みすく

他人なる我れに引わたす事をしくも成るべく、又は縁

者の中なる欲ばりども唯にはあらで運動することたし

かなり、その眺に何かいさkか仕損なゐでもこしらゆ

れば我れは首尾よく離縁になりて、で本立の野中の杉

ともならば、其れよりは我が自由にて其時に幸扇とい

ふ詞を呉へ給へと笑ふに、おぬひ惘れて貴君は其様の

事正気で仰しやりますか、吊常はやさしい方と存じま

したに、お作様に頓死しろとは蔭ながらの咀にしろあ

んまりでござります、お可愛想なことをと少し涙ぐん

でお作をかぱふに、それは跳rが常人を見ぬゆゑ可愛

翻とも思ふか知らねど、お作よりは我れの方を憐れん

ヤー‘‐i

でくれて官い筈ヽ目に見えぬ繩にっながれて引かれて

ゆくやうな我れをぱ、あなたは斡の處何とも思ふてく

れねば、勝手にしろといふ風で我れの事とては少しも

察してくれる様子が見えぬ、今も今居なくなったら淋

しかろうとお言ひなされたはほんの口先の世賠で、あ

んな者は早く出てゆけと拵に鵬指が落ちならんも知ら

ず、いk気になって御邪魔になって、 長居をして御世

話さまに成ったは、申鐸がありませぬ、いやで成らぬ

田舎へは錨らねばならず、情のあろうと思ふ貴娘がそ

のやうに見すてx下されば、いよく世の申は面白く

ないの頂上、勝手にやって見ませうと態とすねて、む

っと顔をして見せるに、野潭さんは木常にどうか遊し

ていらっしやる、何がお気に嗚りましたのとお縫はう

っくしい眉に皺を寄せて心のrしかねる糾に、それは

勿論正気の人の目からは気ちがひと見える筈、自分な

がら少し狂って居ると思ふ位なれど、気ちがひだとて

種なしに間違ふ物でもなく、いろいろの事が昼まって

頭韻の申がもっれて仕舞ふから起る事、我れは気温ひ

か熱病か知らねども正気のあなたなどが到底おもひも

寄らぬ事を考へて、人しれず泣きつ笑ひっ、何處やら

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の人が子供の時うっした寫筒だといふあどけないのを

貰って、それを明けくれに出して見て、而と向っては

言はれぬ事を並べて見たり、机の引出しへ町孵に仕舞

って見たり、うわ言をいったり夢を見たり、こんな事

で一生を逸れぱ人は定めしがm即と凪ふなるべく、其

やうな馬鹿になってまで思ふ心が通じず、なき縁なら

ば卵めては優しい延ヴもかけて、成佛するやうにして

くれたらtさそうの事を、しらぬ顔をして情ない事を

言って、お出がなくぱ淋しかろう位のお言葉は酷いで

はなきか、正気のあなたは何と思ふか知らぬが、狂気

の身にして見ると随分気づよいものと恨まれる、女と

いふものは最う少しやさしくても好い筈ではないかと

立てっMbQIト息に、おぬひは返事もしかねて、私

しは何と申してよいやら、不器用なればお返事のしや

うも分らず、唯々こkろぼそく成りますとて身4j424

めて引退くに、桂次拍子ぬけのしていよく頭の重た

くなりぬ。

 上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内廣々と桃

楼いろく櫨わたしたれぱ、此方の二階より見おろす

に雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ

ゆく雲

佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらく

と花散りこぼれて前に供へし捨の枝につもれるもをか

しく、下ゆく子守りが鉢巻の上へ、しぱしやどかせ春

のゆく衛と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの鱈月よに人

頗ほのぽのと暗く成りて、風少しそふ寺内の花をぱが

rも一昨年も其まへの年も、桂次此處に大方は宿を定

めて、ぶらくあるきに立ならしたる處なれば、今歳

この度とrわけて珍らしきさまにもあらぬを、今こん

春はとても立かへり鴫べき地にあらずと凪ふに、こk

の濡れ佛さまにも申々の名残をしまれて、夕げ紡りて

の冑々家を出ては御寺参り殊勝に、観音さまには合唱

を申して、我が撒人のゆく末を守り玉へと、お志しの

ほどいつまでも溶えねば宜いが。

 我れのみI人のぽせて耳鳴りやすべき桂次が熱はは

げしけれども、おぬひと言ふもの木にて作られたるや

うの人なれば、まづは上杉の家にやかましき沙汰もお

こらず、大藤抒にお作が夢ものどかなるべし、四月の

一-ミ.、・.・I ・..'r.ミ

十五日陥國に極まりて土産物など折柄日清の職印斑、

大勝利の袋もの、ぱちん羽織の紐、白粉かんざし楼香

の油ヽ緑類廣けれぱとりぐに香水ヽ揖轍の気取りた

るも買ふめり、おぬひは桂次が未来の妻にと錯りもの

の中へ双務色の附則の襟に白ぬきの牡丹花の形あるを

やりけるに、これを眺めし時の桂次が顔、気の毒らし

かりしと後にて下女の竹が申しぎ。

 桂次がもとへ逍りこしたる寫侃はあれども、秘しが

くしに取納めて人には見せぬか、夫れとも人しらぬ火

鉢の灰になり終りしか、桂次ならぬもの知るによしな

けれど、さる頃はがきにて處用を申こしたる文面は男

の通りにて名書きも六賊の分なりしかど、手跡大分あ

がりて見よげに成りしと父親の自まんより、娘に書か

せたる事論なしとこkの内儀が人の悪き目にて睨みぬ、

手跡によりて人の顔つきを凪ひやるは、名を聞いて人

の善悪を判断するやうなもの、富代の能書に業吊さま

ならぬもおはしますぞかし、されども心用ひ一つにて

悪筆なりとも見よげのしたkめ方はあるべきと、達者

めかして筋もなき走り書きに人よみがたき文字ならば

詮なし、お作の手はいかなりしか知らねど、此處の内

-

 

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ゆく雲

備が目の前にうかびたる形は、損巾ひろく刑つまりし

顔に、目尋だちはまづくもあるまじけれど、厭うすく

して首筋くつきりとせず、胴よりは足の長い女とおぼ

ゆると言ふ、すて筆ながく引いて見ともなかりしか可

rし、桂次は東京に見てさへrるい方では無いに、大

務村の光る君帰郷といふ事にならばヽ鹿砦の女が白粉

のぬりかた凪はれると此處にての取沙汰、容貌のわる

い妻を持っぐらゐ我慢もなる筈、水呑みの小作が子と

して一足飛のお大盗なれぱと、やがては賞家をさへ洗

はれて、人の口さがなし伯父伯母一つになって嘲るや

うな口調を、桂次が耳に入らぬこそよけれ、一人気の

毒と凪ふはお縫なり。

 荷物は通運便にて先へたkせたれぱ残るは身一つに

軽々しき桂次、今日も明日もと友達のもとを馳せめぐ

りて何やらん用事はあるものなり、僅かなる人目の暇

を求めてお縫が挟をひかえ、我れは君に尉はれて別る

るなれども夢いさXか恨む事をばなすまじ、君はおの

づから君の木地ありて其島田をば丸曲にゆひかへる折

のきたるべく、うっくしき乳房を可愛き人に含まする

時もあるべし、我れは唯だ君の身の幸扇なれかし、す

こやかなれかしと訴りて此長き世をぱ査さんには隨分

とも親孝行にてあられよ、母御前の意地わるに逆らふ

やうの事は君として無きに相違なけれどもこれ第一に

心がけ給へ、言ふことは多し、凪ふことは多し、我れ

は世を終るまで君のもとへ文の便りをたxざるべけれ

ば、君よりも十通に一度の返事を具へ給へ、附りがた

き秋の夜は胸に抱いてまぽろしの面影をも見んと、こ

のやうの数々を並べて男なきに涙のこぼれるに、ふり

仰向てはんけちに顔を拭ふさま、心よわげなれど誰れ

もこんな物なるべし、今から錨るといふ故郷の事養家

のこと、我身の事お作の事みなから忘れて世はお縫ひ

とりのやうに凪はる‐4¥)閤なり、此時こんな場合には

かなき女心の引入られて、一生溶えぬかなしき影を胸

にきざむ人もあり、岩木のやうなるお縫なれば何と思

ひしかは知らねども、涙ほろくこぽれてIト言もな

し。

 春の夜の夢のうき橋、と絶えする損ぐもの空に東京

を思ひ立ちて、道よりもあれば新宿までは腕車がよし

といふ、ハ王子までは汽車の申、をりれぱやがて馬車

にゆられて、心肺の峠もほどなく越ゆれぱ、上野原、

つる川、野田尻、穴附、島津も処ぐれば猿はし近くに

其の夜は宿るべし、巴峡のさけびは聞えぬまでも、笛

吹川の響きに夢むすび憂く、これにも腸はたkるべ

き馨あり、肪沼よりの端書二度とゞきて四日目にぞ七

里の溶印ある封状二つ、一つはお縫へ向けてこれは長

かりし、桂次はかくて大藤村の人に成りぬ。

 世にたのまれぬを男心といふ、それよ秋の空の夕日

にはかに掻きくもりて、傘なき野道に損しぶきの附ぎ

さ、出あひし物はみな其様に申せども是れみな時のは

づみぞかし、波こえよとて末の松山ちぎれるもなく、

男傾城ならぬ身の空涙こぼして何に成るべきや、昨日

あはれと見しは昨日のあはれ、今日の我が身に埓す業

しげkれぱ、忘るXとなしに忘れて一生は夢の如し、

露の世といへぱほろりとせし屯の、はかないの上なし

なりヽ凪へぱ男は脚髪の妻ある身ヽいやとても惑とて

も浮世の絵理をおもひ噺つほどのこと此人此身にして

叶ふべしや、事なく高砂をうたひ納むれぱ、即ち新ら

しき一封の夫婦出来あがりで、やがては父とも言はる

べき身なり、諸縁これより引かれて晰もがたき絆次第

jj5

にふゆれぱ、一人一箇の野深桂次ならず、運よくは萬  ろびが切れてはむづかし

の身代十萬に延して山梨腿の多額納税と銘うたんも斗

りがだけれど、契りし詞はあとの湊に残して、舟は流

れに閤がひ人は世に引かれて、遠ざかりゆくこと千里、

二千里、一萬里、此處三十里の隔てなれども心かよは

ずは入重がすみ外山の峰をかくすに似たり、花ちりて

青葉の頃までにお縫が手もとに文三通、こと細か成け

るよし、y炉削軒ばに問れまなく人撒しき折ふし、彼

方よりも敬々凪ひ出の詞うれしく見つる、夫れも過ぎ

ては月に一二度の便り、はじめは三四度屯有りけるを

後には一度の月あるを恨みしが、蜘影のはきたてとか

いへるに懸りしより、二月に一度、三月に一度、今の

間に半年目、一年目、年始の状と暑中見舞の交際にな

りて、文言うるさしとならば端書にても事は足`るべし、

あはれ可笑しと軒ばの梗くる年も笑ふて、隣の寺の観

晋梯御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若い

さかりの熱といふ物にあはれみ給へぱ、此處なる冷や

かのお縫も笑くぼを頬にうかべて世に立つ事はならぬ

か、相かはらず父様の御機嫌、母の気をはかりて、我

身をない物にして上杉家の安穏をはかりぬれど、ほこ

ゆく雲

○つる川、野田尻、穴附、島津も処ぐれば猿はし近くに

其の夜は宿るべし、巴峡のさけびは聞えぬまでも、笛

吹川の響きに夢むすび憂く、これにも腸はたkるべ

き馨あり、肪沼よりの端書二度とゞきて四日目にぞ七

里の溶印ある封状二つ、一つはお縫へ向けてこれは長

かりし、桂次はかくて大藤村の人に成りぬ。

 世にたのまれぬを男心といふ、それよ秋の空の夕日

にはかに掻きくもりて、傘なき野道に損しぶきの附ぎ

さ、出あひし物はみな其様に申せども是れみな時のは

づみぞかし、波こえよとて末の松山ちぎれるもなく、

男傾城ならぬ身の空涙こぼして何に成るべきや、昨日

あはれと見しは昨日のあはれ、今日の我が身に埓す業

しげkれぱ、忘るXとなしに忘れて一生は夢の如し、

露の世といへぱほろりとせし屯の、はかないの上なし

なりヽ凪へぱ男は脚髪の妻ある身ヽいやとても惑とて

も浮世の絵理をおもひ噺つほどのこと此人此身にして

叶ふべしや、事なく高砂をうたひ納むれぱ、即ち新ら

しき一封の夫婦出来あがりで、やがては父とも言はる

べき身なり、諸縁これより引かれて晰もがたき絆次第

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にふゆれぱ、一人一箇の野深桂次ならず、運よくは萬  ろびが切れてはむづかし

の身代十萬に延して山梨腿の多額納税と銘うたんも斗

りがだけれど、契りし詞はあとの湊に残して、舟は流

れに閤がひ人は世に引かれて、遠ざかりゆくこと千里、

二千里、一萬里、此處三十里の隔てなれども心かよは

ずは入重がすみ外山の峰をかくすに似たり、花ちりて

青葉の頃までにお縫が手もとに文三通、こと細か成け

るよし、y炉削軒ばに問れまなく人撒しき折ふし、彼

方よりも敬々凪ひ出の詞うれしく見つる、夫れも過ぎ

ては月に一二度の便り、はじめは三四度屯有りけるを

後には一度の月あるを恨みしが、蜘影のはきたてとか

いへるに懸りしより、二月に一度、三月に一度、今の

間に半年目、一年目、年始の状と暑中見舞の交際にな

りて、文言うるさしとならば端書にても事は足`るべし、

あはれ可笑しと軒ばの梗くる年も笑ふて、隣の寺の観

晋梯御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若い

さかりの熱といふ物にあはれみ給へぱ、此處なる冷や

かのお縫も笑くぼを頬にうかべて世に立つ事はならぬ

か、相かはらず父様の御機嫌、母の気をはかりて、我

身をない物にして上杉家の安穏をはかりぬれど、ほこ

ゆく雲

 

樋口一葉略譜

❖ 明治五年(一八七三) 一歳

 五月二日、東京府第二大二小区内幸町一丁目一番屋敷、

東京府構内長屋の官舎で生れた。

父埓之助、母たきの次女、なつと命名。

当時長女ふじは十六歳、

 長男泉太郎は九歳、次男虎之助は七歳。

 

❖ 明治十年(一八七七) 六歳

三月、なつは本郷學校に入學したが、

幼少通學にたえないのを理由に退學。

この秋、私立吉川學校に入學。

 

❖ 明治十一年(一八七八) 七歳

六月、吉川學校下等小學第八級を修了、七級に進む.

この頃から草雙紙など耽蹟。

 

❖ 明治十四年(一八八一) 十歳

 七月、下谷御徒町一丁目十四番地に特居。

更に、十月、下谷御徒町三丁目三十三番地に転居。

十一月、私立青海學校二級後期に入學。

 

❖ 明治十六年(一八八三) 十二歳

 十二月、青海學校小學高等科四年数を卒業。

首席であった。

 

❖ 明治十七年(一八八四) 十三歳

一月から短期間、父の知人である歌人和田重雄から

和歌の通信教授をうけた.

十月、下谷西黒門町二十二番地に移転。

この年から家事を手傅い、

松永政愛の妻女のところに針仕事を習いに通った。

 

❖ 明治十九年(一八八六) 十五歳

八月二十日、父の知人遠田澄庵の紹介で、

小石川の萩の舎に入塾。

萩の舎は、桂旧派の歌人中島歌子の経営である。

 

❖ 明治二十年(一ハ八七) 十六章

 一月十五日、始めて、日記をしるす。

 

❖ 明治二十三年(一八九一) 十九歳

 九月末、本郷菊坂町七十番地に借家。

母と妹との三人暮し。

生計は針仕事と洗張であった.

 

❖ 明治二十四年(一八九一) 二十歳

 一月、小説家になろうと決意、「かれ尾花一もと」を執筆。

四月十五日、妹の知人野々宮菊子の學友

牛井幸子の兄、桃水に小説の数えを乞い、入門した.

 

❖ 明治二十五年(一八九二) ‘二十一歳

 三月創刊の『武蔵野』に、小説「聞楼」が載った.

 『武蔵野』四月號に「たま捧」。

『改進新聞』に「別れ霜」が連載。

六月、桃水と絶交。

『武蔵野』七月號に『五月雨』。

九月、「鰐つくえ」が『甲陽新報』に連載された。

十一月、「うもれ木」が、

一流文藝雑誌『都の花』に連載された。

 

❖ 明治二十六年(一八九三) 二十二歳

二月、「暁月夜」が、『都の花』百一號。

翌三月、「文學界』に「雪の日」が載る。

原稿料は薄謝に近いもので、

精神的・物質的に行き詰りを感じていた.

七月二十日、敷金三圓、家賃一圓五十銭

の下谷龍泉寺の棟割長屋に転居。

八月五日、荒物、駄菓子などの小店をひらく。

十二月、「文學界」に「琴の音」発表。

 

明治二十七年(一八九四) 二十三歳

 二月、「花ごもり」前半を「文學界」に掲載。

三月、馬場孤峰が訪問、生涯の知己となる。

四月「花ごもり」後半を「文學界」に登表。

七月、「暗夜」第一回分を『文學界』に、

九月「暗夜」二回分を同誌に

 掲載.十一月、「暗夜」完結。

十二月、「大つごもり」を『文學界』に発表。

 

❖ 明治二十八年(一八九五) 二十四歳

一月、『文學界』に「たけくらべ」第一回分載発表。

二月、第二回分載分発表。

三月、第三回分載分発表。

四月、「軒もる月」を『毎日新聞』に、

五月、「ゆく雲」を「太陽』に発表。

六月、「文藝倶楽部」に、舊作を補筆して「経づくえ」を発表。

八月「たけくらべ」第四回分載分を「文學界」に掲載。

「うつせみ」を『読売新聞」に連載。

九月、「にごりえ」を「文芸倶楽部」に掲載。

随筆「そぞろごと」前半を「読売新聞」に掲載。

十月、随筆「そぞろごと」後半を「読売新聞』に掲載。

十一月、「たけくらべ」第五回分載分を、十二月、

第六回分載分を、『文學界』に発表。

また『文芸倶楽部』に「十三夜」と

舊作「やみ夜」を同時に発表した。

 

❖ 明治二十九年(一八九六) 二十五歳

一月、「文學界」に連続掲載した「たけくらべ」を完結。

「わかれ道」を『國民の友」に、

「この子」を「日本乃家庭」に発表。

二月、「裏紫」前半を「新文壇』に、

「大つごもり」を『太陽』に再掲載。

四月、「たけくらべ」を『文芸倶楽部』に一括発表。

『めざまし草』の「三人冗語」で、

森鴎外、幸田露伴、斉膝緑雨が激賞した。

肺結核の徴あらわれる。

五月、『通俗書簡文』を博文館から書下し発表。

 「われから」を「文芸倶楽部』に、

随筆「あきあはせ」を「うらわか草』に発表。

七月同筆「すずろごと」を「文芸倶楽部」に発表。

八月、重態のため創作不可能。

舊作の和歌八首を『智徳會雑誌』に発表。

 

十一月二十三日午前、奔馬性結核で死去。

二十五日葬送、會葬者は、

わずか十数人の寂しいものであった。

法名は智相釈妙葉信女。






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最終更新日  2021年02月14日 08時10分23秒
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