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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月20日
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カテゴリ:著名人紹介

「詮方尽くれども」…橘外男氏の想出

 

佐々木満里子氏著

『文学と歴史』第7号

昭和59年発行 編集 笠井忠文氏・発行人 今川徳三氏

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 私の母は、女五人、男二人兄弟で、裁判官であった父親(私にとっては祖父)に厳格に育てられた割に、皆一寸はみ出た形の人々が多い。あまり努力しないで周囲によりかかって、それで結構苦労もせずうまく人生を渡ったというタイプである。

さてその長女、つまり私にとっては叔母は、昔で言えば丸条染武子夫人に似たなかなかの美女で、軍人の中では名家である。高崎の連隊長をした橘家に稼いだわけである。

この伯父も勿論陸士出身のれっきとした軍人で長身の美男であった。満州時代の私共一家は、時々目本に帰って来た時は、西荻窪にあったこの格式高い橘家に挨拶に寄り、女の子の居ない叔母にはずい分可愛がってもらった記憶がある。

その頃の叔母は凛とした武人の妻として、なかなかよい風情で、帝国軍人であった伯父も近より難く威厳があり、満鉄の一社員である私共一家は一寸へり下ったつき合い方をしていた。

 この伯父の末弟の武夫氏も新京の憲兵隊長をしていて、まさに満州では飛ぶ鳥を落す勢と言ってもよい有様で、従卒を従えて、当時牡丹江に居た私共一家の所へ訪ねて見えた時も、大した威勢だった様に子供心にも記憶している。

 さて、この橘家の兄弟の真中に、橘外男という変った作家が居る事は、昭和十五年頃、母の口からしばしば聞かせられたし、当時渋谷にあった氏の家にも行った記憶がおぼろげながらある。

外男氏は、ご存知の方もいられると思うが、典型的な軍人の家庭に育ち乍ら一人反逆児で、不良で仕様が無く、親に勘当され、方々放浪し、一時は入獄までし、つぶさに辛酸を嘗め、最初の女性との事を書いた「太陽の沈みゆく時」という作品で、文壇にデビューしたわけです。

私は残念乍らこの作品を読んでいません。そして、昭和十三年上期、「ナリン殿下への回想」で第七回直本賞を受賞、もともと変った人だったので文壇の鬼才と言われたそうです。その頃よりボチボチ親の勘当もゆるされたということで、親もずい分勝手なものだと母が噂していました。しかし、まだまだ生活は苦しく、弟武夫氏の世話で、当時の満州映画社(満映)に入社、一家で満州に渡り、外男氏はたしか経理部長かなんかしていたと聞きます。

 昭和二十年、太平洋戦争は終戦を迎え、世の中はすっかりひっくり返りました。西荻窪の伯父は失業軍人となり、上手に世を渡って行く人ではないので、毎日ブラブラして、叔母に疎んじられ、邸は荒れ、間貸しをし、叔母はレストランに働きに行き、伯父は、配給米は少ないのだからと、食事の量までとやかく言われていた様です。要するに斜陽族になったわけです。

 橘外男氏一家も、引き揚げて来たわけですが、早速、週刊朝日に「長春より引き揚げて-妖美女ユウゼュカ・エカティシャン物語」を連載して健在であることを知らしめました。こうして、かつては橘家親族から一族の恥みたいに言われていた外男氏は、順調に生活を固め、久我山に邸を作り、猛犬を飼い、次々と発表する作品の中で、かって自分を蔑んだ、自分の親兄弟の悪口を散々に書きたて、私の母が「作家に恨まれると七才生まで祟るね」とよく言っていました。兄嫁にあたる西荻の叔母も作品の中で「外男さんはよく食事時に来る」と言った等と書かれ、口惜しがっていたものです。

 私と、橘外男氏との出逢いは、私か大学卒業後二年経た昭和三十二年頃です。その頃の私は弟が急逝して一人娘になり、親のプレッシャーが重く感じられ、明けても暮れても縁談さわぎで、私もそれをはねのけて独立するほどの意気も無いのに青春の焦燥と不安と孤独にさいなまれる、何とも息苦しい日々を過していました。

久我山のお宅を訪ねた私をとても喜んで迎えてくれた氏は、親戚や世間が言う気難しく人嫌いな印象とはほど遠い感じでした。以来足繁く氏のお宅にお邪魔する様になり、氏の小心で、淋しがりやでロマソチストの面をずい分と感じました。

昔、水谷準という人に「橘外男って本名ですか?」と問われ、「そうだよ、何故?」と聞くと「だって音読みするとキチガイオトコって読めるでしょ」と言われたのはかなり有名な話です。

 その頃氏の「私は前科者である」という作品がかなり反響を呼んでいました。これほど開き直ったとも言える作品を書き乍ら、氏は自分が学歴が無く、前科者である事を大層気にしていました。訪ねて行った私に「お前さんは学歴がある。イヤ、何もそんなに実力があるとかそういう事じゃないんだ、要するに四年間のカルチャーを持っているという事だ。オレは何しろ中学を中退して、親兄弟から、バカだ、阿呆だと言われ、監獄にまで行って、断岸絶壁を這い上って来た男だ。だからバアさんが(夫人のこと)オレがくどいとかあまりにも厳し過ぎて息がつまりそうだとかいうのも、そんなことが原因で、仕方ないんだよ」等と言うこともありました。

 そうこうするうちに、

「お前さんが俺の所にこうして来るからには何か目的があるんだろう。キレイな若い男とデートでもしていればいいのに、こんなに汚ないジジイの所に来るからには何か目的があるにちがいない。カネかな?カネじゃないな。縁談かな?何でも出来る事は聞いてやるから言ってみなさいよ」。

私はあるがまゝの現在の自分の置かれている状態が苦痛な事を、傍目には幸せな箱入り娘に見えても、何とも出口の無い生活である事を話しました。

氏は苦闘時代に身障者の子息を亡くした経験もあり、肉親を逆縁で亡くした家族の苦しさもよく知っていた上に、私の両親の気持も、私の気持も理解してくれました。「兎に角良い男をふんづかまえて、いい奥様になることが最上だな。ウン、俺が探してやろう」。丁度その頃氏の所へ出入りしていた文芸春秋の記者が下宿を探していたのを良い事に、私の世田谷宅の二階へ下宿する様に強引に話をすゝめました。

「満里ちゃんや、せいぜいおめかしして、あいつと朝晩顔を合わせれば、きっとお前さんならうまくいくぜ」と勝手に悦に入っていました。この記者は仮にA君としておきましょう。何にも知らないで、当家に下宿したわけです。慶応出の初々しい純粋な感じのする仕事熱心な人でした。そのうち感のいゝA君は様子を察したのか、口実をもうけて、引越しして行きました。その後風の便りに、同僚の女性記者と大恋愛で結婚したとの事で、私は失恋したみたいな妙な立場にさせられ、外男氏もいつまでも私がフラれたかの様に気にしているので閉口したものです。

 

さて、お次の段階で、氏は、

「こんなに只家に居て、花嬢修行をして、縁談待ちの状態で、オフクロさんと喧嘩ばかりしていたんじゃたまらないだろう。まずちゃんと就職して、嫁さんの口を探した方がいいよ」と、まず、世話して下さったのが、法務省の川崎の入国者収容所です。地の果てみたいな所へ二週間ほど通いましたが、とてもじゃないので、もう一寸なんとかした所へと氏に申しましたら、

「お前さんもぜいたくだな。おいバアさん、カナヅチ持って来てなぐってやれよ」

とか言い乍ら、次に世話してくれた所は、日本出版貿易という本の輸出入をしている会社です。ここで私は何とか落ち着いて社内報の編集や、本の輸出入業務等やり乍ら二年余りを過しました。その間も何かと氏のお宅に遊びに行きましたが、

「お前さんには、何処か欠けている所があるヨ。だから何かこう、うまくいかない所があるんだ。今のうちに直してやりたいと思うんだが、何処か判らないんだ。しかし、あんたは結局そのまゝだろうな。人間はそんなに変るもんじゃないよ。年と共に円熟はするがネ。俺も昔と一寸も変っちゃいない」

 

最後の言葉は独言のようでした。

今でも折にふれてよく想出す言葉です。

 あまり知られていませんし、氏の作品からは想像しかねるかもしれませんが、氏は熱心なクリスチャンでした。教会へ通ってはいませんでしたが、心の中に教会があるんだと言っていました。監獄に入っていた時、差入れその資料探しに目本に来たのだそうだ。その時、そのプリマドンナの墓の写真を見せでもらったんだが、華やかな彼女にふさわしくない、田舎の荒涼たる海岸の粗末な墓なんだな、それで俺も興味を持ってその辺の事情を聞いてみたんだ」とその歌姫の話をいろいろとして下さいました。「そのプリマドンナが、まだドサ回りの頃、矢張りまだ売れない若い彫刻家妻恋をしてネ」とそのなれそめから、結婚生活、そしてふとした行きちがいから、彼女が夫を告訴し、夫は二百の弁解も無く、裁判の結果、別れ、以後彼女はプリマドンナとして出世して、一世を風靡する様になったが、ある日、友人から、かっての夫の訃報を聞き、二人が別れる事になった原因が、全く彼女の誤解であったことを知り、深い悔恨と、今更ながら二人の結びつぎの強さを知らされ、夫の墓の前で泣き崩れる。彼女は、死ぬ時、自分の亡骸はかつての夫の墓の隣に葬ってほしいと遺言する。そんなわけで、その粗末な墓標の訳が解ったという次第。「要するに華やかなプリマドンナの生活より、貧しい一彫刻家の妻だった時の方が幸せだったという事なんだ」と氏は手ぶり身ぶりで話し終えて、「どうだ、面白い話かい」「とっても」と私。「心を打つかい」「ハイそうですね」「実はこれは、みんな嘘なんだ。俺の作り話だ。次の小説の構想さ。題名は<彫刻家の妻>としようと思うんだ。しかし俺も歳だね。こうした作り話がだんだん出なくなったよ」夜も大分更けていました。

昭和三十四年は暑い夏でした。一寸氏に御無沙汰していたら、氏が、近影入りの手紙を下さり、「貴女にはいろいろまだ約束したことがある。近いうちに果したい」

旨の文面であった。電話をするとお病気との事、アイスクリームを下げてお訪ねすると、臥っていた氏は起き出て来て、アイスクリームを食べ乍ら、「オイ俺はもう駄目だよ」と弱気な言葉を吐きました。それほど衰弱もしていられなかったので、本気にもせずおりましたが、

その後病状は急激に悪化して、暑い最中、六十代半ばの若さで、他界され、私は大変ショックを受けました。

 「俺が死んだら誰にも知らせるなよ。いろんなのがワーワーやって来てはかなわん。お前と子供達丈で葬ってくれりゃいいんだ」という遺言を夫人に残したそうで、夫人は忠実に守って、マスコミ関係には一切伏せて、身内だけの本当に質素な葬儀で、讃美歌三二〇番を歌い、野辺の送りをすませました。しばらく経ってからマスコミで氏の死をとり上げ、氏の日頃の奇行ぶりや、逸話が、かなり方々の雑誌に出ました。誰だったかの追悼文に「まだまだ頭の中にいろんな作品のアイディアが、ぎっしりつまった、惜しい作家だった」とあったのが、心に泌みました。<彫刻家の妻>もとうとう作品になりませんでした。

 

 氏の亡くなった年の暮、私は縁あって家庭を持ちましたが、最初から修羅場の家庭生活でうまくいかず、ずっと波乱の生活をくり返しました。特に離婚後、次男を亡くした昭和四十二年頃は、人生の最大の痛恨の時でもありました。その時も久我山の橘未亡人の住む邸を訪れ、苦労人の未亡人に、愚痴を聞いてもらいました。居間に掛っている橘外男氏の大きな写真を見上げると、心なしか氏が感無量のまなざしで

「お前さんの持っている宿命をとうとう俺は、変えてやる事が出来なかった

とでも言いたげな表情をしたかに感じました。未亡人もその後間もなく他界し、私は氏から受けた恩愛をいまだお返し出来ずにおります。

 

「お前さん、生きるには力を持って生きるよ。人の世話をしたい、世の役に立ちたいと思っても、力が無ければ、何も出来ん。力を持つにはどうすればよいか、それは<相手は何を望んでいるか>という事を常に考える事だ。もともとお前さんは、感はいゝ方じゃない。どち

らかといえば、推理ばかりしている愚直な型だ。だけど鍛えれば、感もよくなって来るもんだ」。

 

氏のこうした言葉は、今でも何かにぶち当るごとに、私の指針となっています。

 






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最終更新日  2021年02月20日 05時14分56秒
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