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文人の日記に記された甲府
著者 小林正司氏 『甲府市史研究』第6号 1988・12 甲府市市史編纂委員会 一部加筆 山梨県歴史文学館
はじめに この小文は、いわゆる文人と言われる人達が甲府(特に戦前の)に足をふみ入れた時、彼等の感性にどう映ったかをその日記の中にみてみようとするものである。
一 種田山頭火
今また山頭火ブームである。 「分け入っても分け入つても青い山」 明治十五年山ロ県防府に生まれ、家業の没落、妻子との別れなど人生の辛酸をなめつくして四四歳で出家得度し、孤独の旅をつづけた放浪の俳人山頭火の自由律俳句がなぜか現代人の魂をゆり動かす。 「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」 と一度は過去を清算したものの泥酔と無頼、放浪と行乞の生活は生涯捨てきれなかった。だが彼は記録する放浪者でもあった。 「私はまた旅に出た、愚かな旅人として放浪するより外に私の生きかたはないのだ。」と昭和五年九月九日の「日記」に記してから昭和十五年十月八日つまり五九歳で死ぬ三日前まで漂泊者としての心身の振幅を俳句と共に「日記」に残している。 その山頭火が傷心の旅をつづけて甲府にやってきたのは昭和十一年五月の初め、五五歳のときであり、前年八月カルモチンを多量に服用、生死の境をさまよい福岡県小郡町の「具申庵」を出てより死場所を求めての旅路であった。 昭和十一年四月二十六日東京での「層雲」記念大会に出る。「層雲」は、山頭火の俳句の師である荻原井泉水が主宰した自由律俳句雑誌である。その中央大会の帰り山頭火は甲州路に入る。 「花が葉になる東京よさようなら」と。 以下、その日記を記してみたい。
五月四日 日本晴
甲州路をたどる。 ……三洞君がしんせつにも浅川まで送って下さった、君の温情まことにありがたし、私はその温情に甘えたやうだ。 汽車で小仏峠を越える、雑木山のうつくしさよ。山また山、富士がひょっこり白いあたまをのぞける、山はげはしく銘はふかく雑木若葉はかがやく。与瀬から上野原まで歩いて、清水屋といふ安宿に泊る、一泊二飯で五十銭は安かった。 (追憶) ・何かさみしく死んでしまへととぶとんぼ
五月五日 晴 至るところ鯉幟吹流しがへんぽんとして青空でおどってゐる。やっと自分といふものをとりかへして私らしくなったやうである。 五月の甲州街道はまことによろしい。桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。山にも野にもいろいろの花が咲いてゐる。猿橋。 ・若葉かがやく今日は猿橋を渡る こんな句が出来るのも旅の一興だ。甲府まで汽車、笹子峠は長かった、大菩薩峠の名に心をひかれた。甲斐絹・水晶の産地、葡萄郷、安宿は雑然騒然、私のやうな旅人は何となくものかなしくなる。 酒をあおって甲府銀座をさまよふ。老を痛切に感じる。ともかく今日まで死なないでゐるけれど!(生きてゐたのではない) desperate character ! ・しつとり濡れて草もわたしもてふてふも
五月六日 曇
何も彼も暗い、天も地も人も。 (自嘲) どうにもならない生きものが夜の底に (追加) 旅はいつしか春めく泡盛をあほる
五月七日 とうとう雨となった。
緑平老から旅費を送って貰ふ。ありかたしかたじけなし。孤独な散歩者として。
五月八日 曇
心機一転、これから私は私らしい旅人として出立しなければならない。(中略) ・風は五月のさわやかな死ざま ・ひょいと月が出てゐた富土のむかうから (甲州から信州へ) ・日の照れば雪山のいよいよ白し (以下略) 甲府に四泊して長野へと向うのだが、甲府市内の安宿にとまり、安酒をくらって銀座通りをさまよい歩く山頭大の姿が彷彿として目にうかぶようだ。 ところで、昭和十一年当時の甲府銀座は、同年九月に銀座一、二、三丁目商店街の業者五四名によって「銀座地区商業組合」が設立されるなど繁栄をきわめた年であった。そしてネオンかがやくカフエ街からは「忘れちゃいヤよ」・「男の純情」・「ああそれなのに」等の 流行歌のレコードが流れ、はなやいでいた。 この年はまた甲府連隊が出動したあの二・二六事件の起きた年でもあり 「今からでもおそくない」 のことばが庶民の間に流行した。 たが、甲府銀座のにぎやかなネオンの色も、流行歌も山頭火にとっては、その心をいやす何ものでもなかった。死を求めての旅路はすでに「おそく」帰りのない道のりであり、甲府はその一里塚にすぎなかったことは、日記の中によみとれる。
二 野上彌生子 山頭火が甲州から信州へと向った同じ昭和十一年の秋、山頭火とは全ての面で反対の境遇にあったといってよい問世代の女流作家野上禰生子は、北軽井沢にあった別荘を出て松本、上諏訪を経ての東京への帰り、中央線の車窓から甲府近辺の景色をながめその日記にこう記している。
十月九日 金 晴
七時四十分9ハスで帰途につく。ホテルまで歩りく、途中霜がまっ白であった。松本からすぐ汽車に乗る代り。バスによって塩尻峠を越し上諏訪に出てそこより汽車にする。(中略)-七日に北軽のヴィラをあとにしてから、三日間天気も丁度晴れがつづいて、利用されるだけ旨く時間をも金をも利用したと〔いふ〕かんじをもってまた汽車に乗り、夕暮新宿着。 途中では久しぶりに見る甲府附近の葡萄畑の見事さと、そのまわりの村のいかにも豊からしい立派な村屋が眼にとまった(以下略)
明治十八年大分県に生まれ、漱石門下の野上豊一郎と結婚、漱石の紹介により文壇にデビュウした野上禰生子は、大正十二年から昭和六十年三月百歳を目前にして死去するまでのなんと六十二年間にわたって「日記」を書き続けている。安倍能成、小宮豊隆、岩波茂雄など当時一流の知識人との交遊が記され、家には二、三人の女中をおき、夏には別荘暮しをしながら文筆にはげむ日記からは、豊かな生活と環境がうかがいしれる。 五五歳の山頭火が酒と涙でたどった道を五一歳の禰生子は逆コースで秋の旅情を楽しんだのだ。 甲府周辺のぶどう畑や家並を余裕をもって、めでている。 同じ文学の道を行き、同じ世代に生きながら人さまざまな人生観と人間像をみることができる。共に昭和十一年の日記からである。
三 徳川夢声 あの独特の語り口で人気を集めた「宮本武蔵」で知られる徳川夢声は、明治二十七年島根県に生まれ、大正三年活動写真の弁士となり、トーキー出現後は漫談室、俳優として活躍した。夢声は読書室でもあり、文筆にもすぐれ著書も多く残している。
「太平洋戦争日記」は、戦時下の世相史であり、さらに貴重な芸能史、食物史でもある。昭和十元年三月一日から東京歌舞伎座、東京劇場、大阪歌舞伎座、京都南座等全国一九の大劇場が休場となった。 決戦非常措置要綱に基づく<高級享楽の呼出>であった。歌舞伎役者や芸能人は劇場を追われ、娯楽にうえた国民のため、夢声らは軍需工場の慰問や、地方公演を終戦時まで余儀なくされた。 昭和十九年匠月夢声一行は、富山、中津川、辰野、上諏訪を経て甲府に入る。慰問旅行の一座である。 二十四日 (水曜日 晴 快) [甲府駅講堂、身延町、甲府議事堂]
上諏訪発甲府駅デ第一回(二百五十人)。 駅前食堂デ昼食。身延電車ニ乗ル、随分乗リデアリ。富士が見エル。身延駅の会場(五百人)は、バラックの寄席みたいな所であるが、楽屋の背後を富士川が流れている。-(中略)-福チャン部隊と私とで二時間半ほど勤める。客も大喜びである。土産として蕨を買って貰う。駅の人が買ったので、定価五十銭を四十銭にまけてくれた。気もちのよい乗りであった。
司令部の自動車デ何トカ劇場ニ行キ、士官ノ家族ニ一席。二十時頃ヨリ浅草話一席(二千四百人)。小松屋旅館二泊ル。酒宴。
二十五日 (木曜) 四時半起床。朝飯芋飯、量沢山。七時半、甲府駅長二送ラレ出発-(以下略)- 二十六日 (金曜)〔終日在宅〕 世話ヲカケタ鉄道関係ニ礼状ヲ書ク。ハガキニ俳句ヲ書キ人レル。 名刺ヲ見テモ顔が思イ出セナイ人ガアル。-(中略)-
甲府駅長宛 晴れ曇り甲府盆地は麦の秋
甲府運輸課長宛 晴れ曇り甲府盆地の麦の秋 胃を病める身の筒を好むかな 身延電車区長宛 新らしき寄席の楽屋や河鹿鳴く 隣組に身延の蕨配りけり -(以下略)-
昭和十九年といえばすでに食糧や物資は底をつき、一般市民は満足な食べ物などロにできなかったときである。芸能人にとって慰問の旅は苦しかったが、人気者の彼等は軍や官庁関係からのモテナシに期待をふくらませ強行軍に甘んじたのである。 甲府市内小松屋旅館での「酒宴」はおそらくその類ではなかったろうか。又、地方の人に分けてもらう「土産」も貴重品であった。だから夢声は、旅の中で世話になった人にお礼の俳句をおくっている。まだ甲府盆地には、のどかな風景がのこっていな、富士山は相変らず美しい姿も見せていた。 それから一年余りが過ぎた昭和二十年の七月夢声は焼野原と化した甲府を車窓より見ることになる。
十三日 (金曜 暑)〔信州宮田劇場慰問〕 大月駅ニ事故アリ、列車ハ猿橋駅ヨリハ王子駅マデ引返シ。八王子発午前五時ノ一番ニ乗ル。-(中略)-
甲府の街はスカッと焼失していた。駅は残っているが、車窓から遥か向うの山の方まで、綺麗に見通しが利く。 「戦力にえらい影響ですな」と、若い陸軍大尉が、隣席の中年の陸軍大尉に言った。斯んなことでは、日本の戦力はゼロになって了う、という意味なのだろう、その若い士官は、独り言のように、「ゼロですな」と吐きすてるように言った。-(中略)- 綺麗にB29、が掃除をして了った甲府を眺め、そしてその両大尉の会話を聴いていると、日本はまったく絶望だという気がしてくる。それでいて私は少しも暗レ気もちになれないのである。- (中略)― 窓外の風景がまた、夏の明朗さである。甲斐駒や八ケ岳は紺青に冴え、撫子は淡紅に冴え、青田は緑の畳である。(以ド略) 七月六日夜からの空襲で甲府は焼けた。だがその周辺には、まだ美しい自然が残っていたのだ。 「国破れて山河在り」 二人の軍人の絶望的会話を耳にしながら、夢声の胸中を去来するするものは何であったのだろうか。うっかり本音は吐けない時代であった。
四 古川ロッパ
夢声らと浅草で劇団「笑の王国」を昭和八年旗あげ、エノケンとならぶ喜劇界のトップスターとなった古川ロッパ(本名・古川郁郎)にも昭和風俗史の貴重な資料にあげられる「古川ロッパ昭和日記」がある。 明治三十六年東京麹町に、元貴族院議員で男爵加藤照磨の六男として生まれ古川家の養子となる。この昭和期の日本を代表する大コメディアンは、昭和三十六年一月十六日に亡くなる直前まで戦前、戦中、戦後の二五年間にわたって膨大な日誌を書きつづけた。 芸を愛する日常の生活はもちろんのこと、バロンの実子という育ちの良さからくる本格派グルメとしての記述、書物を愛する趣味人の日々、移りゆく世相が生々しく記録された類まれな「日記」を残したのである。
このロッパの昭和日記の中に「甲府」が、街や風景そのものでなく少し変ったカタチで登場する。時は、昭和十七年の夏。
七月十八日(土曜)晴
十時迄寝る。今日は暑くなるらしい様子。食事、味噌汁かけることに定まった。十一時の迎へ、楽屋口へ着いたが早いのでニットーで紅茶と恩ったら定休日、みどりやてふ小さなミルクホールで氷いちご、甘くなし。-(中略)- ハネ九時四十分頃。帰宅。パン食。新聞に仮名使ひが、国語何とか会で、発音通りに改めることに定ったと出てゐる。 「甲府」は「かうふ」でなくて、「こうふ」と書く由。今更馬鹿々々しくて、そんなことが出来るか、小学校からの月謝返せ、馬鹿な。
昭和十七年六月十七日国語審議会は、標準漢字表を答申したのに次いで、同年七月十七日には、新字音仮名遣表と国語の左横書きの採用を答申した。 この新仮名遣にロッパは「かうふ」を例にあげて日記の中でカミついている。おしよせる興業への軍部の圧力、加えて大好物の高級洋酒や食糧の不足などたまったストレスを「小学校からの月謝返せ」とぶちまいたのだ。自由人ロッパの面目躍如といったところだが、そこは若い頃映画評論を書き、小説家をも志したロッパならではの言ともいえよう。
五 高見順 やはり甲府に直接来だのではないが、あの「高見順日記」の作家高見順(一九〇七年・明治四十年~一九六五年・昭和40年)もその日記の中で甲府について記している。戦争末期の昭和二十年三月八日と九日の日記から、(長いので関係ない部分は省略した。)
三月八日
清水に立退命令が出たという。敵は鹿島灘駿河湾から上陸し、後者の上陸部隊は厚木平野を通って東京に迫る。なお、日本軍が信州の山に籠るのを防ぐため甲府あたりに空挺部隊をおろす。そういう宣伝をしているというデマがだんだん飛び出す。
三月九日 快晴
代田橋の森さんが来た。甲府の知り合いに疎開の荷物を預けたところが、最近行って見たらいっぱい兵隊が入り込んでいて、周囲の山に陣地を構築していて、まるで、戦場のような騒ぎ、今さら東京へまた荷物を戻すわけにもいかないし、悲観しましたという。 その甲府の知り合いというのがなんと武田麟太郎氏の細君の姉さんで、甲府の大きなお寺に嫁に行っているのだ。 昭和二十年四月、当時の甲府中学に入学した頃の筆者の体験を語らせていただきたい。肘の面部にあった私の家の近くに束京から焼け出されて疎開して来た一家は七月の甲府空襲で再び罹災するという気の毒な日に合った。 又、当時の甲府中学は、一年生、二年生の授業をも打ち切られ、動員命令のもと六月からボロ電に乗り、飯野で降りて飛行場と兵舎の建設にかり出された。年輩の兵隊さんもたくさんいた。 生まれてはじめてのモッコ担ぎは食べる物もほとんどない一三歳の少年にとっては、まさに重労働そのものであった。 高見順日記を読みながらその頃の甲府とその周辺の様相が、痛みを伴いよみがえってくる。 一敗戦前の暑い夏の記憶である。
六 三田村鳶魚
本名玄竜、明治三年東京生まれの江戸文化、風俗研究家として「日本及び日本人」などに多くの江戸時代の文化、風俗について発表し斯界の第一人者となる。 鳶魚は、昭和二十年三月二十三日に東京中野の家を出て同年の十一月二十八日帰京するまで山梨県下部で疎開生活を送った。したがって、身延・甲府に関する記述が日記に多く出てくる。 鶏魚の日記は明治四十三年から昭和二十四年まで(昭和十九、二十一、二十二年を欠く)の三七年分が残されており発表されている。 山梨に疎開の年は七六歳の時であり、日記の内容は、ほとんど空襲被災の記事、社会のニュースであり、それまでにない感慨所感が多く、自然を楽しんでいるところさえ見られる。やはりこの日記も長いところは甲府に関係ない前後、途中を割愛しかことをおことわりしておく。
昭和二十年の日記より。
三月二十三日(金)曇
○ 坪内氏同道、甲府ニ向ヒ原章太郎氏に至ル、万屋旅館店投宿。 ○ 壕ハ甲府駅前面ノミニテ他ニナシ。今夜入浴。 ○ 敵機通過の度毎ニ警報アレドモ燈火管制サヘ付言ス。
三月二十四日(土)晴
下部橋本屋ニ投ズ、原氏ノ紹介也、西八代郡富里村字下部、午後七警報アリ、踵デ退避信アリ。 ○ 下部駅外㈡小憩シ、麦酒二本、茹で玉子十五、落花生一掬宛ニテ三十七円五十銭支払。
鳶魚は、甲府の知人原準太郎という人をたよって疎開した。予定では一日前の三月二十二日ということになっていたが「乗車切符得られず」一日延びたのである。あの頃は、B29、が甲府上空を通過し、さかんに東京を空襲していた。まさか甲府なんかやられまいという気があったのか、青い空に引く白い飛行実は美しくさえあったのをおぼえている。
四月二十三日(月)曇
二十一日毎日、朝日、読売は山梨日日と切替になる。今日初めて出日を見る、今夜も糾耕励根恵与。
四月二十七日(金)晴
野沢氏夫妻誘引、井伏鱒二氏に逢ふ。 ○ 午後、夜間雨、やがて月よし。
四月三十日(月)晴
野沢氏、八重と善光寺駅にて井伏氏と落合ひ、参詣の後に甲府に出で多胡屋にて飲み、終列車にて間違ひ身延へ乗越し、野沢氏と荷車に乗り、同氏宅に二時半着。 鳶魚は、辺境の緬に疎開中よく人と会うのを喜んだ。井伏鱒二との交わりは時に感慨深いものがあったのだろう。井伏と逢ったその翌日も二人は話しをし、三十日には、善光寺、甲府と交遊を深めたのである。ところで、本県にきわめてなじみの深い井沢鱒二だが、昭和十九年(当時四六歳)山梨県甲連村に疎開した。 やはり昭和二十年四月甲府に疎開してきた太宰治との親交のかずかずは、つとに有名である。 井伏は甲府が空襲をうけるや「甲運村」を去り広島県加茂村へ再疎開する。
井沢鱒二の「疎開日記」から。
七月十日(昭和二十年)
甲州から広島県に再疎開。妻子を連れ八日午後一時、日下部駅発、中央線経由にて名古屋より京都に至り、大阪空襲中の故をもって山陰線を選び、万能倉駅に下車、午後十時生家に着く。 道中、上諏訪と大津でも警報。山陰線に至り空腹しきりなるものであった。(以下略)
話を鳶魚の目記にもどそう。
六月十一日(月)曇
原氏に行かんとして能はず、乗車切符を得ざれば也。 ○ 敵は機銃掃射をなせり、<上欄、これは流伝なり>甲府市には初物也、 通話により此事を聞得ず、 ○ 野沢氏に往く、夫妻亦来る、明日甲府行に決す。
六月十二日(火)雨
原氏ヲ訪ヒ用談三拝、小松屋一泊、野沢氏夫婦、荊釵同行。
七月七日(土)曇
安村少佐、野沢氏。 ○ 昨夜甲府空爆撃セラレ、五分一ホド焼失ヲ免ル。 ○ <上欄>金五百円宿へ渡ス。
七月八日(日)靖
野沢氏、安村少佐を訪ふ。 ○ 山梨日日(毎日、報知、朝日)ハ東京毎日社ニテ印刷スルコトトナリ、 ハ日ヨリ配付セリ。
八月十五日(水)晴
六時半頃警戒の半鐘鳴る、午後より敵機来らず、今夜燈火煌々たり。 時局はいよいよ風雲急をつけ敗色濃厚となっていく。 甲府行の切符の入手も困難となりついに七月六日夜甲府は空襲をうける。 鳶魚が甲府に着いて、初めて一夜を明かした万屋旅館も、小松屋も、井伏と飲んだ多胡屋もみんな焼けてしまった。そして下部の旅館で鳶魚は終戦の報を聞く。「今夜燈火煌々たり」と日記に記したのである。 先にも述べたように鳶魚は、終戦後ただちに帰京したのではない。 したがってその後の日記もつづく。
八月二十九日(水)晴
夕餉ニおばこトイフを喰フ、正シクハおばく(お麦)也、麦粥へ味噌汁ヲカケテ喰フ也。 ○ ヤテツトウ、日雇取ノコト、雇ヒ人ノ転カ。 ○ オザラ、カケ蕎麦、ヒヤムギ、ウドン。 ○ ホウトウ、ウドンノ延シ入レ幅広キヲ喜ブ、雑物八四季に色チガヘド、 カボチャ入レタルヲ御馳走と思ヘリ。 ○ ナカレキ、富士前に流レヨル木ノ枝、木ノ根等ナリ、土人トリテ燃料トス。
やはり飛魚は江戸風俗研究の第一人者である。山梨の方言、食べ物、風俗についてもよく観察していたのだ。それにしても、いかにも平和がもどってきたといえるこの日の日記ではある。 こうして約八か月にわたる山梨での疎開生活を終え、家族と共に無事に帰京しなのは昭和二十年十一月二十八日であった。
七 清水則重
此見聞雑記ハ、今予万勧業ニ志ヲ起シ、所々経歴見聞スル事ヲ、忽卒雑記シ、専ラ事実ヲ記シ、向来ノ記憶ニ供セソトス。他人若シー見アルモ、筆記ノ錯雑、文意の拙ナルヲ咎ムル勿レ。
清水則重「見聞雑記」冒頭の一文である。則重は、安政五年(1858)数え年十七歳で、穴山村の栗原家から清水家に婿入りし、明治十年(1935)三十歳(?)を越えたばかりの若さで山梨県初代県会議員となり、山梨県第九区長(現在の高根町に大泉村を加えた広い地域の長)をもつとめた。 なお、弟の栗原信近は、国立第十銀行(現在の山梨中央銀行の前身)の初代頭取であった。則重は、温厚な性格で幼い時から学問を好み、歌を詠み書画を得意とした。孫にあたる清本以誉子によれば「背が高く白いひげを生やし、歌を詠み、絵や書がうまく、幼い私はこの祖父を持ったことを誇りに思っていた」という。 則重は、明治十二年の県会議員の改選には立候補せず、藤村県令の殖産興業政策の影響もあってその年の二月勧業視察の旅に出た。その心覚えの日記が「見聞雑記」である。 明治維新という大改革の後、近代国家への第一歩を踏み出した当時の日本の姿が記されているが、この旅行で則重は当時の朝鮮にも渡っている。即ちその主要な視察コースは、甲府を出発点とし、東京➡横浜➡神戸➡下ノ関➡(玄海灘→釜山)朝鮮⤴九州➡四国➡大阪➡尾張➡身延➡甲府となっている。あの頃の交通事情など考えるとこの長期にわたる視察は、かなりの難儀な旅であった。
さて、その甲府出発の日の日記を見よう。
甲府~上野原 二月十八日、晴天、此日ハ幸に、途中マデ栗原銀行頭取、斉土南都留郡長、鯉淵北都留郡長他三名ト倶ニ甲府ヲ発車シテ、式内ノ社タル甲斐名ノ神社ヲ遥拝シ、少シク過グルニ、善光寺ノ大伽藍大破ニ及ビ、殆ド破壊セソトスルノ景況ヲ見テ、今ヤ寺院ノ日ヲ加ヘテ衰ヘムトスルノ思想ヲ想起シツツ、走車シナガラ西方ヲ眺メヤル。春メキタル山々霞ヲ帯ビテ長閑ナル眺メ面白ケレバ 秋霜の月にうかれし面かげもほのかに 見えて霞む山の端 夫ヨリ名ニシ負フ酒折ノ官ノ前ヲ過ル時、車ヲ走ラセナガラ遥拝シテ
みちのくのゑみし平らげかへります 大神やどる跡のしのばゆ
夫ヨリ石和ニ至ル。此ノ村ハ、幕府ノ代官役所ヲ設置セル地ナルモ、維新ノ際面面セラレテヨリ、爰二十余年、村況ノ衰ヘタル事驚キタル体ナリ。此頃郡役所ヲ民家ニ構設スト雖モ誰そ未だ賑フ色モ見エザリキ。 笛吹川ニ架セル甲運橋長サ十六間ハ、昨八月ノ水害ニテ二十間余リヲ流失シテ、日今修繕中、渡舟ナリ。(以下略)
長い視察旅行の初日、天候にもめぐまれた記念すべき甲府スタートの日の記述である。 当時の県内の交通手段は、人力車、駕籠、舟、馬にも乗り時には歩いたといわれる。 甲斐名(奈)神社、善光寺、酒折の宮から石和へと向うコースは、ほぼ現在も変りはあるまいが市制百周年を迎えんとする甲府東部の発展ぶりは、さすがの則重にも想像できなかったであろう。 それにしても、石和の衰退ぶりに大いにおどろいている。これまた。現今の石和温泉郷の殷賑を眺めたとしたら則重はどんな歌を詠んだろうか。
そんな思いをはせながら「見聞雑記」を終わる。
以上いわゆる文人の日記の中に「甲府」はどのように記されているであろうかを探って見た。本来「日記」は、記されたその全部を通読しなければ面白くない。 脈絡があってこそ一目の日記が意味をもつ。しかし、テーマと紙数の関係でそのようにはいくまいと思い、はじめから省略すべきは略し、解説もできるだけ簡潔にしたつもりである。 この拙稿を結ぶにあたり、いささかなりとも理解を賜りたいと願う所以である。
** 参考文献 ** *「種田山頭火」金子兜太 講談社現代新書(昭和四十元年八月) 「みちのくまで 其中日記(五)」 山頭火の本8 春陽堂(昭和五十五年二月) * 「野上彌生子全集」第11期 第五巻 日記五 岩波書店(一九八七年五月) * 「夢声戦争日記」(四)昭和十九年上 中央公論社・中矢文庫(昭和五十二年十月) 同(七)昭和二十年下(昭和五十二年十月) *「古川ロッパ昭和日記」戦中篇 晶文社(一九八七年十二月) *「高見順日記」第三巻 勁草書房(一九六四年十一月) *「田村双魚全集」第二十七巻日記(下) 中央公論社(昭和五十二年六月) *「井伏鱒二自選全集」第八巻 新潮社(昭和六十一年五月) *「見聞雑記」清本則重 山梨目口新聞社(昭和五十四年四月) *「近代日本総合年表」岩波書店(一九六八年十一月)
(筆記者、当時 甲府市福祉部長)
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最終更新日
2021年02月22日 19時28分01秒
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