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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年03月02日
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芭蕉、年譜 ☆貞享5年(1688)45才<元禄元年>~没年

 

  2月4日、伊勢神宮参拝。

  2月18八日、亡父三十二回忌の法要に列席。

  3月19日、万菊丸(杜国)を伴って吉野の花見に出立、

高野山、和歌浦、奈良、大坂を経て、

        4月20日、須磨、明石を巡遊、須磨に一宿。去冬江戸出立以来、

本日までの紀行文が『笈の小文』である。

  4月23日、入京、

  5月10日頃、京を出る。

  8月11日、越人と信濃国更科へ名月を見に行き、

長野、碓氷峠を経て江戸に帰る。この旅の紀行が『更科紀行』である。

  9月13日、芭蕉庵で十三夜の月見。素堂、杉風、越人、友五、岱水、

  路通、宗波、夕勢、蚊足ら参会。

 

奥の細道

 

『奥の細道』の旅は、いうまでもなく、芭蕉にとって、集大成の旅であった。

前年、『更科紀行』の旅から帰った芭蕉は、しばらく草庵に落ちついていたが、その間、ぼつぼつ旅への計画を思い立っていたらしい。明けて元禄二年の春には、早々郷里の兄に宛て、「何とぞ北国下向之節立寄候而成、関あたりより成とも通路いたし、しみじみ可申上候」

と、書き送っているし、二月に入ると同じく郷里の猿雖にも、奥羽・北陸のの予定を知らせて、

○「一鉢境界乞食の身こそたふとけれ」と、乞食僧のような旅に出る覚悟のほどを示している。

そして、住みついた家も人に譲って、近くの杉風の別荘に移った草庵を捨てたのは、人の世のはかなさや無所住の思いに徹し、そうした境涯に身を置いて風雅の道を究めようとする気持が強かったのだろう。三月の節句すぎには出発する筈だったのが、都合で少し延びたらしい。

(この事については別記する)

道中は一曽良が一緒に行くことになった。曽良は芭蕉庵の近くに住んでいて、

始終山入りしていたが、今度の旅先きの事をいろいろ調べて、「延喜式神名帳

抄録」を作ったり、「名勝備忘録」を作ったりした。旅に出てからは、丹念に

日記をつけて、日々の動静を明らかにしている。

(このたびを芭蕉と曽良と別に見ると、この度が芭蕉の一方的な思いでなく、

時の社会情勢や、曽良の仕官先の仕事柄とも深い関わりが見える。別記) 

この旅の出発は、ひっそりした出発となった。しばらく草庵で隠士的な生活

をし、静かに自己を見詰めていた芭蕉にとって何か期するものがあったのか

も知れない。きびしい求道者のような心境であった。

 

月日は壱代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を

栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそ

はれて漂泊の思ひやまず云々。

 

曽良の「随行日記」によると、二人は、3月20日深川を出船し、干住に上

った。芭蕉は、見送りの人々に、

    行春や鳥啼く魚の目は泪

と、留別の吟を詠んだ。

干住・室の八嶋・日光・那須野・黒羽・芦野・白川関・須賀川・浅香山・鯖

野・飯坂・笠島・武隈・仙台・壺碑・塩釜・松島・石巻・平泉・尿前・尾花

沢・立石寺・大石田・羽黒・鶴岡・象潟・市振・金沢・山中・大帥、上寺・

吉崎・丸岡・福井・敦賀・種の浜・大垣・日光

 

    あらたふと青葉若葉の日の光

芦野

    田一枚植ゑて立去る柳かな

象潟

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし

    象潟や雨に西施が合歓の花

以下

荒海や佐渡によこたふ天の河

塚も動け我が泣く声は秋の風

 

「奥の細道』の文は、芭蕉が元禄三年幻住庵に入ったころから整理に着手し、晩年に至るまで推敲をつづけていたようである。さいきん、曽良の『随行日記』と対比することによって、その文学か実録かが問題とされているが、その論議より、こうした旅の成り立ちを調べてみると、思いがけない展開も見えてくる。

これは資金・宿・訪問先それに随行者の動向などである。(この項別記)

 

<参考資料 元禄元年の素堂と芭蕉>

★芭蕉書簡……羅月宛書簡

  夏花集豚筆書跋は御仰候共、名前次第之跡書直し可申と存候へ共、其儘と有之いずれにも近日書添へ可仕候まゝ、まずまず御まち可被下候。

 

       一、素堂主に別書申上候まゝ是もきぬせつ下され、書冩之

        事被仰越候へば、ちかき内□□(ママ)又々□□(ママ)此通

        に御座候

                      朝顔は酒盛知らぬさかり哉

                 羅月様                        はせを

 

芭蕉……

八月十一日、信州更科に仲秋の名月を賞すべく、越人同伴で岐阜を発つ。

        送られつ送り果は木曾の秋           (出、『更科紀行』)

        草いろいろおのおの花の手柄かな       (出、『笈日記』)

         人々郊外に送り出でて三盃を傾け侍るに

        朝顔は酒盛り知らぬ盛り哉            (出、『笈日記』)

        ひょろひょろとなほ露けしや女郎花      (出、『更科紀行』)

                             (この項、『芭蕉年譜大成』今栄蔵氏著)

 

芭蕉……八月下旬、更科紀行を終えて越人同伴で帰江。

素堂……「はせを庵に帰るをよろこびてよする詞」(『柱暦』所収)

むかし行脚のころいつか花に茶の羽折 と吟じてまち侍し、其羽織身にしたひて五十三駅再往来、さらぬ野山をもわけつくして、風にたゝみ日にさらせしまゝに、離婁が明も色をわかつよしなく、龍田も染かへすことかたかるべし。これ猶、ふるさとの錦にもなりぬるかと、をかしくもあはれに侍る。たれかいふ、素堂素ならず眼くろし、茶の羽折とはよくぞ名付る。其ことばにすがりて又申す。

  

茶の羽折おもへばぬしに秋もなし

 

素堂……九月、『素堂亭十日菊』

       貞享五戊辰菊月仲旬

蓮池の主翁(素堂)又菊を愛す。きのふは廬山の宴をひらき、けふはその酒のあまりをすゝめて、獨吟のたはふれとなす。猶おもふ、明年誰かすこやかならん事を 

       いざよひのいづれも今朝の残る月     はせを

                           

残菊はまことの菊の終りかな         路通

咲事もさのみいそがじ宿の菊         越人

昨日より朝霧ふかし菊畠             友五

かくれ家やよめなの中に残る菊       嵐雪

此客を十日の菊の亭主あり           其角

さか折のにひはりの菊とうたはゞや   素堂

             

 よには九の夜日は十日と、いへる事をふるき連歌師のつへしを此のあした紙魚を拂ひて申し侍る。又中頃恋になぐさむ老のはかなさ、むかしせし思ひを小夜の枕にて、我此心をつねにあはれぶ、今猶おもひつまゝに

        はなれじと昨日の菊を枕かな        素堂

 

素堂……『芭蕉庵十三夜』

               

ばせをの庵に月をもとあそびて、只つきをいふ。越の人あり、つくしの僧あり、まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし。あるじも浮雲流水の身として、石山のほたたるにさまよひ、さらしなの月にうそぶきて庵にかへる。

 いまだいくかもあらず。菊に月にもよほされて、吟身いそがしひ哉。花月も

此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞する事、みつればあふるゝの悔あればなり。

中華の詩人わすれたるににたり。ましてくだらしらぎにしらず、我が国の風月

にとめるなるべし。

 

        もろこしの富士にあらばけふの月見せよ      素堂

        かけふた夜たらぬ程照月見哉               杉風

        後の月たとへば宇治の巻ならん             越人

        あかつきの闇もゆかりや十三夜             友五

        行先へ文やるはての月見哉              岱山

        後の月名にも我名は似ざりけり              路通

        我身には木魚に似たる月見哉          僧 宗波

        十三夜まだ宵ながら最中哉              石菊

        木曾の痩もまだなをらぬに後の月       はせを

 

仲秋の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、猶あはれさのみにもはな

れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、世に名月とみはやし、後の月あるは二夜の月などいふめる。

 是才士文人の風雅をくはうるなるや。閑人のもてあそぶべきものといひ、且

は山野の旅寐もわすれがたうて人々をまねき、瓢を敲き峯のさゝぐりを白鴉と

誇る。

隣家の素翁、丈山老人の、一輪いなだ二部粥  といふ唐歌は、此夜折にふれた

りとたづさへ来れるを壁の上にかけて、草の庵のもてなしとす。狂客なにがし

しらゝ吹上とかたり出けれは、月もひときははへあるやうにて、中々ゆかしき

あそびなりけり。

                            貞享五戊辰菊月中旬        蚊足著

                      物しりに心とひたし後の月

 

蚊足……本名、和田源助。若いときより芭蕉の周辺に居る。素堂の口入れで若

年寄り、秋元田島守に仕官する。二百石。絵も達者で芭蕉没後、肖像を描きま

るで芭蕉が生きているようだと評判をとる。又蚊足の描いた芭蕉石刷像に素堂

の讃がある一幅がある。

 

〔素堂余話〕……『素堂亭十日菊』

        

  『芭蕉と蕉門俳人』・「芭蕉と其の周辺の資料」大磯義雄氏著

                 二、「素堂亭十日菊」

                きのふ竜山の交(ママ)を□□□□(  ノシルシアリ)

                けふは其酒のあまりをすゝめて

                狂句の戯をなす

       いさよひの何を今朝にのこる菊              芭蕉

       残菊は誠の菊の意かな                      路通

       咲事もさのみいそかし宿のきく              越人

       昨日より朝露ふかしきく畑                 松江

       かくれ家やよめなの中に残菊             嵐雪

       此客を十日の客の亭主有                   キ角

 

       さか折のにゐはりの菊とうたハはや        素堂

 

よには九の夜日には十日といへるつらね句にたよりて云又中比恋になくさむ

老のはかなさむかしせしおもひを小夜の枕にて予此心をつねにあわむ(ママ)今なほおもひ出るまゝに

 

 離れしときのふの菊のまくらかな

(略)さて、この「素堂亭十日菊」は『笈日記』や『陸奥鵆』所収のものと比較して相違する所がある。その主なものは、 芭蕉句の前書、「昨日の」句の作者、素堂の後語、 素堂句の句形である。以下、簡単に説明を加えておく。

簡単になっている。現物自体の破損カ所がある。「昨日より」の句の作者は『笈日記』などに友五とある。友五は松江の養嗣子という。素堂の後語も比較すると到底書違いと言うべきものはではない。『笈日記』などには「昨日の菊を」となっている。要するに誤記もあるが『笈日記』『陸奥鵆』とは別点で、私はこれを原稿の写しではないかと考えている。なお次を参照されたい。

 

  三、「芭蕉庵十三夜の記」の素堂序と句

 

十三夜

 はせをの庵に月をもてあそひて只月をいふこしの人ありつくしの僧ありま□の□= (キシルシアリ)うきくさに逢かことしあるしも草枕一鉢の身としてあるは宇治川のほたるにさまよひさらしなのつきにうそふきて庵に帰りいまたいくはくの日あらす菊に月にもよほされて吟身いそかしいかな花月もこの人の為に晦あらし 晦=(ママ)

                      

 われきく今宵を賞すること日のもとにかきりて支那にはあらすくたらしらきにもしらす我かたの風月にとめるなるへし

 

 もろこしに富士あらハけふの月も見よ

       如此御認可被下候

   此人の為に晦(ママ)あらしの句翁へ御伝可被下候

                              雑纂書留第四紙所収。

 

 

注目されるのは素堂句の後にある書簡体の文言である。(略)素堂が誰かに宛てて出した書簡に相違ないのである。『武蔵野三歌仙』所載の芭蕉真蹟、および『笈日記』『陸奥鵆』所載のものとも文章にかなりの異同が認められる。 

(略)芭蕉が素堂の諒承のもとに自分の気に入るように書き改めたのではあるまいか。

(略)素堂の原稿に「晦あらし」の語がみえ、終りにも「此人の為に晦あらしの句」として引用する「晦」の字についてである。

(略)「花月もこの人の為に晦あらし」は語句ではなく文中の発句だったのである。『笈日記』などに「花月も此為に暇あらじ」となっているのはどういう)の方がずっと優れている。云々

  詳細は『芭蕉と蕉門俳人』を参照のこと。

 

芭蕉像 素堂賛…

「蚊足筆素堂賛石刷芭蕉像」(森川昭氏蔵)元禄九年の作。

  芭蕉翁忌日に蚊足絵がける翁の旅姿にむかひて

       けふとてや行脚姿で帰花              素堂

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晩年の芭蕉

 

 こうやって芭蕉の伝記を紐解いていると、不思議な心境になる。この時代生きた俳人の動向は定かではなく、芭蕉が最も信頼していて、芭蕉亡き後も山口素堂は義仲寺を訪れその都度手追悼句を手向けている。この素堂の想いは、芭蕉生前の交友と信頼の深さからきているもので、素堂と芭蕉に関係をもっと調べていけば、さらに芭蕉の生き様がわかって来る。素堂なくして芭蕉は語れない。

ここでその一部分を紹介しよう。

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素堂特別講座 野ざらし讃唱]

 

 

   芭蕉、『野ざらし紀行』

 

 千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。

   野ざらしをこゞろに風のしむみかな     

   秋十とせ却てゑとをさす故郷

 關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。霧しぐれふじをみぬ日ぞおもしろき何某千りと云けるは、此たび路とのたすけとなりて、萬いたは り心を盡し侍る。常に莫逆の交深く、朋友に信あらかな此人。

   ふかゝやはせをふじに預ゆく   ちり

 ふじかわのほとりをゆくに、三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり。此川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぎにたへず、露ばかりの命まつ間と捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、猿をきく人すて子にあきのかぜいかにいかにぞや、汝ちゝににくまれたるか、母にうちまれたるか。父はなんぢを悪ムにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。大井川越る日

 は、終日雨降ければ、秋の日の雨江戸に指折ん大井川眼前、

   道のべの木槿は馬にくはれ鳧

  二十日餘りの月かすかに見えて、山の根ぎはいとくらきに、馬上にむちをた れて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りてたち まち驚く。

   馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり

  松葉や風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日ばかり足をとゞむ。暮て外宮に 詣侍りけるに、一の鳥井の陰ほのくらく、御燈處々に見えて、また上もなき 峯の松風身にしむばかり、ふかき心を起して、

   みそか月なし千とせの杉を抱あらし

  腰間に寸鐵を不レ帯、襟に一嚢を懸て、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵あり、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、髻なきものは俘屠の属にたぐへて、神前に入をゆるさず。西行谷のふもとに流あり。をんなどもの芋あらふをみるに、

   いもあらふ女西行ならば歌よまん

 其日のかへさ、ある茶店に立よりけるに、てうといひけるをんな、あが名に発句せよと云て、白き絹出しけるに書付侍る。

   蘭の香や蝶の翅にたきものす

閑人の茅舎をとひて

   蔦植て竹四五本のあらしかな

 長月の初故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事もむ かしに替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てのみ云て言葉はなき に、このかみの守り袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱なんぢが眉もやゝ老たり、と、しばらくなきて、

   手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

 大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる。此處はれいのちりが旧郷なれば、日比とゞまりて足を休む。藪よりおくに家有わた弓や琵琶に慰む竹のおく二上山当麻寺に詣て、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたっとし。     

   僧朝顔幾死かへる法の松

 獨よし野のおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峯に重なり、烟雨谷を埋ンで、山賤の家處々にちいさく、西に木を伐ル音東にひびき、院々の聲の心の底にこたふ。むかしより此山に入て世をわすれたる人の、おほくは詩にのがれ歌にかくる。いでや、唐土の廬山といはむもまたむべならずや。

ある坊に一夜をかりて

   碪打てわれにきかせよ坊が妻

 西上人の草のいをりのあとは、奥の院より右の方二町ばかりわけ入程、柴人

のかよふ道のみわずかに有て、さがしき谷をへだてる。いとたふとし。彼とく

とくの清水はむかしにかはらずと見えて、今もとくくと雫落ける。

   露とくとく心見にうき世すゝがばや

 若是扶桑に伯夷あらばかならず口をすゝがん。もしこれ許由に告ば耳をあら

はむ。山を登り坂を下るに、秋の日既ニ斜になれば、名のある處々見残して、

 先ず、後醍醐帝の美陵を拜む。

   御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草

 大和より山城を経て、近江路に入て、美濃にいたるに、います・山中を過ぎ

て、いひしへの常盤の塚あり。伊勢の守武がいへるに、よしとも殿に似たる秋

風とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、

   義朝の心に似たりあきの風

 不破

   秋風や藪も畠も不破の関

 大垣に泊りけるに夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出し時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

   死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ

 桑名本當寺にて

   冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす

 草のまくらに寝あきて、まだほの暗き中に濱のかたへ出て、

   あけぼのやしら魚白き事一寸

熱田の詣ヅ。社頭大イニ破れ、築地たはふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ・しのぶ心のまゝに生たるぞ、なかくに目出度よりも心とまりける。

   しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

 名護屋に入ル道の程諷吟ス

   狂句凩の身は竹斎に似たるかな

   草まくら犬もしぐるゝか夜の聲

 ゆき見ありきて

   市人よこの笠うらう雪の傘

 旅人を見る

   馬をさへながむる雪の旦かな

 海邊に日暮して

   海くれて鴨の聲ほのかに白し

 爰にわらぢをとき、かしこに杖をすてゝ旅寝ながらに年の暮ければ、年くれぬ笠きてわらぢはきながらといひいひも山家にとしを越て

誰が壻ぞ齒朶に餅おふ牛の年

 奈良に出る道のほど

   春になれや名もなき山の朝霧

 二月堂に籠りて

   水取リや氷の僧の沓の音

 京に登りて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。

 梅林

   梅白し昨日や鶴をぬすまれし

   樫の木花にかまはぬすがたかな

 伏見西岸寺任口上人にあふて

   我衣にふしみの桃の雫せよ

 大津に出る道、山路を越て

   やま路来てなにやらゆかしすみれ草

 湖水眺望

   辛崎の松は花よりおぼろにて

 晝の休らひとて旅店に腰を懸て

   つゝじいけて其陰に干鱈さく女

 吟行

   菜畑に花見皃なる雀哉

 水口にて廿年を経て故人あふ

   命二ツ中に活きたるさくらかな

 伊豆の國蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我名をきゝて、 

草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたふ来たりければ、

   いざともに穂麥くらはんくさまくら

 此僧われに告て曰、圓覺寺大顛和尚、ことしむ月のはじめ、遷化したまふよし。

まことや夢のこゝちせらるゝに、先道より其角が方へ申つかはしける。   

梅戀て卯の花拜むなみだかな

 贈 杜國子

   白げしにはねもぐ蝶のかたみかな

 二たび桐葉子がもとに有て、今やあづまにくだらんとするに、

牡丹蘂ふかく分ケ出る蜂の名残かな

 甲斐の國山家にたちよりて (一本、山中に立ちよりて)

   ゆく駒の麥に慰むやどりかな

 卯月の末いほりにかへり、旅のつかれをはらす。

   なつ衣いまだ虱をとりつくさず

  酬和の句

江戸をたつ日

ばせを野分其句に草鞋けへよし              李下

月ともみぢを酒の乞食                   蕉

自烏巾を持きたりて

頭巾きて君見よふじの初颪         コ斎

伊勢やまだにて、いも洗ふと云句えを和す

宿まいらせむさいぎやうなれば秋の暮    雪枝

ばせをとこたふ風の破がさ               蕉

花の咲みながら草の翁かな              勝延

秋にしほるゝ蝶のくづれを                 

師のむかし拾ンこの葉かな              塔山

薄に霜の髭四十一                       蕉

霜の宿の旅寐に蚊帳をきせ申            如行

古人かやうの夜のこがらし               蕉

われもさびよ梅よりおくれの藪椿     雅良

ちやのゆに残る雪とひよ鳥               蕉

我桜あゆさく枇杷の広葉哉         京  秋風

筧にうごくやま藤の花                   蕉

樫の木の花にかまはぬ姿かな             蕉

家するつちをはこぶつばくら            秋風

我頓而かへらむと云を

人をあだにやらふと待や江戸桜                 任口

梅たえて日永し桜いま三日              湖春

東の窓の虫くハにつく                   蕉

巣の中につばめの顔のならびゐて         々

つくつくと榎木の花の袖にちる           桐葉

独りちやを摘やぶの一ツ屋               蕉

夏草よ吾妻路まとへ五三日              若照

かさもてはやす宿の卯の雪               蕉

独書をみる草の戸の中

二町程西に礎のきこゆ也

侘おもしろくとちのかゆ煮る

さらしなの里の碪をうちにゆき

榎木の風の豆からをふく

寒き炉に住持は独柿むきて

小僧ふたりぞかしこまりける

朝鮮のゑかきにならの酒をくみ我恋は色紙をもてる笑より

宮司が妻にほれられて侘

美人を拜むかげろふのおくゑぞの聟声なき蝶と身を泣て

うち被前垂の香のなつかしく

君にもたれて酒かひに行ク

木の間くに星みゆるかげ

宮守の油さげ行花のおく

一リン咲るまどのしゃくやく碁の工夫二日とぢたる目を明て

薄をきりて篷にふきけり

琵琶負て鹿聞に入篠のくま

      

素堂跋

 

 こがねは人の求めなれど、求むれハ心静ならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。たゞ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハなし。こゝに隠士あり、其名を芭蕉とよぶ。はせをはをのれをしるの友にして、十暑市中に風月をかたり、三霜江上の幽居を訪ふ。

 いにし秋のころ、ふるさとのふるきをたづねんと、草庵を出ぬ。したしきかぎりハ、これを送り猶葎をとふ人もありけり。

      何となく芝ふく風も哀なり      杉 風

 他ハもらしつ。此句秋なるや冬なるや。作者もしらず、唯おもふ事のふかきならん。予も又朝かほのあした、夕露のゆふべまたずしもあらず。霜結び雲とれて、年もうつりぬ。いつか花に茶の羽織見ん。閑人の市をなさん物を、林間の小車久してまたずと温公の心をおもひ出しや。五月待ころに帰りぬ。かへれば先吟行のふくろをたゝく。たゝけば一つのたまものを得たり。

 そも野ざらしの風は一歩百里のおもひをいだくや。富士川の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。なく子は獨リなるを往来いくはく人の仁の端をかみる。

を聞人に一等の悲しミをくはえて今猶三聲のなミだだりぬ。次のさよの中山夢は千歳の松枝とゞまれる哉。西行の命こゝにあらん。       

 猶ふるさとのあはれは身にせまりて、他はいはゞあさからん。誠や伯牙のこゝろざし流水にあれば、其曲流るゝごとしと、我に鐘期が耳なしといへども、翁の心、とくくの水うつせば句もまた、とくとくしたゝる。翁の心きぬたにあれば、うたぬ砧のひゞきを傳ふ。昔白氏をなかせしは茶賣が妻のしらべならずや。

坊が妻の砧ハいかにて打てなぐさめしぞや。それは江のほとり、これはふもとの坊、地をかゆともまたしからん。美濃や尾張のや伊勢のや、狂句木枯の竹斎、よく鞁うつて人の心を舞しむ。其吟を聞て其さかひに坐するに同じ。詞皆蘭とかうばしく、山吹と清し。しかなる趣は秋しべの花に似たり。其牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。風の芭蕉、我荷葉ともにやぶれに近し、しばらくとゞまるものゝ形見草にも、よしなし草にも、ならばなりぬべきのミにして書ぬ。                                                          

 

『芭蕉文集』

この跋は濁子本『野晒紀行畫巻』素堂跋と殆ど同様である

 (発行、岩波書店。杉浦正一郎氏・宮本三郎氏・荻野清氏共著)

 

『野晒紀行畫巻』

 中川濁子が畫を加え、素堂の跋と芭蕉の奥書がある。     

                

   甲子吟行        素堂序

 

 我友ばせをの老人故郷のふるきをたぐねむついでに、行脚の心つきて、それの秋、江上の庵を出、またの年のさ月ごろに帰りぬ。見れば先頭陀のふくろをたゝく、たゝけばひとつのたま物を得たり。

 そも野ざらしの風ハ出たつあしもとに千里のおもひをいだくや、きくひとさえぞ、そぞろ寒け也。次に不二の見ぬ日そ面白きと詠じけるは、見るに猶風興まされるものをや。富士川の捨子ハ憶隠の心を見えける。

 かゝるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすが流れよとハおもハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれな らずや。又さよの中山の馬上の吟、茶の烟の朝げしき、梺に夢をおびて、葉の落る時驚きけん詩人の心をうつせるや。桑名の海辺にて白魚白きの吟ハ、水を切て梨花となすいさぎよきに似たり。

 天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらむ。ゆきゆきて、山田が原の神杉をいだき、また上もなきおもひをのべ、何事のおはしますとハしらぬ身すらなみだ下りぬ。同じく西行谷のほとりにて、いも洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねバ、答もあらぬぞ口をしき。

 それより古郷に至りて、はらからの守袋より、たらちねの白髪を出して拝ませけるハ、まことにあはれさハ其身にせまりて、他はいはゞあさかるべし。しばらく故園にとゞまりて、大和廻りすとて、わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。

しかれ共、山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべし。それよりみよしのゝよしのゝおくにわけいり、南帝の御廟にしのぶ草の生たるに、そのよの花やかなるを忍び、またとくくの水にのぞみて、洗にちりもなからましを、こゝろにすゝぎけん。此翁年ごろ山家集をしたひて、をのずから粉骨のさも似たるをもつて、とりわき心とまりぬ。おもふに伯 牙の琴の音、こゝろざし高山にあれば、峨々ときこへ、こゝろざし流水にあるときハ流るゝごとしとかや。我に鐘子期がみゝなしといへども、翁のとくくの句をきけば、眼前岩間を伝ふしたゝりを見るがごとし。同じくふもとの坊にやどりて坊が妻に砧をこのミけん。むかし、潯陽の江のほとりにて楽天をなかしむるハ、あき人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打ちて翁をなぐさめしぞや。ともにきかまほしけれ。それハ江のほとり、これハふもとの坊、地をかふるとも又しからん。いづれの浦にてか笠着てぞうりはきながらの歳暮のことぐさ、これなん皆人うきよの旅なることをしりがほにして、しらざるを諷したるにや。

洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたずね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし。

 美濃や、尾張や、大津のや、から崎の松、ふし見の桃、狂句こがらしの竹斎、よく鞁うつて人のこゝろをまなバしむ。こと葉皆蘭とかうばしく、やまぶきと清し。静なるおもひ、ふきハ秋しべの花に似たり。その牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。

風のはせを、霜の荷葉、やぶれに近し。

 しばらくあとにとゞまるものゝ、形見草にも、よしなし草にも、ならバなるべきのミ、のミにして 書ぬ。

 

                     かつしかの隠士       素 堂

 

 甲子吟行

 

 この紀行は芭蕉の真蹟に素堂自筆の跋の附いたものが、門人曾良の手から贄川某に傳へられ、寄山といふ人が之を模写して同門の波静に與へ、安永九年(1780)に星運堂から発刊された。云々

 (『俳聖芭蕉』野田別天樓氏著。昭和十九年刊)

 

 

 野晒紀行畫巻は芭蕉の門人中川濁子が畫を加へ、素堂の跋と芭蕉の奥書のあるもので、本分の筆者は芭蕉でなく、素堂との説もあるが、確実ではない。原畫巻は東京の大橋家に珍蔵されている。云々

                (『俳聖芭蕉』野田別天樓氏著。昭和十九年刊)

 

 芭蕉…

 

 貞享元年八月、四十一才の芭蕉は、門人千里を伴い、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、郷里の伊賀国に着いたのは九月の初め、母の白髪に慟哭、千里と別れ、ひとり吉野の奥に西行を訪ねた。美濃国大垣の木因に寄舎し、次いで尾張国では『冬の日』五歌仙を巻く。越年を故郷で過ごし、奈良-京都-伏見-大津を経て再び尾張国を訪ね、甲斐国に立ちより、貞享二年四月末日に深川に帰庵する。

 

 書名は「草枕」「のざらしの集」「芭蕉翁野佐らし紀行」「野晒紀行」「芭蕉甲子吟行」などと呼ばれた。その後次第に整理されて「野ざらし紀行」・「甲子吟行」と整理されてきた。

 

 

 素堂、野ざらし讃唱

  素堂の和詩「野ざらし讃唱」(高橋庄次氏紹介)によれば、

 

 江戸に戻った芭蕉は「野ざらし」と「草枕」をそのまま生かして、間に木因との小旅行で得た三句を挿入し、「草枕」の末尾に尾張から江戸に戻る帰路の六句を付け加えて、全体の題号を「野ざらし」として、一巻にまとめ上げた。

 こうして貞享四年。野ざらしの段、草枕の段、名残りの段の三段構成の『野ざらし絵巻』となって完成した。その時芭蕉は素堂の跋詩文「野ざらし讃唱」を加え、これが大きな役割を演じ、芭蕉の本文と素堂の讃唱が大きな唱和形態を素堂讃唱の効果は見事な詩文を構成し、本文とのハ-モニ-を作り出した。             

 

  素堂跋文

 

 『旅路の画巻』

 素堂の跋によると、琴風の家にあった立圃と其角の画を見た芭蕉が自ら旅路の風景を描き、大垣の中川濁子加彩させたという)

風流とやせん、名印あらざれば、炎天の梅花雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたそや。

  

                しもつさの国かつしかの散人素堂 花押 

 

  参考

 『国文学』「俳諧紀行文の誕生」、もう一つの表現。米谷巌氏著。                                                          

 昭和54年10月号

 

「かへれば先ず吟行のふくろをたたく、たゝけば一つのたまものを得たり」と素堂が語っているように、野ざらしの旅土産は、貞享二年四月の帰庵後直ちにつづられて、待ち受ける素堂・其角ら周囲の門友に披露されたものと推測される。(中略)なお、泊船本の原点に付されていたという素堂の跋文は、狐屋本および濁子本に書写されている素堂跋文(短文型)とおそらく同種のものであろう。(略)ちなみに素堂の跋文には、他に長文の類似のものがあり、素堂の自筆が芭蕉真蹟画巻の巻初に、序文の形で貼付けされている。その長文型の序文の作者及び執筆年次についても議論がある。(略)素堂の自筆と認められる序文(岡田利兵衛『図説芭蕉』34頁)が出現した現在、偽作説はもはや問題にならない。

(略)素堂は、やはり落款のない芭蕉の遺稿『旅路の画巻』(三巻一軸)にも跋文を寄せて、

 

「名印あらざれば、炎天の梅花・雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたたそやと述べている。芭蕉没後の素堂にこのような気持ちがあったことを参酌すれば、ましてかって跋文を贈った因縁のある野ざらし紀行の、無署名の自筆画巻のために快く懐かしく筆を執ったであろうと想像される。(以下略)

                                  

 『野ざらし紀行翠園抄』 (序跋付録を省き本文のみ翻刻) 積翠編。

(『国語国文学研究史大成』12)

 此紀行は貞享元年にして、桃青四十一歳なり。今世に行はるゝ甲子吟行と題せるもの也。云々

 

              猿を聞人捨子秋の風いかに

素堂評

富士川の捨子は憶測の心ぞみえける。かゝる早瀬を枕として捨置けん、さすがに流にはとおもはざるまじ。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらんかたなくかなしけれども、と昔の人の捨心まで思よせて哀れならずや。

 

         馬上吟

              道のべの木槿は馬にくはれけり

素堂評

山路来ての菫、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ。

              みそか月なし千とせの杉を抱あらし

素堂評

ゆきゆきて山田が原の神杉をいだき、又うへもなきおもひをのべ、何事のおはしますとは知らぬ身すがらもなみだ下りぬ。

              芋あらふ女西行ならば歌よまん

素堂評

西行谷のほとりにて芋洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねば答もあらぬぞ口おしき。其日のかへさ、ある茶店に立寄りけるに、てふといひける女、あが名に発句せよといふて白きを出しけるに書付侍る。

              わた弓や琵琶になぐさむ竹の奥

素堂評

わた弓に琵琶なぐさみ、竹四五本の嵐哉と隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけると也。しかれども山路来ての菫、道ばたのむくげこそ此吟行の秀逸なるべけれ。

              砧打て秋にきかせよ坊が妻

素堂評

麓の坊にやどりて坊が妻に砧このみけん。昔潯陽の江のほとりにて楽天を泣しるはあき人の妻のしらべならずや。坊がつまの砧はいかに打て翁をなぐさめ

しにや。

              明ぼのや白魚しろき事一寸

素堂評

桑名の海辺にて魚の白き吟は、水を切て梨花となすいさぎよさに似たり。天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらん。

              年くれぬ笠着て草鞋はきながら

素堂評

笠着てぞうりはきながらの歳暮のごとき、是なん浮世の旅なる事を知らざるを諷したるにや。

              物白しきのふや鴨を盗れし

素堂評

洛陽に至り三井秋風子の梅林を尋ね、きのふや鴨を盗れしと西湖に住人の鴨を子とし、梅を妻とせし事をおもひよせしこそ菫むくげの句の下にたゝ事かたかるべし。

              山路来て何やらゆかし菫草

素堂評

山路来てのすみれ、道ばたのむくげこそ、この吟行の秀逸なるべけれ。

 

  素堂の詩 『俳諧二百年史』

 

 素堂を以て一廉の詩文に精通せるものゝ如く云へるのは、甚だ以て解すべからざる所なりとす、素堂の詩文の如きは随分と迷惑なものにして、精通とか巧妙とかうふべき程のものにあらざるを、芭蕉が之を以て精通云々せるは、悪く之は解釈する時は彼は素堂に限らず敢て何人に對しても阿諛せりと認むる能はざるを以て、然らば盲従せしものか如何。

   

『俳諧史上の人々』 高木蒼梧著

 

 先般夏目成美手澤の「素堂家集」二冊及び坎窩久臧の「素堂家集」二冊より、素堂の漢詩五十数篇を得て一閲するにその漢詩文は實に堂々たるもの、老手にあらざれば道破し得ざる底のものが多いのに一驚した。なまかに浅学の筆者が論評するよりもと考へ、これを漢詩壇の泰斗國府犀東先生に寄せて批評を需めたるに、その一説に曰く、箇様に褒め立てゝ見ると、宗人の唾餘を拾はず、唐賢の下風を拜せず、夐かに漢魏六朝の上にまた躋ぼって、先泰周季に力を得て居る。薀蓄の啻ならぬ詩壇の一巨擘であるかのやうに見える。さうして殊に古

文辭学派の起こり來らんずる先驅をなし、宗儒道学者流の口吻を一擲し去った。一新機軸の新作家であるやうに認めらるゝ。古文辭学派の詩人を、そのまだ起り來らざる前に當つて、アッと云はせるだけの力があったばかりでなく、同時に又宗代の新流行であった詞餘の調子をも取り入れることを知ってゐた所のハイカラであった。云々。

 

俳誌「石楠」昭和三年四月號に

 

「素堂の詩境凡ならず、國府犀東」「素堂の詩文、高木蒼梧」に二文がある。

 

 これは従来褒貶一ならざりし素堂の漢詩文に就て、正しき帰結と見る事ができやう。詞藻は別として、学問の造旨は芭蕉より深く、當時の 俳諧者流に於て、第一の碩学たりしは疑ふべくもない。云々 

 どうであろうか「野ざらし紀行」も、まったく違った展開となる。芭蕉の優位性のみ追求していくと俳諧論の本質を見失うことになる。

 

「奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、九月六日大垣を立って伊勢の遷宮を拝み、同月末郷里に帰った。

 

伊賀の山路で

○  初しぐれ猿も小蓑をほしげなり

郷里では人々との交遊も多かったが、しばらく滞在の後京都へ出た。

元禄三年の春は、湖南の膳所で迎えた。歳且吟

○  薦を着て誰人います花の春

これから元禄四年秋東下するまで、芭蕉は引続き上方に滞在する。

 

<芭蕉、幻住庵へ>

四月には、近江石山の奥にあった幻住庵に入って、八月までとどまった。「幻住庵記』

○  先頼む椎の木もあり夏木立

八月には下山し、名月は大津の義仲寺で賞した。この問、春には『ひろ野』が、八月には『ひさご』が出版されている。

 

元禄四年、新春を大津で迎え、

○大津絵の筆のはじめは何仏

この正月にも帰京して、

○山里は万歳おそし梅の花

 

この夏四月十八日から五月四日まで、芭蕉は嵯峨の落柿舎に滞在、その起居のさまを『嵯峨日記』に書いている。落柿舎は門人の去来の別宅。去来は温厚な人柄で、芭蕉に深く信頼されていた。七月には、かの『猿菱』が出版された。

九月の末には帰束の途につき、諸所で交遊しながら、十月二十九旦二年ぶり江戸に戻った。

    ともかくもならでや雪の枯尾花

というのが、その感懐であった。宿は、橘町の彦右衛門というものの借家。

 

元禄五年の歳且吟は、

 

    人も見ぬ春や鏡の裏の梅

● 五月には、杉風らの世話で、旧庵の近くに芭蕉庵が建てられた。

● 七月には近江の曲水が来、

● 八月には彦根の許六が入門し、

● 九月には近江の珍碩が来て、翌年一月末まで滞在した。

 

・元禄六年(1693)

 

  歳且吟は、

  年々や猿に着せたる猿の面

  三月末、芭蕉は草庵で病を養っていた猶子桃印を失った。桃印は二十年も世話をしてき

ただけに、その悲しみも深く、知人に宛てて、「死後断腸之思難止候問、精情草臥、花

の盛・春の行衝も夢のやうにて暮()」と書き送っている。

  初秋のころには、「閉関之説」を草して客を謝した。

「人来れば無用の弁有、出ては他の家業を妨ぐるも憂し」

  十月は、葛飾の素堂亭に遊んだ。

 






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最終更新日  2021年03月02日 05時56分55秒
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