カテゴリ:山口素堂資料室
エッセイ 素堂が呼ぶ
石井 紀美子さん『きみさらず』掲載記事
かねてより一度お話を伺いたいと思っていた山口素堂の研究家S氏を訪ねた。案内された資料室三部屋は、どの部屋も天井を残し壁から床まで資料と本で理っている。 この研究家は山梨の白州町白須に住まわれ、郷里の俳人素堂を三十年間探究されている方である。とにかく、盆を控え素堂の魂は此処に帰ってくるのではと思う程、素堂尽くしの部屋である。 山口素堂は寛永十九年五月五日、現在の山梨県白州町山口に生まれる。幼少の頃甲府に移り、一家は酒造業を営み巨富を得る。二十歳の頃江戸に出て儒学を学び、濁川の治水工事にも力を注いだ。茶道の号を[今日庵]という。享保元年八月十五目、享年七十五歳没。谷中の感応寺(現在の天王寺)に埋葬された。
これらが一般的に言われている素堂である。
しかし、研究家S氏の意外な言葉が興味をひいた。 山口を生誕の地とする疑問(山口集落は江戸時代後半形成された地で、素堂が生まれた当時、人が住める所ではない状況であった。素堂の資料が皆無)、酒造業の違和感(資料に依ると山口性の別人の可能性が大きい(『山口屋』))、治水工事に携わったことの不自然さ、「今日庵」に付いては全くの誤りであると指摘された。 「素堂伝記」として最も多くの人に影響を与えた伝記は、『甲斐国志』である。しかし素堂の記述については、調べれば調べる程、真実の素堂は遠くなると力説する。 加熱する素堂の話の中、S氏から時々零れる国訛りのなんと心地よいことか…。更に素堂が書かれた多くの序文、跋文、詩文、俳論から交友の広さや人格に触れた。勿論、芭蕉とも親交厚く、芭蕉は二歳年上の素堂を兄のように敬っていたようである。 S氏の、芭蕉は「俳聖・推敲詩人」、素堂は[文聖・即興詩人」と二人を表現した言葉は印象的であった。
「素堂がSさんを呼んだんですね」 と言う私に、 「そうそう、そうなんだよ、古本屋でいきなり開いた頁に素堂の名前や記事があることがよくあるんだよ」と目を輝かす。 目には青葉山ほととぎす初鰹 此の句を知っていても作者が素堂であることを知らない人も多い。 山梨日日新聞の紹介でS氏知った私自身、この機会がなければ、多彩な素堂に逢うことはなかったであろう。 夫はS氏手作りの本箱を、私に氏がご苦労されて集められた文献と研究の膨大な資料コピーに加え、〈目には青葉〉の句入りの陶器を頂いた。
「何時でも来なさい」の温かい言葉を抱いて外に出ると、お爺ちゃんを私に占領されたお孫さん達が元気に遊んでいた。 郷里の高い山々と真っ青な広い空は昔のままである。同郷の氏と私、何処かですれ違っていたかも知れない。 盆休みが終り、いま私は頂いてきた資料に目を通している。 S氏の永遠のテーマであろう真実の素堂、素琴を愛したといわれる素堂に会う為に……。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月04日 19時26分50秒
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