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甲斐谷村藩「秋元家譜」岡谷繁実著他 天正10年 1582 ・武田勝頼自害、武田家終焉。 ・都留郡の領主として、鳥居土佐守谷村城主となる。 * 秋元家情報 ・4月9日長朝室久卒。・4月15日上杉憲盛、北条氏政と和睦。 天正12年 1584 ・都留郡の領主として徳川家臣鳥居土佐佐守、谷村城主となる。1万8千石。 天正15年 1587 * 秋元家情報 11月12日景朝卒。(63歳)法名気山元景大居士。 政朝 上総国周東郡秋元庄小糸城主、世の治乱に由り、屡々居所を去ると難も下野宇都宮豊前宇都宮両家の助けに由りて、秋元庄に住することを得たり。 永禄元年11月22日卒す。「法名不二院殿寿叟妙永大居士」小糸天南寺に葬る。 繁實按「秋元系譜」は明暦の災に罹り盡く蕩盡せり、當時既に林大學頭に椅頼して僅に寛永系圖を抄写し得たることを以て考ふれは、今伝はる所の系譜は後人の手に成りしものなり、要するに景朝已前信を考ふる所なし。又小糸二秋元氏あり、天南寺妙喜寺両寺の過去帳を考ふるに、小糸城主秋元宗淳天正十七年六月十四日を以て卒すと、景朝天文十年小糸を去りしより四十九年を隔てり、思ふに小糸の秋元は、宗家にして景朝は支流ならん。 伊奈備前文書二慶長五年九月秋元上野會津に使することを載す。 又天南寺妙喜寺過去帳に、慶長九年正月二十一日秋元上野助卒す、とあり然らは小糸の秋元たること疑ふへからす。其家の亡ひしことは今考ふる所なし。 「秋元家譜」 天正17年 1589 徳川家康、甲衆に入り都留郡を巡見する。 * 秋元家情報 ・6月14日小糸城主秋元宗淳(秋元宗家)卒。 天正18年 1590 ・牛坊(泰朝)北条の人質として小田原に送られる。 ・長朝、前田利家・浅野長政に降る。この頃長朝、通称孫三郎を忠四郎に改める。 天正19年 1591 * 秋元家情報 ・牛坊、小田原を脱出、長朝の元に帰る。11歳。 ・長朝、この年徳川家に仕え上総と改める。 ・上野国(群馬)碓氷郡中野谷に五百石を賜る。 文禄元年 1592 ・浅野左ヱ門が郡内を治める。(浅野長政の家臣) * 秋元家情報 ・泰朝、13歳で父越中守長朝とともに、井伊直弼の紹介で家康に謁見する。 文禄3年 1594 北口本宮浅間神社の西宮本殿(重文)が建立される。(昭和27年重文に指定される) 慶長5年 1600 ・上杉挙兵の折、下総栗橋に関所を設け往来警備。 * 秋元家情報 ・9月、小糸城主秋元上野助(秋元宗家)、会津へ使者となる。 ・泰朝、21歳の時関が原に役に従う。 ・6月26日、長朝、上野国総社に6千石を賜る 慶長7年 1601 ・勝山の古城を総社植野に移す。 * 秋元家情報 ・2月9日、泰朝23歳で大番頭仮役となる。 慶長8年 1602 * 秋元家情報 ・2月13日、泰朝、24歳の時従五位下に叙され但馬守と改める。 慶長9年 1604 徳川家康が浅間大社の本殿造営に着手、2年後に完成(といわれる)。 * 秋元家情報 ・1月21日、小糸城主秋元上野助卒。 ・この年長朝、天狗岩堰工事に着手。 慶長11年 1606 河口浅間神社本殿消失、翌年再建。 慶長12年 1607 角倉了以、富士川の舟路を整備する。 角倉了以の子、玄之が福地用水、蝙蝠穴拡幅・改修。 * 秋元家情報 ・泰朝、駿府のおいて松平摩正綱・板倉重昌とともに家康に仕える。 慶長14年 1609 * 秋元家情報 ・泰朝、家康の近習出頭人の一人となる。 ・泰朝、駿府において万石以上の輩の支配をする。 ・この年、総社において冨朝生まれる。 慶長17年 1612 冨士御室浅間神社の現在の本殿(重文)が吉田口登山道二合目に建立される。(昭和48年に里宮に移築) 慶長19年 1614 * 秋元家情報 ・この年富朝5歳で家康に謁見する。 ・泰朝、小姓組書院番頭を兼任する。 ・長朝、里見安房守忠義伯耆国へ配流につき、京都まで付き添う。 ・長朝、大阪冬の陣で木曽まで出陣、病により引き返し、泰朝を出兵させる。 ・12月23日、泰朝、大阪城惣堀埋め役に任ぜられる。 元和元年 1615 北口本宮浅間神社の本殿(重文)が建立される。 ・富士山噴火。(日本西教史) * 秋元家情報 ・2月、泰朝、駿府において松平正綱・板倉重昌と共に奉書に連署して、諸士の支配を命ぜられる。 ・2月泰朝、松平宮内大輔忠雄に後嗣を伝えるために備前に赴く。 ・4月4日泰朝、大阪夏の陣に家康に従う。 ・4月4日泰朝、大阪夏の陣が始まり、家康の書院番、小姓組頭として従う。 ・5月12日、大阪役残党狩役にて出陣。 ・8月23日、中国・四国方面の海上改め役に任ぜられ、家康から「無」の槍を拝領。 元和2年 1616 4月17日、徳川家康死去。 元和3年 1617 * 秋元家情報 ・●3月、泰朝、家康の墓、日光山改修の時、柩に同行のために駿府を出発。 ・4月17日、泰朝、家康の霊廟を久能山より日光に移し、東照宮の祭礼を実施。 元和4年 1618 * 秋元家情報 秋元家 ・筑後柳川城主田中筑後守中政改易により、柳川に赴く。 元和5年 1619 * 秋元家情報 ・7月19日、泰朝、駿府の城番として、松平重忠・福原資保等と勤番を命ぜられる。 元和8年 1622 * 秋元家情報 ・11月3日、小姓組を6隊に編成、泰朝は6隊の所属となる。 ・泰朝父長朝が致任し、但馬守泰朝が家督を相続、上野国総社1万5千石を領する。 元和9年 1623 * 秋元家情報 ・泰朝、越後高田城主松平仙千代、松平忠直内室勝姫を高田より江戸に送る。 ・8月、家光に従い泰朝上京。 寛永元年 1624 * 秋元家情報 ●1月21日、泰朝及び松平正綱、日光造営総奉行に命ぜられる。 <日光東照宮陽明門の入り口の左右に銅製の灯篭がある。左右3番目にあるのが、川越城主秋元但馬守が奉納したもの。家康霊廟入り口の狛犬と共に、秋元家への徳川幕閣での地位と信頼が読める> 寛永3年 1626 * 秋元家情報 ・5月28日、泰朝、二代将軍秀忠の上洛に従う。書院番二十人、小姓組十二人、小十人組九人を配下とする。 ・8月泰朝、徳川秀忠に従い上京。 寛永4年 1627 11月23日、 富士山噴火、江戸に四日間黒色の灰が降る。日本災異記 寛永5年 1628 * 秋元家情報 ●4月泰朝、家光に従い日光山に詣る。 ・8月28日、長朝総社にて卒八十三歳。戒名江月院殿巨岳元誉大居士、光厳寺に葬。 11月18日泰朝、諸大名と共に江戸城石垣構築の課役を命ぜられ第四隊に属す。 寛永6年7月完了。 寛永9年 1632 ・正月20日、二代目将軍秀忠莞去。 * 秋元家情報 ・2月26日泰朝、二代目将軍秀忠のご遺金、銀四百枚を賜る。 ・●4月泰朝、秀忠に従い日光山に詣る。 ・5月9日泰朝、御談判衆になる。三組ある内の二組目に組み入れられる。 寛永10年 1633 * 秋元家情報 ・●秋元泰朝、郡内領主となる。 ・2月3日泰朝、三千石を加えられ、一万八千石となり、甲斐国都留郡の城主となる。 ・3月21日家老高山伝右衛門中村(大月市)の金鉱跡を村民が採掘することを許す。 寛永11年 1634 * 秋元家情報 ・正月29日泰朝、安藤重長・板倉重昌・水野忠善・土屋利直・西尾忠照と共に火災のとき出動し消防の指揮を命ぜらる。 ・●11月17日泰朝、日光山東照宮造営の総奉行を命ぜらる。 ・12月30日掃部冨朝は越中守となる。 寛永12年 1635 * 秋元家情報 9月3日冨朝弟忠朝、家光近侍となる。 このころ、お茶壷道中が始まる。 寛永13年 1636 * 秋元家情報 ・2月10日、冨朝室喋卒。 ・●4月10日、日光山東照宮の遷宮が行われ家光に泰朝供奉。 ・●4月17日、日光山東照宮の祭礼が行われ家光に泰朝供奉。 ・●4月19日松平右衛門太夫正綱、板倉内膳正重昌は但馬守泰朝と共に、日光山の事を沙汰すべしと命ぜらる。 ・●9月1O日泰朝、日光東照宮代参命ぜられる。 ・●この年家光日光参指に供奉し、泰朝の日光造営の功として吉栄の刀を賜る。 ・この年十日市場用水堰工事に着手か? 寛永14年 1637 * 秋元家情報 ・●9月8日泰朝、17日の日光山御祭に日光山東照宮代参を命ぜられる。 寛永15年 1638 * 秋元家情報 ・●1月29日、二十七日、日光山馬町より火事おこり、山中坊舎ことごとく消失。東照宮に異常なかったが、泰朝視察に赴く。 ・12月30日忠朝、従五位下隼人正に叙任。 寛永16年 1639 * 秋元家情報 ・この年十日市場の用水堰完成。『秋元家甲州郡内治績考』 寛永17年 1640 * 秋元家情報 ・4月10、日忠朝、采地干石を賜る。 ・6月6日、長朝の娘(名不詳)で小俣城主渋川相模守義勝の室卒。 寛永18年 1641 * 秋元家情報 ・8月9日、泰朝の末子、主水正朝十三歳にて初めて家光に拝謁し、家綱に附属する。 ・8月9日、冨朝義弟正朝、初めて家光に拝謁。家綱に附属小姓となる。 ・この年泰朝、上吉田諏訪明神前に富士山遥拝の大鳥居を建つ。『治績考』 寛永19年 1642 * 秋元家情報 秋元家情報 ・2月9日、冨朝と正朝は、家綱の二丸内宮と紅葉山東照社、および山王社の宮参りに従う。 ・●4月18日、泰朝、日光山祭礼。将軍家光に従う。 ・5月8日、泰朝、飢饅のため、松平右衛門太夫正綱等と共に関東の巡察を命ぜられる。 ・6月1、大明見、小明見の水論裁断。桂川大滝下の分水を定める。『治績考』 ・●潤9月1日、泰朝、日光山東照宮造営の工事決算書を幕府に提出する。 ・9月頃より泰朝、病に臥す。家老より病状を尋ねられる事三度、侍医も派遣される。 ・10月23・日秋元但馬守泰朝卒、六十三歳。子越中守冨朝が継ぐ。 ・12月14日、冨朝、泰朝の遺領を継ぐ。 寛永20年 1643 * 秋元家情報 ・11月11日、良純法親王甲斐配流、冨朝預かりと決まる。 ・11月16日、初めて領地に行く暇を賜る。 ・12月、良純親王左遷され冨朝預かる。積翠寺の興因寺に諦居(後、三珠町薬王寺)に移る。 ・冨朝、雪代防止のため上吉田諏訪森に松樹数万本植林。 正保元年 1644 富士山噴火。日本災異記 * 秋元家情報 11月、桂谷・阿曾谷(郡内)入会山入山村を決める。『治績考』 12月25日幕府、秋元越中守冨朝、平田勘三郎、岩波七郎右衛門に国絵図、城絵図の提出を命ずる。『憲教類典』 正保3年 1646 富士講の基礎をつくった長谷川角行が106歳で人穴(富士宮市)において死去と伝えられる。(富士宮市根原) 正保4年 1647 富士山噴火。日本災異記 慶安元年 1648 富士山噴火。日本災異記 * 秋元家情報 ・●4月、富朝、日光照尊院を開基し泰朝を祀る。 ・●4月1、家光の命により日光山参詣。 ・●1月27日、将軍家光四月に日光山に御参りにより、冨朝他三名山中の火番役を命ぜられる。 慶安2年 1649 * 秋元家情報 ・●3月22日、冨朝、日光山に供奉し、日光山にて出火ある時は、御宮に冨朝他一名まかるべしと命ぜられる。 ・8月2日、冨朝地震の時、下乗橋まで登営の一人に命ぜらる。 ・9月29日、喬朝生まれる。 慶安3年 1650 ・* 秋元家情報 9月28日、冨朝の弟隼人正忠朝卒、三十三歳。谷村泰安寺に葬る。 慶安4年 1651 * 秋元家情報 ・4月20日、三代将軍家光莞去。 ・●4月22日、日光山の御法事に冨朝他九名、日光山に行くことを命ぜられる。 ・9月1日、冨朝大病により、請うまゝに医員内田玄勝千里がつかわされる。 承応3年 1654 * 秋元家情報 ・年4月8日、十七日の祭礼のため高家今川直房并冨朝日光山につかはされる。廿日に帰謁。 明暦3年 1657 * 秋元家情報 ・1月18日、江戸大火、代官町の秋元屋敷類焼。 ・1月19日、命により冨朝、谷村に出発。 ・6月8日、冨朝谷村にて大病のことが将軍に傳わり、京医五雲子が派遣される。 ・6月17日、冨朝卒、四十八歳。 ・10月2日、喬朝が冨朝の遺頷を継ぐ。喬朝九歳。『徳川実紀』(『秋元家譜』ではu月2n) ・11月5日、喬朝、亡父越中守冨朝遺物信国の刀を将軍家綱に献ずる。 ・11月2日、喬朝、遺領を継ぐ。「秋元家譜』(『徳川実紀』では10月2日) 万治元年 1658 * 秋元家情報 ・12月27日、喬朝の実父戸田主膳忠昌が従五位下、伊賀守に叙任。 柳沢吉保情報 ・万治元年 16581歳・12月28日江戸四谷門外の堀端横丁に生まれる。父安忠57歳。幼名・弥太郎。 万治2年 1659 * 秋元家情報 ・2年4月27日(一六五九)喬朝の母大病により、医員久志本式部常好がつかはされる。 2年6月22日(一六五九)良純法親王、赦免されて帰洛。 万治3年 1660 * 秋元家情報 ・12月28日、従五位下但馬守に叙任。喬知十二歳。 寛文元年 1661 * 秋元家情報 ・5月13日、泰朝室綱卒。 寛文4年 1664 4月5日、喬朝、領地の朱印を賜る。 ・寛文4年 1664 7歳・綱吉に初お目見得する。 寛文5年 1665 * 秋元家情報 ・1月25日、谷村のせり馬市に関する条目五ケ条が決められる。『治績考」 ・●2月3日、喬朝、四月日光山の御法会の時、火番の役を命ぜられる。『治績考』 ・3月18日、藩内絹紬旅売り人のために藩邸を経曲する為替仕法が設けられる。 ・●4月、喬朝、家康五十年忌法要のとき日光山火番をつとめる。 11月15日、加畑の年貢割付、免九つ(九割の減免)と決める。 『郡内一撲』『山梨県郷⊥史年表』49 ・12月26日、喬朝但馬守を摂津守に改める。 寛文6年 1666 * 秋元家情報 ・8月10日、喬朝初めて領地(甲斐郡内谷村)に行く暇を賜る。 寛文7年 1667 ・* 秋元家情報 3月4日、明見村庄屋らから難渋願(減租嘆願)提出される。『治績考』 ・●4月10日、喬朝、日光山の祭礼奉行を命ぜられる。 ・●4月、喬朝、日光山代参。 寛文8年 1668 * 秋元家情報 ・4月6日、清水門内の秋元邸焼失。 ・2月4日、前年の愁訴代表の庄屋二名処刑。『治績考』 ・8月5日、喬朝、浅問神社に鐘銘を贈る。 ・8月23日、惣百姓惣代秋山村左近ら年貢を武田時代に戻すことの嘆願書提出。『治績考』 寛文9年 1669 * 秋元家情報 ・5月3日、喬朝家臣今井半兵衛らを奉行として郡内藩一円検地を行う。『治績考』 寛文11年 1671 柳沢吉保情報 ・14歳・館林家に小姓として仕える。・綱吉と衆道の契りを結ぶ。(?) 寛文12年 1672 柳沢吉保情報 ・寛文12年 1672 15歳 元服して名を房安と改める。 延宝元年 1673 * 秋元家情報 ・●4月12日、喬朝、日光の祭礼奉行を命ぜられる。 ・9月1日、喬朝再び谷村に帰る。『徳川実紀」 延宝2年 1674 * 秋元家情報 ・1月、今井堰開削、奉行今井半兵衛。『治績考』(注今井堰は今堰のこと)。 ・8月2日、山中湖忍草間用水路開削。奉行今井半兵衛。『治績考』 ・10月16日、甲斐国藤野木村の山論解決の秋元家臣に時服下賜される。 延宝3年 1675 柳沢吉保情報 ・18歳・父安忠致仕のあとを受けて家督を継ぎ、保明と改めて小姓組番衆となる。12月8日、曽雌定子に結納を贈る。 延宝4年 1676 10月10日、猿橋工事完了。従事者に賞を与える。川棚橋も同じ。『治績考』 柳沢吉保情報 ・19歳・2月18日、16歳の定子と結婚。 延宝5年 1677 * 秋元家情報 ・7月3日、喬朝、奏者番となる。 12月28日、郡内藩の年貢未進額三九三両、米五六九俵に達する。『治績考』 柳沢吉保情報 ・20歳・妙心寺派江戸龍興寺に竺道穐尚に初めて禅を学び公案を授かる。 延宝6年 1678 ・5月26日、甲斐国芦川村争論解決の秋元家臣に呉服下賜される。 ・6月3日、鐘山大滝下に新堰を開削、奉行岡谷門右衛門。『治績考』 延宝8年 1680 秋元家情報 ・5月8日、四代将軍家綱菱去。 11月14日、秋山村左近等江戸の秋元藩邸へ難渋嘆願書再提出。『治績考』 柳沢吉保情報 ・22歳・御小納戸役となり530石を賜わる。 天和元年 1681 柳沢吉保情報 ・24歳・4月、300石加増。従六位下、布衣を許される。・西久保に屋敷を賜わり、家を建て、生母を引きとる。 * 秋元家情報 ・1月22日、郡内領農民代表七人秋元家失政を江戸町奉行に越訴。『治績考』 ・2月25日、越訴の主謀者七名処刑。『治績考』 ・6月、越後松平光長改易により喬朝城請取り役に命ぜられる。 ・7月12日、高田城請取のため暇のあいさつをする。十五日出発。 ・11月29日、喬朝、寺社奉行を兼任する。 ・12月26日、寺社奉行の精勤に賞あり、喬朝時服六頒下賜される。 天和2年 1682 * 秋元家情報 ・10月26日、喬朝少老(若年寄)となる。『秋元家譜』(「寛政重修諸家譜』は10月16日とする。) ・11月2日、松平因幡守の屋敷を賜わる。 ・11月16日、喬朝、少老(若年寄)となる。『寛政重修諸家譜』。(『秋元家譜』では11月16日) 12月28日、駒込より出火により秋元邸類焼。 柳沢吉保情報 ・25歳・正月元旦の読書始めに「大学」を講じ、これが毎年の恒例となる。 天和3年 1683 * 秋元家情報 ・1月、松尾芭蕉谷村に来て高山伝右衛門家に逗留。(?) ●4月6日、家光三十三回忌に際し日光山に行く。羽織を賜る。 柳沢吉保情報 ・26歳・2百石の加増をうけて計1030石となる。 貞享元年 1684 * 秋元家情報 ・8月、稲葉石見守正休刃傷の時、喬朝、正休を斬る。 9月12日(一六八四)喬朝、継吉より唐銅の香炉、永真筆手鑑を下賜される。 柳沢吉保情報 ・27歳・堀田正俊が稲葉正休に斬殺されたのを、牧野成貞が将軍に知らせようと脇差を持ったまま御座所に入ろうとしたのを、保明が諌める。・西久保から西の丸下の邸に移る。 貞享2年 1685 * 秋元家情報 喬朝再び但馬守を称する。 柳沢吉保情報 ・28歳・12月、従五位下、出羽守に就任。 貞享3年 1686 柳沢吉保情報 ・29歳・2030石となる。 貞享4年 1687 柳沢吉保情報 ・30歳・保明の子安揮(吉里)生まれる。生母は染子。・保明の父、安忠没する。86歳。 元禄元年 1688 * 秋元家情報 6月13日喬朝、吉田に大鳥居を造営。『治績考』 柳沢吉保情報 ・31歳・神田に知足院建立に際して普請総奉行となり、その功績が認められて側用人に任じられ1万石の加増を受ける。 元禄2年 1689 * 秋元家情報 ・2月6日、喬朝、三の丸造営総奉行を命ぜられる。 11月27日、喬朝、三の丸奉行の功により備前安清の刀を綱吉より下賜される。 柳沢吉保情報 ・32歳・神田橋内の邸に移る。 元禄3年 1690 * 秋元家情報 ・10月10日、舟津燧道工事完成。『治績考』 ・河口湖から剣丸尾の間三十町の掘り抜き工事に着手。奉行高山小左衛門。 ・2月3日喬朝、五千石加増される。 6月、お茶壷の甲斐国内通行が止められる。(したがって茶壼勝山城保管は前年で終了) 柳沢吉保情報 ・33歳・2万石を加増、計32030石となる。・12月、従四位下に叙せられる。 元禄4年 1691 * 秋元家情報 ・2月3日、喬朝、下野国都賀郡に五千石の地を賜る。 4月28日、冨朝の養女千代卒。 柳沢吉保情報 ・34歳・3月、◎綱吉のお成りを初めて受ける。以後58回に及ぶ。 元禄5年 1692 * 秋元家情報 12月26日、喬朝『論語』の御前講義を行う。 柳沢吉保情報 ・35歳・3万石の加増を受けて計62、030石となる。 元禄6年 1693 * 秋元家情報 ・3月15日、富倉屋藤左衛門ら谷村藩から郡内産絹紬の買取りを許可され運上金五千枚を上納。『甲州文庫』 ・7月29日、喬朝、深川に六千坪の邸を賜る。 ・9月29日、喬朝、少老の月番許され、御台所・桂昌院殿・五丸の方・鶴姫の奥御用役となる。 10月22日、綱吉、小石川別邸に初臨のとき喬朝窟従し、別邸造営の功により時服五領を授かる。 柳沢吉保情報 ・36歳.・安揮(吉里)を初めて連れて登城する。 元禄7年 1694 * 秋元家情報 ・3月25日、綱吉、戸田山城守別邸臨席。綱吉大学講述、泰朝・忠畠、論語を御前講義する。 ・12月5日、喬朝従四位下に叙せられ、10日五千石の加増を受げる。 12月10日、喬朝奉行の品川東海寺落成。この日河内国にて千石加増。 柳沢吉保情報 ・37歳・1月7日、1万石を加増されて計70030石となり、川越城主となる。・武蔵国入間郡三富村の開拓を始める。・11月、幕府評定所に列座する。・12月、侍従職に任じられて老中職に準ずる。 元禄8年 1695 * 秋元家情報 ・2月23日、冨朝娘桂卒。 9月4日、綱吉、再度戸田邸に臨席、忠昌・喬朝父子紗・綾を賜る。 柳沢吉保情報 ・38歳・六義園の造営に着手。千川上水より水を引く。・綱吉来邸、四男の経隆、初お目見得する。 元禄9年 1696 * 秋元家情報 8月28日、大奥の法度が決められ喬朝、老中土屋相模守直政と共に広敷に行き通達する。 柳沢吉保情報 ・39歳・荻生狙株が儒者として仕える。・綱吉来邸、五男の時睦、初お目見得する。 元禄10年 1697 河口浅間神社の鳥居が再建され、現在に伝わる。 * 秋元家情報 ・2月、佐々木惣右衛門奉行として幡倉村を再検地、四十五石余を減じる。 ・3月23日、喬朝、河口湖浅間神社に扁額を奉納(現存)。 7月10日、喬朝、護寺院護国寺の普請奉行の功により刀を賜る。 柳沢吉保情報 40歳・7月26日、2万石を加増されて、計92030石となる。 10月、紀伊国屋文左衛門と会う。・家臣の儒者、細井広沢の進言により帝陵の修復工事を始める。 ・40歳の祝いに、綱吉から脇差と鳩の杖、大屏風などを賜わる。 元禄11年 1698 * 秋元家情報 ・2月14日、喬朝、大奥丼に土木の事を司るべしと命ぜられる。 ・5月7日、米倉丹後守昌守と国用役(大蔵大臣役)を命娃られる。 ・6月18日、喬朝、八重娘入輿の労として時服五領を賜る。 ・●8月2日、喬朝、東叡山中堂造営奉行の功により脇差を賜る。 11月10日、忍草大明見山論裁許。『治績考』 柳沢吉保情報 ・41歳・上野の東叡山に根本申堂を営造するにあたり、普請総奉行をつとめ、その功績妙認められて左近衛少将を任じられる。中堂完成にあたっては将軍名代をつとめる。 元禄12年 1699 * 秋元家情報 ・3月9日、喬朝、家綱の仏殿修造により綱吉より時服五領を賜る。 ・9月10日、老中戸田山城寄忠昌(喬知の実父)卒。六十歳。 ・10月6日、喬朝、少老より宿老(老中)にのぼり国用井に後閤の事を命ぜられる。 ・12年10月8日(一六九九)泰朝の父戸田山城守忠昌担当の地方取扱役を泰朝に代わることを命ぜられる。 ・尾張少将吉通の事は、この後喬朝に代わることを命ぜられる。 ・12月5日(一六九九)喬朝、従四位下に叙せられる。 柳沢吉保情報 42歳・9月、柳沢邸で裁判を開き、将軍これを見る。 ・安揮(吉里)越前守に任じられる。 元禄13年 1700 富士山噴火。日本災異記 * 秋元家情報 ・3月6日、一万石加増され、合計四万石となる。(『徳川実記』では3月7日) 12月4日、喬朝侍従となる。 柳沢吉保情報 ・43歳・6月から8月にかけて病気となり登城を休み、将軍の使者が見舞いに来訪する。 元禄14年 1701 * 秋元家情報 8月26日、河口湖剣丸尾間の通水工事、墜道穴の食い違いにより工事中止決まる。 柳沢吉保情報 44歳・桂昌院を別邸の六義園に招く。 ・11月16日、出羽守を改め美濃守となる。さらに松平の称号を与えられ、名を吉保と改める。 元禄15年 1702 * 秋元家情報 12月4日、甲駿境争論裁許。『甲斐国志』 柳沢吉保情報 45歳・4月5日、神田橋の上屋敷を焼失。 ・5月、2万石を加増されて計112、030石となる。 元禄16年 1703 * 秋元家情報 11月25日、喬朝、二十二日の夜大地震あり。各所破損のため修理奉行を命ぜられる。 柳沢吉保情報 ・元禄16年 1703 46歳・鶴姫を六義園に招く。 宝永元年 1704 * 秋元家情報 ・4月14日、喬朝、泰朝の廟を泰安寺から総社の光厳寺に移す(『治績考』)。 ・10月9日、喬朝、阿部豊後守屋敷を賜る。 ・12月1日、喬朝、一万石加増される。 12月25日、喬朝、谷村より武蔵国川越に転封決まる。谷村出発は、二年三月二十一日出発説(『両谷村』)と二±二日出発説(『治績考』)がある。 柳沢吉保情報 ・47歳・12月21日、綱豊に替わって、甲斐国の国主となる。禄高151288石となる。 宝永2年 1705 * 秋元家情報 ・2月17日、都留郡谷村城の破却が決まる。 ・2月29日、泰朝・冨朝、光厳寺に改葬される。 ・6月22日、泰朝、桂昌院の霊牌所造営法会等を指示する。 ・11月28日、喬朝、増上寺桂昌院殿の霊牌所、御墳墓造営井に御法会奉行の功により、保目五郎の刀を将軍より賜る。 柳沢吉保情報 48歳・甲府城を受け取る。 ・4月12日、塩山の恵林寺において武田信玄公百三十三回忌法要を営む。・家宣を六義園に招く。 宝永3年 1706 富士山噴火。日本災異記 ・7月4日(一七〇六)都留郡柳沢美濃守吉保預かりとなる。 宝永4年 1707 富士山噴火。宝永3年十一月二十二日ら二十三日にかけて駿河・甲斐の富士山麓一帯に地震、二十三日大爆烈する。被害は江戸・戸塚・江ノ島にまで及ぶ。(別記) 宝永5年 1708 1月7日、富士宝永山噴火。降灰、武州(埼玉)に及ぶ。 2月24日、富士山噴火。 * 秋元家情報 ・3月14日、喬朝、皇居造営奉行を命ぜられる。 ・4年11日、喬朝、松姫の松平吉治入輿に関する役を命ぜられる。 ・11月18日、喬朝、松姫の婚儀整い、御興渡しの役をつとめる。19日労に対し時服十を賜る。 宝永6年 1709 1月16日、富士山噴火。日本災異記 * 秋元家情報 ・1月10日、五代将軍綱吉莞去。 ・2月4日、喬朝、家宣より綱吉の遺晶を賜る。 ・4月1日、喬朝、将軍宣下の事をつかさどるべしと命ぜられる。 ・5月16日、御三家の方々秋元但馬守喬知の邸にて血誓せらる。 ・7月2日、喬朝、大内裏造営監視命ぜられ、上洛のいとま給い、金三十枚、時服十、馬を下され、将軍自ら羽織二を下さる。この日喬朝を喬知に改める。 ・7月23日、喬朝、参内東山天皇に拝謁、天盃を賜る。 ・7月25日、喬朝、参内 ・8月5日、喬朝、参内、三十六人繕紳歌集、他、恩賜される。(歌集現存) ・8月27日、喬知、京より帰り拝謁。雲次の刀を賜る。 柳沢吉保情報 ・52歳.1月14日、綱着の死去に従い役職を退く。・6月3日、剃髪して駒込の別邸六義園に閑居する。 宝永7年 1710 * 秋元家情報 ・2月1日、喬知、芝口門構築の地、監臨。 ・9月27日、喬朝、芝口門普請の功労により刀を賜る。 正徳元年 1711 * 秋元家情報 ・4月17日、喬知、来る末の年神祖百周年忌御法会の事を命ぜられる。 ・12月1日、喬知、一万石加増される。 ●12月21日、日光東照宮修理により、柳原において釿初あり。喬知、総奉行として監臨。 正徳2年 1722 * 秋元家情報 ・●4月4日、喬知、日光東照宮修理の巡察を命ぜられる。 ・9月23日、地理の事は秋元喬知、国用は大久保忠増の役であったが、今後は諸老臣衆議して計らう事と命ぜられる。 ・10月14日、六代将軍家宣莞去。喬知、御葬礼、廟殿造営及び御法会の総督を命ぜられる。また、金銀改鋳の事将軍家宣の遺命を賜る。 ・11月29日、喬知、将軍家宣の御遺物給う。 正徳3年 1723 * 秋元家情報 ・2月18日、将軍家宣の霊願着工式が増上寺にあり関係者一同と共に喬知参加する。 ・5月18日、喬知の邸にて万石以上の血誓あり。 ・7月9日、喬知のもとにて万石以上血誓あり。 ・●8月21日、喬知、日光山御富修理完了により、日光に赴くことを命ぜられ、七代将軍家継自から羽織を賜る。二十六日に出発。 ・●9月12日、喬知、七日、日光山より帰路居城川越を巡視し、13日仙波の東照宮を参拝したため将軍使者より謝意の使を受ける。 ・●9月13日、喬知この日、日光山の任が終わって帰府。労に対して時服十襲を賜る。 ・10月15日、喬知、家宣の霊屋造営法要の労に対して刀を賜る。 ・11月23日、喬知、銀改鋳の事を命ぜられる。この事すべて喬知の指揮をうくべしとなる。 正徳4年 1714 * 秋元家情報 ・3月5日、絵島事件、詮議の結果が下される。 ・6月、この月、喬知ら銀改鋳担当者決まる。 ・7月3日、家継、喬知の病を尋ね石。 ・7月18日、家継、喬知の病を尋ね檜重下さる。 ・7月21日、家継、伊賀守喬房を御座所にめされ、喬房の父但馬守喬知の病の様子を尋ねる旨、間部越前守詮房につたえる。 ・7月26日、喬知の請うまゝに、医員数原通玄宗達の治療を受けるよう将軍より命ぜらる。 ・7月27日、喬知の病を尋ねられて、小納戸窪田肥前守忠任使者となり龍眼肉を賜る。 ・7月29日、家綱、宏達の病を近侍の臣を通して尋ねる。 8月27日、喬知卒、六十六歳。 柳沢吉保情報 ・吉保、57歳・11月2日、駒込村の別邸六義園において没する。 甲府の永慶寺に葬る。
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最終更新日
2021年02月14日 08時42分06秒
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