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表札 小沢開作氏(指揮者小沢征爾の父)のこと
比口嘉夫氏著 * 『文学と歴史』第7号* 昭和五十九年 「文学と歴史の会」 編集人 笠井忠文 発行人 今川徳三 一部加筆 山梨県歴史文学館
小沢開作といっても知らない人が多いだろう。先年亡くなった市川大門町出身の歯科医だが、本業よりむしろ旧満州国協和会の幹部のひとりとして知られていた。 またオーケストラの指揮者である征爾君はその息子である。 私がこの小沢開作さんと初めて口をきいたのは、昭和十三年秋の中国北京でであった。 私はその年、陸軍省が内地で募集した、北支県政輔佐官の試験に合格して、北京の新民塾で同僚百名と三か月の教育を受けていた。 そこへ小沢さんは講師のひとりとして、現われたわけである。小沢さんのその時の身分は、軍が北支の占領地区に組織しようとしていた、中華民国新民会の総務部長であった。もちろん満州国からの出向である。 日本を発つとき、父方の伯父から私は小沢さん宛の紹介状を貰って来ていた。それで地続きの宿舎にそれを取りに行き、講師たちのたちの一息入れる部屋で小沢さんを待った。 二十年振りに見る小沢さんは、協和会服の身体もひと回り大きくなり、相変わらずその特徴である魁偉の顔をしていた。小沢さんは私を知らなかったが、私のほうでは彼の顔をよく覚えていた。 伯父からの紹介状を渡すと、すぐ開封して読みはじめ、 「君のお母さんは知っている」 と、だけ言った。そのときはそれだけだったが、塾を終えて新しい配属先を決めるときなど、陰で何かと気を配っていてくれたことが、後で分った。 というのは、若気の無鉄砲さで一番治安の悪い地方を志願したのが、比較的良い所に変えられていたことなどである。年齢がだいぶ違う小沢さんを、なぜ私が見知っていたかというと、次のような訳があった。
私が小学校四年のときだから、多分大正元年ごろか、私の両親は仕事の都合で甲府へ移り、私だけが祖父母と市川大門町に残っていた。そのとき私の家の蔵座敷に、どこか遠い県から福井先生一家が越して来た。 母親は裁縫教師、息子と嫁は訓導として、いずれも市川小学校に奉職した。一家三人が他県から移って来て、すぐ同一小学校に職を得るなどということは、いくら組合などなかった昔のことでも、容易にできることではない。おそらく県知事か学務部長の特別の指示があってのことだろう。 このことは今考えてみても不思議でならない。何か深い事情があってのこととは想像できるが、許せないのはこの三人を就職させるため、心ならずも他校へ転出さ せられ泣きを見たであろう者のいたことである。介更に当時の官僚の凄まじいまでの専横さが、窺える。 裁縫教師の母親は、針や鋏などより鉢巻をして、長刀を持たせたほうが似合いそうな、痩身の女丈夫だった。 物指しを跨いだといって、ひどく叱られたことを覚えている。それは兄の先生が私たちの受持ちだったことから、田舎の物怖じしない腕白たちは、厚かましくも先生の住まいにまで遊びに押しかけたときのことであろう。 なかでも私はよく叱られた。あるときなど教室で、兄の先生に頭を何度も壁にぶっつけられ、そのため眼に出血して医者に通ったことがある。軍医あがりの医者には、私の眼が打撲によるものと分るとみえ、何度か原因を尋ねられたが、誰かと出会いがしらに衝突したのだと、嘘を言い、なぜか先生をかばった。 このように兄の先生は少し短気で、どことなく憂鬱そうで、先生というよりまだ旧制高校の生徒といった感じのほうが強かった。中背で丸坊主刈り、痩せていてメガネをかけていた。ところが妹の先生は、目本人離れのした豊頬の美人で、この一家の内で一番愛想がよく、ピアノが得意だった。 当時の市川小学校には、まだピアノはなかった。根津喜一郎さんが県下の全部の小学校にピアノを寄贈したのは二、三年後のことである。それゆえ妹の先生は七丁目の秋山真男さん宅のものを借りて、よく練習していた。 まあ、こういった一家だったから、訪ねる人とて殆どなく、小沢さんはその少ない訪問者の一人だった。
そのころの小沢さんは、五丁目の相原歯科医院の助手のようなことをしていた。あとで息子がオーケストラの指揮者になるくらいだから、もともと音楽が好きで自分もバイオリンをひいた。従って訪問の相手は妹の先生に違いなかった。 福井先生一家の住む蔵へは、母屋の横に細い路地が通じているのだが、それを知ってか知らずか、小沢さんは、いつも私が祖父母とひっそり暮らしている母屋の台所を、挨拶して通った。それで私は小沢さんの顔を見覚えた訳だが、小沢さんのほうは小学校四年生だった私など、記憶にないのも当然だろう。 小沢さんのたび重なる福井先生宅への訪問には、一途のものがあり、少年の私にも妹の先生を恋していることがはっきりわかった。しかし歯医者でもない見習いの青年が、どこか気品のある美しい女教師を恋しても、結ばれるわけもなく、結局小沢さんの片思いに終わった。
というのは、それから間もなく、福井先生一家は来たときと同じように、またさっと、どこか県外へ引っ越して行ってしまったからだ。二年足らずの短い期間ではあったが、狭い田舎町のことゆえ、すぐ噂が広まった。 兄の先生が結核を煩ったからだとか、妹先生が音楽の中等教員の免状をとったからだとか、いろいろだった。 福井先生一家がいなくなると、小沢さんもまた、この失恋に発奮してか、歯科医の開業試験に合格して市川大門町を離れていった。
二十年振りで小沢さんに会ったあと、私は天津に配属され、同時に新しい作戦が開始されたので、その後会う機会はなかった。二年近くかかったその作戦も一段落し、小暇を得たので所用もあり北京へ出た。天津と北京の間は汽車で三時間ほどである。 北京は天津と違い、日本人だけが塊まって住み、行政的にも認められた租界というものがない。それで北京へ出てくる日本人は、きまっても東単楼付近へ足を運んだ。 そこには日本の飲食店が軒を並べ、ちょっとした日本の繁華街を想わせるものがあったからである。そうした一画の新開路で「小沢開作」と厚目の板に書かれた表札を偶然見つけた。 この同郷の先輩とは面識もあり、一度扉を排して御機嫌を伺うのも、礼儀のうちと知っていたが、なぜか私を躊躇させるものがあって、そのまま通り過ぎてしまった。 それからも北京へ出るたびに、その家の前を通ったが、表札は掲げてあっても門は固く閉ざされており、小沢さんが本当にその家に住んでいるとは思えなかった。 日本人がこうも沢山、この一画に移ってこられると、中国人としては気が気ではない。何時、自分の家を売ってくれとか、貸してくれと言ってこられるか分ったものではない。断るにしても相手は占領している国の人間で、あとが恐い。
それで知り合いの日本人がいれば、名義だけの借家人になってもらい、その表札を掲げることを思いつくだろう。そういった点で小沢開作という名は、満州国ではよく知られていて、最高の利用価値があった。北京で商売でもしようと出てくる人間の大部分は、満州国からの者だった。 更にもうひとつ、名義だけだと思ったわけは、敵の工作員や刺客に、わざわざ自分や家族の居場所を教えるようなもので、たいへん危険だった。一応平穏ではあっても、北京は交戦国の準首都である。 * * * ところが敗戦のあと、ようやく日中国交が回復すると、小沢さんの息子の征爾君は、いちはやく中国に渡り、オーケストラの指揮をするなどして、猛烈な歓迎を受けた。 その様子を伝えた週刊誌のダラビアには、私が何度もその前を通った、あの表札のあった家が写っていて「征爾君の子供のとき住んでいた家」という註釈まで付いていた。 私の想像とは、裏腹に小沢さん一家はずっと、あの家に住んでいたのである。そうして小沢さんが身に危険が及ぶかも知れないのに表札を出したのは、自分を頼ってくるひとの便宜のためにしたことであろう。北京の路地(胡道)は複雑で分りにくいことで有名だった。 北支には来たものの、種々の事情から挫折し、失意の日を送る日本人も多かった。それらのひとの再起のために、小沢さんはあの家に泊まる場所を用意していたのである。 私と同期の小野寺も恩恵に浴したひとりで、彼からあの家のことを聞いて始めて理解できた。 小野寺は山西省の奥地で、現地の日本軍と衝突し問題が紛糾するにつけ、間に立った将校が自決するなどのハプニングもあって、軍法会議の結果、山西省を追放となった。 行く当てのなかった彼は、風の便りにあの家のことを聞いていたので、暫く厄介になり助かったという。
蛇足ながら征爾君の母親が、あの市川小学校のピアノの福井先生だとすれば、秀れた才能に恵まれて生まれたことも納得でき、小沢さんの恋も成就していたことになるが、残念ながら確かめようがない。
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最終更新日
2021年02月20日 03時38分55秒
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