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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年03月02日
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元禄七年

 

● 歳且は、

○ 蓬莱に聞かばや伊勢の初だより

● このころ、芭蕉は江戸俳壇に対する不満を洩らしている。それは、その工夫にかかるい

わゆる軽みの新風を其角や嵐雪が理解しないというところにあった。

芭蕉の理念は、必ずしも、多くの人々に正しく理解されたとはいえなかったようだ。

● 5月11日、芭蕉はまた江戸を後にして、上方への旅に出た。次郎兵衛が同行した。

   麦の穂をたよりにつかむ別かな

● 京都に滞在中、江戸から寿貞の病死を知らせてきた。寿貞は、芭蕉の若いころ交渉のあった女性かというが、よく判らない。旅に伴った次郎兵衛は、その子である。

 

盆には帰郷して

  家はみな杖に白髪の墓参り

とよみ、寿貞のために

  数ならぬ身とな思ひそ玉祭

と手向けた。

● 九月のはじめ、支考を柵手に『続猿蓑』の編集を終えた。

● そのころ大阪の門人の問に確執があり、芭蕉の来阪を願っていた。

  芭蕉は九月八日、支考・惟然・次郎兵衛らとともに出発した。兄の半左衛門は、朝霧の

中を、後影の見えなくなるまで見送っていた。大阪では幾つかの俳席などに参加、

    この道や行く人なしに秋のくれ

    この秋は何で年よる雲に鳥

    秋深き隣は何をする人ぞ

すんなりと人の心に溶け込む句風である。

  二十九日、はげしい下痢がはじまった。門人たちの手厚い看護の甲斐もなく、容態は日

増しに悪化していった。

  十月十二日の午後四時ごろ、南御堂前の宿で、ついに五十一歳の生涯を終

た。

    旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。

  遣骸は、その夜川舟で近江の義仲寺に移し、かねての遺言の通り、そこに葬った。葬送

には、三百余人であったという。

 

 

<参考資料「山口素堂の全貌」山口素堂資料室編>

 

  芭蕉死す

元禄7年 甲戌 1694 53才

 

 

芭蕉の晩年の動向については後述する。

 

依水……三月七日付、曾良宛書簡

   来ル十八日の翁も参られ候筈に御座候。          

   一席催し候間、素堂子御誘ひなされ候

   ひて御出で下され候様に待ち奉り候。

 

芭蕉……五月十六日付、曾良宛書簡

              『芭蕉文集』(荻野清氏著)

                                  

  尚々宗波老へ 願置候素堂書物早々かへされ候  

と相申よし申上可被下候。

  尚々宗波老へ 預置候素堂書物早々かへされ候  

様ニ頼申よし御申可被下候。   

     『甲斐俳壇と芭蕉の研究』(池原錬昌氏著)

 

素堂……九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。

  

すむ庵を世の人のかくれ家といふきゝて

人しれぬ身にますれはをのつから

もとむともなきかくれかにして    法し  茂睡

 

いりかある言葉の花の世にもれは

身のかくれかのかひやなからむ    信章 素堂

隠家もとなりありとは言の葉の

道をわけたる人にしられて      幽山 高野

けふはまつよろつの民の言の葉に

治る御代の春をしるかな       清水 宗川

貝ひろふ蜑の子あまた数見えて

霞む海邊の春の朝なき        原  安適

 

* 戸田茂睡

寛永六年(1620)生、~宝永三年(1706)歿。年七十八才。

戸田氏。通称茂右衛門、後に茂睡。渡辺監物忠(三河国戸田家から旗本渡辺山城守茂の養子となる)の子として駿府城内に生まれる。父は主君徳川忠長の改易の事に坐して下野国黒羽に蟄居、茂睡も二十才まで同地で過ごした。

その後江戸の伯父戸田政次の養子となり、明暦元年~寛文十二年(一説には天和三年~宝永元年)の間、本多侯に仕官した。しかし本多侯の国政改革に際して浪人となり、晩年は遁世して浅草金龍山などに住んだ。祖父・父とも和歌連歌を嗜む名門で、環境に恵まれた。実作より歌学面に見るべき点があり、古今伝授や制詞を重んじる因襲的の堂上歌学に痛烈な批判を加えた。

 著作書

『梨本集』『百人一首雑談』『僻言調』『鳥の迹』『紫の一本』『梨本書』『御当代記』など。

 

☆元禄2年(1689)46才

 

  3月上旬、荷号編『蹟野』の序文を書く。3月27日、

曽良を伴って『奥の細道』の旅に出立。

  3月27日、曽良と共に奥羽行脚に出立。

  4月20日、白河関(新関)を越し、

  5月9日松島、

  13日平泉を経て6月16日象潟着。やがて北陸道に入る。

  7月15日金沢城下に入る。

  8月5日、山中温泉から小松に向かう折に曽良と別れ、代って北枝が随行。

  8月中旬末ごろ大垣着。

  9月6日、曽良、路通同伴で大垣を出船、伊勢に向かう。

  9月下旬、伊賀上野に帰郷。

  11月奈良に出て、京、大津に遊び、膳所の義中寺無名庵で越年。

  12月24日、落柿舎(または京の去来宅)で鉢加を聞く。膳所で越年。

 

☆元禄3年(1690)47才

 

  1月3日、膳所を去り帰郷、3月まで滞在。

  3月中旬、膳所で珍碩、曲水と〈木の本に汁も膳も桜哉〉を発句に三吟歌仙を試み、

珍碩編『ひさご』に収録する(8月刊行)

  4月6日、国分山の幻住庵に入り、7月23日まで滞在する。

この間、京都、膳所、大津に遊ぶ。

  8月中に「幻佳庵記」定稿成る。出庵後は、大津義仲寺無名庵を居所とする。

  9月末、帰郷。冬、京都、湖南に出て、大津の乙州宅で越年。

 

☆元禄4年(1691)48才

 

  歳旦吟を休む。

  1月上旬、大津で乙州の江戸下向餞別の

〈梅若菜鞠子の宿のとろろ汁〉

を発句とする俳諧興行。その後、帰郷。

  正月3日、膳所を去り伊賀に帰る。

  4月18日、洛北嵯峨の落柿舎に入り、5月4日まで滞在。

この間、『嵯峨日記』を草す。この頃、『笈の小文』成るか。

 7月3日、去来・凡兆編『猿蓑』刊行。

不易流行の考え方を具体的に示した撰集であり、「俳諧の古今集」と呼ばれた。

 8月15日、義仲寺無名庵で月見の会を催す。

門人の乙州、正秀、酒堂、丈草、支考、木節、惟然、智月参会。

  9月28日、桃隣を伴って帰東の旅に出る。彦根、大垣、熱田などに立ち寄りながら、

  10月29日、江戸帰着。日本橋橘町の借家で越年。

 

☆元禄5年(1692)49才

 

  2月18日、菅沼曲翠宛書簡「風雅三等之文」を書く。

  2月中に「栖去之弁」の文を執筆。

  5月中旬、新築芭蕉庵に入る。

  8月9日、許六入門。桃隣、嵐蘭、浄求法師らが同席。

  8月中に「芭蕉を移す詞」、『芭蕉庵三日月日記』成る。

  9月28日、膳所の診碩一酒堂一東下、翌年1月末まで芭蕉庵に滞在。

この間、酒堂編『深川』収録の歌仙成る。

  冬、荒龍が大坂より東下、芭蕉庵を訪ねる。

 

☆元禄6年(1693)50才

 

  3月下旬、猶子桃印が芭蕉庵で没する。享年33歳。

  5月5日、彦根に帰る許六に「許六を送る詞」を書いたか。

  7月中旬、暑さのため体が弱って、盆過ぎから約一カ月病気保養を理由に門戸を閉じて、

人々との対面を絶つ。「閉関之説」の文は、この間の作。

  10月20日、深川で野披、孤屋、利牛を連衆として

   <振売りの雁あはれ也ゑびす講>

の四吟歌仙興行。後、『炭俵』に収録。

 

☆元禄7年(1694)51才

 

  4月、『奥の細道』素龍浄書本成る。

  5月11日、次郎兵衛を伴って江戸を出立、

  5月28日帰郷。子珊編『別座鋪』が帰郷中の芭蕉に届けられる。

  閏5月28日、併賀上野を立って、7月中旬まで大津、京都、嵯峨落柿舎に遊ぶ。乙州

宅、曲水宅を宿所とする。

  閨5月21日付猪兵衛宛書簡にて、芭蕉庵で暮す寿貞らの消息を報告するように依頼。

  6月2日頃、江戸の芭蕉庵留守宅で寿貞が死去。享年未詳。6月8日付猪兵衛宛書簡に

て、寿貞死後のまさ・おふう・理兵衛らの後見を依頼する。

  6月15日、京を去り膳所に移る。以後7月5日まで湖南に滞在、義仲寺無名庵を本拠

とする。

  6月28日、野妓・利牛・孤屋共編の『炭俵』刊行。発句一三句、一座歌仙四巻入集。

  7月5日、無名庵を出て、京の去来宅に移り、10過ぎまで在京。

  7月中旬、帰郷。

  7月15日、盆会を営み

〈家は皆杖に白髪の墓参り〉

の句を作る。

● 9月8日まで伊賀上野滞在。

● 9月上旬までに『続猿蓑』の撰をほぼ終える。

● 9月8日、支考・素牛・二郎兵衛・又右衛門らに付き添われて伊賀上野を立ち大坂に向

う。途中奈良に一泊して、大坂酒堂亭を仮の宿とし、後日、之道亭に宿を移す。

● 9月10日の晩より悪寒、頭痛に悩まされはじめ、20日頃まで毎晩繰り返す。

● 9月26日

〈この秋は何で年寄る雲に烏〉の句成る。

  9月27日、園女亭で

<白菊の目に立てて見る塵もなし>の「九吟歌仙」興行。連衆は、芭蕉、園女、諏竹(之道)、澗川(一有)、支考、惟然(素牛)、酒堂、舎羅、何中。

  9月28日〈秋深き隣は何をする人ぞ〉の句成る。

  9月29日の夜、病気が再発、泄痢(下痢)により臥床。

その後、容態は日ごとに悪化する。

  10月5日、病床を御堂前花屋仁左衛門方に移す。

  10月8日の深更、支考に病中吟

  〈旅に病て夢は枯野をかけ廻る〉の句を示す。

  10月10日、暮方より高熱に襲われ容態が急変す。夜に入り去来を呼んで談あり、そ

の後支考に遺書三通を認めさせ、兄半左衛門に宛ては自ら認める。

  10月12日、申の刻(午後四時頃)死去。夜、淀川の川舟に遺骸を乗せて伏見まで上

る。遺骸に従った者は、去来、其角、乙州、支考、丈草、惟然、正秀、木節、呑舟、二

郎兵衛の10人。

  10月22日の昼過ぎ、遺骸を義中寺に運び入れる。

  10月14日、遺言によって義仲寺境内に埋葬。導師、直愚上人。門人・焼番者80人、

会葬者300余人。

 

〔芭蕉の死〕‥『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略)

      

 十月十一日

 この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参じる。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・ 木節・乙州らに句あり。この内丈草句、「うづくまる薬の下の寒さ哉」のみを「丈草出来たり」と賞す。

 

十月十二日

申の刻(午後四時頃)歿す。遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。

 

 十月十三日

朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に、延期される。

 

 十月十四日

夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。

門人焼香者八十人。会葬者三百余人。

 

十月十六日

伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。

 

 十月二十五日

 

この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月日を記す。

 

〔素堂余話〕

素堂像…芭蕉山桃青寺について(『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著より)

 

 震災前は桃青寺といふ寺は本所中ノ郷原庭町三十五番地にあって、寛文三年黙宗和尚の創立にかゝり、初は白牛山定林寺と云った。臨済宗である。此寺の檀越に長谷川馬光(二世其日庵)といふ者あり、芭蕉没後境内に芭蕉堂を建て(寛保三年/1743)小川破笠作の芭蕉像(破笠晩年の作で 高さ八寸五分)頓阿作の西行像、素堂の像を安置し、四時仏前に風雅を手向けた。後文化中、其日庵白芹再び桃青堂を修理した。延享二年(1745)俊岩和尚の際、舊事に因みて芭蕉山桃青寺と改称し、其後火災に逢って灰燼に帰したが、宝暦中(1751~63)に泰龍和尚が中興し、東盛寺と改めた。   

伴し、明治二十五年再び舊號に復した。現在の(昭和十年頃)芭蕉堂は明治二十六年十一月芭蕉二百回忌に建てられ、正面に芭蕉と素堂の二像を安置し、周囲の數多の芭蕉を植えた。云々

 

<重要書簡> 素堂……曾良宛書簡(素堂、妻の死)

 

 御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月(十月 )ハ忌中ニ而引籠罷候。

 

一、桃青大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、嵐雪・桃

隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。

 

一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。

   内々ノみのむし(妻)も忌明候ハゞ其日相したゝめ可申候、

其内も人の命ははかりがたく候へ共、云々       

 

 一、例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや

                             

 素 堂 曾良賀丈 

 

素堂……妻の死のため芭蕉の葬儀(大阪)へ行けず。

 

《註》

…前掲の素堂、曾良宛書簡により、素堂の妻の死が確認できる。                     

これまでの素堂伝記諸本による、素堂の母の死(元禄三年説/荻野清氏)や素堂は妻を娶らずなどの伝記は史実ではない。                                               

又、素堂の生家は酒造業であったとの伝記も根拠のない説で、後世に於いての創作である。この書簡は素堂の数少ない書簡である。全文を掲げた紹介書は未である。

 《註》

…参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介・『俳諧ノ-ト』星野麦久人氏著・『芭蕉の手紙』村松友次氏著 

 

没。以後

 

☆元禄8年

 

○ 其角編追善集『枯尾花』刊行。

○ 嵐雪編『芭蕉一周忌』、

○ 支考編『笈日記』、

○ 如行編『後の旅』、

○ 路通編『芭蕉翁行状記』等の追善集が刊行される。

 

・元禄9年

○ 史邦編『芭蕉庵小文庫』刊行。

・元禄10年

○ 沽圃ら編『続猿蓑』刊行。

元禄10年

○素龍浄書本『奥の細道』、京都の書騨井筒屋庄兵衛より板行される。                    

 

 






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最終更新日  2021年03月02日 05時57分53秒
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