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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月14日
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カテゴリ:著名人紹介

殖産興業の推進者・渋沢栄一

 

株式会社制度の確立と民間ビジネスの振興に貢献した

日本資本主義生みの親の偉大な足跡

 

 中央公論『歴史と人物』昭和58年発行

10 特集 転換期をのりきった企業家の決断11

   執筆者 浅野俊光氏(当時 早稲田大学大学院)

 

   ◆ 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 近代的産業の育成者

 

今から二年前になる。昭和五十六年十一月、栄一没後五十周年記念会が龍門柱の肝煎で挙行された。

この時の記念講演で、栄一の晩年に接したことのある、日商会頭永野宣雄は、

   

青淵先生の、ご履歴を拝見しますと、

私はたまたま鉄の仕事がずっと続いて、

今日新日本製鉄をやっているわけですけれども、

日本の近代的な産業はすべて青淵先生が

おつくりになったといっても過言ではないと思います。

 

と述べている。

 

実際、渋沢栄一の足跡は、わが国の近代産業史・財界史のほぼ全域に及んでいるといってよい。かれは、日本資本主義の生みの親であり、育ての親でもあった。戦前のわが国を代表

する実業家・財界人として比類なき知名の人である。

 渋沢栄一の没後五十周年記念が、今ではあまり知られることのない龍門社(明治十八・九年頃に深川の渋沢の私邸に寄食する学生が結成した修養勉強会に源を発する団体)を中心により行なわれたのには、もちろん理由がある。

それは、昭和六年六月二十六日にさかのぼる。この日、渋沢は死期の近いのを悟ったのか、当時の暗い世相がかれを急がせたのか、静かに遺言書の筆をとった。それは、次のように書き出されていた(原文は旧仮名遣い・片仮名)。

  

余は壮年郷関を出でたる当初より常に国家社会を念とし、

道徳風教の振作、経済産業の発達、実業教育の興隆、

社会事業の助成、資本労働の協調、国際親善、

世界平和の促進等のために、潜心努力し来れり。

その業績がついに所期に副い得ざるの遺憾は暫くおき、

これ実に余がもって己が任となせるところにして、

余において、死してのち已むの覚悟あるは勿論、

この素志にして身後に維がるるあらんか、

余 の喜び何ものかこれに如かんや。

 

 この後にも家族の将来のことには一言もふれられていない。かれの飛鳥山の邸宅・庭同等を維持資金十万円とともに、青淵主義を社是とする財団法人流門社にそっくり寄贈し、「素志」を活かす適切な方法で管理することを求めているだけである。

栄一は、この約五ヵ月後の十一月十一日に没した。家督相続人となった嫡孫渋沢敬三(日銀総裁、大蔵大臣を歴任)が、この遺言どおりに事を執行したことは言うまでもない。贈与を受けた龍門社は、昭和十目年の渋沢栄一生誕百年を記念して、「近世日本実業史博物館」の建設計画を決めた。だが、戦時中のことで、この計画も中断されざるをえなかった。これは、昭和正十六年の没後五十周年に「渋沢史料館」として再び陽の目をみた。龍門社は、このとき渋沢の「遺志」の一端を実現したことになる。

 かれの残した足跡は、遺言諸にみるように、経済界以外の多くの分野それぞれで巨大な足跡を残した。それは、足かけ二十八年を費した、民間の一個人の伝記としては未曾有のボリュームで刊行された『渋沢栄一伝記資料』(本伝五十八巻、別巻十巻)が良く物語っている。

 

そうした彼の江戸、明治、大正、昭和に及ぶ九十二年の長い生涯は、実業界に入った明治六年を境に、波瀾に富んだ前半生と、指導的実茶室としてもっぱら産業や経済の近代化と社会公共事業とに尽力した後半生とに大きく区別される。

 

  渋沢のルーツ

 

渋沢は最初の名を市三郎といい、武蔵国榛沢郡血洗島(現在の埼玉県深谷市)の農家に生まれた。生家は、「中の室」と呼ばれた渋沢一族の宗家といわれる家で、代々農業に従い市郎右衛門を通称した。

父の市郎右衛門は、家付きの娘《えい》に同族の渋沢宗助家から婿養子として入った人で、家業を盛りたて良案(二町歩足らずの小地主)の他、この地方の特産物であった繭玉の製造販売業を幅広く営み始め、荒物商や質屋をも兼営する近在屈指の富農となった人物であった。市郎右衛門は篤実勤倹な人柄で、家業を隆盛に導いたばかりでなく、学問があり、近隣での信望も高く、領主安部侯の御用達となり、その功で苗字帯刀を許され、更に村役人に抜擢され、組頭から名主見習になっていた。

 市三郎は、六歳からこの父に読書、習字を、八歳頃から『論語』の手ほどきをうけて成長した。かれは、すぐれた素質と旺盛な知識欲を発揮し、やがて独学であったが漢学者として近郷に名を知られた従兄の尾高惇忠(藍香)について和漢の書物を手当り次第に読破した。なかでも軍記小説が大好きで十二歳頃には、『三国志』や『八犬伝』に熱中し、その年の年始回りの途中、本を読むことに気をとられ、溝にはまって晴着を台なしにしたこともあった。

 彼は学問のほかに、土地柄や時勢もあり武術をも好み、川越藩の師端役大川平兵衛(大川平三郎の祖父)の門人で免許皆伝の従兄の渋沢新三郎に神刀無念流を学んだ。後年かれは、その実力を「田舎初段位の処」であったと語っている(『雨夜譯会談話筆記』)。渋沢は、「神刀無念流渋沢新三郎門人渋沢栄治郎」と名乗って、従兄の足高長七郎(新五郎実弟)と短い武者修業の旅に出たり、村に来た撃剣家との試合に臨んだ。こうした生活のなかで、かれは次第に武士や学者になることを志すようになったようである。

 

しかし、父は一人息子のかれに家業を継ぐことを切望したので、十五歳の頃から藍玉の商売に従事し、商才の片鱗を発揮し、十六・七歳から家業に力を入れ少年ながら一人前の一藍商となって父の代理をつとめるまでになった。  

 

心の転機 

ところが十七歳のとき、彼の心の転機となる事件が起った。たまたま村の代官の陣屋から出頭を命ぜられ、父の名代として出向いたところ、多額の御用金を申付けられた。領主は年貢だけでなく、商業による富に対しては御用金を課したのである。渋沢家では、御姫様の御嫁入だとか先祖の御法会だといっては領主に調達した金がすでに二千両余りになっていた。案の定今回も五〇〇両の用金を命じられた。

彼が御用金の下命に対し、父に申し伝えて返事をする旨答えると、いわゆる「お上」の

御威光を笠に着て、代官の若森は百姓の子倅の彼を嘲弄し、頭ごなしに叱責した。父に、泣く児と地頭では仕方ないと慰められ、翌日には金を届けているが、この屈辱的事件はかれの胸に深く刻み込まれた。この時以来、百姓をやめて武士になるよりほかない、と発憤したという。貧民の子弟とはいえ、かれはただの百姓の小倅ではなかった。

学問を身につけ・向上心の強いかれは、幕府の封建的な身分支配の体制に激しい不信と反 感を持つようになった。

 こうした少年時代を過ごした渋沢が、黒船渡来後の不安と動揺の時代に、江戸に遊学し、尊王攘夷運動に関与することになったことは当然かもしれない。

文久三(1863)年、二十四歳のときに、彼は同志と語らって大胆にも総勢六九人で高崎城の乗取と横浜の焼打ちという過激な決起行動を計画した。彼は天野屋利兵衛を気取る江戸の武具商に軍器調達を相談し、その土蔵に隠れて江戸の同志と連絡をとり合った。その戦略は、愛読した『八大伝』の故智に学び、百姓に提灯を持たせ、「お願が御座りまする」と訴えをさせて城門を開かせ、無二無三に国人して一挙に城を奪取するという小説的謀略であった。この暴挙は実行を目前に中止かれが、御用金の下命に対し、父に申

となったが、そのため郷里にいられず、血洗島の生家を出奔し、一時枝は一介の志士として流浪の日々を送った。翌年、江戸遊学中に千葉道場の川村恵十郎の紹介で面識のあった一橋家の用人平岡円四郎に見出され、同家の京における家臣となり名を篤太夫と改めた。

   

フランスヘの旅立ち

 

 一橋家は、石高は十万石であったが、御三家のように独立した大名ではなかった。将軍家の家族として賄料をあてがわれ、家臣も幕臣が出向するかたちで、独自の兵備はもたなかった。

将軍後見職として動乱の震源地の京にいる慶喜には、手元に人材を集める必要があった。しかも慶喜は水戸烈公斉昭の実子であった。水戸家は二代の黄門光圀以来、尊王の家、尊王思想の淵叢と目され、志士の間では斉昭は神人の如く思われ、その子慶喜を救国の英雄とする声が高かった。このことは、渋沢に変節の決定的なうしろめたさを感じさせなかった。

 渋沢は、同じ武蔵国出身の近藤勇や土方歳三たちが京で会津侯御支配浪士という名目になったような、そういう肩書をこの一橋家で求めたかったのかもしれない。

 一橋家と渋沢との双方の側の事情から、明治維新の四年前、渋沢は一橋家の「奥口番」となり四石二人扶持、滞京手当四両一分をもらう身となった。

渋沢は、「建白」により次々と仕事を自分でつくり出した。同家の軍制と財政改革に存分に力量を発揮して、たちまち「御指定頭」(勘定奉行の次席)に出世した。

 しかし、ほどなく慶喜が徳川宗家を相続し、さらに十五代将軍となったため、彼は事志と違った結果となった。このため、彼の失望落胆ははなはだしく失意のどん底に落ちた。

回顧録によれば、御目見以下の陸軍奉行支配調役を命ぜられたかれは、一時は浪人になろうと決意するに至ったという。

 ところが、そうした渋沢に慶喜の実弟、徳川民部大輔昭武のフランス万国博覧会出席に際し、随行が命ぜられる幸運が訪れた。幕臣渋沢には、当時相続者たる男子が生れていなかったので、見立養子として当時十九歳の義弟尾高平九郎を相読者と届出て渡航の準備をした(当時は一家の相続者がなければその家が断絶することになっていたが、海外渡航者には特に恩典として変則ではあれ見立養子の方法が許されていた)。

 慶応三年(1867)一月十一日早朝七時、かれは横浜からフランスの郵船アルヘ-号に行員二十五名の一人として乗り込んで横浜を後にした。航中では洋食を口にしながら、二月二十九日、五十九日目にマルセイユの港に着いた。

この旅行中の見聞は、杉浦愛蔵〔高山、外国奉行支配調役)と共著になる『航百日記』(明治三年、木版和紙和装の小形六冊木で刊行)に詳しく語られている。なかには珍談ものっているが、この外遊は彼の人生を決定づけた経験となった。

特に思想上重要な転換をもたらしたものは、欧米では当時の日本と違って、ビジネスマンが卑しめられず、軍人も銀行家も対等の身分であること、そしてビジネスが会社企業によ

って大規模に営まれていることを知ったことであった。

 この期間、渋沢は庶務会計担当(勘定格)の立場で諸事倹約に努めたほか、鉄道株や公債で抜け目なく利殖し、滞仏留学中の諸経費を捻出した。断髪したのもこの間のことである。

 

幕府倒壊の悲報がパリに達しだのは慶応四年・明治元(1868)年T月二日であった。

渋沢が命により帰国したのは、明治元年十一月で、このときすでに明治政府が成立していた。かれは、静岡藩七十万石を与えられた謹慎蟄居中の旧主慶喜に、渡仏中の次第を復命しなくてはならなかった。

 江戸幕府二百六十年、武家政治七百年の歴史の幕を引き、司馬遼太郎の『最後の将軍』の主人公になったその人は、宝台院という貧寺にいた。渋沢が拝謁を許されて通されたのは六畳ばかりの薄暗い部屋で、渋沢より三つ年上のこの旧主は、座蒲団も使わず、真黒に汚れた畳に直接坐った。変り果てた姿をみた渋沢の愚痴には、眉一つ動かさず、慶喜は渋沢の言葉をさえぎって昭武のフランス留学中の模様だけを話させている。渋沢は、それまでの恩義やこの時の座真の態度に感服した。

かれは、明治二十七年頃から他人の協力を得て『徳川慶喜公伝』の編纂に着手し、四十二年の古稀を境に会社・団体の要職を辞した接、この伝記編纂を畢生の事業と考え全力を傾けた。この『徳川慶喜公伝』は、慶喜が大正二年、七十七歳で急性肺炎により苑去し、渋沢が葬儀委員総裁をつとめた後、全八巻で大正六年に完成した。

 渋沢は静岡藩の勘定組頭を改めて申付けられたが、これは辞退している。

政治的野心をすでに捨てた栄一には別の考えがあった。もっとも「御指定組頭渋沢篤大夫、御役御免、御勘定頭支配同組頭格御勝手懸り中老手附被命」の日付のない辞令が残っているから、藩の役人とされていたことに変わりなかった。

かれは、さっそく新たに藩と同地商人の共同出資で静岡に「商法会所」(後ち常平倉と改称)を創設し、会社類似の組織で商業と金融業を経営した。この事業は利益を上げ軌道に乗り出した。

 

   「新知識」の登用

 

ところが、間もなくかれの能力と新知識を、旧幕巨で新政府に出仕していた郷純造(当時、大蔵少丞、次男が郷蔵之助)から伝え聞いた大隈重信(当時、民部大輔兼大蔵大輔)によって、東京の新政府に呼び出された。

明治二年十一月初句、上京したかれを待っていたのは、大蔵省租税正の辞令であった。断わるつもりで訪ねた築地の大隈の屋敷で、長広舌をふるわれ渋沢は逆に説得されたかたちとなった。大隈の雄弁は有名である。`

 大蔵省に出仕して驚いた。力づくで天下を取って鼻息の荒い連中がごろごろしており、まともに事務など執る背はない。手柄話と昔話に花を咲かせ、議論で目を送っていた。渋沢は、大隈に建言して、省内に改正事務が専任で、そのための調査研究にあたる改正係を置くことにした。その係長は渋沢である。

ここで、

かれは十二三人の新人材を集め、租税、貨幣、銀行、度量衡の改革など、近代的財政金融制度の樹立を中心に多くの実績を残した。

 かれは、明治二年十一月大蔵省の租税正としてキャリアをスタートし、

大蔵少丞(三年八月)➡権太丞(四年五月)➡太丞(四年八月)➡兼紙幣頭(四年一二月)➡大蔵少輔事務取扱(五年二月)と、事実上の今日の次官まで三年間で四、五段階とかなりのスピードで昇進した。省内にそのまま残っていれば、井上馨や松方正義に匹敵する大財政家になっていたかもしれない(事実、後年大蔵大臣就任を要請されたが断わっている)。

しかし、明治六年、渋沢は健全財政主義をつらぬき、予算編威権を大蔵省から正院へ移管(今なら、さしずめ内閣予算局への移管に相当するか)する案に反対し、三十三歳の若さで上司(大蔵大輔)の井上馨とともに、この年五月辞職した。

 

   第一国立銀行の設立

 

かくて渋沢は、かねての念願に従い、民間ビジネスの振興に全身全霊を捧げることとなった。明治六年六月、わが国筑初の近代的銀行である第一国立銀行(のちの第一銀行、合併して現在の第一勧業銀行)が大蔵省在職当時の立案に従って、三井組と小野組両家の出資によって設立されると、事実上の頭取である総監役となり、まもなく頭取に就任した。

かれは第一国立銀行を経営的に成功させただけでなく、全国各地に設立された国立銀行の設立指導に尽力した。

明治十年(1936)、生成期の銀行業界の団体として択善会を組織し、開会を通じて銀行業務の整備、同業者の品格の向上、経営知識の普及に努めた。

明治十三年に択善会と銀行懇親会が合併して東京銀行集会所が設立されるや初代委員長に選出された。

 日本の近代産業の発展は、銀行・金融制度の早期確立によって大いに促進されたが、このようにしてその確立には、渋沢が先駆者としてまた指導者としてきわめて重要な役割を果したのである。

 渋沢は、他方で近代的な商工業の形成と発展に関しても精力的にプロモートとした。かれは大蔵省在宮中の明治三年、わが国の模範官営工場として最も著名な富岡製糸所(明治三年六月開業)の創立事務主任となっている(初代所長が既述の尾高惇忠、藍香)が、実業界に入った後も融資面で後援し、明治十四年、外国商館と目本の生糸売込商との間の紛議に際しては、表面に出ずに連合生糸荷預所のために大いに骨折っている。

 

   近代企業のプロモーター

 

かれの信念は日本の近代産業は広く資本を集め、新知識を持つ有能な人材によって経営されなければならないという有名な合本主義の考えから、もっぱら株式会社形態の近代企業を自分が中心となって設立し、あるいは他人にも勧奨、助力した。

明治七年に抄紙会社(のちの王子製紙)の経営を委任されたのをはじめ、

東京海上保険(現在の東京海上火災保険、十一年)、

日本鉄道会社(十四年)、

共同運輸(のちに日本郵船、十六年)、

大阪紡績(のちの東洋紡、十七年)、

東京瓦斯(十八年)、

東京人造肥料(現在の日産化学、二十年)、

帝国ホテル(同年)、

札幌表酒(二十一年)、

日本熟皮(のちの日本皮革、二十年)、

石川島造船所(二十二年)、

北海選炭礦鉄道(二士八年)

などの創案と発展について、いずれも指導的役割を演じ、あるいは支援を借しまなかった。これら諸企業のなかには、各産業分野での代表的会社として成長したものが非常に多い。

 ところで、旧商法の規定では、取締役は一定の株式を所有しなければならなかった。必要な所有株数は当該会社の定款により様々まであったが、大体、一株五十円の株式を三〇から一〇〇株以上持たないと取締役にはなれなかったといわれる。渋沢が多数の会社の役員を兼ねるだけの資力はどこにあったかである。このことは、まだ十分に解明されていないが、森川英正氏によれば、「天下り」組やミドル・マネジメントからの昇進組は、取締役に就任するのに必要な株式を、共同出資者の大株主から借り入れて名義を書き代えるという方法が使われたという(森川『日本経営史』他)。

取締役になった後、多額の役員報酬で、名義株を譲り受けた。

 渋沢も、最初は借人名義株によって、各社の取締役に就任したのかもしれない(後には、功労株の贈与や株式抵当の銀行借入で持株は増やせた)。

当時、渋沢は、完全な民間人とは思われていなかったようで、彼のような人物を取締役に迎えることは、政府とのパイプをつくり、資金的基盤を強化することに役立ったであろうか

らである。

 もとより彼の活動範囲は、会社設立のプロモーターに止まらなかった。かれは産業界の組織のオルガナイザーでもあった。

明治十一年に東京商法会談所(東京商工会議所の前身)を設立し、その後身の東京商業会議所でも明治三十八年まで会頭の地位にあって、商工業者の地位の向上と発展に尽したほか、東京株式取引所、東京手形交換所、東京興信所等の経済機関の設立と運営に貢献した。

 

明治四十二年に、渋沢は古稀の賀寿を機会として第一銀行および銀行集会所を除き、その他八○以上の関係会社から引退した。

そして、大正五年、七十七歳のときに実業界から完全に身を引き、それ以前から関係していた社会、公共事業に専念するにいたった。

明治年代から六十年間にかれが関係した公共事業は、きわめて多く、

病院関係では東京市養育院、慈恵会、済生会、救世軍病院など、

教育関係では東京商法講習所(現在の一橋大学)、

大倉高等商業(現在の東京経済大学)、東京女学館、日本女子大、

東京専門学校(現在の早稲田大学)

などあり、その他文化事業の帝国劇場や慈善事業などを数えあげればきりがない。

 

  渋沢を支えた指導理念

 

 こうした渋沢の行動を支えた思想、特に経済や経営の指導理念とはどのようなものであったろうか。渋沢は、在官時代に接触した商人が全く卑屈で産業化の担い手たりえない事実を、骨身にしみて知らされた。

かれは日本の経済発展の民間におけるプロモーターになる決心を固めたといわれる。日本の経済発展が成功するためには、科学技術を理解するとともに、ビジネスマンであることに自信と誇りを持つような新進の人材が育成されなければならないと考えた。この考えを彼自身が率先して実践したのである。

 渋沢は、ビジネスマンが自尊心を身につけ、社会もビジネスの価値を認めるためには、企業家自身が強固な道義性を持たなくてはならないと考えた。彼自身、少年時代から漢学の出発点であった『論語』を暗誦するほどに親しみ、儒教倫理で人格を形成したところから、「利は義に反す」といった江戸時代の日本の朱子学的教義を、なんらかの仕方で解釈し直す必要があった。

 渋沢にとっては、はじめから『論語』が万古不易の聖典(東洋における『聖書』)である以上、江戸時代の官学者が主張したように、人欲そのものが邪悪であるとか、利益や富それ自体が不道徳とするものではなく、道徳(義)と経済(利)は元来一致すると確信していた。かれは論語の「富貴はこれ人の欲するところなり、その道をもってせずして得るとも処らざるなり」の一節に特に注意し、よく考えれば富貴を卑しむ意味はなく、むしろ人の欲するものはそれだけの価値あるものと解釈すべきものであると考えた。

そして道と矛盾しない富貴は望ましいものであり道義(正義・誠実・廉直・寛容・礼節)の意識をもってビジネスを営み、その結果人々に富が荷積され、国民の衣食住が足りることは、国家が仁政を行う上 にも当然必要な条件であるとした。

 こうしたかれの論語による経営思想は、「論語主義の道徳経済合一説」とか「論語算盤説」と呼ばれる。この渋沢が日本の近代ビジネスに不可欠の実践的倫理規範を普及させる趣旨で

設立した団体が龍門柱である。

これは、もともと渋沢の私邸内に寄食する書生によって組織されたものであるが、後には、「道徳経済合一主義」、「青淵主義」を社是に、ここで会員たちがビジネスの実務と理論との両面に関わる諸問題を論じ、渋沢のビジネス倫理の理想を広く、一般に普及させるために『龍門雑誌』を刊行した。渋沢はこの龍門社によりながら、かれの「実業道」の啓蒙と普及に努

力を傾注し続けた。

 渋沢は、昭和三年春に胆嚢炎に罹ってから食欲が振わず、気分の晴れない日が続き、自邸の藤椅子で過す時間が多くなった。この年十月、腸閉塞の状態となり手術を余儀なくされた。それから一月もしない十一月十一日の世界平和記念日、午前一時五十分、静かに息をひきとった。

 法号「泰徳院殿仁智義譲青淵大居士」

である。






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最終更新日  2021年02月14日 08時16分30秒
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