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2021年03月11日
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 信長の登場 統一政権の成立 本能寺の変

全国統一の過程 信長の登場

 

   『史料日本史 上巻』1978・4・5発行

   編者 笠原一男(文学博士)・安田元久(文学博士)

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

信長の登場

 

はてしない戦国の争乱の結果,弱小の大名は滅び去り16世紀中ごろになると,越後の上杉氏,甲斐の武田氏,駿河の今川氏,安芸の毛利氏,尾張の織田氏らの生き残った有力大名が,京都にのぼり天下を統一することを狙っていた。その中ではじめて野望を達成したのは織田信艮長であった。

織田氏はもと尾張の守護斯波氏の守護代であったが,やがて農村の土豪層を組織して尾張地方の戦国大名に成長していった。信長は若くして家を継ぐとますますその勢力を拡大し,永禄31560)年には,戦国の老雄今川義元と戦い,桶狭間で味方の10倍にも及ぶ軍勢を迎えうってこれを破り,東海地方に地歩をきずいた。

三河の徳川氏と盟約を結び背後の守りを固くしたうえで,美濃の斎藤氏を討ちこの地方を平定し,ついで伊勢を攻めてこれを勢力下においた。

 永禄3(1568)年信長は,かねてから念願の京都にのぼり,足利義昭を擁立し室町幕府15代将軍に奉じて,中央権力としての権威を高めるとともに,和泉堺・近江大津のような交通と商業の要衝の土地を直轄し,全国統一の足掛りをつくった。

京都をおさえた信長は,次に畿内地方に勢力をもつ戦国力名・荘園領主たちを攻略することにとりかかった。

元亀元(1570)年には越前の朝倉義景,近江の浅井民政を攻め,近江姉川で両者の連合軍を破るとともに,これに加担した比叡山延暦寺を攻めて堂塔を焼きつくした。

  

延暦寺の全滅  

 

信長による比叡山攻略は,中世的な荘園領主の治外法権と宗教的権威に対する攻撃として画期的意味をもった。その攻撃がいかに激しいものであったかは,次に掲げる『信長公記』の記録がよく伝えている。なお『信長公記』は,信長の右筆であった太田牛一が著わした信長の政治と軍事の記録であり,信長の活動を知るうえでの好史料である。

 

(元亀21571〉年)九月十二日,叡山へ御取り懸く。(中略)

山門・山下の僧衆王城の鎮守たりと雖も,行体行法,

出家の作法にも拘らず天下の嘲弄をも恥ず,天道の恐れをも顧みず,

婬乱、魚島を服用せしめ,金銀賄に耽りて,浅井・朝倉に聶負せしめ,

  恣に相働くの条,世に随ひ,時習に随ひ,まず,御遠慮を加へられ,

御無事に属せられ,御無念ながら,御馬を納められ候べき。

御憤を散ぜらるべきために候。

  九月十二日,叡山を取り詰め,根本中堂,三王廿一社を初め奉り,

霊仏・霊社・坊・経巻一宇も残さず,時に雲霞の如く焼き払ひ,

灰廸の地となすこそ哀れなれ。

山下の男女老若;右往左往に癈忘致し,取る物も取り敢へず,

悉く,かちはだしにて,八王寺山へ逃げ上り,社内へ逃げ籠る。

諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。

僧俗・児童・智者・上人,一々に頚をきり,信長の御目に懸くる。

是れは山頭に於いて,其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し,

其の外,美女・小童,其の員(かず)をも知らず召し捕へ召し列らぬる。

御前へ参り,悪僧の儀は是非に及ばず,是れは御扶けなされ候へと。

声々に申し上げ候と雖も,中々御許容なく,一々に頸を打ち落され,

目も当てられぬ有様なり。数千の屍算(しかばね)を乱し,

哀れなる仕合せなり。年来の御胸を散ぜられ詑んぬ。

 (『信長公記』)

 

ついで天正元(1573)年には,朝倉を越前一東谷で滅ぼし,浅井長政を近江小谷城に攻め自殺せしめたが,このとき反織田勢力と通じていた足利義昭も信長の追求をうけ,京を追われた。ここに,建武31336)年に足利尊氏が京都室町に開いて以来,240年続いた足利幕府も,ついに名実ともに滅亡したのである。

 

これより先,甲斐の武田氏も西上の機会をねらい,家康の領国をおかしていたが,天正31575)年には,三河長篠において武田勝頼の大軍を迎えた織田・徳川の連合軍は,これを破って,ようやく畿内・東海・北陸の勢力範囲を堅固なものとした。長篠の合戦は,武田軍の長槍と騎馬を中心とした戦国時代を代表する数万の軍備に対し,信長は機動力にとむ3000人の軽装の足軽で鉄砲隊を組織してこれに勝ったもので,以後の戦闘の様相を一変させた。

 

 長篠の戦い  

 

武田の騎馬隊攻撃を辺えた織田・徳川の連合軍は,三河設楽原に柵を設けわずかの鉄砲隊でこれを防ぎ,戦さを勝利に導いたことで有名であるが,次に掲げる史料は,このときの合戦の様子をよく伝えている。佐々木蔵介らを奉行とする鉄砲隊の活躍が,山形三郎兵衛らを隊長とする1番から5番までの武田の騎馬攻撃隊を壊滅させた有様が生き生きと述べられている。

 

信長は,家厳陣所に高松山とて小高き山御座候に取り上げられ,

敵の働きを御覧じ,御下知次第働くべきの旨,

兼ねてより仰せ含まれ,鉄砲千挺ばかり,

佐々木蔵介・前田又左衛門・野々村三十郎・福富平左衛門・塙九郎左衛門

を御奉行として,近々と足軽を懸けられ,御覧じ候。

前後より攻められ,御敵も人数を出だし候。

一番,山形三郎兵衛,推し太鼓を打ちて,懸かり来たり候。

鉄砲を以て,散々に打ち立てられ,引き退く。

二番に,正用(逍遥)軒入れ替へ,かゝれば退き,退けば引き付け,

御下知の如く鉄砲にて過半人数うたれ候へば,其の時,引き入るゝなり。

三番に,西上野の小幡一党,赤武者にて,入れ替へ懸かり来たる。

関東衆,馬上の攻め者にて,是れ又,馬入るべき手立てにて,

推し太鼓を打ちて,懸かり来たり,人数を備へ候。

身がくしとして,鉄砲にて待ち請け,打たせられ候へば,

過半打ち倒され,無人になりて,引き退く。

四番に,典厩一党,黒武者にて懸かり来たる。

かくの如く,御敵入れ替へ候へども,

御人数一首(ひとかしら)も御出でなく,

鉄砲ばかりを相加へ,足軽にて会釈,ねり倒され,

人数をうたせ,引き入るゝなり。

五番に,馬場美濃守推し太鼓にて,かゝり来たり,

人数を備へ,右同断に勢衆りたれ,引き退く。

               (『信長公記』)

 

 信長の統一事業に対して,激しい抵抗をみせたのは,本願寺と各地の一向一揆であった。一向一揆は,浄土真宗を共通の信仰とし,広く土豪・国人の間に惣的な結合をきずいて,戦国時代に独自な地位をつくりあげ,農民的な横のつながりを基礎としているところから,信長の武士的な統一と激しく対立した。

天正21574)年には伊勢長嶋の一揆,翌年には越前の一揆が信長の前に屈した。ついで天正41576)年からは石山本願寺を改め,天正81580)年にはついにこれを落とし,全国の一向宗の勢力を支配下においた。織田信長は,この年近江の安土に豪壮な城を築き,ここを本拠として天下の統一をめざしたのである。

 

本能寺の変

 

 信長は,さらに天正101582)年家康の協力のもとに甲斐の武田を攻めてこれを滅ぼし,駿河・甲斐・信濃を掌中に収めた。

中国地方を本拠とする毛利氏に対しては,家臣の羽柴秀吉が攻撃にあたり,備中高松波を

水攻めにして落城寸前にまで追いつめた。

同年信長は,秀吉の軍に加勢して出陣する途中,京都の本能寺において,腹臣の部下であった明智光秀に突如襲われ,自刃を余儀なくされた。

 

   信長の最期  

 

明智光秀は信長を倒して天下をとろうとしたが,その底には信長個人に対する怨恨があったといわれている。謀反はひそかに計画され,光秀の部下たちにも直前まで知らされなかったという。ここには,信長の最期を、信長側の記録である『信長公記』と,たまたま本能寺の近くに住む宣教師の報告をもとにしたフロイスの『日本史』の記事を掲げておく。

 

  六月朔日,夜に入り,老の山へ上り,右へ行く道は山崎天神馬場,摂津国の皆道なり。

左へ下れぱ,京へ出づる道なり。ここを左へ下り,桂川打ち越え,漸く夜も明け方に罷

りなり候。既に,信長公御座所,本能寺取り巻きの勢衆,五方より乱れ入るなり。

信長も,御小姓衆も,当座の喧嘩を,下々の者ども仕出(しいだし)し候と,おぼしめ

され候のところ,一向さはなく,ときの声を上げ,御殿へ鉄畑を打ち入れ候。

是れは謀叛か,如何なる者の企てぞと,御掟のところに,森乱(丸)申す様に,明智が

者と見え申し候と,言上候へば,是非に及ばずと,上意候。

透きをあらせず、御職へ乗り入れ,面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て,御厩よ

り,矢代勝介,伴太郎左衛門,伴正林,村田吉五,切って出で討死。此の外,御中間衆

(名前略)廿四人,御厩にて討死。

  御殿の内にて討死の衆,森乱・森力・森坊,兄弟三人。(26人名前略)討死。御台所の

  ロにては,高橋虎松,暫らく支へ合せ,比類なき働きなり。

信長,初めには,御弓を取り合ひ,二・三つ遊ぱし候へば,何れも時刻到来候て,御弓

の絃切れ,その後,御鎗にて御戦ひなされ,御肘に鎗疵を被り,引き退き,これまで御

そばに女どもつきそひて居り申し候を,女は苦しからず,急ぎ罷り出でよと,仰せられ,

追ひ出させられ,既に御殿に火を懸け,焼け来たり候。御姿を御見せあるまじきと,お

ぽしめされ候か。殿中奥深入り給ひ,内よりも御南戸(納戸)のロを引き立て,無情に

御腹めさる。

 (『信長公記』)

 

1582年6月20日水曜日のことであった。兵士たちはかような動きが一体何のため   であるか訝(いぶか)り始め,おそらく明智は信長の命に基づき,その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。

このようにして,信長が都に来るといつも宿舎としており,すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達するや,明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。

ところでこの事件は街の人々の意表をついたことだったので,ほとんどの人には,それはたまたま起こった何らかの騒動くらいにしか思われず,事実,当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は,信長の場所から僅か一街を隔てただけのところにあったので,数名のキリシタンはこの方に来て,折から早朝のミサの仕度をしていた司祭に,「御殿の前で騒ぎが起こっているから,しばらく待つように」と言った。そしてそのような場所であえて争うからには,重大な事件であるかも知れないと報じた。間もなく銃声が響き,火が我らの修道院から望まれた。

次の使者が来て,あれは喧嘩ではなく,明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。

 明智の軍勢は御殿の門に到着すると,真先に。警備に当っていた守衛を殺した。内部では,このような叛逆を疑う気配はなく,御鍛には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外には誰もいなかったので,兵士たちに抵抗する者はいなかった。

そしてこの件で特別な任務を帯びた者が,兵士とともに内部に入り,ちょうど手と顔を洗い終え,手拭で身体をふいている信長を見つけたので,ただちにその背中に矢を放ったところ,信長はその矢を引き抜き,鎌のような形をした長槍である薙刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが,腕に銃弾を受けると,自らの部屋に入り,戸を閉じ,そこで切腹したと言われ,

また他の者は,彼はただちに御殿に放火し,生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので,どのようにして彼が死んだかはわかっていない。我らが知っていることは,その声だけでなく,その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が,毛髪と言わず骨と言わず灰倫に化さざるものは一つもなくなり,彼のものとしては地上に何ら残存しなかったことである。

  (フロイス「日本史」一松田義一・川崎桃太編訳「回想の織田信長」中央公論社)

 

 信長の全国統一の計画はあえなくついえたのである。光秀は,信長を倒し権力を手中に収めようという野心を抱いたが,これはただちに豊臣秀吉によって打ちくだかれた。秀吉は,本能寺の変の報を聞くとただちに毛利氏と停戦し,兵をかえして山城の山崎において光秀を討ち,さらに信長の古参の部将であった柴田勝家を賤ケ岳に破って,信長の後継者としての地位を獲得した。

 

 

 






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最終更新日  2021年03月11日 20時28分14秒
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