2296866 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年02月23日
XML
カテゴリ:著名人紹介

私の鎌倉みち 大賀の蓮

 

 『道』白洲正子氏著 新潮社版

 

 一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 私は小田急沿線の鴨川に住んでいるが、家の前の田圃道を、「鎌倉街道」といった。

いった、と書くのは、現在は家が建てこんで、昔の面影を失っているからである。

 その道は、東の丘を尾根伝いに来て、谷戸へ下り、家の前をはすかいに横ぎって、再び山へ入って行った。わずか一間足らずの山道であるが、よく踏みかためられた歩きよい道で、尾根の上の雑木林からは、富士山が望めた。今はびっしり家が並んでいるが、ところどころに古い道が残っていて、私はよく犬を連れて散歩に行く。そこから先はどこへつづくのか、また、なぜ「鎌倉街道」と呼ばれるのか、長い間考えてみたこともなかった。

 

だが、鎌倉街道は、そこだけとは限らなかった。鶴川村は、十数年前に、町田市に合併されたが、かつての村の北のはしに「小野路」と称する宿場かおり、平安時代には小野氏の荘園で、小野篁を祀った神社が建っている。その社の前も、鎌倉街道と間いていたし、小野路の南にそびえる「七岡山」にも、同じ名前の峠道があった。峠の頂上からは、たたなわる丘のかなたに、富士、秩父、筑波の山山が見渡され、「七岡」の名にそむかぬ雄大な眺めである。’

 そればかりではない、思いもかけぬ遠くの国、たとえば上州や信州などでも、鎌倉街道の名を耳にすることがあった。その度に私は、なつかしい心地、がしたものだが、それらの古道が、どこでどういう風に結びつくのか、想像することもできなかった。そのまま何年か、いや何十年もすぎてしまい、鎌倉街道の名は、次第に記憶からりすれて行った。

 

この夏、新聞に「鶴川日記」というのを連載していた時、私は再びその古道と出会うことになった。鶴川の周辺は、どこを歩いても鎌倉街道につき当る。そういうことがわかったが、それらは点として存在するだけで、線にはつながらない。ついに書くことができずに終ったが、ある偶然の機会に、大体の道筋を知ることができた。

 それは八月はじめの暑い日であった。町田市史を編纂している方たちが、遠くの村で温泉があるの

を、見に行かないかと誘って下さった。ちょうど新聞に連載をしている最中ではあり、そうでなくても好奇心は強い方だから、二つ返事でついて行くことにした。先に記した小野路の宿から、西へ行くと、「小山田」という村に至るが、市役所の方たちは、私のためにわざわざ旧道を通って下さった。小山田の集落は、町田にもまだこんなところが残っていたのかと思われるほどのどかな山村で、田圃の両側に、緑したたる多摩の横山がつづいて行く。その聞に点々と建つ農家や、神社のたたずまいには、どっしりとした風格があり、私どもの住んでいる部落とは感じがちかう。モれもその筈、ここは平安末期から室町時代へかけて、豪族小山田氏の館があった場所で、町田のほぼ全域が彼等の領地であったらしい。「あれが城跡です」と指さされた方角には、大木の繁る丘陵が望めたが、今日はよって行くひまはない。下小山田から、上小山田へぬけて、私たちは間もなく町田街道へ出た。

 この街道は、武蔵と相模の間を流れる「境川」にそっており、国道十六号を渡って、国鉄横浜線の踏切を越えると、相原という駅がある。明治村へでも移したいようなひなびた駅で、。改札口のかたわらの傘たてに、こうもり傘がたくさんさしてある。村の奇特な老人(たしか中村さんといった)が、こわれた傘を丹念に修繕し、急雨の時に用立てるために置いてあるのだが、一本もなくなったことはないと聞く。その一事だけでも、土地の気風が知れるというものだが、田園をへだてて、なだらかな丘陵がつづき、その向うの丹沢山の彼方に、富士山を望む風景は、自然と人間の心の間に、たしかに共通するものがあるように思われる。

 「大賀さんの蓮を見て行きませんか」

 市役所の方に、突然そういわれた時はびっくりした。大賀博士が、縄文時代の蓮の実を発見し、みごとに開花させたことは、新聞で読んでいた。特に多摩川版では、毎年夏になると、美しい蓮の花の写真がのらぬことはない。いつか見に行きたいと思いつつ、場所がわからないので、ついそのままになっていた。ぜひ行って見たいというと、車をとめて下さったが、そこから五分とかからぬところ にある街道筋のお寺であった。

 

蓮の寺 大賀の蓮

 

 それは円林寺という天台宗の寺で、山門をくぐったとたん、目ざめるような蓮の花園が現れる。その蓮は、今まで見たことがない大きく、美しい花であった。頑丈な茎は三メートルほどもあるだろうか、勢よくのびた葉の問に、紅の花が無数に咲き、真夏の目先をあびて光り輝いている。蓮の花が、なぜ仏様を象徴するのか、私にははじめて合点、が行くような心地がした。特に花の落ちたあとの緑の萼(かく)は美しく、蓮のうてなとは、正にこのことだと思った。

 昭和二十六年四月、千葉市旭ヶ丘の検見川遺跡で、縄文時代の丸木舟岸土器のかけらとともに、蓮のカラがたくさん出土した。大谷一節博士は、カラがあれば、実も必ず出て来るにちがいないと思い、多くの反対や困難を押し切って、更に深く掘りさげて行った。そして、ついに二十六日目に、地下四メートルの寺沢の中から、三粒の蓮の実を発見した。それは千五百年~二千五百年前のものと鑑定され、

「蓮の実は、摂氏一〇度でコンスタントなら、二五〇〇年の生命を存続するから、きっと発

芽するど思う」

と、博士は当時の千葉新聞に語っている。

 それから約三ヵ月役に、三粒の実のうち、一粒だけが発芽した(そのうち一つは失敗し、あとの一つは天然記念物として保存されている)。新聞で、世界最古の亘の花が開いたのを知ったのは、数年経った役のことであるが、千の生命力の強さと、大谷博士の信念に、感動したことを覚えている。

 円柱寺の住職にうかがうと、そこには人知れぬ苦労があったようである。贋物だという学者もいたし、発芽などする筈がなしときめっける人もいた。大賀博士はそういう非難の中で、黙々と蓮の生長を見守り、美しい花を咲かせて行った。博士は府中に住んでいられたが、夏の来明に、はじめて花が開いた時には、嬉しさのあまり、近所の人々を叩き起して知らせた。が、見に来るものは一人もなかったし、気違い扱いにされるの、が落ちだった。唯一の話相手は、円柱寺の和尚さまだけで、それから役は、しばしば寺へ遊びに来られるようになった。博士はクリスチャンであったが、ここの風景が気に入って、「死ぬときは、こういう所で終りたい」と、しじゅう口にされていたという。晩年には、

「自分が死ねば、蓮の面倒をみてくれる人はいないから、ぜひ後をついで貰いたい」と、住職に托した後、間もなく亡くなられたそうである。

 それは今から十四、五年前のことで、二千年の眠りからさめた蓮の花は、年々子孫をふやし、北は北海道から、南は九州の果てまで普及している。それらはすべて円林寺から根分けしたもので、大和の唐招提寺や、京都の苔寺にも分けたといい、「縄文の蓮」、「大賀の蓮」といえば、今では知らぬ人とてない。大賀博士の苦心は、死後にはじめて報いられたといえよう。博士のみたまは、円林寺に祀ってあり、蓮にかこまれて安らかに眠っていられる。

そういう話を聞きながら、私はしきりに、「一粒の麦もし死なずば……」という聖書の言葉を思い出していた。

 蓮の花はひらく時、音を立てるというのが通説になっているが、住職にたずねると、そんなことはないそうで、一枚、一枚、花びらが、はらはらとこぼれるように咲くという。たしかに仏の草は、そうあってほしいし、そうあらねばならないと思う。拈華微笑の故事は、伝説かも知れないが、それは音もなく咲く花の笑みから生れた思想ではあるまいか。

今年はもう枯れてしまったが、来年は花がひらく時、ぜひうかがいたいというと、その時は寺へお泊りなさいと、住職はいって下さった。







韮崎市穴山の大雅に蓮










 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年02月23日 06時06分36秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X