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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年02月27日
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カテゴリ:樋口一葉の部屋
樋口一葉 苦労に追われた両親
『人と旧跡 山梨県歴史の旅』堤義郎氏著 一部加筆
 
 樋口大吉は、妊娠九カ月の妻あやめをつれて、山梨郡大藤村中萩原(塩山市中萩原)の家をあとに、仕事を求めて江戸へ出て行った。安政四年(一八五南七)のことで、大吉は二十八歳、あやめは二十二歳だった。
 ずいぶん無鉄砲な行動と思わせるが、彼らはまだ正式の夫婦ではなく、あやめの父が二人の中を許さないため、村を飛び出す気になったのである。江戸へ出ると、すぐ女の子が生まれた。大吉は、同郷の先輩で幕府の蕃書政調所勤番筆頭に出世していた真下専之丞の世話になり、とりあえず小使いの職についた。妻のあやめは、産んだばかりの女児ふじを里子好に預け、旗本の家に乳母となった。
夏子=一葉
 ついでに言っておくなら、彼らの家庭には苦から長男泉太郎、二男虎之助、二女奈津、三女邦(くに)ができた。このうち、明治五年(一八七二)に生まれた奈津は、自分では夏子とか。なつ子と書いていたが、のちの作家・樋口一葉である。
働き詰めた十年
若い夫婦は、どんなつらいことにも歯をくいしばって堪えながら働き続け、一心不乱に金を貯めた。同心という役の株を買い、士分になる目的であつた。十年すぎて、三百八十二両の貯蓄ができた。そこで同心株を買ったが、運悪く三カ月ほどしたら徳川将軍の大政奉還があって、すっかりあわてた。
 翌年は江戸城の明け渡し、江戸が東京となり、年号は明治に変わった。目のまわるような変革の中で、大吉あらため則義はどうやらこうやら東京府に就職し三女の夏子が生まれた年には少属として官舎に納まっていた。妻のあやめも「滝」と改名した。生活は贅沢とまでは至らなくても、まず中産階級の安定に漕ぎつけた。
 だが、古い幕府の吏員はだんだん居づらくされてか、則義は東京府から警視庁にかわり、しばらくして、官職を離れた。それでも、金融や土地、家屋の売買で貯蓄につとめた。都会で暮らしてみれば金よりほかに頼む味方はないというのが、彼の覚えた哲学であったが、甲州の家を継いだ弟が金をひき出しにきて、村では珍しいランプや人力車を持ち帰り、得意に振る舞う様なことをした。
長男のわずらい
 この一家に、不幸の影が追い迫る。長女ふじが結婚先から出戻り、その再婚に骨を折ったのが第一で、次に長男が三年間も病んで死んだ。二男は勘当同様に家を出た。わけても、長男の療養には経済的な力を振り絞り、樋口家は殆んど余裕をなくした。
二女の夏子はどうしていたかといえば、彼女は
「草双紙といふものを好みて、手まりや羽子板をなげうちてよみけるが、其中にも一と好みけるは英雄豪傑の伝、任侠義人の行為など、そぞろ身にしむ様に覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき、かくて九つばかりの時より我身の一生の、世の常にて終らんことなげかはしく、あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出しがなとあけくれ願ひける」
と自ら書いたように、一風変わった少女であった。
小学高等科を中退、十五歳のとき父の知人に紹介され、中島歌子の私塾・萩の舎へ入門した。中島歌子は水戸藩士の未亡人で、高名の歌人だったが、萩の舎はどちらかというと貴婦人や令嬢のサロンみたいになり、樋口夏子などは自分で「平民組」と称した。
負けん気の夏子
 歌会を前に、他の女性は当日の晴れ着をどうするかで夢中に喋っているのを聞かされた。場違いの入門をした夏子は、父が病気で寝込んでから「家は貧に身はつたなし」と思ったが、母がどこからか借りてきた着物を着て行き六十人の出席者がいた中で和歌の出題に最高点を得た。
     
打なびくやなぎを見ればのどかなる
おぼろ月夜も風は有けり
 そのときの歌は、おそらく一生を通じて誇りにしたであろう。女性たちと連れだって花見に出かけ、他の人が遠まわりした場所をひとり飛び越えてみせた負けん気が強かった。萩の舎の先輩・田辺竜子が『薮の鶯』という小説を書いて、文壇の大家・坪内逍遥に筆を入れてもらい出版されたことがある。竜子は花圃と号し、評論家の三宅雪嶺と結婚したが、三十三円あまりの原稿料を手にして評判になったのを、夏子は羨ましくながめていた。
心労に倒れた父
夏子が十八歳のとき、父の則義が死んだ。則義は長男を失ったのち、老いにムチ打って荷車組合の創立に事務を受け持ち、組合資金を他の事業にまわして失敗したり、相当あせっていたようだ。心労から寝こむと、暑さもたたって重態におちいり、六十歳で終わった。甲州を捨ててからの後半生を、荒い波にもまれ続けたこの気の毒な父親は、娘の夏子に何冬なく将来の期待を寄せていたらしかった。
 晩年の則義は、上まぶたがたれ下がり、物を見ようとすると指でまぶたをつまんだ。そうした父に、少女期の激しい読書から強度の近視になった夏子は、いつも澄んだ声で新聞を読み聞かせたのである。
 母の滝は病気がちとなり、貧苦が一家へ襲いかかった。夏子は妹の奉公先をさがしに出たり、自分は博覧会の売り子になろうと考えたりした。ひところは萩の舎に頼んで住みこんだが、女中のような仕事をさせられた。
 樋口家は小さい借家へ移って、母一人、娘二人は余所から針仕事や洗たく物を引き受けては倹しい生活のしのぎを重ねた。三銭五厘で大根が十教本買えたそうで、一カ月の生活費は七円ぐらいで済ませたというが、いくら物価の安い当時でも月七円では生きるのが精一杯だった。
五円が借り得ず
 母の滝は、知人を頼ってよく借金に出歩いた。遠くまで足を運びながら五円の金も借りられず、手ぶらで帰ることもあった。
「彼ほどに運んでどの家に五円十円の金なき筈はあらず。よし家にあらずとて、友あり、知人もあり。男の身の、なさんとならば成らぬべきかは。殊に、母君のかしら下ぐるばかりにの給ひけるをや。とざまかうざまにおもへど、かれは正しく我れに仇せんとなるべし。よし仇せんとならば、あくまでせよ。樋口の家に二人残りける娘の、あはれ骨なしか、はらはたなしか……」
 これは三年後の夏子の日記に見る憤然とした感情だが、彼女らはやりきれぬ借金生活から長くぬけられなかった。夏子の心の奥に、小説を書いてみたい気持ちがぼんやり宿って、それで生計を補えたらという考えがだんだん募り出した。
三つ指をつく娘
夏子は十六歳から日記を書いていた。題をつけたものが四十四巻、無題三巻、ほかに断片的なものが『一葉全集』を飾っている。最初の方は途切れ途切れでも、総じて王朝文学を思わせる文体でみごとな一葉文学の一部を占めているが、二十歳になると、激しい小説への熱情にかられ一編の習作を書いた。習作はそれまで何度か書いてみたし、今度はだれかに見てもらおうと考え、妹の友人のそのまた友人の兄にあたる新聞社の小説記者・半井桃水(なからいとうすい)をたずねることにした。
髪を銀杏がえしに結い、地味な身なりの夏子は、桃水の前に三つ指をついてあいさつした。外出は好きな方でなかったから、やはり生活の立直しを思いつめた結果だろう。縫い物の仕事がほしい、小説を書きたい、弟子にもなりたいという娘の話に、桃水はことわりきれなくなり、帰りに人力車を呼んで送らせた。夏子は嬉しさに涙をこぼした。それから精魂こめて小説を書き出した。図書館にも通った。萩の舎で琶典文学の講義を受けたのでそのまねごとを書いてみたり、通俗的な物語を書いて、桃水に低調だとけなされたりした。桃水は妻を亡くして独身で通す考えをもっていたが、三十一歳であったから二人のことは友人たちの噂にのぼり、彼女は忠告を受けたりした。
一葉女史の活字
やがて、桃水の関係する雑誌の創刊号に、夏子の書いた『闇桜』が掲載された。彼女の小説が初めて活字になったのだ。二十一歳で、作者名は一葉女史となっていた。むろん、彼女が自分で女史と名乗ったわけではない。
 友人の田辺竜子が、夏子に聞いた。
「夏ちゃんの一葉って、いい名じゃないの。桐の一葉ってわけなのね」
「ううん、そうじやないの。一葉一葉でも、わたしの芦の一葉よ。ダルマさんの芦の一葉よ。おあし(お金)がないから‥…」 
一葉の『闇桜』については、「趣向新しからねど文章艷麗にて、イヨ女西鶴さまとお褒めしたし」といった新聞評が見られた。一葉は急いで西鶴のものを読んだ。甲府の新聞社にいる知人から原稿を送れという好意的な通知があり、苦心して書きあげた『うもれ木』が定価十銭の文芸雑誌に出て、十一円七十五銭の原稿料がはいった。
 母の滝は、これで娘の未来が開けたかのように思いこんだ。事実、ぎりぎりの暮らしにあえぎ続けた滝には、夏子の一葉が机に向かって何か書くだけでお金になるということは、大変な名誉と感じたのであろう。
下谷の竜泉寺町
続いて一葉の『暁月夜』が雑誌『文学界』の創刊号に取りあげられ、新進女流作家・樋口一葉の名はようやく文壇人の間に注目され出した。半井桃水はすでにうらぶれていた。しかし、小説はまじめな人の仕事ではないと考えられた時代にたまたまの原稿料が生活のささえにかるものではなかった。二十二歳の一葉は、母と相談して下谷竜泉寺町に借家をみつけ、小さな店を開くことにした。
「人つねの産なければ常のこころなし。年をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌(えんそ)なくして天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為めになすべき物ならず。おもひの馳するまま、こころの趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて浮世を十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや……」
 一葉にこの大決心を持たせた店は、近くに盛り場をひかえ、間口三・六メートルのせまいところへ安物をならべた駄菓子屋兼荒物屋であった。最初の仕入れ金は五円、それも才覚できないで、開店を二十日近く遅らせ、開店の日から着物を質屋へ持って行く始末だった。
と感じたのだろう。
「二間の間口に五円の荷を入れけるなれば其淋しさ」
を、嘆いた一葉は仕入れ、妹の邦が店番と針仕事、台所は母親の担当ときめ、三人は愛想よく働いた。
チリの中の生活
「あさのほど少し雪ちらつく、やがて晴れたり。今日の忙しさ、たとふるにものなし。終日くにと我れと立ちつくすが如し」
と、二十三歳の元日に書いた一葉の日記は、けなげに奮闘する態度である。店を開いたら、のちに文名をあげた上田敏、馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木などが遊びにきて、外国語の詩を朗読したりするのを、世俗のチリにまみれながら運命を切り開くつもりの彼女は、目を輝かせて聞き入った。
残された仕入れメモには、南京豆五銭玉座、塩煎餅八銭、五色豆四銭五厘、パン七銭などと書いている。だから売上げは四十銭とか六十銭で、月に四、五円の利益しかなかった。だから、相変わらず金策に忙しかった。そのために一葉は、露骨な誘いを受けた。
父が存命中には婚約をきめられたときがあり、あとまで愛情を寄せてきた人もいた。夏目漱石の父が、漱石の兄の嫁に迎えようとしたこともあるといわれる。だが、彼女はもはや結婚を考えるどころでなかった。
店を閉じたあと
彼女らの店ができたら、近所で同業の店が二軒やめた。移り気な客が新規の店に集まったためだが、そのうちに向かい側に同業者が開店した。
「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。人になさけなければ、黄金なくして世にふるたつきなし。すめる家は追われなんとす。食とぼしければ、こころつかれて筆はもてども夢にいる日のみなり。岡辺のまつの風にうらむは、同じたぐひの人の末か、わびし」
日記に弱気があらわれる。四月限りでとうとう店を閉じ、本郷丸山福山町へ引っ越した。間もなく、日清戦争となった。
 本郷へ移って、一葉は二年あまりの間に『大つごもり』『にごりえ』『ゆく雲』『十三夜』『たけくらべ』などを次々と書いた。一気に押し出した感じだが、実際は生活費に追われていたのである。しかし、『たけくらべ』が不朽の名作とうたわれ、最高の賞賛を贈られたことはいまさら言うまでもない。その作品には、しだいに社会の矛盾を語るあとがにじみ出てきた。
 明治の雅文折衷体で、現代人にはやや読みづらくても、多くの人は必ず一葉の小説を読みかえす時期があろう。
必死に耐えた命
二十五歳の春、一葉は結核の症状を自覚した。
小説よりは通俗書簡文を書いて欲しいという出版社の注文に、やむなく無理をしたのが原因んであるようだ。七月にはいると高熱が続き、医師は絶望を宣告した。明治二十九年(一八九六)二月、霜を感じる夜明け方、看病に疲れた母と妹がのぞいてみたら、死んでいた。それまで耐えたのは、どうにかして生きたいと思ったものだろう。六十一歳の母は、もう声も出なかった。
両親の郷里の慈雲寺に大正十一年(一九一三)、幸田露伴の撰文を刻む一葉家郷の碑が建てられた。
『ゆく雲』の中に、
「我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩の山々峯々、垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺ねはをしみて面かげをしめさねども…」
と書いた一葉が、甲州と血のつながりを持つことに、人びとは誇りとしたのである。
慈雲寺は、父の則義が寺小屋の勉学に通ったところで、その近くに家があった母の滝と知り合ったという。滝は用事で帰ったときもあるが、則義はついに帰郷の機会がなかった。
★ 一葉家郷の碑は塩山市中萩原・慈雲寺





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最終更新日  2021年02月27日 06時53分12秒
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