カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
芭蕉・さまざまなる変容 絵画・画かれた芭蕉 素堂の賛
岡田利兵衛氏著
一部加筆 山梨県歴史文学館
芭蕉の画像は新古夥しく伝存する。それは俳人達から神格視されたからで、その画像は良貨な存在であった。 その主なる筆者は杉風・許六・破笠・角上・蚊足・鼫翅(蚊足の別号という説がある)百歳・百川・酔月・大雅・蕪村・月渓らで、寛政以後になると数え切れない。俳人外の専門画家等もいて、元禄から近現代に及ぶ。 この主なる筆者は芭蕉と面接した門人と、芭蕉を知らない人々とに大別されよう。鍼灸の人は自分がうけとめた俤を画いており、他は鍼灸人の描いた画像によるイメージによったと思われる。だから正確度は鍼灸人の筆に高いことはいうまでもない。 (芭蕉の自画と伝えるのがあるが、粗画で感心しないもの。)
伝存する画像では杉風筆が最も多く、破笠・許六がこれに次ぐ。その間、筆者のうけとめ方、画き方にそれぞれ特徴があって、杉風は温雅、破笠は沈静、許六は寛容というパターンが見える。
杉風が描く翁像として、次め三点を挙げる。
一、 亡師芭蕉翁の像 座布団に端坐、左向き。 二、 脇息による翁仰 「元日は田毎」の芭蕉句を杉風がかく。左向き。 三、 竹をえがく翁像 順子の中の竹は芭蕉筆という。硯、筆筒あり、左向き。 四、 芭蕉翁馬上の像 「馬ぼくぼく」の芭蕉句を杉風がかく。笠を被り右方へ進行。 五、 火桶にあたる翁 芭蕉筆[月雪と]の短冊を上に貼る。左向き、月を抑ぐか。
一、はすべての芭蕉像の基盤となるもの。おもながのおだやかな面相で、杉風筆録はすべてこの調子。また他の人の描く翁の顔にも大きく影響している。 しかしこの画像の目に触れるものはすべて写しであって、杉風の真筆に接しえないのである。蕉物三回忌に正秀にかいて贈り、のも京の唯信寺へ納めたというのがあったようだが、まだ触目し得ない。 二、は翁画像として屡々諸本に採用される。 三、これも高名品であるが、竹については明確でない。 四、笠をかぶっているので顔は見えない。馬上は珍しいポーズ。 五、は杉風の落款がないので伝とするが、手法から揃足して杉風作であることに間違いはない。
以上(一)以外はすべて鯉屋伝来品である。
杉風は芭蕉直門であり、パトロンでもあったし、特に絵は好んでかいて自信があったから、芭蕉敬慕者から度々画像執筆を頼まれ、それで数多くの作品が残ったと思われる。これについて杉風から倉敷の大島蓑里宛の興味ある書翰(九月十一日付。杉風六十三歳)があるから紹介する。
一、翁之像何方へもむさとハ書遣し不申候へとも、貴様ハ別而御慕被成よしニ候ヘバ無意 恨進し申候。……予か讃も雪待て竹かゝれたる曇哉と仕候。竹の絵書被申候。色々翁 之像も書尽しこまり果申候。
杉風はさまざまの物像をかかされ、もはやそのポーズに困り切っていたことが窺われる。 許六筆の翁画像も、彼が画家であるから、当然多くあって然るべきだが割合に少ない。
(一)門人三老井許六謹画 と題する一幅。
芭蕉の植えてある草庵の前でくつろいだ、寛潤の翁像である。上髭すこし。うすものの羽織を着て、無帽。かるく右立膝でやや左向き。顔も他に類のない長形の最も特特異もの。霊化せずありのままの物をスケッチしたものかも知れない。土居氏旧蔵であるが、今所在を明らかにしない。 『韻塞』(許六・李由著、元禄十年刊)に 「亡師一周忌に手づから画像を写して、野坡に贈て、深川の什物に寄付す。髭の霜無言のすがたかな」とあるのは右の画を指すか。でなかったら別にまた一点があったことになる。
(二) 幻住庵閑居の翁画像 これには許六の署名がないが、手法から許六であること明白。椎の本の下で床几に腰かけ、道服をまとい、右手に唐扇を持つ寛容のポーズである。もと上部に芭蕉筆色紙が貼ってあ ったというが、今は月居筆の色紙と貼り替わっている。 この他に後説する蕪村が江戸で見たという「許六図、素堂賛」の画像があったようである。 小川破笠筆の有画像は争い。
《一》卯観子笠翁行年七十歳筆の画像 杖と笠を傍にもたせかけ、椅子に乗った姿。老けた顔つきで、破笠筆有縁の中の特 異なもの。 《二》卯鏡子笠有行年七十五歳筆の翁像 頭巾着て訣坐。笠を横に置く。薄色の衣。念珠。 《三》卯観子笠翁行年七十有九図干夢中庵の翁像 趺(あぐら)坐して念珠を持ち、笠と杖を傍におく。 七十五識筆と全く同じ言貌である。 《四》破笠筆翁憚 右軽く立膝して短冊に揮毫しようとするところ。頭巾、左向き、筆筒、 一段に芭蕉単元句切を貼付。署名がないから伝だが、破笠画筆は正確。 《一》・《二》・《四》の風貌は全く同一で、いずれも芭蕉を理想化したもの。杉風系だがこの人の圃には沈潜の色が濃い。 角上がえがく画像は二点見たが、どちらも遊戯的様相を見せる軽快の作で、芭蕉のイメージを迫想できないものである。
顕如筆芭蕉吉野行脚像 元禄九丙千歳秋九月図
絹本着彩。黒大黒頭巾。左向き。背に笈袋を負い、地上に笠と杖を置く。全身立像。上の右に「ひとつぬきて」の芭蕉自筆短冊を貼る。両と句の意が相通ずる。筆者毎に不明だが、芭蕉門人相川蚊足の画号かとの説があることは上説した。この人も翁画像の作がある。
百歳筆筒馬上の画像
白図の風姿にえがかれている。馬上ポーズは上説杉風筆とともに珍しい。右に向く。 筆者は芭蕉門人で、蝉吟の甥。西島氏をついだ。祖翁の顔を傍で写したものという蝶夢の添書がある。
翁画像はその後も盛んにえがかれ、中で彭城百川・大西醉月の作などが注目される。 つづいて南画人池大家・与謝蕪村があらわれる。 大家のえがいた翁の顔は案外杉風系である。しかし彼特有の強烈な皴法で仕上げ高逸の趣がある。芭蕉を追慕していたし、高野山の芭蕉の父母の句碑を染筆したりしているから、翁像をえがくことは当然あり得る。 蕪村は彼のかいた最古(元文年間)の画の「排仙群会図」に翁像をとり入れ、中央上部に他を圧する風貌でえがいている。安氷期には全身立像を大きく二幅かき、その他半身・七分身(安永己亥筆)の立像もある。いずれにも上部に芭蕉句をしるしている。 二つの全身立像は見事なもので中国風道服を着た脱俗澗遠の秀作である。顔は老蒼で杉風系などとおよそ異なる独特のイメージを与える。 蕪村は翁像をえがくに確乎たる信念をいだいていた。それは左に掲げる手証宛(霜月二十六目付)の書物からよく窺うことができる。
巨洲御たのみの翁肖像、早速拝見いたし呈俣。 翁肖像画法左の如シ。 杉風が画の肖像今少々俗気有之候故。 いささか添削を加候。部而肖像之画法ハ、年を寄せ候が能候。 杉風原本ニハしとねを敷候へとも、是ハよろしからず候。 仏家の祖師などの像ニハ褥もよく候へ共、 翁などのごとき風流洒落二而脱俗塵たる像ハ、 只寒骨相ニ而寂しき方を貴び申事ニ候。 愚老むかし関東ニ於て、 許六が画の肖修ニ素堂の賛有才物を見申候。寂然たる真跡。伝来正キものニ候。 其像之面相ハ杉風が画たる像とハ大同小異有之候。 評六が画たるも、翁現世の時之画と相見え候。 杉風・許六ニ画が内、いづれが真ニせまり候や無覚束候。 愚老が今写スル所ハ」、右二子の画たる像を参合して写出候。 其真ニせまらん事を。
以後、松村月渓らが画いた多数の翁画像があり、また桃隣の『陸奥衛』などのように諸俳書に掲載したものも夥多であるが以下省略する。
二代目団十郎柏趾の日記『老のたのしみ』に芭蕉について面白い記載がある。 享保十九牛八月の条に、貞佐の物語りとして「むせび翁ハうすいもあり」と記し、また二十年二月八日の状には「この朝笠翁殿(破笠)見え、しばらく芭蕉翁の庵室の物語。 ……其比笠翁子二十三か二十の時のよし。翁は六十余の老人と見えしよし。其比笠翁四十前後の人か。 ……翁の像ニ衣をきせ候へ共笠翁よく覚え候よし、常ニ茶の紬の八徳のみ着被申候。」 とある。 これは画像と違って文字で芭蕉の風貌を記したもので、画像と対照して興味が深い。芭蕉の顔に「うすいも」があったとある点。野坡の『やどり塚』にも角上は「いぼ」があったという。よって各画像を克明に調べたが、それらしいものはない。ただし顎・頬のあたりはどの像にも薄髭の様な陰影が見える。 けだし芭蕉の悌は概ね杉貝筆によって与えられていることは否めない。
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最終更新日
2021年03月02日 06時59分11秒
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