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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月14日
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カテゴリ:著名人紹介

郷土白州町の誇り 松屋創業 古屋徳兵衛について

 

『松屋150年史』より

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

(一)古屋家と松屋初代・徳兵衛

 

松屋は一八六九(明治二)年、初代・古屋徳兵衛によって創業された。

 初代・徳兵衛は父・長吉と母・久米の長男として、一八四九(嘉永二)年四月十日に生まれ、幼名を「徳太郎」といった。

徳兵衛の父・長吉は一八二六(文政九)年、甲斐国巨摩郡(現在の山梨県北杜市白州町)上教来石村の農家で生まれた。

地名の由来となった「教来石 きょうらいし」は、今も古屋生家の庭のほとりにあり、小さな祠が祭られている。

長吉は一八四七(弘化四)年、二十一歳のときに分家した。上教来石は甲州街道(国道二十号線)に接し、長野との県境に近い。母・久米の実家は、信州の甲州寄り、下蔦木(現在の長野県諏訪郡富士見町落合下蔦木)の小池家。

アメリカのペリーが黒船四隻を率いて浦賀に来たのは、徳太郎誕生から四年後のことだ。

時代は、幕末から明治へと大きな変革を遂げようとしていた。

 長吉は一山村にその生涯を終えることを良しとせず、江戸へ出て商人として大成しようと考えた。ちょうど諏訪藩の細川藤四郎が越後上布の商いを始め、使用人を必要としていたため、長吉はその仕事を手伝うことにした。

越後-江戸間を往復して上布の運搬に当たり、販売にも従事したが、やがて独立して、長吉自身が仲継商と小売業を行うようになった。

 一方、そんな父・長吉の影響を受けて育った徳太郎は、やはり江戸へ出ることを考えた。一八六一(文久元)年、徳太郎は父に連れられ、日本橋本石町の豊鳥屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。このとき、徳太郎は十二歳だった。

まず、ある旗本の屋敷に仕えたものの、維新で主家は没落する。そこで初めて商いの道で身を立てようと決意した。ところが、奉公に入った浅草雷門付近の海苔屋は倒産。振り出しから相次ぐ試練に直面したのだった。

 

次に雇われたのが横浜の呉服屋。

 

呉服の商い、横浜の土地との関係は、このときに始まった。当初三年間、徳太郎は朝まだ誰も目覚めぬうちに起床し、夜は最後に就寝。仕事は他人の分まで率先して引き受けるほど、謹厳実直に働いた。その忠実な勤めぶりに主人が注目しないはずはない。「ぜひ養子に」と言われるほど深い信頼を得た。

しかし徳太郎は、主人の厚意に感謝しながらも、この申し出はきっぱり断った。もし承知していれば、今日の松屋は存在しなかっただろう。

 この呉服商は、呉服以外にも糸類、小間物、紙、茶、乾物など、日用雑貨まで手広く扱う店だったが、維新の荒波にもまれ、ここもまた倒産してしまう。あいにく長吉が商う越後縮の仲継商も思わしくなかった。徳太郎はいったん故郷へ引き揚げるしかなく、しばらくの間、郷里にとどまった。

 そんな析、呉服商時代のお取引先で「独立するなら、資金を融通してもよい」と言ってくれていた人から、「先に資本を提供してもいいので、商人として独立したらどうか」と勧められる。徳太郎は天にも昇る思いで、横浜へ馳せ参じた。

ところが、いざ会ってみると、頼みの相手は「他に適当な人があり、既に金を貸してしまった」と言い、徳太郎がどんなに懇願しても取り合ってくれなかった。

 思いがけない事態に茫然とした徳太郎だったが、当時、横浜でせり呉服を営んでいた長吉のもとへ相談に行く。父子で相談の末、決めたのは、郷里の家財一切を売却することだった。そうして、当時の金額で四十七両三分二朱という金財産を携え、再び横浜に来て、呉服の仲買商を始めた。これが、徳太郎の独立第一歩だった。

 

一八六八(慶応四)年正月、徳太郎十九歳のことである。

 

(二)鶴屋の創業

 

呉服の仲継(中継)商として独立した徳太郎は、㊣(まるしょう)鶴屋徳兵衛を名乗った。仲継商は「買継商」ともいい、呉服小売商の注文を取り、東京の問屋から品物を仕入れ、小売商に売るのが主な仕事だった。新橋-横浜(現在の桜木町駅)間に鉄道が問通したのが一八七二(明治五)年九月のことだから、横浜~乗京間の往復となると当然、徒歩で行かなければならない。

たとえ鉄道が問通していたとしても、料金は高く、庶民が日常的に利用するのは難しかった。初代の当時の大変な苦労が推察される。

毎日、小売店を駆け回っては注文を取り、翌日は早朝から草鞋を踏みしめ、東京へ行って一泊。次の日は問屋を回って仕入れ、その商品を背負って横浜へ戻る。あるいは船で荷を送った。その途中で雲助(街道や渡し場にいた無宿者)に襲われたり、無頼の浪士に脅迫されたりしたこともあったという。

文字通り不眠不休で命がけの奮闘が続いた。

 この間の一八六九年二月、初代は、同郷の牛山義長の長女・とみ(後に満壽と改名)と結婚している。父の長吉が気に入って、「息子の嫁に」と東京に伴ってきたのだった。初代は、東京では日本橋本石町三丁目の旅館「大坂屋」を常宿としていて、その二階の座敷で形ばかりの祝言が行われた。このとき、初代は二十歳、満壽夫人は一歳下の十九歳だった。

 こうして初代夫妻の新生活は東京日本橋の一旅龍屋の二階から始まり、やがて横浜石川口の地に平屋建ての小さな家を借りて移り住んだ。

 

小売商「鶴屋」の開業

 

 よき伴侶を得て、初代・徳兵衛は一層呉服の伸縮商に精を出した。満壽は長吉のお眼鏡にかなった人だけあって朝から晩までよく働き、夫が得意先から頼まれた着物の仕立てなどもして家計を助けた。

 そんなある日、夫妻は端切れの小売を思いつく。試しに自宅と自宅前の井戸の柱にひもを通し、そこに端切れをぶら下げて売ってみた。この通りは横浜のはずれだったが、本牧や根岸方面から関内へ行く経路に当たった。そのため茶場の女工や漁師のおかみさんなど朝夕の人通りは案外多く、ひもにつるした端切れはよく売れた。こうなると生来働き者の満壽は、針仕事の他、小売にも熱を入れるようになり、同じく鶴屋を称して次第に商いを広げていった。

 

小さな店でも、端切れ反物類の小売商として将来に希望が持てるようになると、初代も中継商をやめ、小売に専念した。その頃には長吉も同居して、父子夫妻ともども小売の商いに精を出すようになる。

 松屋の前身、小売商「鶴屋」の誕生はこうした経過をたどっている。

よって正確な「創業の日」は捉えにくい。ただ、端切れを売り始めたのは一八六九(明治二)年で、その年の新暦十一月三日を「創業の日」と定めることにした。十一月三日は、明治天皇ご誕生のめでたい日でもあった。銀座に進出してからは、開店日の五月一日を「開店記念日」とし、十一月三日は「創業記念日」として今日に至っている。

 「鶴屋」という名称は、姿も優美で長寿の鳥とされてきた鶴の「めでたさ」にあやかったものだ。文字は本来「鶴」の「鶴屋」で、仮名の「つるや」も使った。次第に「鶴屋」に固定していったが、明治時代の新聞広告などには、まだ「つるや」も多く使われていた。

 東京に進出した後も、横浜では開業当初のまま「鶴屋」と称した。社名からその文字が消えるのは一九二四(大正十三)年九月十四日だが、横浜では店名として一九三〇(昭和五)年十月一日まで鶴屋を使用した。松屋百五十年の歴史のうち、実に六十年余りは発足当初の呼称が存続し。横浜市民にはなじみ深

い店名として浸透していた。

 

 横浜の発展

 

 後に松屋となる鶴屋の発祥の地・横浜は、開港以来、貿易港として急速に発展を遂げた。

 初代・徳兵衛が鶴屋を開業したのは、開港からわずか十年後の一八六九(明治二)年のことであり、同年三月には、東京遷都が行われている。

当時の横浜は人口約二万八千人、戸数六千三百余り。初代は、文明開化の流人口ともいうべき横浜の

将来性に目を付けたのだ。鶴屋は、横浜の発展と歩調を合わせるように店舗を拡張し、一八八九年(明治二〇)には東京今川橋の「(旧)松屋」を買収。翌年早々には開店して、東京と横浜の二店舗体制を敷いた。






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最終更新日  2021年02月14日 09時03分46秒
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