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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月14日
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カテゴリ:著名人紹介

海国日本の組織者・岩崎弥太郎


特集・転換期をのりきった企業家の決断

  

中央公論『歴史と人物』昭和58年発行

10 特集 転換期をのりきった企業家の決断11

   三島康雄氏著(執筆時 甲南大学教授)

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

地下浪人から身を起し、

わずか一五年間で一大財閥を築き上げた男の

積極果敢な采配振り

 

弥太郎の青春時代

  

三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の写真をみると、鋭く光る眼光、濃い眉とひげ、いかつい体つき、どれをとっても明治風の壮士または豪傑といった印象をうける。また部下をなぐリ倒したとか、新橋の芸者を総揚げにして豪遊したとかいうエピソードが伝えられ、わずか一五年の間に三菱財閥の基礎を築いた岩崎は、ともすれば腕力と突進力にすぐれた豪雄という印象を後世に残している。

しかし実際の岩崎は、一方において知性と詩情をあわせもち、部下をひきつける情熱と人間的魅力の持主であり、またすぐれた組織人(オーガュゼーション・マン)であった。それだからこそわずかに一五年のうちに大財閥の基礎を固めることができたのである。

 彼のこのような両面を理解するためには、まず青年時代の環境を知らなければならない。

 

 弥太郎は天保五年(1834)十二月十一日、土佐国(現高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人(武士と農民の中間身分)である岩崎弥次郎の長男として生まれた。祖先はこの地方の豪族であったが、祖父の弥三郎の時に家運が傾き、郷士の株を売却して地下浪人となり、さらに父の弥次郎は経済的能力のない人物で、借金のために田地を売ってしまったので、家運は傾くばかりであったが、それでも弥太郎の少年時代は、まだ上農といわれる階層に所属していた。

 弥太郎は青年時代に、正規の武士ではない地下浪人という身分であったため、いつも差別待遇をうけ、何度も屈辱に耐える苦い経験をなめた。封建社会の身分制度のために、限界層出身者であった弥太郎はいつも下積みの生活を余儀なくさ-れたが、このために枝の不屈の闘志と剛気と指導力が醸成されたのである。

 青年時代の弥太郎の周囲には、かなりの知的な雰囲気があった。母の美和は医師の娘であり、美和の兄弟二人はともに医師でありながら、兄の順吉は文学を頼山陽に、医学を緒方洪庵に学び、弟の篤治は蘭法医学を学び、坂本龍馬と親しかった。

また美和の姉の時(とき)は儒者の岡本寧浦(ねいほ)と結婚していた。

 このような知的な環境の中で、弥太郎は十二歳の時から史書や詩文を習い、読書にふけった。十五歳から高知城下の塾である紅友社に入って歴史と詩文を熱心に勉強した。

安政二年(1855)に江戸の昌平黌(しょうへいこう)の儒官である安積艮斎(あさかごんさい)の私塾に入って儒学を学んだが、孔孟の道ではなく、治国経世の理論を勉強して出世の道を求めた。

このように青年期の岩崎は、権威に屈せずに猛進する強い闘志と統率力、また鋭い知性と詩情と環境の変化に適応する柔軟性を身につけ、三菱財閥の創設者として必要な資質を身につけたのである。

   

実業家としての修業

 岩崎は安政六年(1859)八月に長崎に出張を命じられ、長崎で蒸気船や異人館や工場を見学し、また高名なオランダ入のシーボルトをはじめ多くの外人と交際したが、世界の最も進んだ文明と知識人に出会ったことが、弥太郎のその後の企業者として活動に大きな刺激を与えたことは否定できない。

慶応二年(1866)二月に土佐藩に開成館(藩営商社)が開設され、藩の特産物を大坂(阪)と長崎に移出し、軍艦や武器を買入れることを目的としたが、岩崎はその貨殖局の下役に勤務し、翌年に再び長崎に出張し、商会の事実上の責任者として土佐藩の貿易をすべて管理したが、主要な取引先は英国のグラバー商会を始め、プロシア、オランダ、ベルギーの各商会であった。

買い取った商品は、汽船、砲艦、大砲、小銃などであったが、取引は紛糾することが多く、また外商から借款しなければならぬ場合もあり、敏腕な外商との取引でわたりあうことによって、岩崎は企業経営者としての管理能力と経営理念を養っていった。

 彼は翌明治二年(1869)二月に土佐開成館の大坂商会に転勤し、登庸の貿易代理業務、土佐物産の大阪商人への販売、外商からの借入金の仲介などに活躍し、明治四年ごろには土佐庸を代表する経済官僚に成長していた。

また木戸孝允、伊藤博文、五代友厚などの他藩の一流人物とも交際して、自分の人物の幅を拡げていった。この長崎と大阪における実業家としての修業期は、岩崎が三菱財閥を創設する上で、非常に重要な準備期間であった。

 

   海運業への進出

 

 明治三年十月に東京の検察当局が、政府の廃止命令に違反している藩営貿易の摘発に乗り出したので、岩崎は藩営商会を土佐開成商社と改称するように指示したが実行されず、十月十八日に通商司から九十九(つくも)商会の商号によって回漕業を開業する仮免許が下付された。同商会は私商社の形をとっていたが、実際は依然として藩の商業機関であり、他に有能な経済官僚がいなかったので、岩崎が九十九商会の指揮をとることになった。

 明治四年に土佐藤が高知県に再編されると、県当局は岩崎に同商会を継承することをすすめ、近いうちに「岩崎一箇之商会」にする約束のもとに、弥太郎は旧藩船の「夕顔」と「鶴」の二隻を四万円で払下げをうけた。五年一月に同商会は去聯商会と改称したが、その重要な資産は岩崎が所有し、表面的な経営は川田小一郎、石川七財、中川亀之助の三人が行なったが、これは岩崎が完全に所有と経営の実権を把捉する企業に移行する過渡的段階であった。

そして九十九商会時代の、大阪~東京、神戸~高知間のほかに神戸~博多間に新航路を開設し、瀬戸内海沿岸から米を買って大阪で販売するなど、業務を拡大していった。

明治六年(1931)三月に三川商会は三菱商会と再び改称し、三人の経営者の権限は縮小され、岩崎の個人企業に近い形態をとるようになり、彼のリ-ダーシップのもとに本格的に海運業に乗り出してゆくのである。

 

三菱商会が海運会社として発展してゆく過程で、内外の多くのライバルとの競争にうちかたねばならなかった。

まず明治三年一月に通商司の指導によって設立された廻漕会社であり、ついで政府の手厚い保護のもとに五年八月に設立された日本国郵便然汽船会社であった。この会社は運賃の決定や変更には政府の許可を必要とし、半官半民の海運会社であって、政府は十隻の船を代価二五万円、一五カ年の年賦償還の契約で払い下げ、貢米輸送を同社に委託するなど、大いに

援助を与えた。

岩崎弥太郎は同社に対して激しい競争意識をもやし、顧客第一主義の私企業経営に専念し、官僚的経営の目本国郵便蒸汽船会社に対抗し、地租改正による貢米輸送の激減もともなって、

ついにこのライバルを解散に追いこんだ。

明治七年(1932)四月に、岩崎は三菱商会の本店を新しい政治の中心になった首都の東京に移し、大阪西長堀の旧本店は大阪支店と改称したが、この直後から三菱商会に飛躍的な発展をもたらす事件が相次いで起った。

その最初の事件はいわゆる佐賀の乱であって、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは、鎖国主義を続ける朝鮮ヘの武力進出を主張したが、ヨーロッパ諸国を視察して帰国した岩倉具視らは征韓論に猛烈に反対し、西郷、板垣、江藤、後藤らは参議を辞任して故郷へ帰り、とくに佐賀に帰った江藤は七年二月に不平武士団に擁せられて反乱を起した。しかし薩長の開明派が主流の明治政府の徴兵令による陸海軍によって一挙に鎮圧された。この佐賀の乱に政府軍が勝つことができたのは、九州への迅速な軍需輸送を担当した三菱商会の力による所が大きく、ここに三菱と明治政府の密接な結合が始まったのである。

  

続いて明治七年(1932)二月に起った「征合の役」では、大久保利通、大隈重信は岩崎弥太郎を招いて軍需輸送の官用付託を告げ、岩崎は全社船をあげて命令を実行する旨を返答したが、征合の役が終了した時には、政府の所有齢や外国から買い入れた齢を三菱が利用して海運業を拡大することを、政府に約束させている。

政府は一三艘の船を三菱に委託し、三菱は社船の主力船団と委託船で、兵員、武器、弾薬

を台湾に輸送し、まもなく「征台の役」は勝利のうちに終った。

三菱商会は戦後も政府の汽船一三隻を委託され、これを自社船同様に運航したので、唯一の競争相手であった目本国郵便蒸汽船会社を一挙に抜きさり、ついに同社は明治八年六月に解散し、その所有船は後に政府から三菱に払い下げられた。このころに三菱商会は三菱蒸気船会社と改名し、岩崎弥太郎は大久保や太険らの明治政府の実力者との間に密接な関係をもつようになり、岩崎の「政商」としての姿が濃厚に浮び上がってくることになった。

大久保らは国内海開運企業の育成の必要を痛感し、民営育成策の対象として、岩崎の率いる三菱汽船会社を指定し、八年八月に三菱に三〇万円の助成金を下付し、また政府所有の一三菱と目本国郵便汽船会社の所有していた十八隻、合計三一隻の汽船を無償で下付し、運航助成金として一年に二互万円を、一三年間にわたって給与するという破格の恩恵をあたえた。

これ以後の三菱は自社船もあわせて四〇隻以上の汽船を所有して、国内海運界の王者の地位をしめることになった。この勝利は、岩崎が果敢な意思決定力と企業者能力を示し、また大久保、大隅らの新政府の実力派高官の信用を得た結果であった。

 

   海運業を独占

 

 国内海運業の王者の地位についた三菱にとって、次の問題は優勢な船隊をもつ外国海運会社との競争にうちかつことであった。

安政六年(1859)の開港以来、最初は英国船が優勢であったが、慶応三年(1867)に米国

の太平洋郵船会社がサンフランシスコ~香港の間に航路を開き、明治初年には横浜~上海の間に支線を設け、同社の大型船が、横浜、神戸、長崎に毎週寄港し、各開港場の問の輸送量を増していった。

これに対して三菱は八年二月三日から上海航路を開き、両社は激しい運賃引下げ競争を行ない、ついに太平洋汽船会社は洋銀七八万ドルで四隻の船と日本諸港での港湾施設を三菱に引渡し、横浜~上海航路から撤退した。

岩崎は買収費八五万円を一五カ年賦、年四朱の利息で政府から借用することに成功している。

続いて明治九年(1934)にイギリスのP・O汽船会社が再び強敵として出現し、香港~上海~横浜航路と東京~阪神間の航路を開き、大阪の二二の同業組合と結託して貨物の獲得をはかり、三菱に挑戦し始めた。

岩崎は海運発展使命論をふりかざした告諭を全社に発し、全社員を激励した。

またもや激しい値下げ競争が行なわれたが、岩崎は大蔵省から年七分の利子で資金を借り、荷為替金融を開始して荷主を奪還し、また思い切った運賃切下げを行ない、これが成功してP・O汽船会社は明治九年八月に無条件で上海航路から撤退していった。

こうして三菱会社は完全に日本列島の周辺の海運業を独占することができたのであり、日本の周辺の国内航路を充実させていった。

 

そして明治八年九月に韓国で起きた「紅華島事件」、九年十月に起った不平武士団による「熊本神風連事件」、「萩の乱」でも、郵便汽船三菱会社(明治八年に改名)は政府の命をうけて軍隊と軍需品の輸送を行ない、政府と密接な関係を保っていた。

そして明治十年(1877)二月から始まった不平士族の最大の反乱である「西南の役」では、三菱会社は政府の社船徴用命令をうけ、全力をもって政府の輸送計画に協力した。機をみるに敏な岩崎は、不平士族の反乱が時代の大きな流れを止めることができないのを見抜いていたのである。動員された三菱社船は三八隻に達したが、さらに政府から八〇万ドルを借りて外国船七隻を購入して軍官輸送に動員した。

この「西南の役」で三菱が得た利益は、御用船の運航収入が約三〇〇万円であり、十年度の利益は一二一万円に達した。

戦後に三菱は汽船六一隻を所有し、全国汽船総トンの七三パ-セントを集中し、名実ともに海運業の独占をほしいままにするにいたった。

 

   反三菱運動の高まり

 

三菱の強力な保護者であった大久保利通が明治十一年五月に暗殺されたのをきっかけにして、三菱の海運独占に対する非難の世論が急速に高まり、益田孝や渋沢栄一が先頭に立ち、地方の回船間屋たちが参加し、十四年一月に風帆船会社が設立され、三菱を追撃する態勢を整え始めた。

しかし松方デフレの影響もあり、政府の三菱に対する保護も続けられたため、風帆船会社は必ずしも順調に発展しなかった。ところが、いわゆる「十四年の政変」によって太隈参議が失脚して下野すると、三菱はこれまでの政治的保護を全く失うことになった。これまで「政商」として政治家と密接な関係を結んできた岩崎弥太郎も、「三菱の本務は回漕運輸の仕事であり、政治に関与しないように」という諭告を全社員に発し、これ以後「政治不関与」は三菱財閥の重要なプリンシプルとなったのである。

明治十四年の政変以後、三菱に対する攻撃は急速に高まり、田口卯吉の『東京経済雑誌』を始め多くのジャーナリズムが、三菱が莫大な政府の援助を利用して海運業を独占し、地方の中小回漕業者を没落させていると非難した。そして十互年の春から、三菱と対抗できるような大規模な汽船会社を新設して、同社を競争させようという気運が起ってきた。

こうして三井武之肋、鳥越恭平らの三井家に関係のある人だちと、大倉喜八郎、平野富二、川崎正蔵、さらに地方の有力回船問屋たちの、三菱会社を敵視する人たちが発起人になり、明治十五年十月九日に共同運輸会社(資本金六〇〇万円)が設立され、十六年末には汽船一三隻、帆船一二隻で三菱を追撃しはじめた。

岩崎弥太郎は川田小一郎を事務総監に任命し、本社では江田平五郎を管事とし、各支店に近藤廉平をはじめ有能な部下を配置し、迎えうつ体制を固めた。共同運輸は船舶を増やして汽船二四艘となり、急速に三菱に肉迫していった。同社の激しい競争は採算を無視した値下げ合戦を展開し、約四〇パーセント引下げられた。

 このような異常な競争の結果、どちらかといえば共同運輸の方が致命傷に近い打撃をうけた。同社の共倒れを憂慮した井上馨、伊藤博文、松方正義らの裏工作によって、十八年九月二十九日についに両社は合併して、新しく日本郵船株式会社が成立し、明治十六年一月から約三年間におよぶ郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の死闘は終りをつげ、ここに明治三年の九十九商会以来、海運業によって急速に勃興してきた三菱は、海運会社の直営から手を引くことになったのである。

 

   弥太郎時代の多角化

 

三菱財閥の本格的多角化は明治二十年以後に行なわれたが、創業者の弥太郎も多くの企業者機会に敏感に反応し、かなりの初期的多角化を行なっていた。

彼の行なった多角化は、海運業に関連のない雑多な手さぐり的多角化と、主要事業の海運業に関連した、いわゆる垂直的統合七いわれる多角化に分けて考察しなければならない。

 

(一)雑多な多角化

 

)樟脳製造と製糸業 

 

弥太郎は創業期に高知で、旧土佐藩所有の樟脳製造工場と樟樹伐採の独占権と原料集荷施設を明治五年三月に、また同じ頃に高知城下の升形にあった藩営の製糸工場を払い下げてもらったが、いずれも八年中には閉鎖した。そのほかに小規模な製糸業、薪炭某の経営も行なっていた。

 

(b)吉岡銅山 

 

三菱が最初に経営した金属鉱山である吉岡銅山は、弥太郎が明治六年に備中(岡山県)松山藩主であった板倉家から一万円で買取ったもので、オランダ人技師フオーヘルを雇って七カ所の坑口から掘り進んだ。三菱が英国のP・O汽船会社と競争して経営が苦しかった頃、吉岡銅山は良鉱脈を掘りあて、三菱会社の苦しい経営の資金源として役に立った。二十年頃から東大出身の長谷川芳之助か鉱山長になって近代的技術をとり入れ、三菱のドル箱になった。

 

() 貿易商会 

 

明治十三年七月に日本橋区百河岸町に設立された有限責任貿易商会〔資本金二〇万円)に、岩崎は八万円を出資し、横浜正金銀行の融資をうけて生糸の直輸出を行なった。しかし十四年の政変で岩崎が薩長藩閥の攻撃をうけると商会も不振となり、二十六年に同伸仕と合併して横浜生糸合名会社になった。

 

         明治生命保険会社 

明治十四年七月に明治生命(資本金一〇万円)が福沢の門下生によって設立された時、岩崎も出資(額は不明)し、三菱会社の管事の荘田平五郎が同社の組織や経営方法の原案を作成した。取締役に三菱社員の朝吹、吉川らが就任し、三菱と密接な関係をもつ企業として出発した。

 

         日本鉄道 

華族組合によって十四年に発起された日本鉄道会社(上野―青森)に岩崎も出資し、理事に荘田、肥田らを送りこんだ。

 

         千川水道 

十三年四月に設立された千川水道会社の、資本金五万円は全額弥太郎が出資した。これは江戸時代の千川水道を復興して東京市の一部に給水した もので、弥太郎にとっては趣味的事業であった。

 以上の諸事業はまだ三菱の事業が定着していなかった初期の、試験的多角化か、他人に誘われて行なった単なる投資の域を越えるものではなく、後に三菱財閥の中枢事業として残ったのは明治生命だけであった。

 

◇ 海運業と関連をもつ多角化

 

三菱財閥の発展にとって重要な役割をはたしたのは、主事業の海運業と関連をもつ多角化であった。

 

         炭坑 

明治四年に九十九商会は新宮藩に汽船を売却した代償として、東牟婁郡の万歳、音河の両炭坑を一五年間の期限つきで稼行した。さらに奥谷、宮井の両炭坑も開発し、出炭量は六年に一一九六万トンにまでなった。岩崎はその大部分を三菱社船の焚料として利用した。さらに岩崎は明治十四年三月に、福沢の斡旋で、後藤慶二郎から長崎港沖の高島炭坑を買収した。三菱会社の船舶はそれまでにも高島炭の最大の利用者であったが、弥太郎は汽船の焚用塊炭が不足してきたことを知り、自社で高島炭坑を開発して利用し、余剰炭を自社船で輸出すれば大きな利益を得ることができると考えた。

彼の思惑通り高島炭は、上海、香港、シンガポールヘ大量に輸出され、その莫大な利益が明治二十年以後の多角化の有力な財源になったのである。

 

         三菱製鉄所と長崎造船所 

 

三菱の海運業にとって最大の問題は、船舶修理工場が存在しないことであった。岩崎は明

治八年八月に横浜海岸通四丁目の「造船器械所」を買収して船舶修理のための鉄工所を設立し、十二月にはボイド商会のグラントとロパートの半額出資を得て、資本金一〇万ドルの三菱製鉄所を創設し、十二年には経営権をすべて把捉した。

三菱製鉄所は横浜の最大の民営船舶修理場であり、この経営が後に長崎造船所の払下げをうける前提となった。

幕府が安政四年(1857)以来、増設してきた長崎の飽浦製鉄所や立神軍艦打建所は、維新後は官有となり、海運業の中心が長崎から阪神へ移ってゆくと、政府は長崎造船所の経営を最も有力な海運会社にまかせようという方針を打出し、十七年六月に三菱会社に貸下げられた。初代支配人に山脇正勝が派遣され、外人技術者を多数入社させて技術力を高め、二十年六月に同所は三菱社にわずか九万円余という安い価格で払い下げられた。同所は三菱財閥の重工業化の起点として重要な意味を持っていた。

 

         三菱為替店 

 

P・O汽船会社と激しい競争をしている時に、岩崎は荷為替貸付けによって積荷を集めることを考え、九年三月から荷為替金融を開始し、十二年から全国各地の支社でも業務を始めた。十三年四月から三菱為替店(資本金一〇〇万円)を開いたが、十八年八月に閉鎖された。しかし同年に第百十九国立銀行が三菱の経営に入り、後に三菱銀行に発展していった。

 

         東京倉庫会社 

 

岩崎は三荷為替店に倉庫業を兼営させ、保管商品を担保にして貸付けを行なった。倉庫は全国の港にある三菱会社の支社に建てられ、二十年四月に東京倉庫会社として独立し、大正七年には直系の三菱倉庫会社となったのである。

 

         東京海上保険会社 

 

岩崎は自社の海運業の発展のために海上保険の必要性を痛感していたが、明治十一年八月に華族組合によって東京海上保険会社が設立されると、渋沢栄一のすすめによって資本金六〇万円のうち一一万円を出資して筆頭株主となり、各地の三菱支社がその代理店をつとめたので急速に発展し、永く三菱財閥の準直系会社としての性格を保持していった。

 

   風雲児の最期

 

以上のような海運業を中心にした岩崎の多角化政策は、その後の三菱財閥の展開の基礎を築いたのである。また披は多角化戦略に対応する近代的経営組織の確立にも配慮し、明治八年に荘田に命じて「三菱汽船会社規則」を作成させたほか、全国に散在する海運関連の支社と鉱山・炭坑に管理組織を作り、職務と権限を規定した。しかし一方で「立礼体裁」において、三菱は岩崎一家の事業であり、「社長の特裁」を強調することを忘れなかった。

このように社長独裁と近代的組織が混交している所に三菱の他財閥にみられない特徴があった。また岩崎は海運ナショナリズムの旗のもとに、慶応義塾から荘田、豊川、朝吹、吉川、東京帝大から近藤、末延、加藤らの俊才を多数入社させて縦横に活躍させ、三菱の急速な発展の人的条件を築いたのでおる。

明治三年の九十九商会以来、わずか一三年の間に大財閥の基礎を築いた風雲児の岩崎弥太郎は、郵便汽船三菱会社が共同運翰との死闘の頂点にあった明治十八年二月七日に、胃ガンで死去した。¨

 

 主要参考文献

 

1、伝記編纂会『岩崎弥太郎伝』上・下巻、昭和四十二年

2、三島康雄『三菱糾問史』明治編、教育社、昭和五十四年

3、三島康雄編『三菱財閥』日本経済新開社、昭和五十六年

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以上の諸事業はまだ三菱の事業が定着 

た。

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一一

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最終更新日  2021年02月14日 08時47分58秒
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