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2021年03月11日
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木曽御岳山噴火に関する聞き書き 楯秀雄氏著

 

 一 御岳山鳴動の記録

 

 昭和五十四年十月二十八日、早朝の御岳山噴火は多くの人々を驚かせた。御岳山の噴火はまったく予想されなかっただけにその驚きは大きかった。新聞やテレビは「有史以来の噴火」と、いうタイトルをつけて報道していたが、それは当然のことであった。

事実、御岳山は噴火の記録は何一つなく、また自然科学者の調査及び研究も、ほかの火山に比べて著しく立ち遅れているといってよく、御岳山の研究も少なかったのも事実である。

 

御岳山の噴火史の記録は、大正四年に刊行された「西筑摩郡誌」に、

「明治廿五年四月一日、御嶽鳴動」

と、あるだけで、いまのところ見当らない。

 木曽の郷土史家 森田孝太郎氏の「木曽の明治百年」(昭和四十四年刊)には、

「四月、御嶽が鳴勤し、郡民は非常に動揺した」

と、誌るされているのが、新らしい文献である。森田孝太郎氏は「郡民は非常に動揺した」と西筑摩郡誌よりやや詳しく誌るしているが、この一節の出典は……郡民動揺の氏亡き現在明らかでない。

 御岳山麓の三岳村々長和形正人氏と、噴火後車中でお話する機会があり、たまたま御岳山噴火のことに話題が及んだ。

氏は「明治二十五年に鳴動の記録があるというので、役場の古い資料を調べてみたが、噴火に関係する資料はなかった」

と、話して下さった。

 同じ御岳山麓の王滝村へもお訪ねし、総務課長越達夫氏、同係長三浦清吉氏、同教育委員会の田近清揮氏等とも、御岳山鳴動の資料についてお聞きしたが、関係ある資料はないとのことであった。

前記田近氏の粗々父、祖父が明治から大正にかけて二代にわたって日記をつけられていることをお聞きし、明治二十五年の個所をお調べしていただきたいとお願いしたが、その後の結果はまだ聞いていない。

 

    二 御岳山とその歴史

 

御岳山に関する確かな歴史は、元中二年(一三八五)に、

「木曽家信、木曽御嶽権現社の社殿を造立す」

の、記事が最初のものである。室町時代の後半、いわゆる永正、大永、弘治天正年間に、王滝村の神主家滝氏が、御岳山の祭文に書き誌るしている。祭文、すなわち宣命わかなり長文のものであるが、このなかに御岳山の噴火、鳴動に関する記述はいっさいない。

 この室町の後半期にはまた、木曽谷の支配者である木曽長政が御岳権現に百箇日精進し登拝したとか(永禄三年)木曽義昌が木曽御嶽の岩戸権現社殿を造立(天正八年)地元の有

力者が三岳黒沢の若宮社に、三十六歌仙の板絵を奉納(永禄八年)という記事が多く散見されるようになる。

 したがって元中二年(一三八五)から、永正二年(一五〇五)までの百二十年間は空白で、一五〇五年から約八○年ほどの記録が残されているのが実状である。

 時代がさがる江戸時代になると記録は多くなるかといえばそうではなく、残存記録はきわめて乏しいのが実状である。

 御岳山が信仰の山として、地元の木曽谷以外の地に広く知られるようになったのは、江戸時代の後半天明年間に尾張の人覚明行者が黒沢口(三岳村)から、完政年間に秩父の普寛行者が王滝口から登拝して以来のことで、その歴史はまだ二〇〇年ほどの新らしい歴史である。

 したがって御岳山の信仰に関する多くの資料がみられるようになるのも、天明、寛政以降のことであり、また多くの信者が白衣に身をつつみ登るようになったのは十九世紀、それも後半になってからである。

 

御嶽山が二人の先覚者によって開かれ、その信者がまたたくまに増加したのは、美しい御岳の山容もさることながら、御岳が危険をともなう噴火という自然現象のまったくない安全な山であったことも見落すことのできない事実であった。

    

三 お山が鳴ったという伝承

 

明治三十四年王滝村野口で生まれ、上島へ嫁いできた大久保はつ江さんは、姑にあたる大久保とみから「お山はいくら鳴っても噴きはせんで」という話を聞いていると私に話してくれた。

 大久保とみは、嫁であったはつ江さんに、王滝の八海山へ馬の餌にする笹刈にいって、お山が鳴っておっかなくなり、逃げ帰った話をしている。

 「馬の飼葉の笹を刈りに八海山までいって、刈るところまで行きついたが、お山がゴーゴーといってものすごくなっており、みんながお山が噴きゃあいかん。家へいかまいか、といって笹を刈らずに下りてきた」

という。

 この笹刈りというのは、秋の十一月五日に山の口があいて村の者は笹を刈る道をあけ、馬の飼葉の笹を朝暗い内に起きて、八海山周辺の奥山まで刈りにいく。笹刈りが終ると次は″囲炉裏″で焚く、たきもの集めが王滝の習慣となっていたものである。

 すると、お山が鳴っていたのは秋も遅い十一月に入ってからのことであり、「お山が鳴って鳴って」怖くて笹も刈らずに「みんながいかまいか」といって家まで逃げ帰っているすさまじさが想像できる。八海山というのは、王滝の本村から直線にして約六キロ、片道二時間余の行程である。

 この話しから推察すると、大久保とみは笹を刈る八海山までいって山が鳴っており、八海山についてみると御岳山がゴーゴーと鳴っているのに驚いて、逃げ帰る。すると村を出る

時には御岳山の鳴っているのは知らずにいったことになる。

村内まで御岳山の鳴動は聞えなかったものであろう。

 

 八海山は標高が一六四八・六m。御岳山頂から直線で約六キロほどある。なお今回の噴火の際も、鳴動は八海山では聞えているが、王滝村役場のある本村では聞えていない。なおこ

の鳴動の年は明治であるか、大正の頃であるかはっきりしない。

 

    四 御岳山頂での鳴動と田島重助

 

大久保家で、大久保家の隣家田島家の先々代田島重助(現当主であり王滝村教育長の田島重助氏の祖父)が、御岳山の王滝頂上にある御岳神社社務所の別当職をひと夏した時に山が鳴ったのに遭遇している。

 昔の御岳山の山開きは七月十五日であるが、田島助は、夏が終るまでの聞山頂で別当をしたが、山がひと夏中鳴り続けたので、お山が噴いた時のことを考え、わらじをぬげえなんで履いたまま寝ていたという。お山が鳴った年代はまったく不明。この話を私に語ってくれた大久保かねさん(大正十一年王滝生れ)であるが、かねさんは別当職をした田島重助の孫にあたる。

 

 夏が終って、お山におった者たちがみな下山してくる。たまたま下山してきた王滝村野口の松下今朝五郎に、田島重助の妻まさか「おら重助はおりてこんが」と心配して訪ねたところ、松下今朝五郎は、まさに山が鳴ったことにかこつけてからかったようである。麓の王滝で御岳山の鳴動を知っており、山頂にいた重助の身を心配していたまさは、松下今朝五郎のふざけた発言にたいし「この今朝のバカヤロ、何こくか」といって怒ったという。

 この松下今朝五郎は、王滝口頂上の村営の山小屋をその年に落札して経営にあたっていたものでヽ重助同様炎上にいたものである。この今朝五郎は、大久保はつ江さんの実父にもあたっているが、田島重助も松下今朝五郎も山が鳴動しているのに、ひと夏中御岳山頂にいたもので、また信者も山が鳴動しているのに登っていたことになる。

 

この鳴動は山頂におって不安な状態で聞いておりながら、ひと夏中登ってくる信者たちの世話をできたことは、この鳴動は心理的に十分耐えられるものであった状態であろう。ところが八海山へ笹刈りにいった村の女衆が、鳴動に驚き笹も刈らずに逃げ帰ったのは、田島重助が山頂で遭遇した鳴動より、もっとすさまじかったものであろうか。

 

    五 地獄谷の様子

 

地獄谷は山頂から南西の方向に広げている大きな爆烈谷であるが、この谷から水蒸気が出ており、御岳山が死火山でなかったことを示していた。今回の噴火は水蒸気のでていた場所よりずっと上の、むしろ頂上直下の個所である。

 地獄谷は水蒸気だけでなく、王滝頂上に隣接する奥院直下の谷には、熱いお湯、すなわち温泉が湧きでていたようである。王滝頂上の山小屋を入札で落し、明治から大正にかけて幾年も山小屋の経営をしていた松下今朝五郎は、風呂が小屋になかったため、トンガ(唐鍬) を持って地獄谷までおりていき、土砂をかき集めてドブをこしらえては入ってきたという。

 「ドブをこしらえて」という言葉は王滝生まれの大久保はつ江さんが語ってくれたものであるが、土砂で湯を堰き止めて、人が入れるくらいになった状態のことである。この湯も谷の本当のところ(中心部)は熱くて入ることができなかったので、脇の部分にドブをこしらえたもののようである。

 地獄谷へ何回もおりている大久保真五郎さん(はつ江さんの主人)は、

「ごむそく(地下足袋)で行くと、ごむそくの底が熱くなって二、三分しかおれなんだ」

と語ってくれた。

ただその場所は地獄谷でも水蒸気の出ている場所の周囲であったようである。

 

大正の頃か、あるいは明治の頃からかはっきりしないが、横浜市の昇進講という御岳教の講集団が、地獄谷から湧き出る湯(温泉)を「薬湯=くすりゆ」と称し信仰の湯としていた。この湯の汲み上げは、地元王滝村の松原八百一郎が請負、松原は村人でも危険な地獄谷までおりていける身の軽い者を何人かを使って、樽につめて背負いあげさせていた。これらの人たちならば、地獄谷へ何百回もおりているので、地獄谷の状況を詳しく知っているはずである。その状況を聞こうと思ったが、すでに皆故人となっていた。

 これら薬湯を汲み上げた人たちほどではないが、地獄谷へ何回か下りたことのある大久保真五郎さんは

「噴火する前まで地獄谷へいけば大きな火を焚いた時のような静かな音がしていた」  

「お客様を地獄を見下すことのできる奥院へ案内していくと、風向きで硫黄の匂いのする

煙で長くおれんことがあった」

と語ってくれた。

 

昭和十二年王滝村で生まれ、四十二、三年頃から父親の後を継いで三岳黒沢口の九合半で山小屋を経営している藤村文雄さんは、信者の依頼で奥院直下の地獄谷へ「金明水」「銀明水」を汲みにいっている。

 奥院直下のこの谷は、今回噴火した個所の下の谷であるがこの谷は

「昭和四十年の中頃には、ブクブクいって蒸気が少し出ていた程度であるが、最近はモヤモヤした水蒸気が約一対ほどの高さで何カ所にも出ていた。また硫黄臭くて三十分ほどしかおれなんだ。こんなことは以前はなかったことだ」

と変化してきた様子を語ってくれた。

 藤村さんは

「登山した信者の衆が地獄谷まで案内してくれないかとよく頼まれるが、あんな危険なところは素人の衆がいけるところではない。私共でも風がなく、曇っていない天気の時をみて行くが、こんなBは夏でも失神をする危険もある怖いところだ。五十四年(去年)の夏はどうしても行く気がせず、おりていない」

とも語っている。

 

    六 三岳村屋敷野で聞いた大きな音

 

 明治二十五年六月一日、三岳村屋敷野で生まれた浦沢熊五郎さんは、明治の来年からここ数年前まで、三岳口から登る信者の荷物などを持ち、また山を案内する強力(ごうりき)として、おそらく一千回を越えるほど御岳山に登った方である。

 浦沢さんはまた、村の民謡の歌い手としても著名で、いまではまったく忘れ去られた三岳村の民謡も数多く知っており私は浦沢さんの民謡を「木曽三岳村の民謡」と題して私の著書「辺境と文化」(昭和五十三年刊)に収録している。

 浦沢さんは民謡の唄い手だけでなく、民俗の語り部としても第一等の方で、五十四年九月作曲家の柴日南雄氏、東京混声合唱団の常任指揮者田中信昭氏を案内して当時の民謡や、三岳村の昔を謡っていただいたことがある。

 浦沢さんによると、御岳山がかつて噴火したことや、鳴勤したことはまったく聞いたことはないが、明治三十七、八年の日露戦争の頃御岳山の方向で、ドカーンという大きな音が

三回聞えたことがあったという。

 その音は、何かが破烈した音、夕立の音、鉄砲の昔と明らかにちがう音であり、御岳山の方向で鳴った音であった。時は春の夕方頃で、大きな音で家が揺れるようなこともなかった。音は最初ドカーン、ドカーンと二発鳴り、しばらく間をおいてドカーンと嗚って結局三発鳴っている。地嗚りは伴っていない。

 当時は日賜戦争のさなかで、屋敷野では神様が三柱、戦争に行ったなどと話し合い、別に不思議なことと思わなかったようである。屋敷野は黒沢口登山道の脇で頂上から直線にして約九キロ程で、標高は一二〇〇m。

 なお浦沢さんも地獄谷へ地元の石工から、石塔の補修用の硫黄の採取を頓まれ大正時代の地獄谷へおりている。そして地獄谷から出ている水蒸気が五〇mほどの高さにふきあげていたこと、またそれが白いばかりでなく黒い煙も時にはあったことなどを語ってくれた。

 

   七 噴火の微向の聞き直しも

 

以上御岳山の鳴動にまつわる伝承を山麓の古老から語ってもらったままを書いてみたが、とりわけ興味をもつのは、鳴動のことである。西筑摩郡誌は明治廿五年「四月一日」森田孝太郎氏は「四月」としてあるが、伝承では「ひと夏中」、「晩秋の十一月」と季節がかなり長期にわたっている。

 ただこの伝承が明治二十五年であるかどうかは、伝承のもつ不確実さのため不明であるのが残念である。今後地元での記録発見に努力をしてみたい。

 また池沢さんの「黒い煙云々」についても今後ほかの人から聞いてみる必要があろう。今回は十分画き得なかったもの、松下今朝五郎はまた「地獄谷の煙には注意せよ」とロぐせの

ように子供の大久保真五郎さんに限っているし、「今日は地獄谷の煙が良く見える。今日は剣ケ峰まであがっている」など毎日地獄谷の煙に気をつかっていたようである。

 今朝五郎はまた「こんなおっかないところで暮らさなんでらよそで暮すとこがある。そこへいって住みたい」などとも話しており、大久保真五郎さんは「いまになって考えてみると、御岳の噴火のことを父親は昔の年寄から聞いておったのではないかと推測をしてみた」とも語ってくれた。

 大久保はつ江さんが記してくれたなかに「お山が噴く」「お山が鳴る」「おやまはいくら鳴っても噴きはせん」という言葉自体、過去に小さな噴火の状態や鳴動があったという事実から生まれた言葉ではないかと思ったことだった。

 もし御岳山が有史以来噴火という現象が絶無とすれば、このような[噴く]「鳴る」という火山用語は地元には存在しなかったのではないかとも考えられる。私の貧しい民俗調査の過程で知り得たことは、その土地の人は過去に「事実」ということがなければ、「格言」「たとえ話」「俗謡」「いい伝え」的な言葉は生まれてこないということである。

 例えば「一日雨が降ったら蛇抜けがある」といういい伝えが、木曽の南部南木曽町の読書、嬬籠、蘭地区で語られている。ところが山を越えた飯田市大平、松川入、清内路村などでは災害にたいする諺のような言葉が語り伝えられていない。伝えられていないということは、過去に蛇抜け、山抜けの歴史がほとんどなかった。たとえあったとしても多くの人命が失われるような大きな災害がなかったことである。

 

「白い雨」というのは一時間に五〇キロ前後か、それ以上の雨が降った場合、透明の雨でなく、乳白色状の真白い雨の状態となる。雨による山崩れの常襲地帯南木曽町ならではの伝

承である。

 

 「おやまがふく、おやまがなる」

 「白い雨が降ったら蛇抜けがある」

 

この伝承、諺の背景に同じ歴史的事実が感じられる。今後の御岳山肆の村々における御岳山の自然現象を古老から聞き出すことによって噴火の微向をつかみ得たいと思っている。

   (筆者 木曽福島町中畑)

 

  《掲載写真の説明》

黒煙を上げる木曽の御岳山

5410281430分 王滝村濁川で楯英一郎撮影






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最終更新日  2021年03月11日 04時58分53秒
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