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2021年03月07日
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カテゴリ:著名人紹介

家康の手紙 本能寺の変と伊賀越えの難

 

  『家康の手紙』桑田忠親氏著

   昭和36年刊 文芸春秋新社

 

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

《家康画像》



 徳川家康霊像

(栃木県 輪王寺所蔵)この画像は、寛永十六年利二月十六日、家康の孫にあたる徳川三代将軍家光が、霊夢によって感得した束照大権現の白衣立膝の像を画かせたもので、像背には、家元が自筆でその感激を記している。

 

 天正十年六月二日の本能寺の変は、これまで織田信長の後指となって、信長の国内統一事業を援助すると同時に、また、信長の援助によって今川・武田の諸氏と対抗し、東海に覇を唱えてきた徳川家康にとって、由々しき一大事であったにちがいない。信長の助力を得て、ようやく漸その年の三月に強敵武田を滅ぼし、信長から駿河一国を与えられたものの、間もない二ケ月後に、かけ代えのない盟友を失ったのだ。しかも、事変の当時、泉州の堺に遊んでいた家泰は、あやうく一命をおとすところでもあった。そのいきさつは、大体次のようである。

 

武田討伐をおえて四月二十一日、安土に帰った信長は、後顧の憂いがなくなったので、こんどは、いよいよ、西国の強敵毛利蝉元を討つ考えでいた。と同時に、四国討伐の計画も立てていた。

 信長のこのような今回を知っていた家康は、信長が西国に出馬しないうちに、安土城に祗候して、駿河を貰った礼をのべたいと思った。そこで、五月十一日、穴山信君(梅雪)のほか、僅かな近臣を伴い、遠州浜松を出発し、安土に向った。甲州討伐の帰途、家泰から手厚い接待をうけた信長は、その返礼のつもりで、東海道筋の大名に対して、家康の安土祇候を鄭重に迎えるように命じている。

 

五月十五日、家康は安土に参著し、金子三千枚と鎧三百を献上した。

 信長は、十五日から向こう三日聞、安土で饗応をしようと考え、接特役を部将明智日向守

光秀に命じておいた。光秀は、京都や境に人をつかわし、珍味佳肴を整えていた。

ところが、ちようど、そのとき、備中の高根城を水責めにし、後巻にやってきた毛利の大群と対峙していた豊臣秀吉のところから、急報が屈いた。さすがの秀吉も、敵の重圏に陥る危険を感じ、総大将信長の救援を求めてきたのである。

 

いよいよ、西国出馬を決意した信長は、明智光秀・細川忠興・池田恒興・高山重友・中川清秀らの諸将に、それぞれ、出陣の命令をくだした。

光秀は、もちろん、家康接待の役目を中止された。家康饗応のために用意した魚類が生臭かったので、信長が怒って、光秀の役目を取りやめさせたとか、折角ととのえた魚を堀の中に投げ捨てさせたとか、さまざまな逸話も伝わっているが、西国出陣を命ぜられたのは、光秀一人ではない。

 光秀は、五月十七日、近江坂本の居城に戻った。彼に代って、信長の近臣長谷川秀一と菅谷九郎左衛門が、饗応の接待役をつとめることになった。

 家康に対する饗応としては、五月十九日、安土城内で幸若太夫の舞と、梅若太夫の能の興行があり、二十日、大寶坊で盛大な酒宴が催された。信長みずから配膳し、酒肴を取って家康に勧めたとも、また、安土城の天守閣に案内し、従士に時服を与えたとも傳えられている。これは、おそらく本当であろう。

 信長は、席上、家康に京都・奈良・堺の町々を遊覧することを勧めた。案内役として、長谷川秀一を附けた。

 安土を辞した家康は、五月二十一日に京都に入ったが、このときが、信長の顔の見納めであったとは、神ならぬ身の彼は、さすがに知らなかった。

 五月二十九日、家康は、穴山信君と共に泉州の堺に到著し、その夜、堺の政所(信長の代官)松井友閑の館で振舞をうけた。

 

月が改まって、六月朔日、朝は堺の納屋衆今井宗久(そうきゅう)の屋敷で、昼は会合衆(えごうしゅう)の天王寺屋宗久のところで、夜はまた松井友閑の館で、それぞれ、茶会が催された。茶会のあとでは、酒宴もあった。

 

そうして、二日の朝、京都の本能寺に宿泊している信長と会合するために、堺を出発しようとした。

 先発を承った家康の直臣、本田平八郎忠勝が、午の刻、河内の枚方(ひらかた)までやってくると、前方から馬を走らせてくる者がある。よく見ると、京都の貿易商茶屋四郎次郎であった。茶屋のことは、かねてから忠勝も知っていた。

 忠勝が呼び止めると、四郎次郎は、今暁、京都で大事件のあったことを告げた。本能寺宿泊中の信長が、部将明智光秀に襲われ、生害したという事件である。

 

明智光秀は、去る五月十七日、近江の坂本城に戻ったが、二十六日になって、丹波の亀山に帰城している。

翌二十七日、戦勝祈願のため、近江を離れて愛宕山に参詣した。彼は、おそらく、この途中で、主君信長の消息を知ったに違いない。信長が、近臣・小姓・侍女など七十名ばかりを

つれて上洛し、西洞院(にしのとういん)の本能寺に宿泊するとのことを…。

ここ数年間、信長の非情な仕打ちを恨む心が骨肉に徹していた光秀は、恨みを晴らすのは今だ……と考えた。愛宕山の太郎坊に参籠した彼は、神籤(みくじ)を三度まで引いたといわれるが、なかなか反逆に踏みきれなかったからであろう。元来、このような獄の弱い、神経質な性格の男であったから、剛毅果断な信長と相容れなかったものと見える。

翌二十八日、愛宕山の四坊で、連歌師里村紹巴(しょうは)らと百韻の連歌を興行した。

 

時は今あめが下しる五月かな

というのが光秀の発句であった。時は…光秀の本姓土岐に通じ、あめが下しるは…天下を治めるの意である。

丹波の他山に戻った光秀は、五月晦日西国出陣の用意をととのえ、亀山を発向したのは六月朔日の夜のこと、総勢一萬二千餘を三段据構えとし、闇黒の山野を縫い、前進を開始した。三草越えを避け、老いの坂から沓掛に出た明智勢は、初めて主将光秀の反逆を知ったが、一糸乱れぬ行動をつづけ、桂川を渡り、六月二目の朝まだき、本能寺に殺到した。光秀謀叛と聞くと、信長は大いに怒り、自ら弓・鎗を取って防戦したが、衆寡敵せず、本能寺に火をかけて自刄した。時に四十九歳。小姓森蘭丸以下敷十人の近臣・小姓がこれに殉じている。

信長の嫡男信忠は、二千人の軍勢と共に妙覚寺に宿泊していた。この変を知ると、手兵をひきいて本能寺に馳せつけ、信長と一手になって戦おうとしたが、本能寺が重囲に陥ったのを知り、残兵三百人を集めて、二條城に立て籠もり、防戦の末に自害している。ときに二十六歳であった。

 

さて、本能寺の変を知った本多忠勝は、直ちに、茶屋四郎次郎と共に、堺に引き返し、飯盛山の下で、家康一行と出合った。忠勝は、事実を家康に報告した。すると家康は、この上は仕方がないから、直ちに上洛して、明智勢に斬り入り、叶わずば、知恩院で腹を切り、信長公の後を追おう……と言うのを、酒井忠次などが阻止したというが、これは、げにも勇ましい拵え話であって、家康は、そのような猪武者でも、センチメンタリストでもなかった。かつて最愛の長男信康を殺させられた非情の強豪信長に対して、それほどまでに献身的な友情をもっていたとも思われない。このまま僅かな人敷で、まごまごしていたんでは、明智の手に討たれるほかない。信長の巻き添えを食うのは御免だ。なんとかしてこの危機を脱せねばならぬと、主従こぞって相談したにちがいない。

そこで、伊賀越えの難を突破して、三河に帰国することになった。

 この伊賀越えの難については、さまざまな説がある。「茶屋由緒書」によると、茶屋四郎次郎が家康一行白伊賀の辺まで送り、その途中、銀銭でもって土一揆の頭を買収し、その難を遁れさせたというが、果たして、どの程度の働きをしたかは、明らかでない。

また、「伊賀者由緒書」によれば、伊賀の地侍二百人が、伊賀路をお供し、伊勢の白子(しらこ)の濱まで案内したが、これは、信長が伊賀を討伐した際に三河に隠れた伊賀者を手厚く保護したので、その恩義に報いたのだという。そうして、伊賀や甲賀の衆が、のちに徳川幕府に重く用いられ、忍術使いとして、隠密の役まで務めるようになったのは、このときの功績によるとしている。しかし、伊賀者が家康に仕えて戦功をたてたのは、かなり古いことであるし、徳川氏だけでなく、他の大名にも仕えていた証拠があるから、この話も、そのまま事実として受取れぬ。

 「家忠日記」、「兼見郷記」、「津田宗及茶湯日記」、「三河物語」、「譜牒餘録」、「當代記」などという比較的確かな文猷によれば、家康は、六月二日の朝、本能寺の変を知ると、上洛すると称して、堺を出発し、宇治田原から、山田村を経て、信楽(しがらき)の小川村で一泊し、翌三日、伊勢の白子の濱から船に乗り、四日、三河の大湊に着岸し、すぐに岡崎に入城している。これが、伊豆越えの難であり、家康の生涯にとって、危機であった、といわれている。

 

    穴山梅雪のこと

 

 同行の穴山信君(梅雪)は、「神祖泉堺記事」によると、

六月三日の未明、山田村で家康と別れ、北に向い、木津の川に沿って草内(くさうち)に至ったとき、土民のために殺されたというが、

「譜牒餘録」では、宇治田原で殺害されたとある。なお、江村専齊の「老人雑話」には、「穴山は路次にて一揆殺せりと言ふ。又は、東照宮の処爲なりとも言ふ。」と記しているから、或いは、家康が、何かの理山で、殺させたかも知れない。

 しかし、この六月二日から四日に至るまでの家康の手紙は、もちろん、残つていない。おそらく、手紙を書いている暇などなかったのであろう。

 

此の時に候間、下山へ相うつり、

城見立て候て、普請なさるべく候。

委細、左近左衛門申すべく候。恐々

謹言。

   六月六日    家康

    岡次 参る

 

 これは、家康が三河に帰国した翌々日、岡部次郎右衛門尉正綱に具(そな)えて、領国駿河から国境を越えて甲斐に進入し、下山に築城すべきことを命じた書状である。下山は甲斐国巨摩郡(南巨摩)にあり、富士川沿岸の要地で、泉市の伊賀越えのとき土民に殺された穴山信君(梅雪)の領地である。信君の死後は領主のない土地となっていたので、家康は、いち早く、その中心地である下山を占領させたものと見える。俗長は、甲斐一国を河尻秀隆に與えたが、穴山信君の所領だけは除外しておいたのであった。岡部正綱は、もと今川家臣であったが、のち武田氏に属し、駿河の清水城にいた。

 

     敬白起請文文の事

一、今度質物(しちもつ)、早速出だされ候段、祝着の事。

一、御身上向後見放ち申すまじく候。然るべく馳走せしむべき事。

一、何事も抜け公事(くじ)、表裏あるまじき事。

右の状、若し違反せしむるにおいては、

上(かみ)は梵天帝釈・四大天王、惣じて、日本国六拾餘州大小神祗、

別して、伊豆・箱根両権現・三島大明神・富士白山妙理大権現・八幡大菩薩・天満大白在天神部眷属の神罰・冥跋蒙るべきものなり。仍って起請文の状件の顛し。

天正十年八月十二日        御名乘

   和田八郎殿

 

 これは、同年の六月十二日附で、家康が甲賀の地侍和田八郎定教(さだのり)に具えた誓約書である。定教は始め、織田信長に属し、近江の黒田の城主であつたが、のち流浪して甲賀に住み、家康の伊賀越えのとき、甲賀の山中で忠節を盡したので、このような起請文をつかわし、その身上を保証してやったのである。

 さて、家康は、盟友信長の弔合戦をしようと決意し、六月十一日に出陣する手筈であった。

ところが、巡回の降雨のため、一目、一日と延期し、十四日になって三河の岡崎を発向し、尾張の鳴海に着いたのである。しかし、これは、山崎合戦の翌日のことだった。

 この日、家康は、美濃の址侍吉村叉吉郎氏吉に対して、次のような書状をおくっている。

 

今度京都の様訃、是非なき儀に候。

それについて、上様御弔(おんとむらい)として、我々上洛せしめ候。

左様に候へば、今日十四日鳴海に到り出馬候。

然らば、この節御馳走あるべきの旨、水野藤前舌頭(ぜっとう)に候。

いよいよ以て大慶に候。

諸事御入眼(ごじゅうげん)においては、本望たるべく候。

尚、委細かの口上に相含め候。恐々謹言。

六月十四日      家康(花押)

    吉村又吉郎殿

 

 文中、「京都の様躰」とは本能寺の変のこと。「上様」とは信長のこと。亡君信長公の弔合戦を行うため上洛する旨を報告し、その援助を求めている。

 

  先日は示(しめし)に預り候。仰せの如く、

今度の不慮、是非なき次第に候。

それについて、京都へ打上(うちのぼる)るべく存じ候。

其の元の儀、何篇にも御馳走あるべきのよし、

家康一段祝着申され候。

各々申し合され、此の時に候間、

是非明智打果たさるべきのよしにて、

今日十四、鳴海に到り着陣致され候。いよいよ御馳走肝要に候。

御存分ち候はゞ涯分(がいぶん)

申調(もうしととのえ)へらるべきのよしに候。

此の方の儀、任せかかるべく候。

然らば、御飯物の儀、早々越され候はゞ、

猶々祝着申さるべく候。

恐々謹言。

六月十四日     石河伯耆守 数正(花押)

本田平八郎 忠勝(花押)

    吉村叉吉郎殿 御宿所

 

 これは、前の宣言書状の添状で、家康の部将石川伯耆守数正と本多平八郎忠勝が巡回している。

文中、「今度不慮」とは本能寺の変のこと。

これによると、吉村氏吉は、かねがね、家臣のために奔走することを申し出ていたらしい。「御飯物の儀」とは、氏吉に人質の提出を求めたのである。

「明智」とは明智日向守光秀のこと。

 

来状委細披見、本望の至りに候。

仰せの如く、今度京都の仕合せ、是非なき次第に候。

さりながら、若宮様御座候間、供奉(ぐぶ)いたし、

上洛せしめ、かの逆心の明智計果たすべき覚悟にて、

今日十四日、鳴海に出馬候。

殊に、その地、日根野方、金森方、一所へ相談せられ候俗よし、

いよいよ以専一に候。

この者萬々御馳走、祝着たるべく候。

尚、追々申し述ぶべく候間、一二能はず候。恐々謹言。

六月十四日     御名乗 御直判

佐藤六左衛門尉殿

 

これは、同日附けで、やはり、美濃の地侍佐藤六左衛門尉におくつた書状である。

 文中、「来状委細披見、本望の至りに候。」とあるのは、佐藤六左衛門尉が書状をよこして、家康の幕下に馳せ参ずると云つてきたからである。

「今度京都之仕合」というのは、もちろん、本能寺の変のこと。

「若君様」とは信長の嫡孫三法師のことを指す。「目彌野」とは同じく美濃の地侍日根野弘就(ひろなり)のこと、「金森」は金森五郎八長近(ながちか)のこと。家康は、佐藤・日根野・金森の三人に、彼の上洛に盡力せんことを求めたのである。

 

先日水藤助を以って、様子の段申し述べ候ところ、

一々御合點の儀ども家康大慶に存ぜられ候。

然らば、今日十四日に、鳴海に至り著陣つかまつられ候。

左様に候へば、京都へ討上られ候儀、急々に存ぜられ候間、

とても事に存の候、質物等の儀、

早々仰せつけられて然るべく候。

  此の時に候間、是非御才覚を廻らされ、御馳走もつともに候。

尚、かさねて申し述ぶべく候間、懇筆能はず候。恐々謹言。

                本多平八郎 忠勝(花押)

   六月十四日 

    高説右衛門尉殿 御宿所

 

 これは、やはり、同日附で、美濃今尾の城主高木權右衛門尉貞利に與えた本多忠勝の書状であるが、もちろん、秀吉の趣旨を體して、貞利に人質の提出を求めている。家康は、水野藤助に命じて貞則を説得させ、今尾城を旅館として提供し、川渡しなどについても盡力することを求めたもののようである。

 

 家康は、このように、用意萬端ととのえ、上洛して、明智光秀を討ち取る覚悟をきめていたもののようである。ところが、家康の先陣を承って、六月十七日、対馬まで進んでいた酒井忠勝が、十九日になって、羽柴筑前守秀吉から書状を受取った。

それには、上方が平定したから、早々帰陣せられたし……とあった。

そこで、このよしを鳴海にいた家康に知らせると、二十一日に、家康は、三遠両国の兵をひきいて遠州濱松に着陣したのであった。

 

羽柴秀吉が六月十三日山崎合戦で明智光秀を討ち、亡君信長の恨みを晴らしたと知って、上洛を思い止まった。

家康にとっては、上方よりも、むしろ、信州と甲州のほうが気がかりだった。

彼が上洛したあと、小田原の北條氏政によって侵略される恐れがあったからだ。

 家康は、足もとを固めることを常に忘れない、用心深い武将であり、著賞な政治家であったといえる。

家康が入った頃の江戸




 

 






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最終更新日  2021年03月07日 06時17分58秒
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