カテゴリ:俳人ノート
流寓(りゅうぐう)俳人の系譜 ** 石牙・嵐外・井月・志雪について **
清水昭三氏著(作家) 「山梨の文学」 山梨県立文学館 平成8年刊 一部加筆第12号 山梨県歴史文学館
昨年、わたしは三河のさる大衆的古美術商で一幅の掛軸を手に入れました。俳画の逸品が目にとび込んできたわけです。天には、一筆一筋の下弦の月。地には小さな橋があり、橋上で背を向け、月を眺めている子守りの俳人ひとり。 この俳画は、露香という人が五二歳で結婚した一茶を描いたものでした。しかし肝心の露香について、わたしは知らないので、多分、芭蕉の弟子の露川の門弟ではないだろうか、くらいに考えていましたが、今年になって露香が何者であったかが分かりました。 露香は、束松露香と言い、信濃毎日新聞の記者で、この露香が「俳諧寺一茶」を一二一回同紙に連載した熱烈な一茶好きの一茶馬鹿だったのです。
連載は明治三三年四月からだったので、俳人一茶が全国的に正しく評価され始めたのは、この露香の仕事によったものです。明治の中頃までは、一部の間で一風変った乞食俳人ぐらいにしか思われていなかった一茶でした。 露香は、一茶を一茶たらしめた先見性の人物だったのです。
*相馬御風(ぎょふう) ついでに申し上げますと、お隣りの越州の良寛さんも、相馬御風(ぎょふう)という人がおりまして良寛を良寛たらしめたと言ってよいでしょう。 この御風という人は、早稲田大学の校歌をつくった詩人です。青雲の志を抱いて上京しま したが、うち続く家庭内の不幸に出あい、気をとり直して郷里の糸魚川に帰り、そこで生涯良寛の顕彰に明け暮れたのです。 大正七年、『大愚良寛』という有名な本を発表し、この本のために良寛は全国的に知られるようになったのです。それから二〇冊以上も良寛の本を書いたのです。
一茶も良寛も江戸末期の人たちですが、国民的支持を得たのは、つい最近のことです。 一茶における露香、良寛における御風は共に優れた人 物評価の先鞭の人と言えます。 一茶は、芭蕉より理解され易く、今や一茶を知らない日本人はおりません。 良寛もまた一茶に劣らず有名な存在です。子供から老人までに愛される人物です。 あの夏目漱石なども、結局は「則天去私」の境地への思慕たち難く、良寛を理想的人物としておりましたが、五〇歳という早逝の故にか、良寛に近づくことは困難で、「則天去私」への思慕で終わりました。
わたしの話は、一茶とか良寛という有名な人物ではありません。 甲州や伊那に、そんな人物がいたのか、と問われるような無名もしくは無名に近い俳人たちの話ですから、面白くないのかも知れません。 また、なぜ、そんな人物に興味を持つのか、と問われるかも知れません。世の中は、いつも拝金主義、物質上位の思想で染っていますが、染っていない人たちもいたのです。お金には縁のない人たちの話です。ですから、魅力があるのです。変人に興味が湧くのは自然のなりゆきです。ほんとうは、少しも変人ではないというのがわたしの立場ですが。
とまれ景気のよくない話で恐縮ですが、しばらくご辛抱下さい。 「居候」とか「書生」とか「浪人」とか経済生活から見ればすべて落第生の話です。そんな人間を書く者も最初は変な目で眺められておりました。 * 坪内逍遥 * 明治十八年『一読三歎当世書生気質』を発表したのは坪内逍遥です。さきに『小説神髄』という文芸理論書を書いたので、この方は実践篇ともいうべきものでした。 早稲田大学の先生の逍遥は、この本の著者名を「文学士春のやおぼろ」として出版します。すると、いやしくも「文学士」たるものが「野卑な小説家」になるなどはもってのほか、と非難されるほどの世相でした。 幸田露伴の表現によれば、まだ文学者は「社会の最下層に落ちていた」という訳です。 * 坪内逍遥 坪内逍遥があえて「春のやおぼろ」という国学者風な筆名と「文学士」という権威を利用したのは、文学者の社会的地位の向上と自らの作品が、真に文学に価する芸術だという強い自信があったからに相違ありません。
ロシアのツルネーゲフは食客ルージンを『ルージン』という長編小説に結晶させております。ルージンという青年は、ラスンスカヤという富裕な女地主の家の食客・居候・書生です。いかに才気煥発であっても弁舌家であっても、努力というものがないので、彼は生涯なにひとつすることなく敗北者としての人生を閉じるのです。
さて、この演題にあります「流遇」というのですが、辞典に拠れば「他郷にさすらい住む」という程の意味です。浦嶋太郎が亀を助けた縁で招かれた「龍宮」とは、天と地ほどの違い ですが、これからお話します俳人たちは、あえてそれをよしとして異郷で野ざらしを恐れず客死しているのです。唯一、早川石牙のみは、心ならずも追放されて馬場文耕を幻実記『森の雫』として書きました。また、有名な秩父一揆のことは、西野辰吉が『秩父困民党』として書いております。井出孫六も書いております。 とにかく江戸から明治にかけ、大小三〇〇件の一揆が発生したのですから百姓の生活がどんなに天変だったのか想像できます。
●「大枡事件」 甲州には「甲州一揆」が有名ですが、これから申し上げるのは、それとは別の「大枡事件」の方です。 これは文政四年(1821)、田安家代官山口彦三郎の暴政に対する農民の直訴事件です。信玄の決めた税法大小切の習慣も無視され、あげくは、一斗一升枡を代官所が勝手につくり、これが一斗枡だ、これで年貢米を量れという無謀なやり方に、現在の東山梨、東八代郡下の五四カ村が立ちあがり江戸寺社奉行に直訴したのです。 この時、直訴状の執筆を農民代表の金田村の名主金子重右衛門から依頼されたのが、この俳人の石牙だったのです。
* 石牙 *
石牙は京都の産科医玄迪(げんてき)賀川子啓に学んだ田安家領内の知識人の筆頭です。その時彼は六〇歳という高齢です。しかも、家訓を残すほどの保守主義者であったのです。 「諺に寺の後、官の前といって、そこに家があると災厄に遭い家運は長く続かないという。天正十年武田家滅亡の流譜でありましたが。なぜ、俳人たちに流寓を求める傾向があったのか。これは、俳聖芭蕉の流寓を俳人たちの理想としていたからです。芭蕉を敬愛し、芭蕉に近づくための生き方は、流寓しかない、と考える俳人たちが生まれてきたということです。 芭蕉は、旅を人生としておりましたから、江戸から何処へ、という点と線の放浪でした。これからお話します、嵐外とか井月とか志雪は、ある一定の国または地方を漂泊するタイプでした。 しかし石牙のように追放されての生活は、「流寓」ではなく、疋しくは「流譜」と言うべ きであります。 流寓と流譜では、全然違うのですが、今日は、流寓俳人の系譜の筆頭として石牙から話を始めましょう。 * 石牙 * 江馬修という作家に『山の民』という長い小説があります。飛騨高山の一揆を描いたものです。すぐお隣りの郡上には「郡上一揆」がありました。こちらの方は、知人の高田英太郎が、この一揆を講釈し幕府に睨まれた馬場文耕を幻実記『森の雫』として書きました。また、 有名な秩父一揆のことは、西野辰吉が『秩父困民党』として書いております。井出孫六も書いております。とにかく江戸から明治にかけ、大小三〇〇件の一揆が発生したのですから百姓の生活がどんなに大変だったのか想像できます。 甲州には「甲州一揆」が有名ですが、これから申し上げるのは、それとは別の「太枡事件」の方です。 これは文政四年(18921)、田安家代官山口彦三郎の暴政に対する農民の直訴事件です。信玄の決めた税法大小切の習慣も無視され、あげくは、一斗一升枡を代官所が勝手につくり、これが一斗枡だ、これで年貢米を量れという無謀なやり方に、現在の東山梨、東八代郡下の五四カ村が立ちあがり江戸寺社奉行に直訴したのです。 この時、直訴状の執筆を農民代表の金田村の名主金子重右衛門から依頼されたのが、この俳人の石牙だったのです。 石牙は京都の産科医玄迪(げんてき)賀川子啓に学んだ田安家領内の知識人の筆頭です。その時彼は六〇歳という高齢です。しかも、家訓を残すほどの保守主義者であったのです。 「諺に寺の後、宮の前といって、そこに家があると災厄に遭い家運は長く続かないという。天正十年(1821)武田家滅亡の時、我が祖先泰之君は徳川氏の命令で今の地に移居したが以後衰微して世にあらわれない。幕府の精疑圧迫にもよるが、寺後に家があるからである。余は安永中に京都に上り賀川子啓に医を学んだ。帰郷して業を始め家を興すことができた。これは仁術の余徳によるものであり家の地の利を得ないのを補うからである。汝ら子孫は世々 医を業とし他を顧みないならば、家運は隆盛となり、永く福祉を受けるだろう。それは身を隠し幕府の猜疑を避ける方法ともなる。これを秘せ」
石牙は、家訓のことも忘れ執筆を快諾してしまいました。「他を顧みないならば」などといい気になっていられる情況ではなかったのです。百姓の生活は惨めなものでありました。 徳川吉宗はたがのゆるんだ幕府体制を強化するために名目上の三家は幕府の力になりませんから、身近な三郷を置き、前代からの文化主義を廃し、武断的実質的政策に大転換させました。 ところが直轄地甲州へ、この三郷が各一〇万石のうちの各三分の一が配分されました。田 安家、清水家、一ツ橋家にそれぞれ三万石と少々。 石牙の住む山梨郡は水田より果樹桑園地帯ですから、米の取りあげのきびしさは、他の一ツ橋家や清水家の比ではありません。 老いた六〇歳の石牙は、覚悟を決め直訴状を書き上げました。江戸表へ出た百姓の代表たちも直訴に成功しました。しかし、直訴文を書いた石牙は、所払いの実刑となったのです。 石牙は、刑を予め想定し師のいる京へていよく逃げていましたが、なかなか判決がないので信州伊那まで帰って来たのです。そしてそこで刑を知り、死ぬまで伊那に「流譜」の身となったのです。 石牙は、京にいた俳人閣更の友人でした。当時石牙は、江戸や京でも知られた甲州代表の俳人でした。しかし、この事件によって、石牙は別人のような立派な俳人となったのでした。 石牙は一家のことを考え、家訓を書きました。しかし、百姓あっての医業です。権力に立ち向う正義の前で、家訓はどうでもよいものとなったのです。 五年前後の伊那の流譜生活はどうであったのでしょう。 藤原時平にしてやられた菅原道真が太宰府へ追放された時の道真のことを思い出しますが、俳大石牙は無位無冠、裸ひとつ、有罪覚悟の直訴文の執筆。芭蕉以来、今日まで、こんな骨のある俳人はいないのです。 石牙は伊那流語中に、高連署の典医で俳人の秋水園伯先という良友を得ました。また、流寓先の旅館の主人笠原喜兵衛の厄介になり、細々ながら医業を開き、異郷での辛いなりわいの道を求めつつ、俳句三昧にふけることになったのです。 石牙は、この追放による流寓生活で、今度こそは天下の開更たちにも負けぬ俳人としての生活を繰り広げることが出来、俳人石牙の人生を全うすることになったのです。 逆境こそが皮肉にも石牙を石牙たらしめたのです。 石牙の望郷の思いは、この句によく表れております。
親あらば帰るべき夜ぞ冬の月 石牙
これが故郷を追放された流俗の身の石牙の心情なのです。 句会では伊那の仲間と楽しく遊びました。知的レベルの高い人たちも見えて、なかには『伊勢物語』の中にあります
「あかなくに、まだきも月のかくるるか、山の端にげて、人れずもあらなむ」
という歌を口ずさむ者もいて、その歌が石牙の耳にはいります。こうした風雅な会 が、石牙を慰めています。石牙はそこで一句あげています。
おもしろき闇にもあへり十三夜 石牙
十三夜の月が、甲斐駒ヶ岳でなく、木曾の駒ヶ岳にかくれて闇夜になってしまうまで、夜長を楽しむ風雅が、この句の妙味です。こうして異郷での孤独を忘れようと努めていることが推測できます。 石牙は寛政九年(1797)十一月一日六五歳、伊那の笠原家で客死。笠原家の墓地に葬られました。 息子の俳人漫々が墓碑を建て、三回忌には追善集『ふるしも』を編集します。 高遠の友人伯先も諏訪の素檗(そばく)も、江戸の蓼太も成美も……総勢三六名の全国の代表的俳人が名を連ねているのです。 のちに漫々は山梨市の清白寺に父石牙の墓を建て、自分もその横に眠りました。
辻嵐外 つじらんがい
石牙の息子の漫々とこの辻嵐外は無二の親友です。漫々は、めぐまれて医学のみならず国学や和歌なども学んでおります。論客で、『俳諧雅俗伝』のような本も書いております。何回も伊那へ旅を続け、父の墓碑を建てたり、父が生前厄介になった人たちへのお礼参りをしたり、これはという人には自著を配ったり、なかなかの親思いの息子です。 代官も替り、若い蕉園という雅号のある代官に信用され、田安陣屋にとって漫々は重要な人物となっております。 のちに伊那を漂泊した俳人井月は、この漫々の本をあちらこちらの家で見せてもらい、これはただものではない、と感心します。漫々と署名してなく、広海と実名が書いてあったからです。のちに、俳人漫々と知って改めて驚くのです。
さて、嵐外という人物ですが、彼は明和八年(1771)、越前敦賀に生まれました。 漫々より一つ歳上です。嵐外の家は京都の敦賀屋で呉服を商いとしていました。嵐外一家は、京で相当な羽振りのよい町人でありました。青年時代、嵐外は叔父の家で見習奉公をしておりましたが、商売に身が入らず、遊郭通いにうつつをぬかしておりました。 二四歳の時、叔父は嵐外が商人には向かないので、好きな俳諧をさせる他はないと、甲州へ遊学とは名ばかりで追放したのです。
* 一鼠 いっそ
この叔父という人も俳句をたしなみ、一鼠(いっそ)と称し、涼袋に句を学んでいたのです。叔父の師、涼袋は、二〇歳の時、兄嫁との不倫が発覚し、弘前藩家老職である名門をあとに逐電し、苦難を越えて、やっと俳諧師になった面白い人物です。 一鼠はこんな涼袋の話を嵐外に教訓として話し、女で失敗しないようにと注意したに違いありません。そして知人の蘭更に相談したところ、闇更の弟子が甲州にいるので、甲州 は中巨摩郡若草町藤田の弟子五味可都里に、嵐外の面倒をみさせましょう、ということになって、好青年嵐外ははるばる京都から甲州へやって来たのです。
甲州へ来て、まず漫々と嵐外はすぐ友人となるのです。可都里の家は大地主ですから、生活にゆとりがあり嵐外も可都里夫妻に応えるため、勉強だけは真剣にやりました。好きな俳諧のための勉強ですから、身についていきます。 可都里の家を流寓先としていた嵐外の句。
霜の夜や甲斐に居しめる膝がしら
と詠ったところに嵐外の心境が窺えます。「居しめる」という表現に、次にお話します井月や志雪が伊那や韮崎友人の不幸な死に慟哭する嵐外のやさしさと、句の鋭さは、流寓生活の賜であります。 生前中の嵐外の句に
不二の山見ながらしたしき頓死哉
という漂泊人生の身にとって、死出の理想を詠ったものがあります。欽哉はこの句-師の自画像の賛として書いた句から影響をうけて辞世の句をあげていたのです。 嵐外よりも一五年も早く、友人の漫々は死にました。 その時、
やかましや死にそこなうて年の暮
という辞世の句をあげております。嵐外は、漫々のこの句に学び、この句に習い友情あふれる辞世の句をあげたのでした。
梅の花死にそこなうてことし又
七五歳の人生を嵐外は異国の甲州甲府で閉じたのです。若松町の信立寺に墓があります。師可都里の家を出てから、甲府を中心に嵐外は甲府盆地をわが家のように漂泊し、時に、甲州を出る旅を楽しみにしておりました。江戸へ出てみたり、信州諏訪へ行ってみたりしましたが、井月や志雪が二度と自国・故郷へ帰ったことがなかったように、嵐外も京都へ帰らずに、甲府で客死したのです。 自画自賛の句を念頭にしながら……。 不二の山みながらしたしき頓死かな 嵐外
井月 せいげつ
井上井月は文政四年(1821)越州(新潟県)の長岡藩の武家に生まれました。井月が牧野家に仕えていた時代のことは資料不足ですが、わたしは諸状況から推測します。三〇石程度の藩士。藩校では首席。そこで江戸表の長岡牧野藩邸勤務が許される。江戸で俳句の道にうち込む。 井月のすぐの後輩に、有名な河井継之助とか小林虎三郎が、井月を追いあげるようにしておりますから、文武の武のほうはからきし駄目な井月は、武士生活にだんだん嫌気を感じ始めます。 井月は江戸で老いた梅室に会います。この人は闌更の弟子、嵐外や漫々とも風交のある俳人で、闌更なきあと京では梅室の天下です。その梅室が老いて江戸へやって来た折、井月は梅室の門をたたく。梅室は、井月に武士の足を洗いなさい、ときつく言われます。 梅室は金沢加賀百万石の城下で、刀の磨ぎ師をしておりに脱藩します。江戸表にいますと、幕府の弱体化が下級武士にさえ分かってきます。幕府に対し、馬鹿に見えるほど頑張っているのは、主君の牧野公の長岡藩と松平容保の会津若松藩ぐらいなものです。 どの藩にも資金はない。武士に戦意はない。幕府への忠誠心は少しもない。ないないずくしですから、知識人の井月は、好きな俳句に夢中になりました。武士をやめた先輩芭蕉のような生き方を理想としていたのです。 明治になってから正岡子規は梅室を、嵐外を評価するために、引き合いに使いました。しかし、なんのことはありません。子規は江戸末期の俳人たちを「月並的だ」と誰彼となくひとまとめにして俳諧文学史の外へ流してしまった。これは、大きな間違いでした。 それどころか芭蕉の「造化の思想」さえも近代文学なかんずく写生主義の邪魔になるということから無視したのは、大いに問題があったのです。 子規が否定しても、梅室の句は面白い。
名月や草木に劣る人の影 梅室
椿落ち雄峰き椿又落る 梅室
乳をかくす泥手わりなき田植かな 梅室
さて、肝心の井月ですが彼は、諸国を放浪したすえ、嘉永年間、はっきりしていませんが、伊那へ立派な俳人となって現れたのです。 文久三年(1863)、諸国で得た俳人たちの句を編むにつき、早速、高遠藩の家老、岡村菊叟を訪ね、序文を乞うております。その時、句集名も『越後獅子』と命名して貰っております。なぜこんなことをしたか。お墨付が欲しかったのでしょう。見ず知らずの伊那で、宗匠として立つには、岡村菊叟のような有名人のサインがものを言っておりましたから。 わたしは、十数年前に古書店で下島勲・高津才次郎共編の『井月全集』一巻にめぐり合いました。この本で下島勲は井月について「近世崎人伝中にも多くその比を見出しがたい超風脱俗の人物ということが出来ましょう」と書いています。
* 下島勲 * この下島勲は医者で、芥川龍之介の侍医で友人。また俳句仲間です。芥川が「河童」であれば下島は「空谷」、多分故郷の伊那谷と伊那の空という意味でしょう。 少年時代ガキ大将の下島勲は、井月に悪罵を浴びせ、つぶてを投げた罪滅ぼしのために、井月を世に出すことに夢中になったのでしょう。
井月は、三〇年間伊那谷を徘徊漂泊、つまり流寓の生活に甘んじておりました。明治二〇年、六六歳で野ざらしに近い死を迎え、芥川龍之介をして
「このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があったと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある」 と、驚嘆せしめたのであります。 伊那へ現れた時は、紋付黒羽二重の子袖に白小倉の袴、菅の深い何個笠という芝居に出る浪人のような出立ちでしたが、三〇年後には、乞食同然の姿となって、漂泊の人生を超人的に送っていたのであります。
世は明治になり、河井継之助は戊辰の役で戦死、小林虎三郎も死に、長岡の秀才井月だけが伊那にまだ乞食のように流寓していたのです。北信州の一茶が
ともかくもあなた任せの年の暮
と詠えば、南信州の井月の方は、身は乞食同様でも明るいのです。
目出度さも人任せなり旅の春
翌日しらぬ身の楽しみや花に酒
酒ありと云ふ迄もなし花の宿
降るとまで人には見せて花曇り
朝顔の命は其日其日かな
ないそでをふる雪の歳暮かな
井月の辞世の句は
何処やらに鶴の馨きく霞かな
です。伊那市美鏡町太田窪の墓碑には
落葉の座を定るや窪溜り
と、刻んであると聞きましたが、訪ねて見ると川原の自然石そのままの墓碑には、その一句どころか一宇さえわたしには読みとることができませんでした。山頭火も訪ねた墓ですが、ただ淋しいかぎりです。 井月の半生は、正しい評価を得られないままの流寓でした。「しらみ乞食」と人々に言われていた一方、井月に一宿一飯を許した伊那地方の理解者も多くいて、このためかどうか井月は一歩としてこの伊那から出ていないのです。 多分井月は、浦嶋太郎の「龍宮」以上に伊那地方を「流寓」としていたに違いありません。友人一同は、一度賤餞別まで用意し、長岡へ帰るように長野善光寺まで送ったのに、井月は伊那へ帰って来たのです。伊那の人情、風俗が井月には骨身に溶みていたのです。 井月の評価は、この伊那地方を発信地として、今や全国的に高まるばかりです。こんな嬉しいことはありません。
* 志雪(しせつ) *
一茶の句数は約一万八千、井月の句は千六百と言われております。しかし、これからお話します志雪の句は、わたしが苦労して集めた総数たったの五〇句にすぎません。 金井志雪は、天保十二年(1841)に、信州諏訪藩士の長男に生まれました。青年時代から学問や俳句に興味を持ち、機会ある毎に秀句をあげております。 江戸の小築庵春湖を師として俳句を学んでいたのですが、この師の春湖は、さきに話しました天狗小林欽哉の弟子でありましたから、甲州韮崎の天狗庵の欽哉を訪ね、教えをうけていたわけです。 志信は慶応四年廃藩置県により、武士を失業します。そこで塩尻の桔梗ケ原へ入植し開拓農業に従事したというのです。武士の商法ならぬ農業、たちまち失敗し、思いあまって三度の飯より好きな俳句の道を選んだのです。 そして郷土諏訪の先輩曽良にならい、素堂の生まれた甲州へ旅を始めたのです。 ところが、井月が信州伊那に漂泊したように、この志雪は、甲州韮崎に漂泊し、ついにその韮崎の宿で客死するのです。 芥川龍之介を長坂清光寺へ呼んだ堀内柳南の編集した『北巨摩郡勢一斑』という書によれば、このように紹介されているのです。
「金井志雪。風俗を超越して俳諧三昧に一生を終り、巨万の富を見ても芥の如く、人の栄進を見ても羨まず、志想淡白、人の褒貶を度外においたのは白真斎志雪である」と・…・。 志雪は、大正一〇年、八○歳で死んだのですが、井月が伊那に三〇年漂泊していた以上に、つまり五〇年近くものながい聞、志雪は韮崎や峡北地方に漂泊の身をさらしていたのであります。 志雪の人柄が弟子たちに好かれ、志雪は生前中に一門の者たちから句碑を建てられたほどの人物だったのです。句碑には花見に夢中の志雪が表現されております。
暮れおしむ枝から明けし桜かな
嵐外に「暮れたれば又月夜にて散桜」の名句があります。志雪は、会ったこともない嵐外に学び、欽哉に学び、そして直接春蘭に学び、いわば甲州にかかわる流寓の系譜を飾る最後の俳人と言えます。 志雪没後、七〇年の供養祭を発案したのですが、いかにせん、志雪の句が少ないのです。地元では「志雪さん」と、その名前だけは聞き伝えてはいるものの、肝心の句がありません。 俳書や短冊や連板などを探し、どうにか五〇句集めて記録することができたのです。 志雪の流寓生活の拠点は、弟子の池田稲月が心配した小屋のような庵です。自炊はせず、井月同様、乞食のように漂泊していたのです。 むろん、嵐外や井月のように生涯を独身で過ごし、俳句三昧の生活を送っていたのですが、志雪は井月のようにアル中にならなかったのがせめてもの慰め・…・弟子から生前中の句碑の贈物をうけるような超俗な立派な態度が認められていたのでしょう。 志雪は大正一〇年韮崎の宿場の馬方茶屋で孤独のまま死ぬのですが、その時の句がこれです。 今一度見たし木枯なぎた跡
天狗会という俳句の結社の代表は池田稲月です。師の志雪が亡なるや
白蓮の散って水輪の大いなる
と詠い、志雪の存在の大きさを讃えました。また弟子たちは、志雪の墓碑を建て、流寓俳人をねんごろに葬ったのです。
宮守になりたし朝な夕ざくら
木からしや豆腐の味のまさる夜
目醒めても目醒めても夜の長さかな
蜘蛛(ささがに)を冠りて来る戯猫
志雪は生地の諏訪では誰にも知られておりませんでした。井月が長岡で知られていないのと同様です。 しかし韮崎でもせいぜい志雪が諏訪藩士であったらしい、程度のことしか分かっておりませんでした。 今回・…・三年前七〇年忌の供養をするについて、上諏訪市に本社のある「長野日報」の原一博さん・…・曽良の研究家・…・の手をわずらわし、金井家の墓地と親族を探し出し てもらうことが出来ました。 諏訪藩主の菩提寺である温泉寺に金井家の墓地はありました。また、志雪の弟の直系一族郎党にも韮崎の雲岸寺で開催した七〇年忌の数日前に連絡がつきました。そして念願の志雪の俳句とその流寓全般が次第に分かったような次第です。
流寓の系譜として石牙・嵐外・井月・志雪と四人の俳人について述べてきましたが、彼等は、蕪村や一茶の評価の陰にかくれていて正当な光をまだ浴びておりません。 彼等はすべて芭蕉を尊敬し、芭蕉のように生きてみたかったのです。芭蕉十哲の中には、路通とか惟然とか、師の芭蕉さえたじろぐような句道を生きた俳人もおりました。彼等は、流寓に徹し、野ざらしを覚悟で日々を生きておりました。俳句の道は、彼等にとって自己解放の唯一の表現形体だったわけです。 僧でない者の一宿一飯にありつく「乞食の世界」それが流寓生活です。これがどんなに容易ならざることなのかは想像を絶します。芭蕉は風雅の世界を求めましたが、この世界を手に入れることは、余人には不可能のことでしょうが、彼等はそれにおそれず風雅を求め流寓の人となったのです。 彼等には、実力がありました。人間としての魅力がありました。一芸に秀でていましたから、流寓も可能でありました。一宿一飯に有りつくことが出来たのです。 学問好きな石牙には学問が、女好きな嵐外には女が、酒好きな井月には酒が、話好きな志雪には話が、生涯ついて回っていたから造化はよくしたものです。 芭蕉は「行脚の掟」をつくり、自分をいましめておりました。「一宿をなすとも、故なきに再宿すべからず。樹下石上に臥すとも、暖めたる趨を思うべし」という具合です。
現代はせいぜい映画の車寅次郎の上に、流寓をかろうじて重ねるくらいですが、あの寅さんには、創造的な一芸もなく、またすぐ家へ舞い戻る癖がありますので、ほんとうに「男はつらいよ」という訳にはなっていません。
明治文学は、近代自我の確立をめざし、子規の俳句の革命、漱石の新しい人間像の表現、と目ざましい活躍をしてきましたが、その漱石は、次第に自分の書いてきた小説とは逢った「則天去私」の思想に皮肉にも逢着することになるのです。 芭蕉が掲げた「造化の思想」は、のちに良寛が実現したのです。寺を持たぬ良寛は、説教をしない良寛は、乞食、流寓の身で和歌と漢詩を創造しました。芭蕉の「造化の思想」も、芭蕉以後においては、良寛の上に花開いたように思えます。 良寛は「この翁以前にこの翁なく、この翁以後にこの翁なし、芭蕉翁、芭蕉翁、人をして千古この翁を仰がしむ」と尊敬しておりました。流寓に生きた俳人たちも、こうした造化の思想にあこがれていたのです。 「造化を四時の友」として、生きていればこそ、俗世間からなんと言われようとも平気であったのです。知識人の漱石には、これが出来ませんでした。 わたしたちは、居候・書生こ暇人・食客……などよりも一段と高い場所で、大きな家に住み他人に借金もなく、立派に独立しているように思っていますが、流寓に身を置いた井月や志雪からみれば、わたしたちもまた皆、造化の前では、造化の居候ということになります。 景気のよい話の中には、真実は不在です。人間の真実は、景気のよくない話の申にあると思います。それは、皮肉なことに戦勝国に優れた戦争文学がなく、敗戦国のみに優れた戦争文学が創造されることに似ています。
今日は、あえて景気のよくない話をしました。その理由は、今まで、申し上げご理解いただいたように、流寓俳人の真実や、また俳句の真価を理解してほしい一点にあります。 御静聴ありがとうございました。 (平成七年十一月四日 於敷島総合文化会館)
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最終更新日
2021年02月22日 23時57分57秒
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