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2021年03月10日
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カテゴリ:著名人紹介

渋沢栄一と経済の近代化

 

  著者 土屋喬雄氏 

土屋喬雄 - Wikipedia

 

 『歴史読本』特集 

特別企画 明治ものしり事典

  昭和53年7月号

 

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

日本資本主義の基礎を築いた実業界の巨魁渋沢栄一

偉大な業績とその生涯は

  

まえがき

 

筆者は、民間一個人の伝記文献としては古今東西にわたり最大と思われる全六十八巻の

『渋沢栄一伝記資料』の編集主任者として従事し、刊行にも監修の任に当った。昭和十一年から十八年まで編集、刊行は二十九年に準備にかかり、三十年第一巻、四十六年に最後の第六十八巻(別巻第十巻)日を刊行したのだから、前後二十五年になる。名義的には竜門社という渋沢栄一の子弟が昭和十年代につくった修養団体の主宰であったが、実際の推進者は、渋沢栄一の孫の渋沢敬一君と渋沢栄一の三女の夫君の明石照男さんであった。なぜかこの二人に「君」とか「さん」をつけて言うかといえは、いずれも亡くなられたが、筆者は非常に親切にしていただき、私の心の中には生きている人々だからである。

敬三君は旧制高校、東京大学経済学部のクラスメートであったが、おじいさんの『道徳経済合一主義』と「官尊民卑打破」の民主主義が身についていて、それに近代的文化人の性格とすぐれた素質が加味されたスクールの大きい人物で、亡くなっても、なつかしくて忘れられない人である。

明石さんは銀行家の学者で、銀行家でも金臭くない、岳父の生き方を心から正しいと信じ、これを守ろうとした人格者であった。

筆者が、六十八巻という厖大な『渋沢栄一伝記資判』の編集・刊行に喜んで長い間たずさわったのは、「道徳経済合一主義」と「官尊民卑打破」の民主主義が敬三石と明石さんに生きていたからである。

筆者は、渋沢栄一の人間像の特徴は、きわめて聡明な上に人間味(ヒューマニティー)が豊かで、日本社会の近代化を経済界を基盤として推進した大人物だと考えている。彼の指導

理念となった人生哲学は今でも正しいと私も信じている。したがって、渋沢栄一伝記資料』の編集に従事したことを、余命いくばくもない八十一歳の老人としても、まことに良い仕事をさせていただいたと幸せに思っている。

 

   一、渋沢栄一志士となる

 

渋沢栄一は、天保十一年(一八四〇)二月、武蔵国榛沢郡血洗島に生れた。彼は関東の生

んだ近代日本史上の三大偉人の一人である。私のいう三大偉人とは、勝海舟・渋沢栄一・田中正造である。

 渋沢栄一は「百姓の子]と自ら語っているが、百姓といっても彼の家は貧賎でもなく、純農家でもなかった。村方二番の富家で、農耕・養蚕のほか藍玉の製造販売をも営んでいた。英国流に言うと『ヨーマン』である。ヨーマンとは、オリヴアー・クロムウエルにひきいられ、ピューリタンの厳しい倫理を身につけ、いわゆる『ピューリタン・レヴォリューション』なる市民革命を成就した推進力であった。

彼の父は農村にまれな好学者で、彼に対し高い教育を与えた。師匠として水戸学の流れを汲む攘夷論者をもった彼は、年少にして非凡な人材である素質を示した。優れた学才を示したほか、

十四歳の時、藍商として大人以上の商才を揮った。同じころ、迷信に対する強い反発と憎悪を示し、それを克服したこともあった。これは合理主義という近代的思想をもっていた証拠である。

 十七歳の時、領主より用金を命ぜられ、代官の侮辱圧制にあい、反抗心を起して財産と人民に対する専制的抑圧を憎んだ。萌芽的な自由民俗思想をいだくにいたったのである。

その後、革新運動に心を傾け、しばしば江戸に遊び、志士と交わり、尊王夷論者となった。

 文久三年(一八六三)秋、高崎城乗っ取り、横浜外人商館焼き討ちを計画したが、京都か

ら帰った同志が攘夷運動傾注の形勢を報じ、旗挙げ中止を主張したので、計画を中止して京都ヘ上った。彼の在郷時代はここで終る。

 

渋沢の攘夷運動については、筆者はこう考える。彼は理智にすぐれた人であったから、も

し少年時代に洋学名を師匠にもったら、おそらく攘夷運動に走らず、開国論を早くからとったであろう。

 

  二、新政府の役人となる

 

文久三年、開明的殿様と見られた一橋慶喜の家臣となり、慶応二年(一八六六)十二月に

慶喜が将軍となってはからずも幕臣となるまで、一ツ橋家仕官二年半。その間農兵の編成・

財政改革・殖産興業に手腕を発揮した。とくに殖産興業の方面に自己の本領があることを自覚した。

 慶応三年一月、将軍慶喜の弟徳川昭武に随従し渡欧した。昭武はこの年パリで聞かれた万国博覧会への使節として、また使節の役目か終ったあと仏国留学の目的で渡仏したのであるが、渋沢は一行の俗事係・会計係であった。滞欧は二年足らずであったか、その間に彼の得た収穫は大きかった。滞仏および諸国巡遊の間に、近代資本主義文明の諸面を観察し、多くを学びとり、とくに経済施設や制度を研究した。そして合本営業(株式会社による企業経営)の重要性と官尊民卑打破の必娶とを痛感した。この二つは、後年彼が経済界指導に当って旗印としてかかげたものである。

 

明治元年十二月に帰朝した時、すでに将軍慶喜は大政奉還し、幕府は七十万石の静岡藩に変っていた。彼は静岡に余生を送る決心で太政官札発行の契機をとらえ、静岡にわが国最初の半官半民の株式組織の商事事会社である商法会所を興し、静岡部の財政に大いに貢献しようとした。

 だが、新政府は彼が新知識を持つ有為の人材であることを知り、出仕を勧めた。やむを得ず、明治二年(1869)十月、大蔵省に仕えることになる。仕官後まもなく、大蔵省の組織の不整備を感じた彼は、改正掛の設置を建言して容れられ、租税正(後の主税局長)を兼ねてその主任となった。

 彼か調査・立案したおもな原案は、

度量衡の改正、

租税制度の改革、

駅逓伝の改代貨幣制度および禄制の改革、

鉄道敷設等、

諸官庁の事務章程、

公債制度、

紙幣制度、

国立銀行条例、

廃藩置県に関する諧制度、

会計法等

であった。

なかんずく国立銀行条例の調査・立案は彼が最も努力したもので、これによって彼は銀行の生みの親と見られるようになった。

とくに第一国立銀行を担って立ち、明治六年(1873)より大正五年(1916)まで四十三年間、頭取を勤めめ、これを基盤として多くの企業を発起し、創立した。

 渋沢は明治四年に大蔵大丞となり、大蔵大輔(次官)の井上馨を補佐したが、各省の予算要求をめぐって井上と対立し、ついに六年、辞職した。

 

三、銀行界の指導者となる

 

渋沢の実業界への第一歩は、明治六年(1873)六月の第一国立銀行の創立指導である。彼は大蔵省にあった明治四年、『立会略則』を著わし、最初に日本国民に向って合本組織(株式会社による企業経営)の旗印をかかげた栄誉を担っている。自ら立案し、明治五年十一月に公布した国立銀行条例にもとづいて、株式会社の第一国立派行を創立し、その総監役(事実上の頭取)となった。ここにわか国において最初の本格的な株式会社組織の銀行の誕生をみたわけである。

 

経営方法についてはイギリスの銀行家で、大蔵省の御雇い外人であったアレキサンダー・アラン・シャンを教師として伝習した。

 日本資本主義にとっては、その後進性と低度な資本蓄積のため、近代的商工業の発展を促進するには必然的に金融構造の整備を前提としなければならなかった。それなくしては、商工業の急速な発展を果たすべき資金をまかないえないからである。こうした要請に対応すべき体制づくりも、第一両立銀行の創立により、実現の緒についたのである。

 しかし、旧条例には国立銀行発行の銀行券は正貨兌換という規定があったため、わずか四行しか設立されなかった。

明治九年、国立銀行条例の改正により不換の綾町紙幣での兌換に改めたため国立銀行の設立か容易になり、九年から十二年までに百互十三行の国立銀行か全国的に設立され、また私立銀行も多く設立された。国立銀行条例の改正・新国立銀行創立および経営の指導も、渋沢に負うところが大きかった。

 明治十年七月、渋沢が主唱して東京銀行集会所の前身、拓善会が組織された。十三年九月には東京銀行集会所を設立し、渋沢は推されて会長となる。この集会所の会長は大正五年までつづいた。その他不換紙幣の整理、正金銀行および日本銀行の創立兌換制度の完備、手形交換所の設立等をへて、金融組織の整備はほぼその実現に達した。ついで三十年の金本位制度の確立をもって貨幣・金融制度は一応完成したということかできる。これらのうちひとつとして渋沢の関係しなかったものはなかった。

   

四、諸産業の近代化

 

当時の日本の近代経済の末発達は、渋沢をして銀行業に専心することを許さなかった。

彼は後に自ら語ったように、あたかも新開地においては住民の寡少と購買力の薄弱のために

一業に専心し得ず。呉服屋が荒物屋を兼ね、荒物屋が飲食店を兼ねなければとうてい生計を維持しえないように、彼は次から次へと新事業の開拓・経営に従參した。

自らを称して万屋(よろずや)主義といったが、後進国日本は、このような先駆者を必要としたのである。

 渋沢が最初に関係した産業は明治六年の王子製紙創立であった。後年の大王子製紙会社王子製紙の成立は、彼と当時同社の技術方面を担当した大川平三郎に負っている。

 昭和恐慌後まもなく、紡績業の祖国である英国のランカシャの紡績業を凌駕するにいたった日本の紡績業は、明治十二年以家計画し、十六年七月に創立した大阪紡績会社によってはじめて飛躍的に発展すべき素地を与えられた。印棉・米棉の輸入の開始、棉花輸入関税および綿糸輸出税の廃止は、わか国の紡績業の発展に拍車をかけ、紡績業大発展の礎石となったのである。この礎石は、すべて渋沢によって置かれたといってよい。

 近代的商工業の発達は、近代的運輸機関の発展を要求し、逆にその発達によって助長される。多額の助成金によって日本の海運業を独占支配していた三菱汽船会社に対し、明治十五年七月、共同運輸会社を設立してこれに挑戦したのも渋沢であった。目本郵船会社は十八年、両社の妥協によって成立したもので、渋沢は郵船においても重役の地位を占めた。二十九年創立の東洋汽船会社の創立委員長もまた彼であった。

 海運業だけではない。渋沢は明治六年、蜂須賀茂昭(もちあき)らによって設立された東京鉄道会社の相談役として多大の尽力をした。東京鉄道は十四年にいたり、わが国最初の私鉄鉄道会社として実を結んだが、その成立発展に最も功績のあったのは渋沢であった。そして三十九年に鉄道が国有となるまで、彼の関係した私鉄は軌道をも合わせれば、六十余におよんでいる。

 主要点のみを述べた銀行・製紙・紡績・海運・鉄道のほか、彼の関係した事業だけでも次のように多種にわたっている。

 保険・信託・電信・電話・自動車運輸・航空・製絲・製絨・織物・製麻・製帽

製革・製糖・製菓・麦酒醸造・清酒醸造ヽ製油・製藍・製氷・印刷・陶器製造

硝子製造・煉瓦製造・セメント・製鉄・製鋼・造船・船渠・汽車製造・自動車製造

自転車製造・人造肥料・製薬その他諸化学工業・瓦斯・電気・土木・築港・建築

土地会社・取引所・倉庫・ホテル・貿易・鉱山業(銅鉄・硫黄・硝石・石炭・石油)

農業・牧畜・養蚕・林業・水産業などである。

 

実業・経済方面の関係会社および事業数は五百余におよんでいる。これら事業につき詳細に調査するならば、彼の姿が日本資本主義に影のように相伴っている。明治初年の殖産興業時代、十年代の不換紙幣整理・財経政策転換時代から、日清戦争前後の軽工業中心の第一次産業革命時代、日・露戦今後の重工業も確立の緒についた第二次産業革命時代をへて、第一次世界大戦の戦中と戦後一年半の日本資本主義経済の空前の大ブームを現出した飛躍的発展時代まで、民間経済界の指導者として常に第一線に現われていることかわかる。

 

 

 五、渋沢の指導理念

 

 後進日本資本主義を正しい健全な方向に指導教育することも渋沢の使命とするところで

あった。

 日本の資本主義経済は、維新以後突如として薩瓦落同政府の殖産興業政策によって造られたのではない。すでに江戸時代において、封建社会の内に資本主義的経済構造や資本蓄積が行われ、市民社会も成立してきたのである。だから資本主義社会の道徳、市民社会の倫理というべきものが、江戸時代にすでに起りつつあった。

江戸時代中期に形成された京郎の哲学者石田梅岩石門心学がしだいに普及し、大きな影響力ともった。後期には地方にも九州日田の儒者広瀬淡窓の敬天認学等が起ってきた。

 

 武蔵国というより関東平野の利根川に近い農村のいわば『ヨ-マン』といってもよい家に生れ育った渋沢は、少年時代すでに自由民主意識をもち、儒教道徳観を引きついだ。

それに西欧の近代的倫理観をも結びつけて、「道徳経済合一説」を「官尊民卑打破」および「合本主義」と統合して、一つの市民的な倫理学・政治哲学・経営哲学を指導理念とするにいたったことは歴史の必然といってもよい。

 渋沢は幼時から『論語』によって教育されたが、終世『論語』をもって徳育の規範とした。彼は明治六年、野に下って実業界の指導者となって以来、常に「論語算盤説」もしくは「道徳経済合一説」を唱え、これを実践して、実業界の道徳的水準を高めようと努めた。

 

彼は晩年

 

「不肖ながら私は論語をもって事業を経営してみよう。従来論語を講ずる学者が仁義道徳と生産殖利とを別物にしたのは誤謬である。必ず一緒になし得られるものである。こう心に肯定して数十年間経営しましたが、大なる過失はなかったと思うのであります」

 

と語っている。彼の生涯をよく知る者は、この言は己をも人をも欺かない言で、すなわち単なる口頭禅のようなものでなかったことを肯定するであろう。

 渋沢は民間実某家たちを政治的にも教育しようとした。彼は日本の商工業者に官尊民卑の弊風に批判的でない卑屈の気風があることを遺憾とした。そして商工業の自主独立発展を高唱した。

 彼はすでに明治四年の著書『立会略則』に

「通商の道は政府の威権を以て押し付け、又は法則を以て紡るべからず」

と主張、そして

「国家の富強は商工業の発展にあり」

とし、

「実業家の位置勢力能く政治家を動かすに至るにあらざれば、真の発達は期すべからず」

 

と説いた。

武官および外交官は実業家の背後にあって援護の労をとるべきものであると強調し、常に政治に対する経済の優位を叫んだ。

他方商工業者に対しては前述のように、その社会的地位の向とおよび商業道徳の涵養を求めたのである。

 彼はまた学問と実際との結合を重視し、実業教育・職業教育の発展のため努力した。森有礼、冨田鉄之助、渋沢栄一の尽力によって明治八年に設立された東京商法講習所(一橋大学の前身)が幾度か廃校の悲運に陥ろうとしながら今日の隆盛に達しえたのは、渋沢の実業教育尊重の精神による援助が大であったからだと言わなければならない。彼はなお多くの実業学校にも援助を与えており、

大倉高等商業学校、高千穂商業学校、東京高等蚕糸学校、岩倉鉄道学校等々枚挙にいとまもないほどである。

 明治二十二年三月十九日、彼は東京高等商業学校の第一回卒業式に臨み、その中で

 

「今日一般の、思想政治に傾いていると見えて、いやしくも書生たる人その学ぶ所の学科何たるを問わず、口を開けば、グラッドストーンは人傑とか英雄とか、又は我邦にては誰れ彼れとか、とかくに文勲武功に有名の人を賞讃する様になりますが、それは名誉の位置が、そこに傾き易いから、その方に思い込むというものにて、また免れぬ道理でもありましょう。さりながら諸君はその方に望みをすて商業に就かれようとすることであるから、もし左様な考えに望みをおくと山に登らんとして舟を造っているようなものであります。……早見この畢竟(ひっきょう)の生ずるも商業は位置の低いものと思い誤るからの事と存じます。私が商人の一部分であって、そんなことを申すも、おこがましいが、商人は名誉の位置でないと誰が申しましたか。私は、商業で国家の鴻益(こうえき)をも為せます。工業で国家の富強をも図りえられます。商工業者の実力は、能く国家の位置を高進するの根本と申して宜かろうと思います」

 

と、示唆に富む意見を述べている。すなわち彼が学問と実際との結合を尊重し、商業教育の向上を図ったのも、その根本において経済・産業の国家社会における重要性を認識し、したがって商工業者の社会的地位の向上を重視したためと思われる。

 渋沢を指導者とナる商工業者の社会的地位向上の過程は、商業会議所の発展の中に現われている。東京商業会議所は、その遠い淵源を寛政三年(1791)以来の江戸町会所にもっていた。これが東京営繕会議所となり、東京会議所となるにおよんで渋沢はその会頭に推された。それが商工業者の団体として最初の姿をとったのは明治十年の東京商法会議所であったが、農商工諮開会規則公布のため閉鎖のやむなきにいたり、さらに東京商工会として更生したが、明治二十三年、商業会議所条例公布の運動に成功して自らを解散した。

ここに商工業者は条例によるひとつの団体として結成された。渋沢はつづいて会頭となり、

明清三十八年にいたる。やがて全国連合会をも造ったが、この団体は

条約改正建議(明治二十三年)、

綿糸輸出税(二十七年)、

棉花輸入税(二十九年)の廃止運動、

日清戦争後の軍備拡張反対運動、営業税法改正運動(三十年)

等をへて重きをなすにいたった。

渋沢は商業会議所会頭と銀行集会所の会長(大正五年まで)を兼ね、絶えず商工業者・銀行家の社会的・政治的地位の向上に努力したが、明治末期にいたって、その理想は一応実現した。そして大正時代に、藩閥の流れをくむ官僚に代って、実業界に基盤をもった政党政治家が内閣を組織できるようになったのである。

 

   む す び 

 

渋沢栄一は大正五年、七十七歳の喜寿をもって実業界から隠退し、余生をもっぱら社会事業・公共事業にささげる決意をした。

そのため自己の資金で「渋沢事務所」を設け、若干名の事務員をおいた。

 かくて渋沢は九十二歳で亡くなるまで十五年の間、社会・公共事業のため尽力した。彼が明治初年以来六十年間に創設者・正副総裁・正副会長・相談役・顧問・理事・評議員として、あるいは贅助者・後援者として関係した事業は六百有余におよんでいる。

これらを大別すれば、

狭義の社会事業、

労使協調および融和事業、

国際親善および世界平和促進、

教育・道徳風教の振作、

学術およびその他の文化事業、

自治団体、記念事業、軍事援護、

政治・生活改善等である。

 

これらは、渋沢が単に営利追及・資本蓄積に専念した実業家と性格を異にする実業家であったことを示すものである。言いかえれば彼は…総資本…指導者であったことを語るものであろう。 (了)






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最終更新日  2021年03月10日 00時23分34秒
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