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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月21日
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カテゴリ:著名人紹介
愛媛の近代建築のルーツを探る
    山梨県の棟梁 小宮山弥太郎
    
著者 植松光宏氏著
『甲府市史研究』第6号 
    1988・12 甲府市市史編纂委員会
     一部加筆 山梨県歴史文学館
    一、五色浜・彩浜館のルーツ
 
愛媛県伊撞市五色浜に「異人建ての家」と愛称されている明治二十七年に建てられた洋風建築がある。この建物、彩浜館は、郡中町周辺有志が出資して会員の「清遊場」として落成したものだが、建物は木造二階建、寄せ棟造りの屋根を配した立派なものである。
記録によると、ロシア兵捕虜将校招待や伊藤博文の歓迎会場など町の各種行事に利用され市民にはなじみ深い施設である。
 昭和三十一年に大修築をしたが、損傷がひどく、明治時代の洋風の雰囲気をそのまま残した形で本年度六十三年に建て替えることとなった。工事に入る前の七月二十四日、彩浜館でお別れ記念行事、がもたれ、日本建築学介評議員の河合勤氏が「明治の彩浜館とさざえ堀」と題し記念講演を行ない、これまで全く不明だった愛媛の近代建築のルーツをほぼ明らかにし反響を呼んだ。
 
翌七月一一十四日、「愛媛新聞」は、「建築秘話改めて勉強」と見出しをつけ、講演内容の骨子を次のように掲載している。
「彩浜館と同じ年に完成した松出府の道後温泉の湯本館との共通点、神の湯本館と当時の山梨県の学校・県庁などの建物との類似点を指摘した。彩浜館、神の湯本館より先に建てられた県師範学校の棟梁が山梨県の人だったことから、彩浜館のルーツは、県師範学校を通し山梨県の建築にさかのぼるのではないかと」。
 新聞記事であるから詳細は分らないか、河合勤氏は、疑問を残しながらも、「彩浜館のルーツを山梨県の建築にさかのぼる」と仮説した。
   
二、三層楼・道後温泉本館
 夏目漱石が通ったとして有名な愛媛県松山市道後湯之町道後温泉本館も、前述の彩浜館同様、明治二十七年の洋風建築である。竣工後間もない明治二十八年秋、漱石と子規とが温泉に遊んだとき利用したこの建物三階の北西の一室は、今でも「坊っちやんの間」として観光客や市民に親しまれている部屋である。
 松山市文化財専門委員でもある建築士河合勤氏は、松山市の委託を受け、昭和五十六年七月、建築以来初めての大改修に先だち、天井裏から床下までもぐり込み図面調製のための下調べを行なったところ以外な事実を発見した。この建物の結構に当時としては珍しい「トラス」と呼ばれる西洋式の桁組が用いられていたことである。
 「トラス」というのは屋根の梁を支えるのに垂直な柱のほか力学的に強い斜めの桁を渡す組み方で、もともと西洋の工法、明治に入ってから中央の官公庁など大規模建築には用いられるようになったが、地方ではまだほとんど見られなかった工法である。
 
古来、温泉の高温多湿は木造建築の大敵で道後温泉もその例外ではなく幾度か建て替えられた記録、がある。
 明治二十三年、湯の町町長に就任した伊佐庭如矢は、日夜、温泉の近代化に心血を注ぎ、養生場、神の湯、霊の湯と改築を進めていった。この神の湯改築の際に総括責任者に選ばれたのが、棟梁坂本又八郎であった。彼は松山藩城郭建築棟梁の家柄に育ち当時五十歳を超えた熟年の境にあった。起工は明治二十五年、棟梁又八郎は維新後、誰から「トラス」という手ほどきを受けたのだろうか。
   三 城下町松山の社会情勢
 
明治二十年十一月九日付、「山梨日日新聞」は、「愛媛通信」と題し左記記事を掲載している。
本県は讃豫の二国を以って或る。首都は松山とす。県庁其他の官衛ある所にして舊拾五
力石の城下にて、豫州第一の平担なり。市街で中に一小山ありヽ其形煙草葉に類するを
以てヽ土俗呼んで「たばこやま」と云ふ。
山頂は舊城の牙営にして本牙天守閣等は但依然として存在せり聞く。加藤義明の築城な
りとか、丸亀分営は其外廓内にあり、銃砲の声城山に響きて耳喧しき。
  藤村知事は評判官敷、前知事の際、讃国より分県のことを望みて止まざりしが近来は至
て平穏に帰したり之も新知事の施政の宜しきに帰する者多し。
  松山市街は城の表面に於て多しとす。追手前を除くの外は街路凡て狭陰なり、家屋は凡
て古陋(ころう)なり、湊町は第一等なる處にして呉服薬種等の各店及び洋服、製靴、
小間物、舶来商等沢山あり。
  物価は海魚と琉球芋とを除く外は一般に高価なりと云ふ方ならんか、併し松山は県下第
一等に人気薄情にして諸物価の高価なる所なる由、其上商買に悪弊ありて人に依りて其
価を四にする由、即ち在相場町、相場官員、相場他国人相場なりとか、
去れども東京及び甲府等に比すれば早く人を信ずるの風あり。勿論山梨県に比すれば
物価も安き方なり、甲府位物価の高き所は全国稀に見る所なるべし。」
  (後略)
「愛媛通信」続報はさらに次の様に掲載している。
 
道後は松山を匝る十七・八町の所にあり、地勢は後に山を負ひ、前に平田を隔て松山城
下に向ふ。故国湯村の地形に労異たり、町を湯田と云ひ戸数弐百余戸、宿業にして料理
屋業を兼る者廿十余戸、この奥に松替町と云える所ありて、此處にもお茶屋なる者二十
七戸あり、此間に妓女ありいづれも二枚鑑札を所持せり。
 
温泉は熱度九十度以下、人体に適す。其上至って清潔なり。松山より官史となく、商人
となく士女陸続として入浴に往く者絶ゆるなし、故に意外に繁昌するも唯湯屋業の者ブ
ッキリ(ラ)坊にて愛想なしには驚きたり。
  人力車はよくなくて価は高いダス(方言)、裁判、警察、病院、部面等皆新なれども、 
和風にて外観はよろしからず、郡面には吏員五十人近くあり、郡長は奏六上、至って高 
尚なる人物なり。
  学校は高等小学校の外に、地相接して宇和島尋常小学校あり、生徒は六百余名、善藩の 
学校(明治館)の跡にて極めて不整頓の由なり。」
 
この記事は西山梨郡古府尋常小学校(現・甲府市立新紺屋小学校)教頭であった、佐久間敏之先生が、愛媛へ転勤となり、当地の事情を見聞し、「山梨日日新聞」へ投稿したものだが、
実に適確に愛媛県下の諸事情を伝えてくれ興味深い文章である。松山市街は、明治維新後二十年も経過していたが、道路、建築が旧態依然として、近代化が遅々として進んでいない様子や、道後も同様、学校建築面においても改善がなされていない状況を故郷甲府と対比しながら記述している。道後温泉の賑いは今日程でもないが、それでも繁昌の様子がよく分る。
 
文中、藤村紫朗のことにも触れ、愛媛県知事としての評判が良いと伝えている。
   四 愛媛県知事・藤村紫朗
 
県令藤村紫朗の経歴や山梨県に在任した十四年余ケ月の業績については、「山梨県史」他、山梨の近代史に係る歴史書に詳しい。
あえてここでは、県令藤村紫朗についての記述をさけるが、氏は着任早々「男子たるものは、一人洩れなく斬髪して、教育費に充てよ」と勧奨したり、無税の官有地を敷地として下渡したり、「劇場等取壊し小学校用材にするか、又売却して右入費に充てよ」と勧奨し、社寺の樹木をさえ建築用として伐採することを許可するなど、あらゆる方法を尽して、学校建築の督励をしたことは周知である。
かくして山梨県では辺地に至るまで、藤村様式なる二階建て、バルコニー、車寄せ付、塔屋をつけた擬洋風建築が競うようにして建てられた。
この時期、地方にあって山梨県、特に甲府市ほど擬洋風建築の発達した街は特異である。量産されたばかりではない。技術的にも建築意匠的にも秀れ、当代随一の大工集団を山梨県は配していたのである。
 県令藤村紫朗は、十四年にわたり住み慣れた甲府の街を後にして、新任地、愛媛県知事の命を受け、明治二十年三月、あわただしく出達した。氏にとっては山梨は第二の故郷といってもよく数ケ月後には、老母の安否を見舞って来甲している。
明治二十年十月十日付 「山梨日日新聞」は次の様に報じている。
「藤村愛媛県知事、同知事には昨日午後二時過ぎ属官及び従者を随がへ前腕せられたり。君が今回の来腕は当時常盤町の寓所に在わす御老母の安否を候せられ」んが為めのみに南海帰任の途を殊更らに陸路に取られて立寄られたるにて他に用向のあられてには非ずと云へり。されば昨日、着腕の励りも撞て旅館と定めある松亭に至らるる前、直ちに御老母の許を訪はれ、真情実話話し暫らく時を移されて後、始めて旅館に投せられたり、又、同知事の来腕を迎ふるために勝沼、日川等まで出懸けたる人の数は錨かには知られざりしも馬車七輛人力車数輛なりと云ふ。」
 
もちろん表向きは母堂の安否を気づかっての見舞が目的であったに違いないが、腹心とでも呼ぼうか、彼のブレーンに会うことが、目的の一つではなかっただろうか。
愛媛県知事として采配を振うには秀れた配下、何よりも技術者を招聘する必要に迫られていたからである。
 愛媛県知事としての在任期間は、わずか一年たらず、あまりにも短い。その為か彼の業績については全く白紙の状態にあった。昭和六十三年五月三十日付河合勤氏の書簡によれば、「愛媛県史」にも藤村知事に関しての記録は少なく「多額の寄附金の要求」とか「収賄の噂」とかの記述があり、県政史上タブー視される傾向にある。
これは、愛媛県民の後進性と偏狭性がなせる業と考え、僅か一年で愛媛県知事を去られた原因もここにあるのではないかと考える」とあるだけでその業績はつまびらかではない。
 当時の愛媛県下の状況は、佐久間先生の記述の通り、遅々として近代化が進まぬ封建的な城下町といった印象を受ける。そんな環境下愛媛で、彼を待ち受けていた政治問題の一つに、愛媛師範学校の新築という大事業があった。彼は持ち前の果断な措置を次々に打ち出し積極的にこの事業に取り組んだ。
 先ず同年九月から十二月にかけ幾人かの、かつて氏の輩下であった人物を呼び寄せている。彼の建築に対しての布石が着々と進められたと見ることが出来る。前述、明治二十年十月の帰郷も、最後の結めの話しあいが待たれたのであろう。あながち筆者の憶測ばかりではない。
 紆余曲折を経て、明治白玉二年九月には工事は終了するのであるが、最初の曲折は、学校敷地問題にあった。当初の計画から二転、三転し、その間には誘致運動もあり府中町に建築が決まった明治二十三年一月には、早くも校舎建築について棟別構造規模、床面積、予算金額が上申される程のスピードぶりである。
この直後建設工事は始まるのであるが、敷地収用と建築着工とが重なり、これに起因するトラブルは避けることが出来なかったようである。
技術者を山梨から呼んだことも県民感情を剌激した。
 以下資料(一)は、明治二十年十二月十五日付「官報」であるが、当初情熱的な取組みを見せていた知事は、議会との摩擦も深まり在任一年、二月二十九日、突然知事を辞任し郷里熊本へ去ってしまった。
やがて熊本農工銀行頭取に就任、同二十三年、国会開設とともに貴族院議員に勅選され、同二十九年には男爵を授けられ、同四十二年正月五日、六十四才で没しかことは周知であるが、愛媛の近代建築史上、その第一頁を飾るにふさわしい人物であったことは今回の調査で明らかになった。
 
資料(一)
 本件県知事と県会と法律の見解を異にするの要點は、県知事は地方税より支辨すべき経費の像算及ひ其徴収方法を議定すべき事案あるにあらずして単に諮問を要するの故を以て臨時会を開く事を得るや否やに在り、依て之を審案するに新会は府新会なる者は地方税を以て支辨すへき経費の予算及ひ其徴収方法を予定するの外、如何なる場合に於ても開会すべきものに非す、故に新知事か府県会規則第八條に依り、議会の意見を問ふか爲新会開会中に於てせす特に臨時会を開きたるは法律の見解を誤りたるものなり、と謂ふと雖も抑府新会規則第四條に特に会議を要する事件及び第三十二條に、会議に付すべき事件とあるは地方税の牧支に関する事件の外、府県知事の諮問する事件を含むものとす。
又同規則第八條府県知事が其府新内に施行すべき事件に付、会議の意見を問ふを得る場合は単に地方税の収支に関する会議中に限りたるものに非ず、故に今回新知事か獣医學校維持法外七件を県内に施行せんとするにより、府県会規則第八條に依り会議の意見を問ふか爲第三十二條に依り特に臨時会を開きたるは法律に背反したる處置にあらざるものとす。
   判 決
 右の理由に依り県知事が獣幣學校維持法外七件を県内に施行するにより議会の意見を問ふか認め臨時会を開きたるは法律の見解を誤りたるものにあらず。
   五 山梨より人材登用
 
明治二十年十一月十目付、「海南新聞」を見ると、同月十一月七日付で、
山梨県七等技手、森丈助か、愛媛県七等技手に、山梨県南巨摩郡書記、田島利貞が愛媛県看守長に任命されている。
 藤村紫朗が愛媛県知事に任命された時、歳四十二才、まさに働き盛りの年令にあった。近代化の遅れた愛媛県を、彼は行政手腕を十分に発揮すべく堅い信念のものに、愛媛の将来展望を考えたにちがいない。その為には、有能な人材を求めなければならなかったが、
異郷愛媛県下では、あまりにも早速すぎ時間がなかった。しかも着任早々、愛媛師範学校建設という一大事業が待っていた。彼はその事業遂行のためにも一時も早く人を求める必要に迫られていた。
 この招きに応じたのが前記、森丈助であり田高利貞であった。それに遠藤義宗、大工、小宮山弥太郎・文太郎親子であった。ここで彼らの横顔を覗いて見よう。
 
 * 森丈助 *
森丈助については、甲府市教育委員会発行「甲府の歴史と文化」で次の様に記述している。
 藤村紫朗は、山梨県へ赴任する時、先妻の“柳″と協議離婚し、甲府佐渡町の官舎では女中を雇って暮らしていたが、やがて常盤町に藤村式の知事公舎を建てて住むようになった時、東京士族の娘光子を後妻に迎えた。この仲人をしたのが同志の一人、森丈助である。
森は和歌山県高野山出身、高野山で義兵を挙げた時以来、藤村とは兄弟のような交りを結んで、藤村が山梨へ赴任後も、藤村県政のバックボーンの一人となった人物である。
森は鉄筆を使って、その頃では珍しかった山梨県地図を作製するなど、近代的測量技術を持ち外国知識にも明るかった。明治五年の学制発布によって、各村々へ学校建設を促進した時、藤村権令が擬洋風建築を奨励したのは、おそらくは森丈助の進言を取上げたのではないかと推定される。
 ちなみに、山梨県立図書館には彼が作った「甲府絵図」・「甲斐国全図」の二枚地図が保管されている。森は技術者として秀れていたばかりでなく藤村県政のまさにバックボーンとして十四年の長きにわたり県令を支えて来た腹心であり、藤村の招きによく答えた。
 
 * 田島利貞 *
田島利貞の人物像は分らないが、山梨県の書記官で、出身地は熊本である。藤村紫朗とは同郷であり、これまた腹心の一人であった。
 
 * 遠藤宗義 *
それにもう一人注目すべき人物がいる。遠藤宗義である。彼は山梨県会議事堂建築に際しては県委員を務め実績をあげ、愛媛では、議篠課次長兼学務次長の要職につき、明治二十年八月には愛媛師範学校長に任命されている。藤村紫朗は森丈助と同様に、教育的行政的手腕を評価し招聘したものであろう。
  六 愛媛の阿房宮と小宮山弥太郎
 
愛媛県令藤村紫朗は、懸案であった愛媛師範学校の建設に当り、その建築の任に、甲府在中の小宮山弥太郎に白失を当てた。
氏は前任地山梨で、小宮山の働きを十分に知っていた。琢美・梁の二小学校大工棟梁の建築に始まり、山梨師範学校など数々の建設を手がけ、実直な人柄を信じた彼は、到底地元愛媛の大工には仕事をまかせる気持がなかったと思われる。
しかも前述の通り、
松山市内には「家屋は凡て古酒なり」と表現されているように、洋風建築の一棟も存在しない現状を見聞した彼は、甲府の街並みの斬新さを目に浮べたにちがいない。彼を招聘するにつけては書簡でやりとりがあった筈であるが、これを裏づける資料はない。前述の通り、氏が帰甲した時に煮詰まった話しがなされたことと思われる。
 
昭和六十一年三月三十一日発行、「愛媛県史・近代上編」を見ても河合氏の書簡を裏づけるだけで、愛媛師範学校については簡単に次のように記載しているだけである。
 この校舎は後に〝愛媛の阿房宮″と称せられるほどの豪華な近代美を誇る建築であったけれども、藤村知事が古町商人に多額の寄附合を要求したとか収賄をもって山梨県の土木業者に建築設計を依頼したとかの噂が飛び交い、白根知事の公用土地買上規制強行による敷地紛争とともに、世間に注目された移転建築であった。
 藤村紫朗は、明治二一年二月二九日、突然愛媛県知事を退職して郷里熊本に帰り、やがて熊本農工銀行の頭取に就任した。
「海南新聞」明治二一年三月三日付は、
殖産興業に熱心せらるゝは夫の養蚕の奨励を以て明なる所にして、余輩も亦大に此挙を
賛成する所なりと雖も其此等に熱心せらるゝの余り或は少しく干渉の弊に陥ることは  
無きやとは昨今世人の専ぱら唱導する所なりし。
と、評した。
 しかし文中「山梨の土木業者に建築設計を依頼した」という一行は、興味をそそる文面である。
 山梨の土木業者とは、大工小宮山弥太郎をさして云う。藤村沢建築の建築技術面でのリ-ダーであり、「山梨の近代建築の父」とも呼ばれる優れた技を持った傑出した棟梁である。
このことについても「甲府市史」美術・工芸編、近・現代建築の節に詳しいのであえて記述を避けるが、明治二十年から二十五年に至る五年間にわたり、愛媛の近代建築を手がけ技術的な指導に当っている。
 愛媛県立図書館内に「愛媛師範学校関係書」と題された関係書類を発見したことにより、調査は急速に進展した。その中に明治二十年十二月二十六日付、遠藤宗義属提出の知事宛会議文書が保存されている。
これは伺文の形で、今回の師範学校新築工事は、その敷地が目下詮議中であるが、速かに起工の準備をする必要があり、かつてない大事業であるからその道に精しい大工に請負わせるべきであること、幸に山梨県甲府市の大工小宮山弥太郎、が建築事業に大へん精通しているので、この人物と仮請負の契約を結びたいとする進言の体裁を採っている。この文書には「仮ニ聴許ス追テ常置委員へ諮問ノ手続ヲ為スペシ」
の付漆が貼付せられて知事の割印がある。このように、県知事藤村紫朗と遠藤宗義の事前のお膳立てがあって小宮山弥太郎が招聘された事実が明らかとなった。
以下資料(二)を参照されたい。
 
資料(二)
 今般尋常師範学校新築之義御使定相成
日付テハ敷地ハ目下詮議中ニ有之御得共此際速カニ
起工ノ準備ヲ致スハ必要付工事請負人等相定メ度然ルニ
此面ノエ事ハ随分大事業ニテ県庁にてハ十分□□ヲ
為ササレバ不相成義ニ付其道々精シキ大エヲシテ
之ヲ受負ハシメラレ能々注意セシメテ
他の私利ヲ図ルカ如キ者ニ受負ハシメラルルモノトハ
自ラ異ナル故扱ヲ為シ経費ノ支払ホニ至ル迄
可成厚キ保護ヲ加ヘテ成功致度、
幸、山梨県甲府紅梅町大工小宮山弥太郎義ハ
建築事業ニ頗精シキモノニ有之候間
特ニ之カ受負ヲ命セラレ御埋致度折本人へ談示ノ末
当庁ニ於テ設計見積り金額三万二千六百三拾七円七拾六銭七厘
ヲ以テ計画通り出来可致旨
別紙之通仮受負鐙金共ニ出候ニ付、
追テ本証金卜引替シムベキ見込ヲ以テ受負方四銭許可相成ヲ
此通相伺候也
 
建築方針が固まり、県庁直結工事と一部を請負にする工事との二様式を併用する方向が出された。
結果的には本館及び教室二棟が、小宮山弥太郎の設計を基にして直轄工事となり、残余全部は小宮山弥太郎が請負うことになった。
資料(三)・(四)を参照されたい。
資料(三)
 
尋常師範学校建築法執行儀諮問ノ件
  本件ハ県会ニ於テ予算金額ノ内
八千余円ヲ掛ケテ建築之儀既ニ議決候処
古町地方有志ヨリ寄附金ヲ募り、
同地方建設之儀中立ニヨリ 
敷地変換及建築法具左之通常置委員御諮問相掛可然哉
諮問
 一、尋常師範学校建築工事ハ用材其他用品及職工具広ク其営業者ニ、
就キ品質及価格吟味之上之ヲ購入シ又ハ雇人、
或ハ其一部ノ請負ヲ為サシムル等専ラ経済ト便宜ヲ図り
県庁真々之ヲ執行セントス其目的金左之如シ
  
金、万三千弐百八拾九円七拾九銭四厘
            校舎建築費
    金、千七百九拾五円七拾銭五厘
            門及圍廻費
    金、千四百壱円四拾三銭ハ厘
            溝渠費
    金、弐千四拾円ハ拾三銭
            地堅メ及地均シ黄
金、百拾円
            井戸及操竈費
建設地ハ之ヲ古町地方撰定セントス
但其坪数、九千五百三坪九合九勺 ニシテ其経費目的左ノ如シ
金、壱万弐千三百七拾六円九十四銭六厘
            土地家屋買上代
 
資料(四)
 右御達シノ趣奉謹承度依テ連署ヲ以テ
受負証書及び身元保証□奉差上度以上
     温泉郡永木町十二番地
       受負人 小宮山弥太郎 ㊞
     同郡湊町三丁目六拾九番戸
       保証人 吉田藤十郎 ㊞
  明治二十一年第四月廿三日
   愛媛県知事殿
 
さらに、調査を進めて行くと愛媛県直轄工事の内、本館天井張り単価見積りの入札に、小宮山弥太郎の長男である文太郎が応じていることが判明した。
彼は、文久元年(1861)生れ、名前は年号にちなんだと云う。
明治二十一年、この時二十七才、父の片腕となり愛媛師範学校の建材関係を担当した。帰郷後は鉄道関係、特に製図に秀れ、中央線建設に携さわったという。(小宮山文太郎長男喜久二嫁「小宮山ふじ」聞きとり)
 父親弥太郎の片腕として師範学校建築に取り込んだ文太郎ではあるが、明治二十一年二月には藤村は辞任している。異郷の地での親子の心境はいかばかりであっただろうか。擬洋風建築家の第一人者としての自負が仕事の原動力になったものであろう。
   七 彩浜館のルーツは山梨にあった
 
ここでもう一度、トラスについて簡単にふれておこう。全国的に擬洋風建築は、外観などは洋風であったが、小屋組は昔風の和小屋であった。和小屋は、洋小屋に比べ地震に弱く、小屋組を強くする必要に迫られた。三角形不変の理=トラスというのは木材や鉄骨などの棒状の部材で三角形を構成し、構造体を丈夫に強くする力学的な方法であるが、この工法が登場するのはほぼ明治二十年ごろからである。
 明治二十一年七月二十八日付の土木課主任井上属提出、白根知事宛「鉄物受負の件」と題する伺文書には、図入りでトラス用の短冊、箱金物が記載されている。これによって、愛媛県直轄工事の建物には十教組のトラスが使用されたことが判明した。
この絵図こそ、愛媛の近代建築は師範学校に始まったことを証左するものである。惜しむらくは、師範学校は昭和二十年七月、愛媛空襲により焼失、残念ながら往時の姿を写真でしか見ることが出来ないが、小宮山弥太郎の設計になる、また弥太郎が調達したトラス用短冊が、ガッチリと組込まれ、愛媛の阿房宮と愛称されるにふさわしい堅牢でしかも瀟洒な、白亜の教育の殿堂がここに竣工するのであった。
外部意匠を見ると山梨師範学校と類似している。何よりも宏壮感は山梨・愛媛両師範学校に共通している。
 
愛媛県伊豫市の彩浜館、松山市の道後温泉本館、この一一館は共に明治二十七年の竣工になる愛媛県下にあっては最も古い洋風建築であることは先きに述べた通りであるが、両館は外観で見る限りでは和風である。ガラス窓、塔屋付きであっても愛媛師範学校の瀟洒な佇まいには遠く及ばない。
 大工坂本又八郎加持てる技の総てを発揮して造っただけに、随所に城郭建築棟梁の流れをくむ秀れた彫刻がほどこされ苦心がしのばれる。この二館を洋風建築に位置づけるには、それなりの理由がある。二館とも外観は和風であるが小屋組にれっきとしたトラスを採用している。
 この技術を大工棟梁坂本又八郎は誰から指導を受けたものだろうか。
 筆者もその師を小宮山弥太郎ではなかろうかと仮説している。小宮山弥太郎は明治二十年から二十五年まで、愛媛に滞在し、その第一件が愛媛師範学校建築工事であり、五年間にわたって長期滞在した割には第二件、第三作が存在しない。調査不足の為ばかりではない。この間、後進の指導に当ったと思われるのである。又八郎との接触を裏づけが出来ない今、いたずらに両者の交流を決定づけることはさけたいが、愛媛師範学校建築は当時の一大センセショーナルであり、新技術習得に師とあおぐ大工は小宮山弥太郎以外には考えられないからである。とすれば、彩浜館、道後温泉本館のルーツを山梨県の藤村式建築であるとする河合氏の仮説と一致する。
 あの有名な「坊っちゃんの間」で知られる道後温泉本館や彩浜館が擬洋風建築の技術的集積だと思うとき、あらためて藤村式建築がわが国の近代建築史に果した役割の大きさを痛感するのである。
                    (尚史編さん専門委員)

愛媛の近代建築のルーツを探る

    山梨県の棟梁 小宮山弥太郎

    

 

著者 植松光宏氏著

『甲府市史研究』第6号 

    1988・12 甲府市市史編纂委員会

     一部加筆 山梨県歴史文学館

 

    一、五色浜・彩浜館のルーツ

 

愛媛県伊撞市五色浜に「異人建ての家」と愛称されている明治二十七年に建てられた洋風建築がある。この建物、彩浜館は、郡中町周辺有志が出資して会員の「清遊場」として落成したものだが、建物は木造二階建、寄せ棟造りの屋根を配した立派なものである。

記録によると、ロシア兵捕虜将校招待や伊藤博文の歓迎会場など町の各種行事に利用され市民にはなじみ深い施設である。

 昭和三十一年に大修築をしたが、損傷がひどく、明治時代の洋風の雰囲気をそのまま残した形で本年度六十三年に建て替えることとなった。工事に入る前の七月二十四日、彩浜館でお別れ記念行事、がもたれ、日本建築学介評議員の河合勤氏が「明治の彩浜館とさざえ堀」と題し記念講演を行ない、これまで全く不明だった愛媛の近代建築のルーツをほぼ明らかにし反響を呼んだ。

 

翌七月一一十四日、「愛媛新聞」は、「建築秘話改めて勉強」と見出しをつけ、講演内容の骨子を次のように掲載している。

 

「彩浜館と同じ年に完成した松出府の道後温泉の湯本館との共通点、神の湯本館と当時の山梨県の学校・県庁などの建物との類似点を指摘した。彩浜館、神の湯本館より先に建てられた県師範学校の棟梁が山梨県の人だったことから、彩浜館のルーツは、県師範学校を通し山梨県の建築にさかのぼるのではないかと」。

 

 新聞記事であるから詳細は分らないか、河合勤氏は、疑問を残しながらも、「彩浜館のルーツを山梨県の建築にさかのぼる」と仮説した。

   

二、三層楼・道後温泉本館

 

 夏目漱石が通ったとして有名な愛媛県松山市道後湯之町道後温泉本館も、前述の彩浜館同様、明治二十七年の洋風建築である。竣工後間もない明治二十八年秋、漱石と子規とが温泉に遊んだとき利用したこの建物三階の北西の一室は、今でも「坊っちやんの間」として観光客や市民に親しまれている部屋である。

 松山市文化財専門委員でもある建築士河合勤氏は、松山市の委託を受け、昭和五十六年七月、建築以来初めての大改修に先だち、天井裏から床下までもぐり込み図面調製のための下調べを行なったところ以外な事実を発見した。この建物の結構に当時としては珍しい「トラス」と呼ばれる西洋式の桁組が用いられていたことである。

 「トラス」というのは屋根の梁を支えるのに垂直な柱のほか力学的に強い斜めの桁を渡す組み方で、もともと西洋の工法、明治に入ってから中央の官公庁など大規模建築には用いられるようになったが、地方ではまだほとんど見られなかった工法である。

 

古来、温泉の高温多湿は木造建築の大敵で道後温泉もその例外ではなく幾度か建て替えられた記録、がある。

 明治二十三年、湯の町町長に就任した伊佐庭如矢は、日夜、温泉の近代化に心血を注ぎ、養生場、神の湯、霊の湯と改築を進めていった。この神の湯改築の際に総括責任者に選ばれたのが、棟梁坂本又八郎であった。彼は松山藩城郭建築棟梁の家柄に育ち当時五十歳を超えた熟年の境にあった。起工は明治二十五年、棟梁又八郎は維新後、誰から「トラス」という手ほどきを受けたのだろうか。

 

   三 城下町松山の社会情勢

 

明治二十年十一月九日付、「山梨日日新聞」は、「愛媛通信」と題し左記記事を掲載している。

 

本県は讃豫の二国を以って或る。首都は松山とす。県庁其他の官衛ある所にして舊拾五

力石の城下にて、豫州第一の平担なり。市街で中に一小山ありヽ其形煙草葉に類するを

以てヽ土俗呼んで「たばこやま」と云ふ。

山頂は城の牙営にして本牙天守閣等は但依然として存在せり聞く。加藤義明の築城な

りとか、丸亀分営は其外廓内にあり、銃砲の声城山に響きて耳喧しき。

  藤村知事は評判官敷、前知事の際、讃国より分県のことを望みて止まざりしが近来は至

て平穏に帰したり之も新知事の施政の宜しきに帰する者多し。

  松山市街は城の表面に於て多しとす。追手前を除くの外は街路凡て狭陰なり、家屋は凡

て古陋(ころう)なり、湊町は第一等なる處にして呉服薬種等の各店及び洋服、製靴、

小間物、舶来商等沢山あり。

  物価は海魚と琉球芋とを除く外は一般に高価なりと云ふ方ならんか、併し松山は県下第

一等に人気薄情にして諸物価の高価なる所なる由、其上商買に悪弊ありて人に依りて其

価を四にする由、即ち在相場町、相場官員、相場他国人相場なりとか、

 

去れども東京及び甲府等に比すれば早く人を信ずるの風あり。勿論山梨県に比すれば

物価も安き方なり、甲府位物価の高き所は全国稀に見る所なるべし。」

  (後略)

 

「愛媛通信」続報はさらに次の様に掲載している。

 

道後は松山を匝る十七・八町の所にあり、地勢は後に山を負ひ、前に平田を隔て松山城

下に向ふ。故国湯村の地形に労異たり、町を湯田と云ひ戸数弐百余戸、宿業にして料理

屋業を兼る者廿十余戸、この奥に松替町と云える所ありて、此處にもお茶屋なる者二十

七戸あり、此間に妓女ありいづれも二枚鑑札を所持せり。

 

温泉は熱度九十度以下、人体に適す。其上至って清潔なり。松山より官史となく、商人

となく士女陸続として入浴に往く者絶ゆるなし、故に意外に繁昌するも唯湯屋業の者ブ

ッキリ(ラ)坊にて愛想なしには驚きたり。

  人力車はよくなくて価は高いダス(方言)、裁判、警察、病院、部面等皆新なれども、 

和風にて外観はよろしからず、郡面には吏員五十人近くあり、郡長は奏六上、至って高 

尚なる人物なり。

  学校は高等小学校の外に、地相接して宇和島尋常小学校あり、生徒は六百余名、善藩の 

学校(明治館)の跡にて極めて不整頓の由なり。」

 

この記事は西山梨郡古府尋常小学校(現・甲府市立新紺屋小学校)教頭であった、佐久間敏之先生が、愛媛へ転勤となり、当地の事情を見聞し、「山梨日日新聞」へ投稿したものだが、

実に適確に愛媛県下の諸事情を伝えてくれ興味深い文章である。松山市街は、明治維新後二十年も経過していたが、道路、建築が旧態依然として、近代化が遅々として進んでいない様子や、道後も同様、学校建築面においても改善がなされていない状況を故郷甲府と対比しながら記述している。道後温泉の賑いは今日程でもないが、それでも繁昌の様子がよく分る。

 

文中、藤村紫朗のことにも触れ、愛媛県知事としての評判が良いと伝えている。

 

   四 愛媛県知事・藤村紫朗

 

県令藤村紫朗の経歴や山梨県に在任した十四年余ケ月の業績については、「山梨県史」他、山梨の近代史に係る歴史書に詳しい。

あえてここでは、県令藤村紫朗についての記述をさけるが、氏は着任早々「男子たるものは、一人洩れなく斬髪して、教育費に充てよ」と勧奨したり、無税の官有地を敷地として下渡したり、「劇場等取壊し小学校用材にするか、又売却して右入費に充てよ」と勧奨し、社寺の樹木をさえ建築用として伐採することを許可するなど、あらゆる方法を尽して、学校建築の督励をしたことは周知である。

 

かくして山梨県では辺地に至るまで、藤村様式なる二階建て、バルコニー、車寄せ付、塔屋をつけた擬洋風建築が競うようにして建てられた。

この時期、地方にあって山梨県、特に甲府市ほど擬洋風建築の発達した街は特異である。量産されたばかりではない。技術的にも建築意匠的にも秀れ、当代随一の大工集団を山梨県は配していたのである。

 

 県令藤村紫朗は、十四年にわたり住み慣れた甲府の街を後にして、新任地、愛媛県知事の命を受け、明治二十年三月、あわただしく出達した。氏にとっては山梨は第二の故郷といってもよく数ケ月後には、老母の安否を見舞って来甲している。

明治二十年十月十日付 「山梨日日新聞」は次の様に報じている。

 

「藤村愛媛県知事、同知事には昨日午後二時過ぎ属官及び従者を随がへ前腕せられたり。君が今回の来腕は当時常盤町の寓所に在わす御老母の安否を候せられ」んが為めのみに南海帰任の途を殊更らに陸路に取られて立寄られたるにて他に用向のあられてには非ずと云へり。されば昨日、着腕の励りも撞て旅館と定めある松亭に至らるる前、直ちに御老母の許を訪はれ、真情実話話し暫らく時を移されて後、始めて旅館に投せられたり、又、同知事の来腕を迎ふるために勝沼、日川等まで出懸けたる人の数は錨かには知られざりしも馬車七輛人力車数輛なりと云ふ。」

 

もちろん表向きは母堂の安否を気づかっての見舞が目的であったに違いないが、腹心とでも呼ぼうか、彼のブレーンに会うことが、目的の一つではなかっただろうか。

愛媛県知事として采配を振うには秀れた配下、何よりも技術者を招聘する必要に迫られていたからである。

 愛媛県知事としての在任期間は、わずか一年たらず、あまりにも短い。その為か彼の業績については全く白紙の状態にあった。昭和六十三年五月三十日付河合勤氏の書簡によれば、「愛媛県史」にも藤村知事に関しての記録は少なく「多額の寄附金の要求」とか「収賄の噂」とかの記述があり、県政史上タブー視される傾向にある。

これは、愛媛県民の後進性と偏狭性がなせる業と考え、僅か一年で愛媛県知事を去られた原因もここにあるのではないかと考える」とあるだけでその業績はつまびらかではない。

 当時の愛媛県下の状況は、佐久間先生の記述の通り、遅々として近代化が進まぬ封建的な城下町といった印象を受ける。そんな環境下愛媛で、彼を待ち受けていた政治問題の一つに、愛媛師範学校の新築という大事業があった。彼は持ち前の果断な措置を次々に打ち出し積極的にこの事業に取り組んだ。

 先ず同年九月から十二月にかけ幾人かの、かつて氏の輩下であった人物を呼び寄せている。彼の建築に対しての布石が着々と進められたと見ることが出来る。前述、明治二十年十月の帰郷も、最後の結めの話しあいが待たれたのであろう。あながち筆者の憶測ばかりではない。

 紆余曲折を経て、明治白玉二年九月には工事は終了するのであるが、最初の曲折は、学校敷地問題にあった。当初の計画から二転、三転し、その間には誘致運動もあり府中町に建築が決まった明治二十三年一月には、早くも校舎建築について棟別構造規模、床面積、予算金額が上申される程のスピードぶりである。

この直後建設工事は始まるのであるが、敷地収用と建築着工とが重なり、これに起因するトラブルは避けることが出来なかったようである。

技術者を山梨から呼んだことも県民感情を剌激した。

 

 以下資料(一)は、明治二十年十二月十五日付「官報」であるが、当初情熱的な取組みを見せていた知事は、議会との摩擦も深まり在任一年、二月二十九日、突然知事を辞任し郷里熊本へ去ってしまった。

やがて熊本農工銀行頭取に就任、同二十三年、国会開設とともに貴族院議員に勅選され、同二十九年には男爵を授けられ、同四十二年正月五日、六十四才で没しかことは周知であるが、愛媛の近代建築史上、その第一頁を飾るにふさわしい人物であったことは今回の調査で明らかになった。

 

資料(一)

 本件県知事と県会と法律の見解を異にするの要點は、県知事は地方税より支辨すべき経費の像算及ひ其徴収方法を議定すべき事案あるにあらずして単に諮問を要するの故を以て臨時会を開く事を得るや否やに在り、依て之を審案するに新会は府新会なる者は地方税を以て支辨すへき経費の予算及ひ其徴収方法を予定するの外、如何なる場合に於ても開会すべきものに非す、故に新知事か府県会規則第八條に依り、議会の意見を問ふか爲新会開会中に於てせす特に臨時会を開きたるは法律の見解を誤りたるものなり、と謂ふと雖も抑府新会規則第四條に特に会議を要する事件及び第三十二條に、会議に付すべき事件とあるは地方税の牧支に関する事件の外、府県知事の諮問する事件を含むものとす。

又同規則第八條府県知事が其府新内に施行すべき事件に付、会議の意見を問ふを得る場合は単に地方税の収支に関する会議中に限りたるものに非ず、故に今回新知事か獣医學校維持法外七件を県内に施行せんとするにより、府県会規則第八條に依り会議の意見を問ふか爲第三十二條に依り特に臨時会を開きたるは法律に背反したる處置にあらざるものとす。

   判 決

 右の理由に依り県知事が獣幣學校維持法外七件を県内に施行するにより議会の意見を問ふか認め臨時会を開きたるは法律の見解を誤りたるものにあらず。

 

   五 山梨より人材登用

 

明治二十年十一月十目付、「海南新聞」を見ると、同月十一月七日付で、

山梨県七等技手、森丈助か、愛媛県七等技手に、山梨県南巨摩郡書記、田島利貞が愛媛県看守長に任命されている。

 藤村紫朗が愛媛県知事に任命された時、歳四十二才、まさに働き盛りの年令にあった。近代化の遅れた愛媛県を、彼は行政手腕を十分に発揮すべく堅い信念のものに、愛媛の将来展望を考えたにちがいない。その為には、有能な人材を求めなければならなかったが、

異郷愛媛県下では、あまりにも早速すぎ時間がなかった。しかも着任早々、愛媛師範学校建設という一大事業が待っていた。彼はその事業遂行のためにも一時も早く人を求める必要に迫られていた。

 この招きに応じたのが前記、森丈助であり田高利貞であった。それに遠藤義宗、大工、小宮山弥太郎・文太郎親子であった。ここで彼らの横顔を覗いて見よう。

 

 * 森丈助 *

森丈助については、甲府市教育委員会発行「甲府の歴史と文化」で次の様に記述している。

 藤村紫朗は、山梨県へ赴任する時、先妻の“柳″と協議離婚し、甲府佐渡町の官舎では女中を雇って暮らしていたが、やがて常盤町に藤村式の知事公舎を建てて住むようになった時、東京士族の娘光子を後妻に迎えた。この仲人をしたのが同志の一人、森丈助である。

森は和歌山県高野山出身、高野山で義兵を挙げた時以来、藤村とは兄弟のような交りを結んで、藤村が山梨へ赴任後も、藤村県政のバックボーンの一人となった人物である。

森は鉄筆を使って、その頃では珍しかった山梨県地図を作製するなど、近代的測量技術を持ち外国知識にも明るかった。明治五年の学制発布によって、各村々へ学校建設を促進した時、藤村権令が擬洋風建築を奨励したのは、おそらくは森丈助の進言を取上げたのではないかと推定される。

 ちなみに、山梨県立図書館には彼が作った「甲府絵図」・「甲斐国全図」の二枚地図が保管されている。森は技術者として秀れていたばかりでなく藤村県政のまさにバックボーンとして十四年の長きにわたり県令を支えて来た腹心であり、藤村の招きによく答えた。

 

 * 田島利貞 *

 

田島利貞の人物像は分らないが、山梨県の書記官で、出身地は熊本である。藤村紫朗とは同郷であり、これまた腹心の一人であった。

 

 * 遠藤宗義 *

 

それにもう一人注目すべき人物がいる。遠藤宗義である。彼は山梨県会議事堂建築に際しては県委員を務め実績をあげ、愛媛では、議篠課次長兼学務次長の要職につき、明治二十年八月には愛媛師範学校長に任命されている。藤村紫朗は森丈助と同様に、教育的行政的手腕を評価し招聘したものであろう。

 

  六 愛媛の阿房宮と小宮山弥太郎

 

愛媛県令藤村紫朗は、懸案であった愛媛師範学校の建設に当り、その建築の任に、甲府在中の小宮山弥太郎に白失を当てた。

氏は前任地山梨で、小宮山の働きを十分に知っていた。琢美・梁の二小学校大工棟梁の建築に始まり、山梨師範学校など数々の建設を手がけ、実直な人柄を信じた彼は、到底地元愛媛の大工には仕事をまかせる気持がなかったと思われる。

しかも前述の通り、

松山市内には「家屋は凡て古酒なり」と表現されているように、洋風建築の一棟も存在しない現状を見聞した彼は、甲府の街並みの斬新さを目に浮べたにちがいない。彼を招聘するにつけては書簡でやりとりがあった筈であるが、これを裏づける資料はない。前述の通り、氏が帰甲した時に煮詰まった話しがなされたことと思われる。

 

昭和六十一年三月三十一日発行、「愛媛県史・近代上編」を見ても河合氏の書簡を裏づけるだけで、愛媛師範学校については簡単に次のように記載しているだけである。

 この校舎は後に〝愛媛の阿房宮″と称せられるほどの豪華な近代美を誇る建築であったけれども、藤村知事が古町商人に多額の寄附合を要求したとか収賄をもって山梨県の土木業者に建築設計を依頼したとかの噂が飛び交い、白根知事の公用土地買上規制強行による敷地紛争とともに、世間に注目された移転建築であった。

 

 藤村紫朗は、明治二一年二月二九日、突然愛媛県知事を退職して郷里熊本に帰り、やがて熊本農工銀行の頭取に就任した。

「海南新聞」明治二一年三月三日付は、

殖産興業に熱心せらるゝは夫の養蚕の奨励を以て明なる所にして、余輩も亦大に此挙を

賛成する所なりと雖も其此等に熱心せらるゝの余り或は少しく干渉の弊に陥ることは  

無きやとは昨今世人の専ぱら唱導する所なりし。

と、評した。

 しかし文中「山梨の土木業者に建築設計を依頼した」という一行は、興味をそそる文面である。

 山梨の土木業者とは、大工小宮山弥太郎をさして云う。藤村沢建築の建築技術面でのリ-ダーであり、「山梨の近代建築の父」とも呼ばれる優れた技を持った傑出した棟梁である。

 

このことについても「甲府市史」美術・工芸編、近・現代建築の節に詳しいのであえて記述を避けるが、明治二十年から二十五年に至る五年間にわたり、愛媛の近代建築を手がけ技術的な指導に当っている。

 愛媛県立図書館内に「愛媛師範学校関係書」と題された関係書類を発見したことにより、調査は急速に進展した。その中に明治二十年十二月二十六日付、遠藤宗義属提出の知事宛会議文書が保存されている。

これは伺文の形で、今回の師範学校新築工事は、その敷地が目下詮議中であるが、速かに起工の準備をする必要があり、かつてない大事業であるからその道に精しい大工に請負わせるべきであること、幸に山梨県甲府市の大工小宮山弥太郎、が建築事業に大へん精通しているので、この人物と仮請負の契約を結びたいとする進言の体裁を採っている。この文書には「仮ニ聴許ス追テ常置委員へ諮問ノ手続ヲ為スペシ」

の付漆が貼付せられて知事の割印がある。このように、県知事藤村紫朗と遠藤宗義の事前のお膳立てがあって小宮山弥太郎が招聘された事実が明らかとなった。

以下資料(二)を参照されたい。

 

資料(二)

 今般尋常師範学校新築之義御使定相成

日付テハ敷地ハ目下詮議中ニ有之御得共此際速カニ

起工ノ準備ヲ致スハ必要付工事請負人等相定メ度然ルニ

此面ノエ事ハ随分大事業ニテ県庁にてハ十分□□ヲ

為ササレバ不相成義ニ付其道々精シキ大エヲシテ

之ヲ受負ハシメラレ能々注意セシメテ

他の私利ヲ図ルカ如キ者ニ受負ハシメラルルモノトハ

自ラ異ナル故扱ヲ為シ経費ノ支払ホニ至ル迄

可成厚キ保護ヲ加ヘテ成功致度、

幸、山梨県甲府紅梅町大工小宮山弥太郎義ハ

建築事業ニ頗精シキモノニ有之候間

特ニ之カ受負ヲ命セラレ御埋致度折本人へ談示ノ末

当庁ニ於テ設計見積り金額三万二千六百三拾七円七拾六銭七厘

ヲ以テ計画通り出来可致旨

別紙之通仮受負鐙金共ニ出候ニ付、

追テ本証金卜引替シムベキ見込ヲ以テ受負方四銭許可相成ヲ

此通相伺候也

 

建築方針が固まり、県庁直結工事と一部を請負にする工事との二様式を併用する方向が出された。

果的には本館及び教室二棟が、小宮山弥太郎の設計を基にして直轄工事となり、残余全部は小宮山弥太郎が請負うことになった。

 

資料(三)・(四)を参照されたい。

 

資料(三)

 

尋常師範学校建築法執行儀諮問ノ件

  本件ハ県会ニ於テ予算金額ノ内

八千余円ヲ掛ケテ建築之儀既ニ議決候処

古町地方有志ヨリ寄附金ヲ募り、

同地方建設之儀中立ニヨリ 

敷地変換及建築法具左之通常置委員御諮問相掛可然哉

 

諮問

 一、尋常師範学校建築工事ハ用材其他用品及職工具広ク其営業者ニ、

就キ品質及価格吟味之上之ヲ購入シ又ハ雇人、

或ハ其一部ノ請負ヲ為サシムル等専ラ経済ト便宜ヲ図り

県庁真々之ヲ執行セントス其目的金左之如シ

  

金、万三千弐百八拾九円七拾九銭四厘

            校舎建築費

    金、千七百九拾五円七拾銭五厘

            門及圍廻費

    金、千四百壱円四拾三銭ハ厘

            溝渠費

    金、弐千四拾円ハ拾三銭

            地堅メ及地均シ黄

金、百拾円

            井戸及操竈費

 

建設地ハ之ヲ古町地方撰定セントス

但其坪数、九千五百三坪九合九勺 ニシテ其経費目的左ノ如シ

金、壱万弐千三百七拾六円九十四銭六厘

            土地家屋買上代

 

資料(四)

 右御達シノ趣奉謹承度依テ連署ヲ以テ

受負証書及び身元保証□奉差上度以上

     温泉郡永木町十二番地

       受負人 小宮山弥太郎 

     同郡湊町三丁目六拾九番戸

       保証人 吉田藤十郎 

  明治二十一年第四月廿三日

   愛媛県知事殿

 

さらに、調査を進めて行くと愛媛県直轄工事の内、本館天井張り単価見積りの入札に、小宮山弥太郎の長男である文太郎が応じていることが判明した。

彼は、文久元年(1861)生れ、名前は年号にちなんだと云う。

明治二十一年、この時二十七才、父の片腕となり愛媛師範学校の建材関係を担当した。帰郷後は鉄道関係、特に製図に秀れ、中央線建設に携さわったという。(小宮山文太郎長男喜久二嫁「小宮山ふじ」聞きとり)

 父親弥太郎の片腕として師範学校建築に取り込んだ文太郎ではあるが、明治二十一年二月には藤村は辞任している。異郷の地での親子の心境はいかばかりであっただろうか。擬洋風建築家の第一人者としての自負が仕事の原動力になったものであろう。

 

   七 彩浜館のルーツは山梨にあった

 

ここでもう一度、トラスについて簡単にふれておこう。全国的に擬洋風建築は、外観などは洋風であったが、小屋組は昔風の和小屋であった。和小屋は、洋小屋に比べ地震に弱く、小屋組を強くする必要に迫られた。三角形不変の理=トラスというのは木材や鉄骨などの棒状の部材で三角形を構成し、構造体を丈夫に強くする力学的な方法であるが、この工法が登場するのはほぼ明治二十年ごろからである。

 

 明治二十一年七月二十八日付の土木課主任井上属提出、白根知事宛「鉄物受負の件」と題する伺文書には、図入りでトラス用の短冊、箱金物が記載されている。これによって、愛媛県直轄工事の建物には十教組のトラスが使用されたことが判明した。

この絵図こそ、愛媛の近代建築は師範学校に始まったことを証左するものである。惜しむらくは、師範学校は昭和二十年七月、愛媛空襲により焼失、残念ながら往時の姿を写真でしか見ることが出来ないが、小宮山弥太郎の設計になる、また太郎が調達したトラス用短冊が、ガッチリと組込まれ、愛媛の阿房宮と愛称されるにふさわしい堅牢でしかも瀟洒な、白亜の教育の殿堂がここに竣工するのであった。

外部意匠を見ると山梨師範学校と類似している。何よりも宏壮感は山梨・愛媛両師範学校に共通している。

 

愛媛県伊豫市の彩浜館、松山市の道後温泉本館、この一一館は共に明治二十七年の竣工になる愛媛県下にあっては最も古い洋風建築であることは先きに述べた通りであるが、両館は外観で見る限りでは和風である。ガラス窓、塔屋付きであっても愛媛師範学校の瀟洒な佇まいには遠く及ばない。

 大工坂本又八郎加持てる技の総てを発揮して造っただけに、随所に城郭建築棟梁の流れをくむ秀れた彫刻がほどこされ苦心がしのばれる。この二館を洋風建築に位置づけるには、それなりの理由がある。二館とも外観は和風であるが小屋組にれっきとしたトラスを採用している。

 この技術を大工棟梁坂本又八郎は誰から指導を受けたものだろうか。

 筆者もその師を小宮山弥太郎ではなかろうかと仮説している。小宮山弥太郎は明治二十年から二十五年まで、愛媛に滞在し、その第一件が愛媛師範学校建築工事であり、五年間にわたって長期滞在した割には第二件、第三作が存在しない。調査不足の為ばかりではない。この間、後進の指導に当ったと思われるのである。又八郎との接触を裏づけが出来ない今、いたずらに両者の交流を決定づけることはさけたいが、愛媛師範学校建築は当時の一大センセショーナルであり、新技術習得に師とあおぐ大工は小宮山弥太郎以外には考えられないからである。とすれば、彩浜館、道後温泉本館のルーツを山梨県の藤村式建築であるとする河合氏の仮説と一致する。

 あの有名な「坊っちゃんの間」で知られる道後温泉本館や彩浜館が擬洋風建築の技術的集積だと思うとき、あらためて藤村式建築がわが国の近代建築史に果した役割の大きさを痛感するのである。

                    (尚史編さん専門委員)

 






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最終更新日  2021年02月21日 15時28分19秒
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