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2021年02月26日
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甲斐須玉 津金氏と跡部氏の関係

 

   跡部 眞氏著(岐阜県多治見市)

 

『月刊 オール諏訪』2003・3月号

Bol,22   222

社団法人 諏訪郷土文化研究会

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 津金は甲州巨摩郡逸見筋の地名であり、現在山梨県北巨摩郡須玉町内に近世の上津金村、下津金村が含まれている。津金衆は逸見筋 に拡がって住んだ武士たちの総称で、同じく巨摩郡武川筋に拡がって住んだ武川衆と同様に、地域的武士集団の名である。

武川衆は甲斐源氏一条忠頼の系統より出ているのに対して、津金衆は佐竹氏より出ていると伝える。

 

『甲斐国志』庶部「津金衆」の項には、

 

本氏は佐竹ナリ。其先ヲ津金薩摩守胤義ト云。

武田信昌ノ時、嫡子美濃守胤秀ト慎ニ本州ニ来り仕へ、

津金村及信州佐久郡ノ内ヲ食シ、

遂ニ津金ヲ氏トシ子孫繁栄シテ津余党ト称ス。

几・小尾・比志・箕輪・海口・村山・八巻。

清水・井出・鷹見沢・河上等ノ諸氏、是ヨリ出ヅト云。

家紋ハ丸ノ内ニ笹雀、庶流ノ者八三ツ笹ヲ用イルト云。

 

と記している。

 

 右の海口・鷹(高)見沢・河上などは信州佐久郡の地名である。

 伴野氏も信濃佐久郡の出身、その族阿刀部氏も信濃であるが、一族で甲斐国に戻ったものもあり、阿刀部はのち跡部氏となって、室町時代には甲斐守護代になっている。

 

守護代跡部駿河守明海が権勢を振るい、その子上野介影家と共にほぼ四十年にわたって国務を占断した。

 

甲斐国志に記す津金胤義・胤秀父子が甲州に来たのは武田十三代信昌のときであるという。信昌は武田信虎の祖父に当り、文安四年(1447)生れ、永正二年(1505)九月十六日、五十九歳で没している。

 

刑部大輔信昌の父武田弥三郎信守が死んだのは享徳四年(1455)五月十一日で、信昌は九歳であり、当時守護代跡部上野介景家が横暴を極め、寛正六年(1465)に至ってようやく十九歳になった信昌が兵を起こして景家を誅した(万力筋西保(山梨市)小田野城で跡部上野介切腹)というから、胤義父子が甲州に来たのは寛正六年から永正二年の間のことであろう。

 

 一、武士集団における親族関係

 

地域的武士団は、辺境の地域に多い。八代郡中郡筋の九一色衆、巨摩郡北山筋の御岳衆、同郡逸見筋の津金衆、同郡武川筋の武川衆。などはその静々たるものである。

 これら辺境地域武士団は

「小地下、山家衆なれ共武変は無類に能き武士衆」であった。

 同じ、大宝曲輪で味方利を失わんとし、祐光、胤久と共に踏みとどまって鎗をあわせ、跡部久次は これら地域的武士団における結合は、中世の同族的‥‥本家分家的関係を基礎とするものであったと考えられる。

しかし、津金衆の津金・小尾・小池・跡部諸氏の結合関係は、われわれの言う「親類」の如く、血縁のほかに通婚によって結合を強めていることが明らかにされる。

武田氏時代よりその滅亡後にかけて武川衆という名のもとに一括される粗結合をもって活動した津金衆について見ることにしたい。

 

 *津金衆

 

天正十年八月ニ十ー日、旧武田の遺臣が徳川家康に召し抱えられた折の所謂「天正壬午起請文」(浜松御在城記)に、続いて津金衆があり、小尾監物(けんもつ)・小池筑前・津金修理・跡部又十郎・小尾彦五郎の五人の名を記している。

 跡部又十郎について見ると、寛政諸家譜には、左の系図の如く記されている。

 

津金胤時の四男又十郎久次-久直-久次-久績-胤次左衛門久直、戦死ののち、命によって跡部氏を継いだという。

跡郭久直は天正三年五月二十一日長篠の戦いで討死、妻は津金美濃守胤時の女(祐光・胤久には妹、久次・久清には姉)となっている。

 さて、跡部姓は武田信昌の時代に守護代跡郭駿河守・上野介父子が簒奪の事あり、あるいは武田勝頼の老臣に跡郭大炊助勝資(おおいのすけかつすけ)などあって武田氏のうちでも重きをなした姓であるが、跡郭久直は跡郭氏の系譜のうちで、いかなる位置を占めるものか明らかでない。

 何れにせよ、跡郭久直の妻が津金胤時の女であったので、久直の死後、その弟久次、次いで久清が跡郭を継いでいる。

 どこの地を根拠地としたかも不明であるが、津金からそう遠くはない所であろう。

 

久次は、天正十年(1682)武田勝頼没落後、兄小尾祐光・津金胤久と行動を共にし、十二月九日数度の軍功を賞せられ、旧地をたまわり御朱印を下さるという。

その後信州岩尾・穴小屋・前山への攻撃、十二月長久手の戦い、十三年真田昌幸攻め、十八年小田原の役(平岩新吉に属す)に参加することも兄と同じ、大宝曲輪で味方利を失わんとし、祐光、胤久と共に踏みとどまって鎗をあわせ、跡部久次はついに戦死をとげている。年二十八歳。

 久次が戦死して子がなかったので、その弟勘兵衛久清がその遺跡を継ぎ、天正十八年(1590)徳川家康関東入部のとき武蔵国鉢形において采地を与えられ、十九年岩手攻め、慶長五年(1601)真田の居城上田城攻めに徳川秀忠に従い、八年甲州武川津金のうちにて旧地をたまわり、

慶長十三年甲府城を守衛(武川十二騎の一人)、十六年二月十一日死。年四十四歳。

妻は伊東長衛弘祐の女。久清の子、又十郎胤次は慶長十六年父の遺跡を継ぎ、十九年大坂

の役に武川・津金の諸志と共に茶磨山の先陣に加わり、のちまた甲府城を守衛、元和二年(1616)駿河大納言忠長卿に付属せられ、忠長卿罪を蒙るの後処士となり。

 寛永十九年(1642)十二月十日召されて徳川家光に仕え津金の郷において旧領を賜わり、のち大番に列す。寛文六年(1666)五月九日御広敷番の順に転じ、十一年死。妻は三枝監物吉新の女。

 この胤次のとき、跡部を津金に改めた。胤次の子清蔵のち又右衛門は采地二百七十名、腰物奉行になったが、天和二年(1682)罪を得て切腹。家は断絶している。

 

以上、壬午起請分の津金修理・小尾監物・小尾彦五郎・跡部又十郎の四名は、幕府に仕え子孫が御家人となったので『寛政重修諸家譜』にその系図がいれられているのであるが、小池筑前は後述の如くその子孫が幕府に仕えていないので寛政譜にはでてこない。

 

『寛政重修諸家譜』巻第二百十六に

跡部越中行忠-越中勝忠-九郎右衛門昌忠の系統、

跡部上野重成-九郎三郎(右衛門)重政於熊(おくま)(庄五郎、茂右衛門)

正次の系統、跡部伊賀守-大炊助(尾張守)勝資

の系統の家譜が載せられているが、跡部十郎左衛門がこれらの家系と関連をもつか否かは不明である。

 

なお『信濃史料』巻十五、天正九年正月廿二日の条に次の史料を載せており、文中に跡部十郎左衛門(跡十)の名が見えている。

『長国寺殿御事蹟稿』井浦右進助昌相伝という、真田昌幸書状案である。内容は省略する。

 

 この文書の年号は記されていないが、指出人「真安昌幸」とある所から、天正九年以降の文書と推定される。安房守の受領名は天正八年三月頃からである。この文書は、武田勝頼が甲斐韮崎に新府城を築くために分国中より人足を微し、正月廿二日に真田昌幸がその旨を某に伝えたものと解釈されている。

 文中にある跡部十郎左衛門は武田勝頼の近習であり、勝頼に派遣されて人夫改めに行くという旨である。

 この文書を天正九年のものとすれば、『寛映重修諸家譜』の跡部十郎左衛門久直と同一人物ではない。久直は天正三年長篠で戦死している。久直の関係者で十郎左衛門を名乗ったものがあるのであろうか。

 また慶長十二年(1607)以降の甲府城番武川十二騎のうちに八百石跡部十郎左衛門胤伸がある。

 これは寛政譜の勘兵衛久清(慶長十六年以降ならば、久清の子又十郎胤次)と同一人物らしい。したがって天正九年の十郎左衛門も久清ということになるのであろうか。

しかし久清は、寛政譜の如く慶長十六年(1661)死、年四十四歳とすれば、天正九年(1581)には年十四歳で年齢の点でやや疑いがもたれ、その兄又+郎久次が天正九年の十郎左衛門に

相当するように考えられるのである。

 

  二、下津金村南向山長泉院

 

開基は津金助兵衛(法名秋安浄本居士)である。石碑に天正八年庚辰年とあり月日を刻まないので逆修か。

天正八年は久次(天正十八年小田原の陣の際岩槻城攻めに戦死)の代であるから、右の助

兵衛は久清ではなく、又十郎久次も久清より以前に助兵衛を称したものであろう。何れにしてもこの津金氏(のち跡部氏を継ぎ、さらに津金氏に復す)その系統は下津金村御所に居住したものであろうか。

 因みに同じく下津金村御所の舟打山東泉院は津金美濃守胤秀が開基である。

 

同じく下津金村は和田部落にある金谷山養泉院は、元亀年中、清水縫殿助(養泉院殿天宝常泉居士、天正三乙亥四年十五日没)の開基であるという。(「清水家文書」)。

津金衆の一員に清水氏があるのはこの家であろうか。この清水氏も津金氏と婚姻を通じていたの であろう。

 

下津金村に古宮ノ城迹というのがあって、『甲斐国志』古蹟部第十には、

 

諏訪明神ノ社地ナリ。文亀元年三月信虎、碓氷嶺於ニ死ス。

依テ称御所、又殿村ト云モ処モアリ。

……美濃守・又十郎・清水縫殿助等ノ宅址アリ」

 

と述べているので、津金美濃守、跡部又十郎、清水縫殿助などはほとんど接して居住していたのであろうか。跡部又+郎も甲斐の古い姓跡部氏を継ぎながら、実父津金美濃守胤時の館の付近に居住したことになる。

 壬午起請文の津金修理は胤久である。『寛敬重修諸家譜』第百七十三では津金今の呈譜に、佐竹信濃守昌義が後裔対馬守某、甲斐国巨摩郡津金村に住せしより家号とするという。

 壬午起請文の小尾監物・跡部又十郎は、他姓を冒しているが津金修理亮胤久の兄と弟、祐光と久次とである。

 なお右の・他に同巻之二十二に跡部(姓清和源氏義光流)がある。

その系譜によれば、跡部景綱は徳川義直に付属し、二十人衆と称し、馬廻となり、大坂の役に従軍。のち御目付となり三百石に至っている。ただこの跡部又十郎景綱が「壬午起請文」の跡部又十郎と如何なる関係をもつか不明である。

 (筆者・岐阜県多治見市)






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最終更新日  2021年02月26日 15時13分31秒
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