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2021年03月07日
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天正壬午の武川衆

資料―「武川村誌」一部加筆

 

武田家没落当時における武川衆の進退について、『甲斐国志』は次のように述べている。

 

天正壬午ノ時、新府ニテ勝頼謀略アリテ、面面ノ小屋へ引入アルべシトノ儀ナリ、各々其ノ意ヲ守リシカドモ、其ノ謀相違セシ故、武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシトアリ。

 

と。はたしてこの文のいう通りであろうか。

 元来、武川衆は武田左馬助信繁、同子息信豊を寄親とする武士団であった。それは、永禄四年九月の信州川中島合戦の際、武川衆の面々は武田信繁指揮下の典厩衆の幹部として活躍した。信玄の本陣八幡原の前方左翼を固めた典厩衆は、敵の最強部隊の強襲の前にさらされ、隊長の信繁は不運にも敵弾に来れ、敵に首級を奪われた。馬廻りの武川衆山高親之は直ちにその敵を追跡してこれを討取り、信繁の首級を奪還し、大将信玄に献じて質された。

 永禄十年八月、甲信西上州三か国の武田将士が信州下之郷諏訪明神社前において、信玄に対し絶対忠誠を誓った起請文提出を命ぜられた時、

柳沢・馬場・宮脇・横手・青木・山寺らの武川衆諸士は、六河衆(武川衆の宛字)の名のもとに起請文を一紙に連署して、寄親の六郎次郎に宛てて差し出した。六郎次郎は武田信豊の通称である。

 この二例は、武川衆が武田信繁・六郎次郎の二代にわたる寄子であることを語っている。

 

ところが勝頼滅亡ののち徳川家康に召抱えられた武田遺臣が、連署提出した起請文のうち、後典厩衆すなわち武田左馬助(後典厩)を寄親とした武士が三三名いるが、その中に武川衆は一人も含まれていない。(略)

『甲斐国志』に、

「天正壬午ノ時、新府ニテ勝頼謀略アリテ、面々ノ小屋へ引入アルべシトノ儀ナリ、各々其意ヲ守リシカドモ共謀相違セシ故ニ武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシトアリ。」

 

と記すように、当時信州小諸城を守った後典厩信豊と、武川衆とは全く別行動をとり、武川衆は勝頼の密命のままに各自の壁砦(小屋)において待機したのであったが、戦局の悪化が意外に速く、不運な勝頼は武川衆に出陣の機会を与えずに没落したのであった。

 こうして武川衆は遂に活動の機を得ないで主家の終焉を見送り、徳川家康の招致を受けてその幕下に属することになったのである。

 

徳川家康と甲斐、武川衆

 

家康は市川の陣において側近成瀬吉右衛門尉正一に命じ、武川衆招致の方策を立てさせた。これによりて東照宮、成瀬吉右衛門正一を以て潜に命を伝えられ、折井市左衛門次昌とともに、甲斐国市川に於いて見え奉り、月俸を賜い、仰によりて遠江国桐山に潜屈する。 

と。折井次昌・山高信直の譜も同内容である。

 三月十七日信長の書状に、

  

去十一日四郎(勝頼)、これを討捕り、首到来し候。典厩事、西上野近辺小諸城楯寵り候、是も

  出羽守忠節として首を切り到来、四郎弟仁科五郎、高遠城相抱え候を打果し、是も首到来候。

甲斐歴々の将兵共、大略首を撥ね候、又降る人出で候族、数を知らず候、是は生害させ候者、数多候。

 

とある。四郎は勝頼、典厩は武田信豊、出羽守は小山田信茂。信長の残忍さが思われよう。

 これより先、織田信忠は高遠城を陥れた翌三月三日、兵を諏訪に進めて諏訪明神上社を焼討し、社前の法華寺に本陣を構えた。十九日、信長もここに来着、武田家旧領の処分と論功行賞をした。徳川家康は駿河を、穴山梅雪は甲斐河内領を、河尻秀隆は甲斐(河内領を除く)を、滝川一益は西上野を行質された。また、武田家一族重臣の処刑が連日にわたった。

 四月二日、信長は上諏訪を立ち甲斐に入った。同夜は台ケ原に泊り、三日は花水坂を越え、新府城焼跡を一覧ののち甲府に着した。

 この日、信忠は武田信玄の菩提所恵林寺を焼討した。寺主快川国師が武田氏の賓客佐々木次郎をかくまったことが焼討の理由である。信忠は快川らを寺の山門楼上に追上げ、楼下に火を放った。快川は長老以下百余僧の座を定め、火定の侶を諭した。

「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」

と。わが禅道のため万丈の気を吐いたものである。国師は美濃の人、天文二十四年、永禄七年の二度、武田信玄の請を受けて恵林寺に住山、信玄の葬儀の導師を勤めた。

天正九年 信長は四月二十一日安土に帰城した。

五月十五日、家康と梅雪は論功行賞謝礼のため、安土に伺候した。信長は両人の接待役を明智光秀に命じて置きながら、俄かに光秀に備中出陣を命じたので、憤った光秀は六月二日、信長箇宿所京都本能寺に、信忠を二条城に襲って殺した。

 時に家康・梅雪は泉州堺に在ったが、報を得て直ちに帰国の途に向い、家康は危難を冒して四日夜三河岡崎に安着した。梅雪は家康と別れて帰国の途を一揆に襲われ、殺された。

 

天生十年 徳川家康と武川衆

 家康は、岡崎に帰るや天生十年五月六日、駿河清水城主岡部正綱に書を与えて甲州下山城修築を命じ、次いで穴山衆を率いて武田遺臣を招致させた。

 智将のもとに凡士なし。家康の部将大須賀・岡部・曽称昌世らの手腕は鮮やかであった。古文書によれば、岡部・曽雌は、六月十二日武田遺臣加賀美右衛門尉の本領四三貫文余、同十七日同窪田助之丞の本領八八貫文余を安堵した。大須賀は同二十日西郡鷹尾寺の寺領、同二十六日に府中一蓮寺の寺領余を安堵し、民心の安定に努めている。

 

家康の部将らの甲州における迅速臨機の宣撫工作が、北条氏の機先を制したのであった。

 これより先、家康は遠州小川村に潜ませて置いた依田信蕃に飛脚を発し、その腹心柴田康忠・本多正信と、速かに甲信に入り、旧好の士を招集することを命じた。信蕃は従者五人と急ぎ中道往還を甲斐に入り、康忠と信蕃の旗を柏坂頂上に立て、陣鐘を撞いて士を招いた処、集まる者一、〇〇〇人に及んだ。信蕃はこの勢を率いて二十三日に信州に入り、蓼科山中に芦田小屋の要害を築いて鎮撫に従った。

 家康は、十七日一族の遠州横須賀城主大須賀康高に命じ、成瀬正一・日下部定好を率いて甲州鎮撫に従わせた。康高は市川に陣した。

 成瀬正一は、去る三月に武川衆の旗頭米倉忠継・折井次昌を家康に従わせ、遠州桐山村にかくまった人である。ここにおいて米倉・折井らは桐山村を立ち、成瀬に従って入甲し、武川衆数十騎を説得して悉く家康に属させた。

 これより先、信長の死の関東に伝わるや、相州小田原の北条氏政、早くも甲斐・信濃・上野の地に注目し、これを占領しょうとした。六月十五日、氏政はその崖下甲斐郡内忍草村の士渡辺庄左衛門尉に帰国させ、故旧を糾合して北条氏に応じ、忠信を励むときは旧領を安堵し、戦功により恩賞するの旨、約させた。

 また、氏政は弟安房守氏邦に命じ、甲州山梨郡聖家族大村忠尭・同忠友を誘い、中牧・大野の両城に拠り味方することを誓約させた。

 六月十六日-七日ころ、大村一党は兼約により、万力筋中牧城、栗原筋大野城に拠って北条方の旗職を鮮明にし、反徳川の行動に出でた。ここにおいて氏邦は雁坂口より」 また北条氏勝は武州小仏口より甲州へ攻入ろうとした。

 徳川方は早くもこれを知り、穴山梅雪楠子信治の将有泉昌輔・穂坂君

苦らは機先を制して大村党の拠点中牧・大野両城を陥れ、忠尭らを討取

ったので、氏邦らは秩父へ敗走した。家康は二十二日、昌輔・君書に感

状を与えた。

 当時、家康はまだ遠江浜松に在城していたが、その頃北条民政の嫡男氏直が大軍を率いて佐久に侵入しようとするの風聞が頻繁なので、いよいよ甲信平定の軍を率いて七月三日浜松城を出馬、掛川、田中、江尻を経て六日清水に着陣、家康は、駿甲国境において九一色衆の出迎えを受けた。ここよりは九一色衆の常導により中道を北進し、同夜は精進に着陣、泊。九日、女坂(阿難坂)を越えて柏坂(迦葉坂)のほとりに着陣するや、武川衆柳沢信俊・山高信直・青木信秀・折井次正・曲淵吉景・伊藤重次・曽雌定政・馬場信成・知見寺盛之・入戸野門宗・山寺信昌・多田昌綱らをはじめとする六四士が迎え謁したので、家康は大いに喜んだ。この日夕刻には武川衆を従えて甲府に着陣した。

 家康は、九一色郷には七月十二日付、右左口郷には同二十三日付で、武田民時代の先例のまま諸商売役を免許する旨の朱印状を賞賜した。

家康は、武川衆組頭米倉忠継・折井次昌両人が早く家康に帰属して、武川衆の全員を招致した功を賞し、七月十五日に感状を与えた。

 これより先、七月早々北条氏直の先鋒は信州佐久郡に侵入、依田信蕃の城を攻めた。信蕃は援を大久保忠世らに請うた。十二日、忠世は柴田康忠を達して信蕃を援け挽回した。

 この日氏直は四万の兵を督して海野へ陣を進めた。甲州金山衆所蔵文書によれば、七月十三日に真田昌幸をはじめ信州衆が氏直に出仕したとある。

 氏直は川中島占領を企てたが、上杉景勝に妨げられて失敗、甲州侵攻に方針を変えた。

 家康の将酒井忠次は、七月十五日信州諏訪を攻めるに決し、諸将に十七日に台ケ原・白須に集結するように命じた。地元の武川衆諸士は饗導として活躍した。忠次は全軍を率いて諏訪高島城を攻めた。

 八月一日の情報で、忠次は、氏直が四万余の兵を率い、佐久郡の千曲川に沿って海野口より八ヶ岳の裾を横断して甲斐に入り、若神子に下って新府の陣を襲おうとするを知った。そこで忠次は高島撤退を決意し、三日、陣営を自焼して乙骨(富士見町)に退いた。

 はたして氏直の軍は六日、大門峠を越えて棒道の終点柏原に迫った。忠次は、武川衆曲淵吉景によって新府に退いた。

 七日、氏直の大軍は若神子に到着した。氏直の諸将は遠近の士を味方とし、若神子以北の地は北条勢の占領下同然に見えた。

『家忠日記』にいわく、

  八月六日、相州民直、人数二万余、押出し慌て、味方人数二千余、新府迄引取り候。敵かけ付

侯、敵一里程に陣取り候、古府中人数少々かけ付候。七日、敵備え押出し候。味方備も新府山

へ出候、敵半里程に陣取候。八日、家康、古府中より新府へ物見に移られて、相陣成り候。十

日、家康、陣を新府城え寄せられ候。十一日、新府むかいにあら城普請候。十二日、都留郡よ

  り、伊豆北条新左衛門介、古府中近所黒駒迄働き候、古府中留守居衆かけ合せ、随身者三百余

り討取り侯。

  

 記事の中、新府むかいのあら城とあるのは、塩川左岸で新府に対している日之城砦である。

 北条氏が甲斐の経略に着手するや、武田家遺臣を味方につけるために手を尽くした。それは甲州入国以前にすでに始められていたことが、北条家の重臣黒沢繁信より七月十八日付で甲州金山衆に宛てた書状で知られる。

 八月六日、北条氏直の勢が甲州に侵入すると、地元の有力武士を味方とすることに力を注いだ。十日ころ、氏直は中沢縫殿右衛門尉・同新兵衛尉の二人(逸見筋)に命じて計策の状を作り、これを持って武川衆諸士の説得を試みさせた。

 三月以来家康に心を寄せていた武川衆の領袖、山高・柳沢・折井ら諸士は中沢を討ち、その首級を家康に奉った。このことは、『譜牒余録後篇』折井市左衛門の項に、

「然る処に、北条氏直より、計策の者中沢縫殿右衛門、同新兵衛両人差越され候間、武川之老共同一致し、両人共に討取り、其の謀書共に差上申し候」とある。

 家康は、武川衆の忠誠を誉めて八月十六日、その所領を安堵した。

「山高系図」のうち、信直の譜に、

「御対陣の内、重ねて北条より武川の者共味方せしむべきの計策状、取次の侍、中沢縫殿右衛門・同新兵衛の両人、各々相談を以て討捕り、其の状共に指上げ、忠節を尽せし故、本領安堵の御朱印を下し給う。」

 同じ日に青木尾張守、柳沢兵部丞が受けた本領安堵状は、古文書に収められている。柳沢兵部丞の分を次に示そう。

 甲州柳沢の郷七拾貫文。新恩として壱貫五百文藤右衛門分。壱貫文五味分の事。右、本領たるの由言上侯間、前々の如く相違有るべからず。此の旨を守り、軍忠すべきの状、件の如し。

 

天正十年十月、新府において権現様は八千の御人数、北条殿五万にて御対陣の時、甲州・駿河の侍衆を召抱えられ、恵林寺を前々の如く取立て供え、また田野は勝頼切腹の場に候間、寺を取立て供え、其の郷いかほどこれ有るとも下さるべき由にて、此の寺立ち申候(下略)

 とあって、当時の家康の意中をうかがわせる。

 八月二十一日に、家康は武田氏旧臣八九五人を遠江国秋葉神社社前に集め、自今以後忠功を励んで無沙汰をしない旨を誓約した起請文を提出させた。これらの諸士は、武田親族衆・信玄近習衆・遠山衆・御岳衆・津金衆・栗原衆・一条衆・小山田備中衆・信玄直参衆・小十人頭子供衆・典厩衆・山県衆・駒井右京同心衆・城織部同心衆・土屋衆・今福筑前同心衆・今福新右衛門同心衆・青沼助兵衛同心衆・跡部大炊同心衆・跡部九郎右衛門同心衆・曽根下野同心衆・原隼人同心衆・甘利同心衆・三枝平右衛門同心衆・寄合衆・御蔵前衆・弐拾人衆などであった。

 この時の起請文を世に壬午起請文という。

 徳川・北条の若神子対陣の最中に、家康がこのように甲州の民心収携に大きい成果を挙げたのに対し、氏直は大軍を擁しながら進退両難に陥り、これを憂えた氏直の側近らは協議して、家康との間に和平工作を進めることとし、家康に和議を申入れた。条件は、甲州都留、信州佐久の両郡は徳川が、上州沼田は北条が領することとし、家康の息女を氏直に嫁がせることで、十月二十八日に和議は成立した。

 徳川、北条の二大勢力による甲信二州争奪戦は、徳川方の圧勝のうちに終わった。しかも徳川方の勝利の裏に、旧武田家臣の諸士、中でも武川衆・津金衆の諸士の活躍による戦果があったことを、家康は深く銘記していた。

 家康は、武川衆の武功に報いるために、感状・安堵状をしばしば与えている。すなわち、

七月十五日に米倉忠継・折井次昌両人に感状を、

八月十六日に青木信時・柳沢信俊両人に、

同十七日に折井次昌・名執清三両人に、

九月一日に山本忠房に、

十二月七日に折井次忠・小沢善大夫・米倉信継・同豊継・同定継・青木信時(第二次)・柳沢信俊(第二次)・横手源七郎・曲淵正吉ら九人に、

同月九日に名執清三に、

同月十日に山本忠房(第二次)にと、以上一六人に本領安堵状を発給している。

これに山高信直の辛が見えない。

 さらに家康は

同月十一日、武川衆曽雌定政ら二六人を武川次衆に公認する旨の印書、「武川次衆定置注文」一遍を発給した。すなわち家康は七月以来感状二通、安堵状一六通、武川次衆定置注文一通、計一九通を

発給している。

 家康が天正十年の一年間に発給した書状は、すべて二一九通である(『徳川家康文書の研究 中村孝也』)。その中で武川衆宛てのものが一九通を占めるということで、家康の甲信二国経略の過程における武川衆の働きが、いかに重要なものであったかが推察できよう。

 前記の「武川次衆定置注文」は、家康が新規に武川衆として公認した諸士の名簿である。

 武川次衆の事

 曽雌藤助 米蔵加左衛門尉 入戸野又兵衛 秋山但馬守 秋山内匠助 秋山織部佑 秋山宮内助 功力弥右衛門尉 戸嶋藤七郎 小沢善大夫 同名甚五兵衛 同名縫右衛門尉 小尾輿左衛門尉 金丸善右衛門尉 同新三 伊藤新五 海瀬覚兵衛 樋口佐大夫 若尾杢左衛門尉 山本内蔵助 石原善九郎 名取刑部右衛門尉 志村惣兵衛 塩屋作右衛門尉 山主民部丞 青木勘次郎

  右、各ミ武川衆に定め置く所なり。仇って件の如し。

   天正十年十二月十一日

 というもので、折井氏が武川衆諸氏を代表して受領したらしく、原本は、埼玉県寄居町に居住される折井氏直系田中清二氏が所蔵する。

 武川次衆二十六士は、天正十年十二月十一日、家康により武川衆と認められた士である。本来の武川衆は一条氏支流をもって組織された血族的武士集団であったが、時代の下るにしたがい、一条氏系以外でも、武川地域に所領を有し、居住する武士を包括するに至った。例えば米倉氏・知見寺氏・馬場氏・伊藤氏の如きである。

 武田氏没落後、徳川家康に協力した武川衆武士団の外郭にあり、武功が顕著であった二十六士をあらたに武川衆に加えたもので、これは武川衆の権威の高さをよく物語っている。

 

武川衆が武蔵・相模に移る

 徳川家康の甲州経営は、超人的熱意をもって実行された。天正十年七月八日、第二次甲州入り。中道往還を板原を経て甲斐に入る。以後北条氏直との抗争終結に至るまで在甲、十二月十二日甲府を発して遠江浜松に帰城。十一年三月第三次甲州入り、五月まで甲府滞在。同年八月一一十四日、第四次甲州入り、十二月四日浜松帰城まで。天正十二年四月、第五次甲州入り。六月七日浜松帰城まで、何回となく甲州の士に本領安堵の朱印状を与え、遺臣の中の有能の士を奉行ならびに代官に起用し、しきりに社寺領を寄進して復興につとめさせた。

 武田氏の旧法・旧慣を改めることなく、諸般の吏員には武田氏の旧臣を用いた。度量衡の制・伝馬の制・生産交易の制、すべて旧慣に依り、諸役を免許して人心の収撹に努めた。

 家康の、こうした施策によって、甲斐の民はこぞって家康の恩威に服したのであった。

 天正十二年四月、羽柴秀吉が織田信雄と隙を生じた時、信雄は援を家康に求めた。家康はこれを諾し、秀吉を尾張長久手に遊撃、武川衆・穴山衆・甲州長柄隊三〇〇人が縦横に戦い、戦局を勝利に導いた。秀吉方は大敗北で、先鋒の将池田恒興、森長可が討死した。やがて秀吉が家康に和議を申入れ、家康がこれと和することになったが、交歓の席上秀吉の所望を諾した家康が、武田流長柄の冴えを御覧に入れようといい、甲州長柄隊三〇〇人の妙技を披露すると、三河武士たちは、甲州武士に対する家康の信頼の厚いのを大いに羨んだという。同年武川衆は尾張の一宮城守衛を命ぜられた。

 翌十三年閏八月、信州上田城主真田昌幸が秀吉の意図によって家康に抗したので、家康は昌幸を討つ決意をし、武川衆に対し出陣に先立って人質の提出を求めた。真田氏と武川衆諸士は、武田時代以来親交があったからである。武川衆は全員いずれも妻子を人質にさし出し、上田城攻撃に出陣した。この攻城戦で徳川方は昌幸の絶妙な防戦に翻弄され、敗退させられたが、武川衆だけは戦果を挙げて、戦後、武川衆の人質は帰し与えられた。ところが秀吉と家康の間には冷戦が続き、家康は翌年正月、武川衆に人質の提出を要求した。この時、武川衆諸士は家康の要求のほか、兄弟親類までを人質として駿河に送り届けたので、家康は次の感状を与えて誠意を褒め、さらに去年秋、信州上田での戦功をも追賞した。

 

今度、証人の事申越し候処、各々馳走あり、差図のはか兄弟親類を駿州へ差越し、無二の段、まことに感悦し候。殊に去る秋の真田表において万事に精を入れ、走廻り候旨、大久保七郎右衛門披露し候、走れ亦悦害せしめ候、委細は両人申すべく候、恐々謹言。

差図のほか若衆まで妻子、駿州へ引越慌て、無二御奉公有るべきの由、御祝着に思召し候、殊に去る候、真田において大久保七郎右衛門申上げられ候、毎度御無沙汰存ぜられず候間、御喜悦成され候、恐々謹言。

 天正十四年正月十三日

家康(花押) 武川衆中

 

天正十三年四月、家康は織田信雄を援けて秀吉を小牧・長久手に破ったが、秀吉は政略によって家康を屈服させようと謀った。七月、秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜わり関白に任ぜられた。十月秀吉は家康の重臣石川数正を誘い、家康に背いて秀吉に仕えさせた。

 数正が秀吉の陣に奔ると、家康は、武川衆折井次昌に信玄旗本大番六備軍令書を、米倉忠継に分国政務掟書・典厩信繁九十九箇条書をそれぞれ提出させた。武田氏の軍法をもって徳川の軍法に代えようとしたのである(『駿河土産』)。

 

家康は、新たに召抱えた武田家遺臣について、その人物の前歴をよく調べ、行政的才能の優秀なものを簡抜してその手腕を発揮させることにつとめた。

家康の関東移封につれて、武川衆諸士は、関東各地に封を受けることになったが、その最も多くは武州鉢形領に、一部は相模・下総の内に封を受け采地に任した。

 

○鉢形領(当時武蔵男余郡、いま大里郡)に封を受けた武川衆は次の人々が知られている。

 山高信直・青木信時・折井次昌・米倉忠継・同豊継・同満継・柳沢信俊・山寺信昌

馬場信成・知見寺盛之・入戸野門宗・曲淵正吉・曽雌定政

○相模足柄郡に封を受けたもの

 曲淵吉景・米倉信継

○下総匝瑳郡に封を受けたもの

 折井次吉

 武蔵鉢形領は鉢形城下の男余部諸村で、いま埼玉県寄居町・小川町付近一帯を含んでいる。

 

甲府城番武川十二騎

 

 武蔵・相模・下総の封地にあって、武川衆諸士が与えられた知行高は、暫定的の支給であったらしい。それは『武徳編年集成』に、「武川ノ士十四人、去ル天正十八年以来武州鉢形ニテ堪忍分ヲ賜ハリケル」とあることから推察される。堪忍分とは、遺族扶助料・暫定給に相当するもので、本給の内輪の給与をいう。例えば武川衆折井次昌は、天正十三年五月二十七日に家康より与えられた所領宛行状によれば、一七一貫四〇〇文余を受けていた。仮に一貫文を五石と見倣せば、八五七石となる。ところが鉢形領での扶持高は八〇〇石であるから、五七石の減俸となるわけである。また米倉忠継は、甲州では一、一〇〇石を知行していたが、鉢形領では七五〇石とされた。これが堪忍分といわれるゆえんである。

 武蔵・相模の封地に任した期間の武川衆に課された軍役に、文禄の役の出征将兵・兵器・糧珠の輸送用船舶建造用の木材を伊豆天城山から伐り出す作業を奉行することがあった。

 やがて慶長五年、石田三成の乱が起こり、信州上田城の真田昌幸・信繁(幸村)父子が石田方に通じて敵対したので、家康は嫡男秀忠に上田城攻略を命じた。武川衆も秀忠に属して奮戦したが、昌幸の頑強な抵抗に遭って城下に釘付けにされ、関ケ原会戦に参戦できなかった。

 戦後家康は、甲府藩主浅野幸長を紀州和歌山へ移して甲斐を直轄地とし、上州厩橋城主平岩親吉を甲府城代に任じ、国務に当たらせた。

 同八年四月、家康は当年四歳の第九子五郎太(義直の幼名)を甲府二五万石の城主とし、平岩親吉に五郎太の博役を命じて輔佐させた。親吉は、さきに五郎大の兄に当たる仙千代を養子としたことがあるが、慶長五年二月、仙千代が早世し、次いで五郎大の輔佐となったもので、いかに家康が親吉を親任したかが推察される。親吉が甲斐の領内に発給した文書・禁制の形式は、藩主のそれと適わない。それについて、世人は、平岩殿は五郎大君の叔父故であろうといった。親吉は、家康の

意を体して政務に励んだので領内はよく治まった。

 慶長十二年(一六〇七)閏四月、甲府城主徳川五郎太(義直)が、尾張前藩主松平忠吉の急死の跡をうけて、同藩主となったので、城代平岩親吉も尾州犬山藩主に転封となった。

 

甲府城番武川十二騎

ここにおいて、幕府は武川・津金両衆の中から一二人の人材を、二人ずつ一組に交代して甲府城守衛に当たらせた。これが甲府城番武川十二騎で、名誉ある職務であった。十二騎は次の通り。

 山高孫兵衛親重 馬場民部信成 育木与兵衛信安 米倉丹後守信継 知見寺越前守盛之 

折井仁左衛門次書 入戸野又兵衛門光 山寺甚左衛門信光 柳沢三左衛門 曲淵筑後守吉清 

小尾彦左衛門重正 跡部十郎左衛門胤信

 

右のうち、小尾重正と跡部胤信とは津金衆の士で、武川衆一〇人とともに城番に選ばれたものであるが、大多数が武川衆であるので、二人を含めた一二人を武川十二騎ということになったのである。

 武川十二騎は、慶長十二年(一六〇七)から元和二年(一六一六)九月、松平忠長が甲斐に封ぜられるまでの一〇年間、交代制により甲府城守衛の任に当たり、よくこれを果たした。

 後世、武川十二騎の名が有名なので、武川衆の代名詞のように用いられることがあるが、武川衆と武川十二騎とは明瞭に区別されねばならぬ。

 






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最終更新日  2021年03月07日 08時03分21秒
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 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

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