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2021年02月27日
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  武田信玄 家臣曲淵氏

 

『武田信玄に学ぶ』より抜粋 上野晴朗氏著

     P206~213

新人物往来社

 

  一部加筆 白州ふるさと文庫

 

(前略)

 

信玄はまさに人の和を中心 にしてヽ戦わずにいかに勝つかに腐心し、またその団結力をもって、実際に戦えば必ず勝ったのでもあった。それが王道思想の哲学であった。

 この衆心を城となす原理は、したがって甲陽軍艦のいたるところに、言葉をかえ品をかえて描写されている。次にそれを二、三掲げてみよう。

 

 浅深表裏の十箇条

 

 「慈悲を深く、欲を浅く、人をふかく、我身をあさく、忠節忠功の心懸を深く、所望をあさく、遠慮して慇懃を深く、所望を浅く、一人を仕ふに穿鑿を深く、折檻を浅く」

 

という箇条がある。

 そのいわんとしているのは、戦国もまた現代のように競争社会であったので、リーダーたるもの、どうしても対人関係において非情に走りがちとなるので、信玄は士隊将達がどうしたら部下との交流、親睦を保つことができるかに知恵をしぼって、このような指針をあたえたのであった。

 これはもちろん、基本には武家の心構えではあるが、家人、郎党、地下人にいたるまでの心得を説いたもので、まさに信玄一流の「存続と成長」を組み合わせた、対比の諺である。

 また、次に示す品第三十九の比喩は、そうした意味で、きわめて具象的であると同時に集団という ものの上下の組織を、物にたとえてきれいに表現している。

  国法や軍法を物にたとえれば、御大将は大工のようなものである。侍隊将、足軽降将は、

くさびや釘である。即ち大将の御目をまねる。そこへいくと出頭衆や御使者衆は、さい

槌、鉄槌である。諸奉行は、手斧、鉋、鑿、鋸、錐、揉錐の類である。御目付や役目の

廿人衆頭、御中間頭は砥石で、いわば道具の端物、道具が使えなくなったら、刃を付け

る。

  さてまた、惣人数は材木にたとえられる。また備は家と同じである。番匠(大工)とい

うのは、家の備えを見るに当たって、思案工夫をめぐらし、材木が腐っていれば、家の

柱を抜き替え、新しき柱を立てかえる。それにはやがて折れそうな材木は、やはり使わ

ない。火にくべてしまう。それと同じく、諸人の分別はまことに肝要なのだ。

 

 このように、それぞれの立場の者の分別、才覚というものを大事にし、極意としているのであって、信玄、が一長一短をもっている家臣団の統率に、まず第一に清濁合わせ飲もうという態度と、情けをかけることをモットーにしている様子が潜んでいると思う。

 つまり、人間を個々にあしらい、使いこなすには、各々、このような心構えが必要なのだと説いているのであるが、興味深いのは、信玄は多少癖があったり、個性が片寄った人間でも、その短所や気質をのみこんで、上手に使えということを、頻りに教訓していることである。

 

 【曲淵氏の話】

 

軍艦品第四十七にある、次のエピソードは、端的にその機微を抉った物語といえよう。

 信玄の重臣、板垣信形の草履取りに、鳥若という小者がいた。度々の合戦に板垣について出陣し、随分と武辺の誉れを上げたので、それが信玄の目にとまることになった。

 信玄はさっそく、武勇をたたえて直参に採用、曲淵少左衛門と改名させて、山県昌景の同心に預けることになった。

 すると目矩(めがね)どおり、合戦のたびに身に疵を負いな、がらも、数々の手柄を立て勇名をとどろかすことになった。

 このようにかくれなき武辺の誉れのある男だった、が、性格的に闘争心が先に立ち、四十歳になるまでに、公事訴訟をなんと七十四、五度もやってのけた。

 そのうち一度は勝ち、一度は和解したけれども、あとは全部、負けるというほどの公事内容であった。つまり理不尽はいつも曲淵のほうにあったというわけである。

 あるときの訴訟に、また敗訴となり、その判決内容に腹を立てた曲淵は、わしが負けたのは、公事奉行へ贈物(賄賂)をしなかったからだと、放言してはばからなかった。

 そして、自分の在所は、さらし柿の産地だから、今度公事をやるときは、その柿をもっていってやろうといい、粟もまた名産だから、その栗を御機嫌取りにつかうと、雑言を吐いた。

 これを聞いた四人の公事奉行は、大いに腹を立てたけれども、なかでも立腹したのは、信玄の親族衆の奉行の一人、桜井安芸守であった。

 彼はすぐさま曲淵に向って、文武二道の誉れ高い信玄公の膝元で、法度は最高の権威である。なんでうしろ暗い裁きなどができようや、もし不満があり、重ねて公事をしたいというのなら、贈物ではなく、策の通った理不尽でない理屈をもってこい。たとえ金銀米銭を車に積んで贈ってきても、其方を負かしてやるといい放った。

 曲淵は、桜井安芸守が信玄の親族衆であるので、さすがにその場では、反抗しなかったが、すぐまた奉行所にとってかえし、他の奉行衆に向かって、桜井殿や御出頭には位があるので、なにも申し上げないが、斬り合いだったら負けはしない。それが口借しかったら、只今この場で、おれと勝負をしろ、その素頭(すこうべ)案頭を叩き斬ってやると、刀をねじまわして凄んでみせた。

 しかしなにしろ、曲淵は大剛の者であるし、信玄がその手柄に凄く目をかけているのだからと、奉行衆はみな顔を見合わせて、我慢することになり、からくもその場は収まった。

 

 しかし、その後館内で桜井安芸守をはじめとする四奉行の、憤懣(ふんまん)やるかたない顔を見た信玄は、不審に思ってどうしたのかと尋ねた。

 そこで桜井が、つい我慢しきれず、曲淵の公事訴訟の一件を、涙ながら報告し、もしそのょうな我が儘な曲淵を、御成敗為さるうとせず、なお目をかけられるのであれば、今後、公事など必要ないから、自分たちの役職を解いてほしいとまで、訴えた。

 その話をじっと聴いていた信玄は、苦渋の色をあらわし、たしかにその方遠のいい分は、もっともであると頷いていたが、しばらく逡巡(しゅんじゅん)したあと、改めて、実はあの曲淵については、前々からいろいろ子細、があったのだ、それをまず聞くようにといって、次のような話をした。

 お前達が知っているように、武田譜代の重臣板垣信形の子、弥二郎が、本郷八郎左衛門を小身者とあなどり、慮外の振る舞いがあったため、弥二郎が八郎左衛門に斬られるという事件があった。

 結局、公事をもって裁くことになったが、人を裁くことは、大変に微妙で難しく、なかなかに決意が必要だが、武田の法度は、慮外なることに対しては、すこしも依怙贔屓(えこひいき)にならぬよう裁くのが掟である。

 そこでこの公事も、よくよく問い質し、理非を礼して、結局、本郷八郎左衛門のほうに、道理だあることがわかり、本郷を成敗せず、そのままとした。

 しかし仮にも、板垣の家はわが譜代の重臣であるから、特選とけじめのために、本郷を一応、座敷牢に入れて裁きの決着をつけた。

 ところがそのころ、板垣の小者に鳥若時代の曲淵がおり、この訴訟の結果を見て、主家板垣の家を大事と思い詰めていたため、本郷を成敗しない、そんな裁きは、わが主家に恥をかかした心同然で、なにか裏の取り引きがあったのだと勘ぐって、その結果をまねいたこの信玄に、責任と落ち度があるように思い込み、ついにはこの信玄の命を狙うまでになってしまった。

 そこで致し方なく、鳥若を流罪にでもしようかと思ったくらいであった、が、しかし主家をあくまで大事に思う、その義理人情の厚さ、一筋にものを考える純情な覚悟は、なかなか男道のある立派なものであるので、様々に申しなだめ、主殿の白洲まで召し寄せて、事の顛末を話してきかせ、主君というものは、甲斐の国であれば、この信玄がすべての主である。板垣はその被官である。

 その主の裁きは、依恰のないようにするのが当然で、今度の裁きも道理は本郷に分があったので、座敷牢にとどめたのだ。

 その点をよくよくわきまえて、我慢せよ、と申し聞かせ、さらにその場で、もしお前に立身の欲かおるなら、板垣の被官ではなく、この信玄の幕下に取り立ててやろうといって、起請文をとり、曲淵と名を改めさせた。

 しかし、曲淵はもともと、そういう直情の男である。上州三寺尾の合戦のおり、敵の首二つも取る功名を上げたので、脇差を当座の褒美として与えた。その同じとき、上州侍の和田八郎の被官の、いそや与三郎どいうものが、首一つ取ったので、新参の上州侍の功名だと思い、とくべつに配慮し、褒美として刀をあたえた。

 すると、それを見咎めた曲淵は、俺のほうが首二つも取ったのに、刀ではなく脇差かと怒って、その脇差を、すぐこの信玄の膝元まで投げ返してくるような、単純で乱暴な男だった。

 それほどの手に負えない、悪戯者だけれども、信玄は周囲のことを考えて、その乱暴をたびたび赦免してきたのだ。だからぜひ其方たちも許してやってくれ。

 たとえば猫は、飼ってくれる本当の主も知らず、奇麗な炉中にも平気で糞をし、あるいは鳥籠の鳥をねらい、いたずらばかりする獣だけれども、鼠を獲らせたら一段と潔いではないか。そのまた鼠は、大事の書物をもかじってしまったり、屏風や障子の絵も、遠慮なく穴をあけてしまう。どうにかして、退治したいと思っても、なかなかすぐには退治できない。

 ところ、が猫に鼠をまかしたら、すぐ亘ってくれるので、猫の普段の行ないを人は忘れて、ただ重宝とばかり思うだろう。曲淵もそれと同じようなものだ。

 さらに近年の曲淵の合戦ぶりをみると、あまり手疵をうけた様子もみせない。上州箕輪での戦いのとき、内藤修理に、そのことをなんとなく訊ねさせたところ、曲淵は摩利支天を深く信仰するようになり、精進しているからだといった。

 なお詳しく訊ねさせると、加賀美の法善寺の大坊に帰依し、あの文盲の男が、なんと摩利支天径を、日夜読誦しているという。

 そのようなことをするのも、これ一斑に、信玄に深く奉公しようと務めているからに相違ない。

 古語にも、

 「一人守るところ、十人これを守る」

 という言葉がある。いかに曲淵は教養がなく、粗暴だとはいっても、武道の奉公がすぐれていれば、この古語のとおりだと思う。

 それを忘れて、いたずらに成敗してしまったならば、まず天道の憎みをうけ、人罰をこうむり、士卒は我心を離れて、勝利を失うのは必然である。だから必ず堪忍してやってくれ。

 もしまた、其方たちの奉行の職を取り上げてしまったら、かえって曲淵のような男は、それを気遣って、奉公の観念がうすくなるであろう。そのことは決して、かの者一人のことではない。

 たとえば、あれだけ戦功を上げたのに、法は曲げられぬといって、曲淵を強いて成敗してしまったなら、他の武士たちもおそらく戦意を失ってしまうだろう。

 古人も、

 良匠は、材を捨つることなし

 明君は、士を捨つることなし

 と、いっているではないか。だからここは信玄に免じて、ただ堪忍の文字を分別してほしいといって、席を立った。

 それを聴いた四奉行も、他の家臣たちも、信玄の奥意の深さにうたれ、感涙に咽んでなお一層、忠勤を励んだという。

 そこには、前出のかくれたる者を見出す法とか、家臣には暴れん坊をつかめという法則までがにじんでおり、衆心を試となすには、リーダーたる者、そこまで奥の奥まで読んで、慎重に事を決しなければいけないという意味がまことによく現わされていると思う。

「人は城 人は石垣」といっても、信玄はけっして自国の直接の防備を、人任せに怠っていたというのではなかった。

 むしろ、堀一重の単純な館構えを自慢する裏には、国全体を城と考える、防備の固さ、その細心の防御体制に、絶対の自信があったからに他ならない。

 武田館の防御の実際は、要害の山城を、背後の裏山の石水寺に置いたばかりであったけれども、しかし地勢環境を細かく検討すると、甲府盆地と周囲の山並が、そのまま防御の態勢に組み込まれており、それは軍団組織をまで考慮した整然たる配置構成をもっている。

 たとえば、館をめぐって四方の街道の要所要所には、親族衆、または心を許した重巨たちの屋敷を配するとともに、その街道の要には、関所、砦、出城などを設けて、それらの機関が有機的に働き、結びつけられるよう、監視態勢が十分とられていた。

 さらに国境警衛、街道の防衛には、在地武士集団である、武川衆、御岳衆、津会衆、九一色衆などの精鋭のほか、血縁に重きをおいた小尾党、小池党、大村党、仕覚、野呂党などの集団が日々の警護をまかされて、活躍していた。

 その管轄下に配置された、関門、砦、通信機関としての蜂火台は、実に巧妙に領内に網の目のように張り巡らされていて、非常緊急の事態が発生した場合には、その機能は一斉に活動を開始し、蜂火台は敵情を一瞬の間に、味方に知らせるよう訓練もされていた。

 甲府盆地は有名な急流が多かったけれども、河川はもちろん、重要な場所は、架橋を許さず、渡船を原則としていたけれども、その船頭も直接武田家から朱印をもらって、信任をうけるという風であった。

 従ってこれらの諸説関や技能は、一朝にして生まれでるものではなく、長い訓練により、集団の意識昂揚や、責任問題、連帯感などを養うことによって、はじめて成果が上がったのである。

 武田氏が滅びたあと、甲斐を手に入れた徳川宮座は、すぐその防衛体割に目をつけて、武川衆、御岳衆、津金衆、九一色衆などを採用して、もっぱら街道警衛、支城の守衛などに命じた。

 そして累急有事のさいは、甲斐の地を藩塀として、甲府城に立て籠ることを考え、江戸城の改革を行なったさいは、江戸城の搦手、半蔵門から、甲府城に直結する甲州街道を設定した。その途中に、甲州ゆかりの武士たちをもって、八王子千人隊を組織し、街道の護衛に任じさせたのも、みなその伝統によるものであった。

 このように信玄の城は、用意周到に整備された防衛体割のもと、一国がすべて城という観点に立っていたから、あえて剔一定の館でも構わぬといった、満々たる自信のもとに天下を見すえていたのだ。(以下略)

 

 * 参考資料 *

白州町花水 清泰寺(せいたいじ)曲淵勝左衛門

 

 清泰寺を開いたのは、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が大治元年に開いたと「社寺記」に記してある。

 さらに同記によると開山は、当時の山梨郡積翠寺村輿因寺三世雲鷹玄俊和尚文明六年四月先宗天台退転に付き禅曹洞宗に改めた。

 

また、文禄年中当村に住居する武田家の家臣、曲淵勝左衛門、同縫殿左衛門、同助之丞三代ともに当寺に葬られ、その墓がある。曲淵の末裔は当時江戸牛込御門内に住居していた。

 徳川家に仕えた曲淵氏は道中奉行や江戸奉行を歴任している。初代の勝左衛門の逸話は多く、剛勇ぶりが偲ばれる。(別記)

現在の花水は、合併までは長坂町に所属し、合併により白州町となった集落で、由緒書では「甲斐国巨摩郡逸見筋片颪村霊長山清泰寺」

とある。

 この寺には「曲淵」地名に関する伝説がある。

 開山当事、この村落内に「座禅石」があり、釜無川に面した場所に曲淵と云淵に大蛇住み此里の人に害を与えていて、付近には人が住めなかった。こうした話しを聞いた雲鷹和尚は曲淵を尋ね淵に向かって「毒蛇降伏禅定」に座禅を行った。雲鷹和尚の読経は続きそれは夜半に及んだ。すると淵から大蛇が飛び出した。そのさまは凄まじく嵐の様相を呈して、大蛇は裂けた口からは炎を吹き上げて怒りを露わにした。雲鷹和尚は大蛇に向かって

「声色不干眼耳」・「天地本自同根」・「時節因縁現成」・「須転身鎮仏門」

 と、一偶を下し杖を以て一棒に打却すると大蛇は、たちまち大蛇は天に向かって消えていった。

 雲鷹和尚「不退禅定三昧」に座して同五日夜半に至った。すると淵の一帯が白昼のようになり、香花を捧げ持って二十才くらいの美目麗しい女性が二人来た。和尚は、「大慈大悲の教化に依って五すい三熟の苦を免れる願いは血脉(けちみゃく)を授け、われ形体を、解脱し給ふ」と。

 雲鷹和尚が二人の女性に諭すように、

 「あなた方は元の姿にて来るべし

 と話した。この女性たちは、先ごろの大蛇の化身であった。女性はたちまち大蛇が揃ってきて、心改めたお礼を述べた。

 「三皈戒」を唱へ「清脱泰脱」と両蛇へ血脉を授け礼として直に天上にのぼり、空中にて「天上遂仏果」と呼び蛇の握捧である雲板という法器を落し、梢雲中にてこの寺「金千倍朱千倍漆千倍三千倍」「朝日さす夕日輝くその樹の基へ吾誓い此寺の守護の神とならん」と、大蛇は去って行った。

 この雲鷹和尚は「座禅石」と「雲板蛇」は寺宝として代々大切にしていた。

 また、毒蛇降伏の時用いた。「青地金?(らん)」の袈裟打蛇の柱杖水晶の珠数は、今(江戸末期)に至っても寺代々の宝物なりとしている。(これが現存するかは定かではない)

 気になるには、「清脱泰脱」の言葉で、「(清)----(泰)-脱」の()内を寺号としたともとれるし、清泰の由来を大蛇の話に託したともとれる。

 

 この曲淵氏の発祥については異説もある。

それは中巨摩郡昭和町押越に関する話である。

 押越村は枝村の名で、「甲斐国志」には

 

此辺ハ慶長年間、承応年間の頃までは釜無川の河涯にて、(略)域内に大なる淵ありて

地名となす。曲淵荘左衛門は彼の淵に住む蛇の子なりと記す。妄談なりとてとるには足

らず。

 (中略) 

一条ノ過去帳に「明応四年七月習妙欽禅尼曲淵母逆修とあり、曲淵圧左衛門は逸見筋片

颪村に於テ慶長中(徳川)采地を賜り、彼所ニモ地名(曲淵)ありて本領なりという。

  本村本妙寺に古碑あり。享保中曲淵下野守本州勤番支配なりし時、ここに詣でて先祖の

祀りをなすという。

  一書には、本妙寺は曲淵庄左衛門吉虎が建立したもので、母をここに葬るという。

  

また清泰寺と曲淵氏について

 

曹洞宗正覚寺末黒印五百四拾四坪・本尊薬師如来。

寺記云黒源太清光ノ子逸見四郎清泰開基、(略)

地顕曲淵荘左衛門吉景(略)文禄三年十一月二十二日没ス、

同縫左衛門吉清、元和五年九月朔日没ス、

同助圭丞吉重、寛文十七年七月八日没ス、

同助之丞、寛文八年十二月十四日没ス、各牌子アリ。云々

 






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最終更新日  2021年02月27日 01時38分49秒
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